チャレンジカップ参加作品



                     『流転』



 暗闇の中ショウヤは走り続けた。
 獣道すらない山間だ。鬱葱と茂る木々と厚く覆われた雲に星明りすら届きはしない。
「あっ!」
 木の根に躓き宙を飛ぶように転んだ。
 傷ついた体よりも呼吸に喘ぐ胸が痛かった。
 視界は途方もなく暗い。高く伸びた下草が引き込むように細い体を覆い、顔を
上げても木々の陰影が微かに見えるのみだ。

 草むらの中、恐怖から逃れるように震える体を引き寄せる。
 生ぬるい夜風が頭上を越えていった。
 追っ手の容赦ない手が今にも自分を掴みそうな気がした。その後はどうなるのか。
皆と同じように、兄のように切り殺されるのだろうか。

 ショウヤは恐る恐る懐に手をやった。そこには最後に兄に託された品が入っていた。
 直訴状だ。
 村は既に死にかけていた。今日食べるものさえない状況に、途方もない税が課せられる。
農耕用の家畜は既に食い尽くされ、草や木の根さえ煮て食い繋ぐしまつだった。

「兄さん――」
 縋るように呟いてショウヤは懐から訴状を取り出した。
 目を凝らし、鼻に当たるほど近づけてそれを見る。
 黒く染まった部分が兄の意志なのだろう。最後の命がここに刻まれていた。
―ショウヤ、生きろ。
 腹から血を流し、途切れる息を必死につなぎながら言った最期の言葉がそれだった。
 村の者達が、集まって相談している最中の襲撃だった。一枚の紙に希望を託すしか
ない村人達は、無残にも容赦なく切り捨てられていった。

 荒々しい足音と打ち破られる戸板、その先は(つんざ)く悲鳴と怒号が交差した。
逃げ惑う者達に馬乗りになり切り付ける兵士達。噴き上げる飛沫に視界は瞬く間に
赤く染まった。

 ショウヤにも刃は振り下ろされた。恐怖に竦み上がった彼を救ったのは兄だった。
―ショウ、ヤ――。
 くず折れながら、弟の無事を確かめる顔をショウヤは思い出していた。失う恐怖を
植えつけたのは血の気の失せた白い頬だった。無念を刻み込んだのは命を繋ぎ止め
ようと食いしばられた口元だった。

 どうして兄さんが死ななくちゃいけなかったんだ。
 何を犠牲にしても兄だけは生きていなければならなかった。自分とともに生きて
いなければならなかったのだ。

 自分と兄が生き延びられるのなら、村人全員が死んでもかまわないと思っていた。
 無関心な皆の顔が不意に浮かび上がる。時に向けられる視線は厄介者を見るような
冷たさだった。その中に含まれる苛立ちや罵りは、皆を信じきっていたショウヤを
打ちのめすには十分だった。ずっと小さな頃には微塵も感じなかった空気だ。

 まだ平和だった頃は両親のない兄弟を皆が気にかけてくれていた。気軽に掛けられる
言葉や親しみは親のない寂しさを何度も紛らわしてくれた。家に帰れば幼い兄弟二人
きりだったけれど、村中が家族だと思っていた。だがそれも、領主の横暴が始まるまで
のことだ。重い税が課せられ、生きてゆくことさえ困難になったとき、真っ先に切り
捨てられたのがショウヤ達だった。

 だのに兄は村を救おうと寄り合いに参加し、昔を取り戻そうと必死になっていた。
 ショウヤにはその理由がどうしても理解できなかった。
―父さん達が耕していた畑があるからね。
 あんな小さな借り物の畑に未練など感じられなかった。
―この家でショウヤは生まれたんだ。
 隙間だらけのあばら家だ。風雨に腐った茅葺は、雨が降れば僅かな板場を水浸しにした。
―皆のことが俺は好きだよ。
 掌を返したように冷たくなった者達をショウヤは許す気はなかった。
 兄は村人に媚びているのではないかと何度も疑った。ショウヤの目にいじましく映る
兄が歯がゆくて、自分がついていなければと嫌な徒党にも参加した。

 それなのに、自分を庇い、腹を横薙ぎにされた兄。必死で助け起こそうとするのを、
兄は追い立てるように弟を逃がした。ただただ直訴状を硬く手に握らせて。混乱の

最中(さなか)
一度振り返ったショウヤの目には、すでに事切れうつ伏せた姿が映った
だけだった。

 ショウヤは押し潰されそうになるのを堪えて顔を上げた。暗闇に遠目はきかない。
それでも辺りを窺い、体を引きずるように立ち上がる。

 しかし疲れと恐怖で踏み出すことが出来なかった。
―ショウヤ。
 不意に蘇える兄の優しい声音と、小さな、愛しい者を見るような眼差し。
 十(とお)離れた兄はとかく弟のショウヤに甘かった。何時も幼子をあやすような態度に
反発もした。頬に手を添えられ、覗き込むように諭されたこともある。

