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メイン・テーマ 〜 究極のカルマ(業) 〜 2004.1.26
まず始めに、カルマについて
カルマとは、身体・言語・心による人間の働き・行為。
行為は必ずその結果をもたらし、また現在の事態は必ずそれを生む行為を
過去に持っているとする思想。 人が担っている運命や制約。
数日前まで集中力が高まり、プレミアモードに入っていて、やっと帰ってきました。
プレミアモードとは、いわゆる現実と非現実の境界にいるような感じで、
不思議な世界を体験しています。
それでも、普通に仕事をこなし、普通に生活しているので、はたから見て決して
疑われることなく、本人だけ異次元空間を彷徨っているような状態です。
プレミアモード状態では、集中力が高まり、閃きや導きなどによる直感や
発想が止めどなく出現します。
脳内が興奮状態にあるため、不眠、超現実的レム睡眠状態(寝ながら考えている)、
食欲不振などに陥るため、体力を極端に消耗します。
でも、僕は馴れましたので、自分で状態をコントロール出来るまでになりました。
超集中状態にあるときは、1つの問題を1日中考えていて、問題の解決策を
社会的常識や宗教的概念、経済的価値観、人間の深層心理などを考慮しながら、
一番良いと思われる結論を導き出します。
その間、思考はフル回転で計算?ぽいことをしているため、非常に疲れます。
そして、結論を導き出し問題が解決した後、必ず起こる1つの現象があります。
洗礼といった感じで、自分の精神が清められ、煩悩を捨てさせられます。
そして現実に戻ると、そこは煩悩だらけの世界。
自分は「煩悩を持った人間である」という現実が待ちかまえています。
その結果、いつも 『メイン・テーマ 』 にぶつかります。
その瞬間、「人間に生まれてこなければよかった」と思うのです。
そのテーマとは 『性』 の問題です。
いくら物欲や支配欲を捨てることが出来ても、この人間の本能としてわき起こる
情欲だけは捨てられません。
むしろ情欲を捨てたら人として終わりなのかも知れない、
最後に残される究極の欲望、太古から伝わる人に戻るための目印なのでしょうか。
そのわき起こる性欲を、抑えることが善で、吐き出すことは罪なのか?
という葛藤に悩まされます。
聖書や仏教の経典などには、「姦淫は罪である」と書かれています。
確かに、これは一理あると思います。
聖書や教典が書かれた時代、究極の欲望である性欲を抑制しないと、
人は野獣と化し、堕落と横暴が蔓延り、爆発的な人口増加に繋がることが
安易に予想された時代です。
このため、神の真意に基づくという制御が必要な時代でしたが、男性は
わき起こる情欲を抑えることが難しいため、女性に禁欲を強要し、
男達が何とか罪を犯さないよう一定のルールを作りました。
これが、いわゆる女性を蔑視する思想の原点だと思われます。
しかし、現代思想では、この神意に基づく制御が、逆に神を信じられない
「人間は神には近づけない」という矛盾を生じさせているように感じられます。
神になんてなれない、近づけないから、だから何をしてもいい、といった風潮です。
このため、人々の意識から神は消えてなくなりました。
むしろ排除しようとしています。
一方で、この性欲の抑圧こそが、近代の文明を築き上げたのも間違いありません。
医療や産業・教育など、全ては子孫を残すために備えられた性欲があるから、
生きる目的があるから、ここまで発展してきたのでしょう。
現在アメリカでは、性に対する解放運動が盛んになりました。
日本でも、性に対する意識の改革が進みつつあります。
だからといって、不特定多数の人との異性交遊してもよいというのではなく、
秩序ある、誰にも迷惑をかけない性の解放なら特に問題がないのだと思われます。
近代は、文明の発展とともにエロ本やアダルト・ビデオなど、自分で処理するための
実用的な商品が開発されました。
また、違和感のないスキンが開発されたことにより、爆発的な人口増加を
抑えることも可能な時代に入っています。
これまでの教育では、性欲を抑えることが善で、姦淫は罪であると唱えられ、
みな何も考えず、疑いもせず、教わったことを頑なに信じてきました。
しかし、そんな迷走の時代は終わりを向かえ、新しい秩序ある性の解放こそが、
破壊に向けられた必要以上の発展の抑制、
戦争に向けられているエネルギーの転換、
地球環境や人間(精神)の崩壊を制止させる最大の切り札になるのであろう、
と感じています。
プレミアモードが終わり、最後に残る最大のテーマ 「性欲に対する罪」は、
結局のところ、人間として生まれてしまったカルマであって、
それを罪ととらえるか? それともカルマとして自己の中で解決できるか?
であり、男性であろうが女性であろうが人間として生まれてきた以上、
性欲のカルマを払拭するのは難しいのが現実であり、秩序ある(愛のある)
性欲の措置であるならば、「それは罪ではない」と認識できることが、
1つの悟りの境地ではないのか? 何て、いつも悩んでしまいます。
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