喪失
「海堂はテニスが大切なんだよな。
お前に必要なのは「俺」じゃなくて俺の「知識」なんだろ?」
それは突然のことだった。
天国から地獄に堕とされるような感覚。
足の裏から「魂」だけが地中に引き抜かれるような感覚。
立っていることが不思議に思えるほど震える足・・・
優しかった恋人からの冷たい言葉に己の耳を疑う。
乾の後ろで燃える夕日のせいで表情もわからなかった。
何か言わなければ。そう思うが口が動かない。
海堂はだた驚愕の表情で乾を見ることしかできなかった。
「否定しないって事は・・・そうだったんだな・・・」
「ちがう!」そう言いたいが口が動かない。
いくら心で叫んでも、乾の心には届かなかった。
「そうか・・・それじゃ元気でな・・・。さようなら。海堂・・・」
そう言って乾は海堂に背を向けて去っていった。
互いの気持ちを確かめ合い、必要とし合い、つきあい始めてから2ヶ月という
あまりにも短い突然の別れだった。
海堂は乾の消えた景色を見たまま、ただ立ち尽くしていた。
―――ワカラナイ。ナゼ?ナニガオコッタ?ワカラナイ、ワカラナイ・・・―――
唯一つ理解できたのは
「乾に別れを告げられた」
ということだけ・・・
フラれたことを理解すると、ガクガクに震えていた足から一気に力が抜け、
海堂はその場に崩れ落ちた。
違うと、アンタが必要なんだと叫びたかったが、
あまりのショックに声が出なかった。
出ない〈言葉〉のかわりに、海堂に瞳から止めどなく涙が流れた。
夕暮れの土手は人通りも多めだったが、海堂は人目も気にせずに泣き続けた。
そしてこの時、海堂の〈言葉〉は完全に封印されてしまった・・・
異変に気付いたのは家に帰ってからだった。
海堂は一言だけ言って自室に行こうと思って玄関を開けた。
―――ただいま―――
確かに口はその形を作った。
もう一度口を動かす。
―――ただいま―――
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声が出なかった・・・。
ドアの開く音はしたのに呼ぶ声がしないのを不思議に思い、玄関に来た母が目にしたものは、
真っ青な顔で喉を押さえ、茫然と立っている息子の姿だった。
気付いた海堂は母を呼ぼうとするが、〈言葉〉が出ない。
出てくるのは空気の軋む音だけだった。
「薫!? どうしたの? 薫っ!?」
―――声が・・・―――
海堂は口だけ動かして伝えた。
パニックに陥った母は、悲鳴めいた声で父を呼んだ。
「お父さんっ! 薫がっ! お父さんっ!」
母の尋常ではない声に、父と、弟の葉末までが玄関に駆けつけた。
「薫!?」
「兄さん。どうしたんですか?」
「声が!薫の声が出ないのよぉっ!!」
海堂は自分を心配する家族達を、声の出ない自分を、何処か他人事のように感じていた。
『あぁ・・・ これは・・・』
「とにかく病院に行こう」
父にそう言われ、海堂は父の車で病院に向かった。
小さな頃から掛かり付けている病院だ。
診察を受けている間、海堂は不思議なくらい落ち着いていた。
「腫れてもいませんし、声帯に異常も見られません。
もしかしたら、「心因性」のものかも知れませんね。
心当たりはありませんか?何かショックな事があったとか・・・」
―――ある―――
が、言えるはずがない。
フラれたのが原因で、しかも相手が「男」だなど・・・
海堂は「フルフル」と頭を振った。
「そうですか・・・
暫く様子を見てみましょうか。明日になったら出るかも知れませんし、
まだ症状の現れない風邪かも知れませんしね。」
『ちがう・・・ これは・・・』
病院から帰った海堂は、すぐに布団に寝かされた。
さっきあれ程取り乱していた母も今は落ち着いている。
「熱はないみたいだけど、風邪かも知れないわ。
先生もそう仰っていたでしょう?
どこも痛くはない?
明日は学校をお休みして様子を見ましょう?
大丈夫よ。すぐに出るようになるわ」
海堂は素直に「コクリ」とうなずいた。
「おなか空いたでしょ?雑炊でも作ってくるわね」
母はそう言ってキッチンに向かった。
母が部屋から出るのと入れ替えに、父と葉末が入ってきた。
葉末はビニール袋をもっている。
病院から帰ってくる途中、「コンビニに行きたいです」と珍しく我が儘を言ったのだ。
袋はそのコンビニのものだった。
「兄さん。コレどうぞ」
にっこりと微笑う葉末から受け取った袋の中には、他種類の「のど飴」が入っていた。
葉末はコレを買いたくて我が儘を言ったのだ。
海堂は枕元に置いておいたノートに
ありがとう。葉末。
と書いて、葉末に見せた。
「兄さん。すぐに話せるようになりますよ。
ボク、兄さんの具合が早く良くなるようにお祈りしますから」
そう言ってにっこりと微笑う葉末の後ろからは、
「とにかく今はゆっくり休みなさい。
何かあったら、すぐに知らせるんだよ」
と、父が電話の子機を渡した。
内線でコールしろという事だ。
海堂は「コクコク」とうなずいて、子機を受け取った。
それから少しして、母が雑炊を持って来た。
食べたらすぐに休みなさいね。と言って、家族は部屋を後にした。
温かい雑炊を食べながら、海堂は静かに涙していた。
家族の優しさが、今は痛いほど胸にしみる。
『泣いていることがわからないから、声を失って良かったのかもな』
海堂は少し自嘲した。
『ありがとうみんな・・・・・ ごめんなさい。
オレは優しくされる資格なんてないんだ・・・・・」
海堂にはわかっていた。
これが病気などではないことが・・・
これは・・・・・
これは《報い》だ・・・・・