失ったものの大きさ
店に入ると、不二は空いている席には着かず、
跡部の座るテーブルに向かった。
乾は「イヤだ」と思いながらも、そんな事を口にするわけにもいかないので、
黙って不二の後を追った。
「久しぶり。
一緒にいいかな?」
跡部は顔を上げて二人の姿を確認すると、
何とも言えないような不思議な微笑を浮かべた。
「不二に乾か。
・・・珍しい組み合わせだな・・・ まぁ 座れよ」
不二と乾が座ると、ウェイトレスが注文を取りに来た。
「僕はダージリンと、んーアップルパイを」
「かしこまりました。そちらの方は?」
「俺はアッサムを。それだけでいいです。」
不二に誘われたときはケーキも食べるつもりでいた乾だが、
もうその気は失くなってしまっていた。
少々お待ちくださいと言い残してウェイトレスが下がると、
不二がすぐに口を開いた。
「ねぇ 跡部。
何で海堂と一緒だったの?」
「見てたのか?
何だよ。俺がアイツと一緒にお茶を飲んじゃおかしいか?」
『アイツ・・・?』
乾の嫉妬は少しずつ大きくなり始めた。
「おかしいっていうか、珍しいって思っただけだよ。
君たちって接点がないでしょ?
試合の時に逢ったくらいだと思ってたんだけど・・・」
「・・・・・まぁな・・・・・」
跡部が溜息をつくように答えたとき、お茶が運ばれてきた。
「跡部はよくココに来るの?
僕は姉さんに聞いて初めて来たんだけど。乾もね」
「あぁ。よく来るぜ。
一人になりたいときはな。
誰かを連れてきたのは今日が初めてだけどな」
乾は嫉妬する心を抑えながら滑り落ちる砂を見ていた。
砂が全て落ちると、乾は慣れた手つきで紅茶を淹れ始めた。
跡部が海堂に教えた時のように、ポットの葉を踊らせる。
紅茶を注ぎ、ポットを置くと、二人が自分を見ていることに気付いた。
「・・・・・何かな?」
「え? あ・・うん。
何か慣れてるなぁと思ってさ。」
「あぁ・・・ 紅茶は好きだからね」
「まさかお前がお茶の入れ方を知ってるとはな・・・ 意外だぜ」
乾は何も言わず、ただ淋しそうに微笑った。
手にしたカップの・・・アッサムの香りがとても懐かしく感じた。
『アッサム・・・』
海堂はこの葉を使ったミルクティーがとても好きだった。
『アンタの『汁』は最悪だけど、
アンタが淹れる『紅茶』は最高っスね!』
そう言って微笑っていた。
いつも乾が淹れる紅茶を幸せそうな顔で飲んでくれていた海堂・・・
その笑顔を見るのが嬉しくて、乾は紅茶の勉強をしたのだ。
温度・時間・葉の種類・・・
その時間も、今はただ懐かしかった。
乾は一口お茶を飲むと、視線をカップにおいたまま跡部に問いかけた。
「・・・海堂は・・・
ここの紅茶を美味しいと言って微笑ったろう?」
「・・・・・あぁ・・・・・」
「何を頼んだ?」
「種類が解らないようだったから俺と同じにした。
「アールグレイ」だ」
「・・・そうか。
今度一緒に来るなら「アッサム」を頼んでやるといい。
あいつはそれが一番好きだ。
ミルクティーにするともっと喜ぶ」
「・・・へぇ・・・
随分と詳しいじゃねーのよ」
「いつも俺が淹れてあげてたからな」
「そーかよ。
じゃあその役、俺様が貰う」
乾はカップを見つめたままだ。
不二はその表情のない横顔を淋しそうに見ていたが、
視線を跡部に向け、さっきのことをもう一度聞いた。
「で?跡部 海堂と何してたの?」
「何って話しに決まってンじゃねーか。」
「そーは見えなかったんだけど・・・
だってホラ。海堂は喋ってなかったでしょ?」
海堂の口が動いていないのを、やはり不二も見ていたのだ。
「!?
