やわらかなひとときと光の手



ランキング戦以来、海堂は自信を失ったままだった。
海堂はこの数週間であまりに多くのものを失くしてきた。
失ったそれは「自身」と言ってもいいもの達ばかりだった。

声を失って少しの間は前向きにいろいろと考えた。
家族や桃城の言葉で「諦めない気持ち」もあった。
しかし今の海堂にはその気持ちすらない。
そんな自分に気付いても、情けなさに腹も立たなかった。





「よぅ 海堂」

とぼとぼと歩いていた海堂の耳に、自分を呼ぶ艶のある声が入ってきた。
キョロキョロとあたりを見渡すと、黒い車の中からさらに声が聞こえた

「こっちだ海堂。久しぶりだな」

声の主は跡部景吾だった。
海堂がペコリと頭を下げると

「お前に話があんだ。乗れよ」

海堂を車に誘った。


跡部の誘いに応じた海堂を乗せて車は走り出した。
車内でまず海堂は
 お久しぶりです。
 スミマセン。オレ、今声が出ないんです。
 筆談なんで、時間が掛かると思います。
 それでもいいですか?

と書いて跡部に見せた。
跡部は視線を前に向けて、「知っている。気にするな」と答えた。

 『何で知ってるんだろう?』

海堂は不思議そうな顔をした。

「俺様にはいろんな所から〈情報〉が入ってくんだよ」

跡部は前を向いたまま言い、そのまま黙ってしまった。
海堂はただ流れる景色を見ていた。





跡部が連れてきた所は、紅茶とケーキが美味しいと評判のティールームだった。
落ち着いた雰囲気で、ゆっくりとした時間を過ごすにはちょうど良いところだ。

跡部は迷わず窓際を選んだ。
やわらかな日差しが心地よかった。

「ここは紅茶がうまいんだぜ。
 種類もかなりある。
 お前、何が好きだ?」

そう聞かれても、海堂には解らなかった。
いつも誰かが淹れてくれたのを飲むだけで、自分で淹れたことなどなかったし、
種類を気にしたこともなかったのだ。

「特にこだわりがないなら、俺と一緒で良いか?」

海堂が悩んでいると、跡部が気を利かせてくれた。
コクコクと頷くと、ケーキは何が良い?と聞かれた。
海堂が首を振ると、跡部が小さく微笑った。

「・・・・・つきあえよ。
 俺様一人で食ってたらカッコわりぃじゃねーか」

その笑顔につられて海堂も小さく微笑った。
家族以外の者の前で微笑ったのなど何日ぶりだろうか・・・
海堂はケーキのメニューを見て、「てん」と指した。

「OK。抹茶だな。」

跡部がウエイトレスに視線を送ると、すぐに注文を取りに来た。

「アールグレイと抹茶ケーキを2つずつ。以上だ」

「畏まりました。少々お待ち下さいませ」



ウェイトレスが下がると、海堂は跡部に尋ねた。
 話って何ですか?

「まぁ待て。
 話はうまいお茶と菓子があった方が進むだろう?
 ・・・・・時間がねぇか?
 何か用事でもあんのか?」
 特にありませんが

「ならもう少し待てよ。
 短い話じゃねーからよ」

海堂は小さく頷いた。



それから少しして、先程のウェイトレスがお茶とケーキを運んできた。
美しいデザインのカップに、同じ柄のまぁるいポット。銀の茶こしに砂時計。そしてケーキ。
それらをテーブルに並べ終えると、「時計の砂が全部落ちましたらお飲み下さいませ」と言い、下がっていった。

海堂にとって本格的なポットサービスは初めてのことだった。
カップに注がれたお茶が出てくると思っていたのだ。

  『どうやるんだ?』

海堂は軽く首を傾げている。
おそらく自分では気付いてないだろう。

そして気付いていないことがもう一つ。
跡部に会ってからコロコロと表情を変えているのだ。
小さな変化だが、跡部はもちろんその事に気付いていた。
青学で「猫」といえば、今は高等部にいる菊丸英二だが、

  『コイツの方が猫っぽいな・・・』

と跡部は思った。

砂時計を見ると、緩やかに流れていた砂が全て滑り落ちた所だった。


跡部はポットを手に取ると、ゆっくりと円を描き始めた。
3分間蒸らされた葉がポットの中で回っている。
海堂は不思議そうに跡部の手を見ていた。

「こうしてゆっくり回して中の葉を踊らせるんだ。
 沈んだ部分と混ざり合って濃さが均等になるからな」

そしてカップに茶こしを置き、ゆっくりとお茶を注いだ。
とても美しい色だった。
跡部はソーサーを軽く押し、「スッ」と海堂の前に動かした。
驚いて自分を見る海堂に跡部は、

「心して飲めよ 俺様が淹れたお茶を飲むのはお前が初めてなんだからな」

ニヤリと微笑った。


自分のカップにも紅茶を注ぎ、全ての用意を終えると、

「じゃ、飲もうぜ」

海堂を見た。
跡部がそう言うと、海堂は手を合わせ、ペコリと頭を下げた。
海堂にしてみれば習慣的なことなのだが、どうやら跡部のツボに入ったらしい。
初めは驚いたような顔をしていたが、「ふよっ」と口元を崩し、クックックッと喉の奥を鳴らすように笑い出した。
海堂は何故笑われたのか解らずポカンとしている。
跡部は顔を背け、右手で口元を覆っていたが、そのまま視線だけを海堂に向け、左手を挙げた。

