「琥珀の月」                2004.1.11


 彼女と会っていた。一年前までよく訪れていた喫茶店で。その帰り道。空を見上げると月が輝いていた。

辺りは黄色い光に包まれている。琥珀の月が僕の進む道を示している気がした。

 再び友達として、君に「ありがとう」。



 彼女と二人で映画を観ていた。内気な女の子が初恋し、人々の手助けで恋が実るという内容の

大ヒットしたフランス映画だった。

 帰り際、馴染みの喫茶店に寄り、彼女が切り出した別れの言葉「さようなら」。

 あれから一ヶ月が過ぎた。僕は自分を見失った。全てが壊れていた。全てを壊していた。

泣いた。泣き続けた。涙が涸れるまで泣いていた。理由も言わずに逃避した彼女の言葉が

僕を無の世界に引きずり込んだ。

 何もない世界。時間が止まっている。流れのない世界。心さえ少しも揺れない世界。

僕は動けなかった。全てを拒絶していた。暗黒さえも拒絶していた。ゼロの世界。空の世界。

 希望のない絶望の淵に立っていた。これまで歩んできた記憶が全て消去されていた。

今ここに『僕』が存在して居るということが理解できなかった。

 部屋の中を見渡す。空間が歪んでいた。直線が無かった。視界全体が緩やかに回転していた。

回りが歪んでいるのか、僕の意識が狂っているのか判断がつかない。

 そこはまったく見覚えのない場所だった。黄ばんだ壁の薄暗い部屋に居た。

窓が一ヶ所、薄汚れた白地のカーテンで閉ざされていた。西陽がうっすらと射し込んでいる。

窓を開けることが出来た。しかし、ガラスの向こうには鉄格子が張られていた。

下をのぞき込むと車が小さく見えていた。



 この部屋にあるものは、白いパイプベッドがひとつ。ベッドの横には古くて小さな棚付きのテーブル。

その向こうには洗面台と鏡。そして、便器がぽつりと。歪んだ長方形らしい部屋。移動という行為を

必要としない小さな個室だった。

 窓の反対側に扉が見えた。近づき、ドアノブを回してみたが開かない。仕方なく誰かが開けてくれるのを

待つことにした。

 この場所は静まり返っていた。時おり人の声と足音が聞こえる。何の前触れもなく放出される音も響いた。

人の声だろうか、悲鳴に近い音が遠くから聞こえていた。

 開けっ放しにしていた窓から冷たい風が流れ込み、枯れ葉が舞い込んできた。

 どの位経ったのだろう? 金属音が響き扉が開いた。人が入ってきた。若い男と小綺麗な女。

どちらも白い服を着ていた。

 男は、僕がベッドに座っていることに興味を示していた。あれこれ質問を浴びせられた。

しかし何も答えることが出来なかった。伝えたいことがあった。「無くしたものを探していること」を。

でも――その探しものが何なのか?――それが分からなかった。

伝えたくても気持ちを言葉に出来なかった。口が開けなかった。

僕は訳の分からない焦燥感に支配されていた。


 毎日毎日、同じ事が繰り返されていた。朝と昼と夜と、同じ時間に同じ様な食事が運ばれてきた。

食欲がない。でも、食べないと叱られ、何かと面倒なことになる。仕方なく胃の中に流し込む作業を

毎回続けていた。

 食後は薬を飲まされた。薬は拒絶した。生命を奪い取る薬だと思っていた。

抵抗してみたものの、押さえつけられて無理矢理飲まされた。

 食事の度に抵抗した。毎日が同じ事の繰り返しだった。

 午後からはあの男と話をするのが日課になっていた。その人の名前は、先生というらしい。

これまでの話から、どうやら僕は、ここに来る前は自宅で自室に閉じこもり食事も摂らずに泣き続け、

そして昏睡状態に陥り、運び込まれてから一週間は意識を失っていたらしい。

僕にはまったく覚えがないことだったが。

 先生と話す度に「無くしたものを返してほしい」と執拗なく訴えた。答えはいつも同じ

「もう忘れなさい」だった。

 時おり、お父さんという名前の人とお母さんという名前の人が部屋に入ってきた。とても優しくしてくれた。

見たことのない食べ物、食後に口に突っ込む細長い棒、よい香りのする四角いかたまり。

カチカチ音がするオモチャ、着る物やお菓子を持ってきてくれた。

だが、この優しい人達は、いくらお願いしても着ていた物を無理矢理奪うことをする。

それがどうしても悔しかった。

 窓を開けて外を眺め一日の時間を潰していた。何もない一日はとてつもなく長い時間だった。

