チャレンジカップ参加作品



                 『君去りし街』



 ふと気が付けば、いや、気が付いてないかも知れないが、どうして僕はバスに乗っているのだろう。

 ――そうか。そうなんだ。彼女を捜している旅の途中なんだ。

 でもどうしてバスに? 始めて乗る、座席が二十程しかない小さなバス。ゆっくりと真っ直ぐ進む、青い色のバス。

 流れゆく外の景色を眺めると、青い空に浮かぶ青い月。ビルや住宅も青。アスファルトも青。人も車も青。

ライトも青。目に映る全てが青。

 なんだここは。薄暗い青い世界だ。

 訳が分からない。こんなところに彼女が来ているのか?  悪い夢? 白昼夢?

 バスは緩やかに速度を落としエンジンが停止した。

 機械的なブザーの音がして、後部のドアが開いた。

 誰も降りない。乗っているのは僕ひとり。運転手すらいない。

 席を立たずに動き出すのを待ったが出発しそうにない。

 彼女を捜してみよう。そう思い、後部ドアに向かう。二つ階段を降りて外に出た。

 青い地に降り立った途端、僕の周りに人が集まってきた。微かに匂う酒と香水の香り。遠くでアラビアン

リズムが聞こえる。ざっと十数人は居るだろうか。胸元が開いた薄手のブラウス、胸を強調させた

ノースリーブ、太股が見える短いスカート、きつめの短パン。露出度の高い服を着た二十歳前後の妙に

色気が強い女性達が熱い眼差しでみつめている。僕の彼女は……見当たらない。

 女達は鼻にかけた声で「ようこそ楽園へ」「美味しいお酒を飲みながら踊りましょう」「ここでは

全ての願いが叶うのよ」「私と一緒に暮らして」「快楽に満ちたこの街で好きなだけ遊びましょう」

などと陽気に、笑顔で誘いをかけてくる。

 こんなにモテたことは始めてだ。男にとって理想郷かも知れない。俗に言う『酒池肉林』のような街

なのだろう、ここは。そう感じる。

 彼女がここに?

 この女性達のように妖艶で、娼婦のような可愛い小悪魔に堕ちてしまったのだろうか。

 むやみに彼女を捜しても見つからない、そんな気もしてきた。幸せになれそうなこの街で暮らしてみようか。

それもいいかなと、桃源
(とうげん)の誘惑に支配された。なにせこの街は、男が少ないみたいだから。

 バスのエンジンがかかる音に混じり「信士。どこにいるの」という声が聞こえた。

 空耳? 

 微かな遠い声だが、確かに彼女の声だ。そうだ。旅の途中なんだ。ここは彼女が好むような街ではない。

旅を続けなきゃ。

 引き止める女性の手を振りほどき、バスに乗り込もうとした。なにか変だ。少し話し込んでいただけなのに、

青色のバスは赤い色に変わっていた。

 ダークブルーのワンピースを着た、小柄で大きな紺の瞳を持つ少女が「赤いバスに乗るの? 

お守りにこの子を」と言いながら、青い子猫を無理矢理渡す。

 どうしたものか。迷いながらも、僕は子猫を抱いてバスに乗り込む。

 女達は追ってこない。

 バスの行く先が分かっていて乗車しないのか。

 ほどなくしてドアが閉まる。エンジンの振動で座席が小刻みに震えている。抱いた子猫が頬
(ほお)ずりして

甘えてくる。

 茶トラの猫だった。席に着いたら色が変わっているのに気付いた。

 バスはゆっくりと走り出す。外の景色は青い街が続いていた。ここは若い女性しか住んでいないのかも。

 あちらこちらで酒宴や舞踊が繰り広げられている。女ばかりの不思議な街。理解の範疇
(はんちゅう)を超えた

欲望の青い街。

 いつの間にかバスは闇に入り、何も見えない重厚な黒の退屈さに嫌気をさした僕は、猫と一緒に深い

眠りに就いていた。



 どうしてバスに? 

 いつか乗ったことがある小さなバス。赤いバス。どこへ行くのだろう。

 窓の外を覗くと、赤い空に灼熱の太陽。大地も赤。男も女も赤。目に映る全てが赤。

ドロドロとした気が狂いそうな濃い赤の地だった。僕の気が狂っているのか。それとも外の世界が狂っているのか。

 ――そうだ。彼女を捜す旅の途中なんだ。

 果たしてこの地に彼女は居るのだろうか?

 窓の外は戦場のよう。紛れもなく戦争が行われている。広がる赤砂の大地と所々に突き出た

赤い岩。真っ赤な道路が真っ直ぐ伸びている。

 時折、大きな爆発音と火柱があがる。空から爆弾を落としたのだろうか。少人数の部隊が機関銃を構え、

匍匐
(ほふく)前進している光景が目に止まる。連射音が聞こえてくる。

 彼女も一緒に戦っているのか?