「あぁ ワリィ
 お前、食事の前はいつもそうやってんのか?」

海堂は素直に頷いた。

「・・・そうか。お前らしいな。
 氷帝にはそーゆー事するヤツいねーからよ」
 青学でもオレだけです。
「やっぱりな。
 礼儀正しいお前だけだろーな」

すると海堂は少しテレくさいのか、頬をほんのり紅く染めて顔を背けた。

 『かわいーじゃねーの』

もちろん跡部がその言葉を口にすることはなかった。


改めて海堂が手を合わせると、跡部もマネをして手を合わせた。
海堂はカップを持ち、ゆっくりと顔を近づけた。とても落ち着く香りだ。
静かに含むと優しい味と香りが口の中に広がった。

 『おいしい・・・』

海堂は瞳をキラキラと輝かせた。
おいしいものを口にしたとき、自然に顔が綻んでしまうのは誰もがそうだろう。
そしてそのキラキラした瞳を跡部に向け『おいしい』と形を作った。

「な?うまいだろ?
 俺が気に入るくらいだからな」
 跡部さんは、自分でお茶とか
 淹れないと思ってました。
「家ではやらねーよ。ここだけは別だ。
 ・・・・・必要だろう?そーゆー時間が。
   『こころ』
 にはよ。
 ガムシャラに突っ走るだけが「何か」を解決する方法じゃねーぜ?
 もう少しこの時間を楽しめ。
 話はそれからでいーだろう?」

やわらかく微笑う跡部につられて海堂も微笑んでいた。
試合で会ったときに纏っていたピリピリしたものではなく。
今の跡部には穏やかさが漂っていた。
これが余裕というのもだろうか。

 『なんて心地よさだろう・・・』

跡部のやわらかい雰囲気に、海堂は自分の「こころ」が癒えていくような気がした。



跡部はいろいろな話をしてくれた。
紅茶のこと、家で飼っている猫や犬のこと、釣りのこと、乗馬のこと・・・
今度一緒にどうだ?と誘ってくれたりもした。
跡部の話は聞かせるだけではなく、海堂に返事を求めるものだった。
海堂に意見を書かせ、そしてまた話す。
海堂はとても嬉しかった。
『会話』をしているという事が。
「時間を楽しめ」と言うだけあって、跡部は海堂に急いで返事を書かせたりはしなかった。
海堂の綴る〈言葉〉をゆっくりと読んでいた。

久しぶりに味わうやわらかなひととき・・・

海堂は跡部に会えて良かったと、心から思った。





お茶とケーキを食べ終えると、跡部はウェイトレスを呼び、テーブルを片づけさせ、新しいお茶を注文した。
お茶の用意が終わると、跡部は真面目な顔になった。
跡部を取り巻く空気も少し変わった気がする。

「本題に入ろうか」

海堂も真面目な顔をして小さく頷いた。

「いきなりだが・・・・
 海堂。氷帝に来ないか?」

海堂は驚きで瞳をパチパチしている。

「今は鳳が部長を務めているんだが、どうもうまくねー。
 部員とじゃなくて、「器」の問題だな。
 精神を削っちまってる。
 樺地はもともと無口なヤツで、部員を引っ張っていくタイプじゃねぇし、日吉は上しか見てねぇ。
 上を見るのは悪い事じゃねぇが、あいつは周りが見えてねぇんだ。
 だから鳳を部長にしたんだが・・・」

跡部はお茶を一口含み、先を続けた。

「・・・・・とにかく、アイツを支えるヤツが必要なんだ。
 共に支え合い・競い合い・高めあっていくような相手がな。
 今までアイツにはそーゆーヤツがいなかった。宍戸にベッタリだったからな。
 ・・・
 ・・・
 ・・・
 で、お前に来てもらいてーんだ。
 氷帝に。」
 オレなんかが行ったところで、鳳の役に立つとは
 思えません。
 それに今はそんな余裕もない。
「なぁ 海堂。
 お前の声が出ないのは「心因性」だろ?」

海堂はただ跡部を見ている。
その顔はとても痛そうだった。
触れられたくない「心の傷」をえぐられたとても痛い顔・・・・・

「やっぱりか・・・・・
 何があったのかまではわからねぇが、
 青学にいる事も原因のひとつなんじゃねーの?」
 そんな事ありません
「そう言いきれるのか?
 お前の「心」と「言葉」を切り離すもの・・・
 それと青学は繋がってんじゃねーのか?」

この人の「眼」は本当に鋭い。
海堂は改めてそう思った。
この人の前では何も隠すことなど出来ないだろうと・・・・・

「だからな、青学を離れてみたらどうだ?
 この話は鳳の為でもあるが、海堂。お前の為でもあるんだぜ?」

『青学を離れる』この言葉が胸に響いた。
もう一度やり直せるかも知れない。そう思った。
全てを失った自分が氷帝で新しい何かを得る。
そう出来たらどれほど素晴らしいことだろうか。

海堂の心は揺れ始めた。


 『この手をとれば、オレは救われるんだろうか・・・・・』