僕が生きている証の全てだった。日差しが強くなっているのを感じていた。窓から見える枯れた木に、

黄緑色の葉が少しずつ増えていくのが新鮮に感じた。


 何日も雨の日が続いていた。窓から見える花壇には薄紫色の花が咲き乱れていた。

この頃には、僕の居る場所が理解できた。外の散歩や軽い体操が日課に加わった。

先生とも、普通に会話が出来るようになっていた。決められた生活習慣も

難なくこなせるようになっていた。どうやら僕は、記憶を失ったわけではなく、飲んでいた薬の作用で

思考が低下していたらしい。

 少しずつ自己というものが戻ってきた。自分という個を定義付けていた記憶が蘇りつつあった。

家族のこと、僕のこと、普通の暮らし。そして、ずっと僕が探していたもの。

それは『突然、別れを告げられた彼女』だったことも。

 雨の日は、生命活動の停止を望んだ。何の希望もなかったから。たとえ以前の生活に戻れたとしても

『社会不適格者』というレッテルを貼られることが分かっていた。それに何より、彼女と二度と会えないことが

生きる望みを失わせていた。死の選択を何度か試みた。しかしこの部屋には、命を絶つための道具が

何ひとつもなかった。まるで僕が死を望むのを知っていたかのように、全ては見通されていたようだった。

 いわゆるリハビリという、規則的な習慣を身につけるための洗面や着替え、体操といった強制生活に

仕方なく従っていたそんなある日のこと。いつもの通りに朝食の器を片づけに来た。

扉を出てからの鍵を閉める音が聞こえなかった。そっとドアノブを回す。手首が回転し扉が開いた。

鼓動が早くなった。四角い檻の息の詰まる空間と自由行動の剥奪から解放され、彼女に会える

チャンスが訪れた。

 廊下を見渡すと誰も居ない。慎重に辺りを見回し、廊下を少しずつ進む。ナースステーションの前で

立ち止まり様子を窺う。誰も居ない。朝の回診時間にあたっていた。姿勢を低くし足早に前を横切る。

様子を窺いながら、音を発しないよう慎重に階段を降りていく。

 ロビーは外来患者で溢れていた。病院関係の人が見えない隙を見計らって出入り口まで辿り着く。

玄関から先はいつの間にか駆け足で抜け出していた。

 かなり長い時間を駆け続けてきた。病院では今頃大騒ぎになっていることが予想された。

立ち止まった場所は見覚えのある風景。ここは僕が席をおいていた大学のすぐ近くだった。

 病院での暮らしはお金を必要としない生活。だから当然、所持金は持っていない。

これから先の行く場所を考えた。自宅へは戻れない。病院へ送り返されるのが分かっていたから。

目指す場所はただひとつしかなかった。

そう、彼女の住むアパート。ここからなら一時間も歩けばアパートに着ける。ひとめだけでも会いたかった。

それだけが僕に残された最後の希望だった。彼女をひとめ見たら、その後のことは考えなくても

結論は出ていた。

この世の全てに未練がなくなるのだから。


 雨が降り出していた。僕は、アパートの近くを徘徊していた。彼女が暮らして居るであろう部屋には

生活の匂いが感じられなかった。何れ僕を捜しに家族がここへ来ることが分かっていたから

近くに身を隠す場所を探すことにした。

 アパートからやや離れた小高いビルを見つけ、非常階段を登り屋上に辿り着く。ここから彼女の部屋の

玄関扉がよく見えた。太陽が沈み始めた頃、父の姿を見つけた。僕は身を低くして隠れ様子を窺っていた。

父は三十分ほど辺りを捜し回った後、車に乗り込みどこかに行ってしまった。

 ここに辿り着いてから、かれこれ六時間ほどが経過していた。辺りは薄暗い。降りしきる雨が体温を

奪っていく。

あのまま病院にいれば、今頃夕食にありついていた。でも後悔はしていない。彼女に会いたかった。

結局、一晩中この場所で過ごすこととなった。この夜は、玄関扉の脇にある小さな窓に電気の明かりが

映されることはなかった。

 朝方には雨も上がり、久々に太陽が輝きを放っていた。気温の上昇とともに僕はいつの間にか

寝ていたらしい。コンクリートの上で寝るのは初めてだった。起きあがると体の所々が痛みを訴える。

 日中何度か父の車を見かけた。母親も付き添っていた。その度ごとに、僕は姿勢を低くし隠れた。

 そして今日もまた長い夜がやってきた。夜遅くまで彼女が帰えるのを見張っていた。だが、この夜も、

一度も部屋の明かりが灯ることはなかった。もう、永久に会えない気がしてきた。