お前ら・・・知らねーのか!?」
「何を?」
「アイツは今声が出ねーんだよ。
〈言葉〉を失っちまったんだ。
・・・・・だから筆談してたんだよ。
ちゃんとした会話だろ?それだってよ」
「そ・・・そんな・・・
声が出ないって・・・ 何で?何があったんだ!?」
その声は震えていた。
乾はそれだけ言うのがやっとだったのだ。
「さぁな。 俺も理由までは知らねーよ。
ただ・・・「心因性」のものであるのは確かだ。それはアイツも認めたからな。
よっぽど辛いことがあったんだろーよ」
跡部は乾を見て「ふぅ〜」っと溜息をついた。
「しかしお前らが知らねーとはな・・・
乾よぉ お茶を淹れてやるくらい仲が良かったお前が何で知らねーンだよ。
高等部と中等部ったって同じ敷地内だろぅ?
それとも何か?
卒業したらもうアイツなんて必要ねーってか?」
その容赦ない言葉に乾がキレた。
「お前にっ・・・お前に何が解る!!」
だが跡部は動じない
「あーん?
お前の気持ちなんて知らねーよ。
ただなぁ お前ら青学がアイツを追い込んだのは事実なんだぜ?
こんな事になるなら、もっと早く誘えば良かったぜ!!」
「誘う?」
今まで二人のやりとりを見ていた不二が口を挟んだ。
「あぁ。
俺はアイツを氷帝にスカウトするためにここで話をしてたんだよ。」
「氷帝に?」
「あぁ」
「何で海堂なの?彼は3年だよ?
越前なら解るけど」
「・・・俺様は結構気に入ってるんだよ。アイツのことを。
・・・・・それにアイツのあの「眼」・・・・・
相手を威嚇するくらいの真っ直ぐな鋭い「眼」はアイツしか持ってねーからな。
近くに置いときてーんだ」
「いくら君が気に入ってるって思ってても、
海堂がどう思うかなんて解らないじゃない?
近くに置いても後悔するかもしれないよ?」
「オイオイ。俺様はバカじゃねーぜ?
相手が全部思い通りになるなんて思ってねーよ。
相手が自分の望む行動をとらなきゃ嫌だなんて思ってるヤツがいるなら、
そいつはとんでもねー大バカやローだな」
跡部の言葉は鋭い刃となって、乾の心を貫いた。
跡部が言った事は、自分と重なっていたからだ。
『あぁ・・・ 俺はなんて事をしてしまったんだ・・・』
海堂のことが好きだった。
どうしようもなく好きだから自分だけを見て欲しかった。
大好きなその瞳の中に、自分だけを映して欲しかった。
ずっと一緒にいたいと思っていた。
なのに傷つけた。自分のエゴで。
これ以上ない酷い言葉で。
「乾?どうしたの?顔、真っ青だよ?」
乾は躰の震えを必死に抑えていた。
「スマン。不二、跡部。
用を思い出した・・・」
乾は紅茶の代金を取り出そうとするが、
手の震えはますます酷くなり、なかなか出すことが出来なかった。
「乾、今日は俺様が奢ってやるよ。
欲しいものが手に入るかも知れねーからな。
気分がいーんだ。」
そう言って跡部は乾に挑発的な笑みを見せ、
追い打ちをかけるように〈言葉〉をぶつけた。
「なぁ 乾。 何の用かは知らねーが、
思うことがあるなら早めにやらねーと取り返しのつかねー事になるぜ?
死ぬほど後悔することになる。気ぃつけな」
跡部に投げつけられた〈言葉〉はさらに乾を痛めつけた。
そして乾は何も言わずフラフラしたまま店を出ていった。
―――――海堂―――――
乾は縺れそうになる足を必死に動かし、
心から逢いたいと思う愛しい者の所へと走り出した。