 角張った岩が積み上げられた要塞の前でバスは停車した。

 バタンと後部のドアが開く。

 バスの周囲には大勢の戦士がバスを取り囲み、揺すぶりながら「早く降りてこい」「世界的な英雄になれる

チャンスだぜ」「聖なる戦いの地へようこそ」「愛と平和、自由と平等を取り戻そう」などと悲鳴に近い声で

叫んでいる。とてもじゃないが怖くて降りる気にはなれない。

 一体、誰と戦っているんだ? 戦争なんて復讐や悲しみしか産み出さないだろうに。

 そんな彼らは、後部のドアが開いているのにバスに乗り込んでこない。

 子猫が時折『ピクン』と反応する。膝の上で静かな寝息をたてながら。

 まったく降りる素振りをみせない僕を、いかにも気が強そうな二十代半ばの女性が、顔の汗を拭いながら

険しい表情で睨みつけている。

 深紅の軍服を着た体格の良いその女性は、窓を見上げて「そのバスに乗っていると全てを失うわ。命が

惜しかったら私達と一緒に聖なる戦いを」と両手を組んで祈りを捧げている。手首にほどこされた太い

十字の入れ墨が印象的だ。

 破壊的な灼熱の地で命を捨てる気には到底なれない。子猫でさえも食料にされてしまうだろう。

 座席を動かず発車を待っていると、ブザーが鳴りドアが閉まった。

 この地とお別れできるらしい。早く通り過ぎたい。

 赤色だった座席が黄色に変わった。軽くエンジンを吹かす音がして、バスが動き出した。

 名誉と栄光にしがみつく戦士が彷徨う赤の街。自由と平和を求めて、未来永劫戦い続けるだろう赤の地。

僕には赤い街がそう映った。

 戦場を走るバスは黒い森に入った。残虐的な赤の記憶が、眠気に誘われ深い淵に落ちて消えゆく。



 どうしてバスに?

 何度か乗ったことのある小さなバス。黄色いバス。

 ――そうだ。彼女を捜す旅の途中だ。

 外の景色は何もない。黄色い光だけ。空もない。地もない。街もない。人も居ない。バスは黄色い光の中を

飛ぶように進んでいた。

 ここは?

 死後の世界?

 天国の入り口?

 彼女に会えるかも知れない。そう確信した。――黄色い光が彼女の心に似ていたから。

 何もない。けれど、渓谷を流れる清水のごとく柔らで心地よい。

 ゆったりと、清らかに、緩やかに、静かで、優しく、暖かく、溶けてなくなりそうなこの空間で永遠に

暮らしたい。全ての意識は凌駕
(りょうが)され、思考は完全なる黄の虜(とりこ)だ。

 すぐにでも降りようと停車ボタンを押すがバスは止まらない。何度押しても停車せず、黄色い光の中を

先へ先へと進む。

 黄の色が薄くなり、夏の陽射しを思わせる眩
(まぶ)しい光へと変化してゆく。

 まばゆい光に導かれるかのようにバスのスピードも上がってゆく。

 バスの進む先に白い光の塊が見えたその時――

「信士。お願い。もう一度会いたい」

 彼女の声が。瞬時に記憶が甦
(よみがえ)る。

 ――笑顔を絶やさず、和やかな声で語りかけてくる、エクボの似合う女の子。人のためにと、看護の職に就いた

心優しき彼女。柔らかな肢体で優しく包み込み、苦悩を溶かしてくれた理想の淑女
(しゅくじょ)

 そんな彼女の名前……

 ……思い出せない。

「みゃぁ」

 子猫の鳴き声を合図に、バスは突然向きを変え、猛スピードで逆走し始めた。圧縮された黄のオレンジを駆け、

瞬きせぬ間に紫の空間を走り抜けた。



 ふと気が付けば僕はバスに乗っていた。

 ――そうだ。そうなんだ。彼女の家に行く途中なんだ。

 市内をぐるぐる回っている循環バス。いつも乗ってる緑のラインが入った乗り合いバス。

 流れゆく外の景色を眺めると、高い青の空に光る白い月。芽吹いた並木は萌葱
(もえぎ)の緑。ウィンドウ

ショッピングを楽しむ色とりどりに着飾った女性の姿。まっ赤なフェラーリが速度をあげて走り去る。

 雑多な喧噪
(けんそう)は都会の証か。目に映る全てはカラーに彩(いろど)られた見慣れた街並み。

 いつものバス停で降り、足早に歩き彼女が暮らす新築のアパートへ向かう。

 明るい陽射しが差し込む落ち着いた部屋。温もりを感じる静かな白の部屋。

 コーヒーの香りが懐かしく感じる。

 キッチンの前では腕組みをした彼女が立っている。白の地にタンポポの花が散りばめられた、清楚な

ワンピースを着た恋人の真理亜だ。

「どこに行ってたの? 三日も連絡取れなかったから心配してたのよ。本当にもう」と、呆れた表情の

エクボ顔も、また可愛い。

 三日間か。何してたんだろう、僕は。

「急な出張でね。電波が届かなかったんだよ。すっごい田舎でさ」と適当にごまかす。

「あのねっ!」と声を弾ませて、真理亜が奥の部屋から何かを持ってきた。

「みゃぁ」

 茶トラの子猫だ。

「三日前に拾ったの。飼ってもいいかにゃ?」と猫なで声の真理亜。

 窓際でレースのカーテンが揺れている。

 桜の花びらが舞い込んでくる。

 クローゼットの横には、来週着る予定の、純白のウエディングドレスが飾られている。

 空白の三日間。色を失った僕は真理亜の色に染まっていた。



 〈了〉



                  著作:琥珀