どこかに引っ越したのだろうか? 様々な憶測が、僕を不安に陥れていた。

 体力が限界に近づいていた。取りあえず安眠出来そうな場所を求めこの場所を離れた。

辿り着いたのは、昔よく父と共に釣りに来ていた大きな川の河川敷。アーチ型の橋の下に身を潜り込ませ、

その瞬間積み重なった段ボール箱の上に倒れこんだ。

何故だかこの異空間に不思議な安らぎを覚えていた。

 しばらくすると人の気配が迫ってきた。こちらに近づいてくる。でも、僕にはもうどうでもよくなっていた。

既に死を覚悟していたから。黒い淵に呑まれてももいいと思ったから。気付かない振りをして

瞼を閉じていた。足音が僕の前で止まる。目を開くと薄汚れた服を身に纏う初老の男が

僕をのぞき込んでいた。酸っぱい臭いが漂ってきた。ここは彼の住処だった。意外にも恐怖心はなかった。

むしろ、この男に親しみを感じた。僕の持っている色と同じ色をしていることを直感的に感じ取っていた。

男もそれを感じ取っていた様だった。男と僕の色は、全てを捨てた何も持たない人の色だった。

 言葉を交わさなくてもお互いのおかれている状況を瞬時に理解し合っていた。

男は、手にぶらさげていたコンビニの袋から弁当を取り出し差し出した。

 「ありがとう」僕はひとことだけ言って貪るように食べた。彼は満面の笑みを浮かべていた。

 男が静かな口調で語りだした。大学を卒業した後、一生懸命働き第一線で活躍していた頃の話、

社会の掟という鎖に繋がれ身動きできなかった頃の話、一度は家庭を持ち家族を養っていた頃の話、

ストレスとプレッシャーが原因で僕と同じ病院に居た頃の話しなどを。

 様々な経験を積んで彼が辿り着いた先は、競争社会で底辺に位置する世捨ての住人だった。

だが、彼の話は、一段高い位置から競争社会を見おろし、もがき苦しんでいる人々を

あざ笑うかのような内容だっだ。

男の話を聞いていると、これまで自分が目指し求めてきたものがまったく間違っている気にさせられた。

 僕に教えてくれた最後の言葉。

「欲望を追い求めるからいつまで経っても満たされない。欲望を手に入れた瞬間、

次にその欲望は二倍三倍と膨れ上がり、更に加速度を付けて増大していく。

しかも一度手に入れた欲望は手放すことが出来なくなる。欲望が全ての争いのもととなる。

欲望を捨てること。それこそが幸せへの、心の平安への一番の近道」

 僕はこの言葉を心に焼き付けた。物事に、社会に、自分に捕らわれず全てを時間の流れに任せ生きている

男の様をみて、瞬時だったが悟りの境地にふれた気がした。

 翌朝目覚めると男の姿はなかった。フラフラと立ち上がり、川沿いを歩いて彼女のアパートへ向かった。

だが、近くまで来たところで張り込んでいた父親に見つかり、結局そのまま病院へと連れ戻されてしまった。

 
 灼熱の太陽が輝いていた。外に出ると耳を劈くような蝉の鳴き声が聞こえてくる。

ひとりきりのあの部屋からは抜け出していた。

 ベッドが四つ並ぶ部屋で共同生活をしていた。薬の量も少なくなっている。食事が楽しみのひとつになった。

生きることが楽になった。幸せを実感できるようになっていた。全ては欲望と言う名の、執拗なまでの

執着心を捨てたところから始まった。

 同じ部屋の住人は皆とても優しかった。ここに集まる人達は、他人を攻撃できない人達ばかりだからだ。

その反動が全てを自分の胸にしまい込み、そして自分を攻撃して壊れていく。そんな人達との共同生活

だから、争いごとがなく何事も全て丸く収まっていた。

 夏が終わる頃、「自宅に戻っていい」と先生が言ってくれた。これからは通院になる。

皆と別れ厳しい競争社会に戻るのは辛いけど、いつまでもここで安住している訳には行かない。

生きる望みがあるのだから。僕はまだ、彼女とは会っていなかったから。


 大学の卒業は一年先に延びたけれど、以前の生活に戻っていた。

空を見上げると、青い深淵がどこまでも果てしなく、白く輝く模様が形を変えながら急ぎ足で流れていた。

黄色に模様替えした銀杏の葉が空の青を際立たせていた。

 僕が経験したこの一年を、人々は無駄に過ごしたと思うだろう。不的確者のレッテルを貼り

要注意人物だと囁くことだろう。

 だが、果たして本当に無駄な時間だったのだろうか? 自問自答していた。過去の自分と比較した。

希望も、プライドも、命さえも一度は捨てた我が身だから恐れるものが何もなかった。