―自分の本当の心を聞いてごらん。
 あれは、何時のことだっただろう。友達と喧嘩をして『もう遊ばない』と意地を張った
ときだっただろうか。それとも――。

 今思い出しても、他愛無い出来事のときだったように思う。
 カサリ。
 何かの立てた音に怯え振り返る。
 追っ手かもしれない――!
 ショウヤは走り出した。
 もう帰る場所はない。優しい兄はいないのだ。ただ走るしかなかった。
 兄さん、どうして死んだ。どうして俺をおいていった。
―ショウヤはおっちょこちょいだからな。目が離せないよ。
―大丈夫。俺がついているよ。何があっても俺がいる。
 嘘つきだ。嘘つきだ。嘘つきだ!
 目が離せないと言った兄さんはもう何も見ることは出来ない。唯一の味方だった
兄さんは、最後には村人の味方で死んでしまった。

「あっ!」
 また何かにつまずいて転んだ。握り締めていた直訴状が手から離れる。
 必死になって目を凝らし、辺りを探し回る。しかし深い草に覆われ見つけ出すことが
出来ない。それでも手探りで、這い
(つくば)りながら探した。
 兄の意志が込められたものだ。最後の命が刻まれたものだった。
「兄さん、兄さん!」
 兄を探すように、死にものぐるいで手を伸ばす。湿った草がざわざわと騒いだ。手に
触れるのは遮ろうとする茎の硬さだ。まるで壁を払うような手ごたえに泣き出しそうに
なる。とその先に、何処から光が入ってくるのか、夜露が光ってショウヤを導いた。

「兄さん」
 拾い上げると、しわくちゃになった直訴状がそこにあった。
 安堵とともに涙が零れそうになる。
「ここに居たぞ!」
 背後からの声に振り向くと、揺れる松明が木々の合間に見えた。一つ、二つ……
五つ六つ――。数は増してゆく。

 駆け出そうとしてまた転び、それでも走り出す。
 草を分ける音と自分の呼吸、背後からの怒声が辺りに響いた。
 兄さん、助けて兄さん!
 自分達を裏切った村人のための直訴状が今ショウヤを追い詰めていた。こんなものの
ために俺は死ぬのか。皆のために俺は死ぬのか!

 俺には関係ない。あんな村なんてどうなってもいい。
 走りながら、訴状を地面に叩きつけようとした。手放せば、追いかけてくる恐怖から
開放される気がした。だのに、

 ショウヤは握り締めたまま走り続けた。
―ショウヤ。
 また兄の声が耳内に響いた。幼い自分を抱きしめてくれた両の(かいな)まで甦る。
頬に手を添えられ覗きこむように言われた。

―可愛いショウヤ。本当の自分の心を聞いてごらん。
 涙がこみ上げるのをしゃくりあげて止めた。
 村人全員の死すら厭わなかったはずなのに、足は真っ直ぐに目的地へ向かおうと草原を
けっていた。手は硬く訴状を握り締め、二度と放さないようにと固く結ばれている。

 どうして諦めようとする度に、幸せだった頃が心の片隅に燻るのか。様々に思い
出される兄の笑顔の背景に、どうして村人の微笑がちらつくのか。

 あの頃は、皆が笑っていた。
 圧制が始まってからはひもじくて、どうしようもなくて何度も泣いた。泣き疲れて眠り、
また空腹で目が覚め泣いた。自分だけではない、皆がそうだった。

 飢餓感に泥を口にする我が子を抱えながら、兄弟を気遣うことなどできなかっただろう。
判っていたのだ。ただ優しさに触れた後では裏切られたと思わずにはいられなかった。

―お前が生まれてすぐに母さんは死んでしまっただろ。腹をすかせて泣くお前に乳を
くれたのはお向かいのおばさんだ。

 与えてもらった優しさは本物だった。
 走らなければいけない。胸が潰れようと走らなければ。
 歯を食いしばり、心の中で兄の名を呼んだ。
 ザザザと強い風が背中を押した。追い風に体が軽くなる。
 追っ手の声は近づいている。揺れる松明の数も増していた。
 しかし何故だか恐怖は薄らいでいた。呼吸に喘ぐ胸すら楽になった気がする。
 押しているのは兄の手だからだ。導いたのは兄の意志だからだ。
 何より、走らなければと思う自分がそこにあった。
 ショウヤは走り続けた。自らの心に従いながら。


 〈了〉


                  著作:みき