とてつもない精神力と物事に動じない強い意志が備わっていた。包容力や優しさがいつの間にか

身に付いていた。境地を克服した経験が全てを呑み込み、それは強大な自信へと変化していた。

 過去に追い続けてきた、みんながほしがる物だけの、形だけの幸せを求めていなかった。

もっともっと深い幸せがあることに少しずつ気付き始めていた。

――自分のことしか考えていなかった。与えられることが当然だと思っていた。

   貰うことばかり、奪うことばかりを考えて生きてきた。

   他人と比較して優越感に浸ることが幸せだと思っていた――

 でも、あの日から確かに僕は変わった。『男が見せた満面の笑顔』犠牲を払っても

人に与えようとする見返りを求めない真の善意。いつからか他人の笑顔を見るのが好きになった。

 度々あの橋の下を訪ねたが、人が住んでいる気配はそこにはもうなかった。彼女のことも

既に諦めがついていた。彼女を困らせたくなかったから。だからもう、探し求めることはしなかった。



 その日は午後から冷たい秋風が吹いていた。僕は研究室で卒論の纏めに取り掛かっていた。

ズボンの後ろに納めていた携帯が鳴った。携帯の向こうは彼女だった。

「一度でいいから話がしたい」とサラリと伝えてきた。

夕刻に、大学近くの公園で待ち合わせをする約束を交わした。

 約束の時刻よりやや早めに彼女はやって来た。そして僕の目の前に来ると、いきなり

「ごめんなさい」と深々と頭を下げた。僕には返す言葉がなかった。

既に彼女のことは諦めていたから。今更謝られてもどうしようもないことが分かっていたから。

 初めて出逢った頃のような時間が流れた。お互い距離が離れていた。もう、あの頃には

戻れそうにはなかった。

 話を切り出せない彼女を察し喫茶店へと誘った。昔通った馴染みの店に入りテーブル席に座った。

僕は珈琲を、彼女は紅茶を注文した。時間が進むに連れ、話はいつのまにか核心にふれていた。

彼女は知っていた。僕がこの一年間、壊れていて治療を受けていたことを。

今日会ったときの彼女の最初の言葉「ごめんなさい」。そういう意味の「ごめんなさい」だった。

 そして彼女が打ち明けた。

――僕が壊れたことを知り、そして彼女も壊れてしまったことを。

   僕と同じ運命を半年間歩んでいたことを。

   ひとめ会って僕に謝りたかったことを。

   未来のない宿命を背負っていることを――

 長い沈黙が訪れた。彼女も、僕も、真珠の滴がいつまでも落ちていた。

 壊れかけたスピーカーからは、ドリームズ・カム・トゥルーの名曲 『琥珀の月』 が流れていた。




 一年前までよく訪れていた喫茶店の帰り道。空を見上げると琥珀の月が輝いていた。

黄色い光に包まれながら、僕はこれまでの一年を振り返っていた。

 そして彼女と過ごせる僅かな時間を、全てを君に捧げることを月に誓った。



(謝辞) 推敲にご協力を頂いた、みき様、サトーリ様、紫様に感謝申し上げます。



●あとがき

この小説は、一つの物語で、二つの話を書きました。

さらっと読むと、彼女と別れ、それからの1年間の物語ですが、

読み返し物語を推測すると、主人公の回想の1年間の話になっています。

時間軸の流れ方によって、彼女の性格がまったく違うものとなり、

1年間の物語だと「現代の自己中心的な彼女」に

回想だと「自ら身を引く純粋な彼女」の性格となり、

1つのストーリーでまったく別の女性が登場します。


基本的なスタンスとして、回想の物語を主として書き上げています。

「回想の物語である」ということを伝えたいので、ラスト付近に出てくる

ドリームズ・カム・トゥルーの曲 「琥珀の月」 を使って、それを表現しています。

この小説にはほとんど会話がありません。

ですので、彼女の想いをまったく違った某体で話させようと試みました。

そして、この小説の主人公とCDの中にいる彼女が、アナタの頭の中で出逢います。


この物語では、彼女は未来のない宿命を背負っていることになっています。

しかし、CDの世界にいる彼女は永遠に生き続けます。

もし、聞く機会があれば、この小説が少しは楽しめるものと思います。

未来のない宿命の解釈については、読み手のそれぞれの自由な解釈で良いと考えています。

最後までのご拝読、ありがとうございました。



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