『幻想組曲』
重い霧が降りた冷たい中を真っ直ぐ歩いて行くとなだらかな坂道になり、
地下へと向かうオレンジ色の薄暗いライトが光る狭くて短いトンネルをくぐり抜けたら
高台に出た。足下から先は急勾配のすり鉢状の地形で、底には迷路のように
建てられた小さな集落が見えた。
斜面を慎重に降りて行くと、うっすらと濡れた柔らかい地面に足を滑らし、
その瞬間ゴロゴロと転がり落ち、町に着いた。
派手に落ちたのに痛みの感覚がない。いや、むしろ感覚が麻痺しているのかも
知れない。気が付くと、男、女、子供、老人、見知らぬ人達が私を覗き込んでいる。
同じ年頃の私によく似た上海ドールのような少女に「この町はどこなのか?」と
聞いてみたが、少女は走って逃げて行ってしまった。辺りに居た人達に同じ
質問をしたが、みんなニヤニヤと笑うだけで一向に求めている答えは返ってこない。
町を徘徊していると、プラスチックの風呂桶や一斗缶を鳴らしながら踊る数人の
陳腐な行列、直立したまま瞬きすらしない硬直男、至る所のにおいを嗅ぎ廻る
性別不明の意味不明老人。ここの住人は誰もが皆怪しそうだ。
町から抜け出そうと何度か試みたが、蟻地獄のような地形だから途中まで
登れても直ぐさま引き戻されてしまう。そのうち脱出を諦めてしまい、
挑戦する意欲さえ無くなりこの町で共生することを望んでいた。
時間の経過とともに空間が歪んでいくように思えた。既に長い時間が経っている?
いや、経っていないかも知れない? 時間の感覚さえ麻痺している? 食欲は?
何もかも分からなくなってきている? だけど確信していることは、誰もが自由で、
誰も何も言わないこの町は平和が保たれた最後の楽園だということだ。
町の中心には快楽と執着の泉が湧き出ていて、とても居心地良い場所だ。
心臓の鼓動を刻むようなリズムの低重音、そして時折聞こえる微かなうめき声が
少し気になるくらいだった。
この町には夜というものが無いことに気付いていた。太陽も、月も、星も無かった。
夢や希望、裏表や前後、疑心や愛着、色も、形も、もしかしたら時間さえも最初から
無いのかも知れないと感じ始めている。そして、自分さえも無いのかも知れないと
感じていた。
あれからどの位が経ったのだろう? 高台のトンネルから転げ落ちてくる人が見えた。
私は直径一メートル程の円周をクルクル回るお仕事で忙しかったのに、高台から落ちた
少女が質問してきた。みると少女は上海ドールのような妖艶さをまとった私だった。
でも私には関係ないことだから答えを返さずにニヤニヤと笑って急いで走り去った。
いや、言葉が分からなかったから答えられなかったのが正解だった。この町では
会話は成立しない。だからほとんどの言葉を忘れてしまった。だけど不思議なことに
『あ』と、『い』と、『く』の組み合わせで心の全てを伝えることが可能だった。
急いで逃げ出したことで私は以前のお仕事を忘れてしまい、次の仕事を探しに
出掛けた。複雑な動きの仕事とか、痛みを伴う仕事は嫌いだった。単調で、
リズミカルで、優しくて、全てに身をゆだねられるお仕事が快楽を産んでくれた。
町の外れまで来たらそこには鳥居が立っていた。鳥居をくぐり抜け境内に入ると、
祭壇にコップに入った水らしきものが奉れていた。
喉が渇いていた私は無意識のうちにこれを飲んだ。その中身は御神酒だったらしく、
直後、全身が焼けるように熱くなり、同時に祭壇の奥にある重厚な扉が開き、
白い光に包まれた天に向かう階段が現れた。琥珀の光に導かれ、いつしか私は
扉の前まで来ていた。
一歩足を踏み入れて階段を登り始めたその瞬間、何かが私の体に進入し、
たとえようもない快楽が激しく昇華してゆく。心臓の鼓動が激しくなり、体温が
一気に上昇した。呼吸が激しくなり、必然的に動いている全身のうねりが
制御出来なくなる。筋肉が震え痙攣を起こす。悦楽波の満ち引きが思考を支配し、
私の声が繰り返し繰り返し漏れている。肢体が、心が、意識が、感覚が、感情が、
私が、全てが甘くて温い体液に濡れて溶けてゆく。
極限まで耐えていた意識のかけらが臨界点を越えて一気に飛び出したその瞬間、
体が宙に弾け、懐かしく思えるあの町を遠くからぼんやり俯瞰(ふかん)で見ていたら
飛行船のように流されて、いつしか蜃気楼と戯れていたら重くて白い霧に包まれた
冷たいあの道を逆行していた。
* * *
しばらくすると記憶が無くなる町の記憶は薄れ、少し前の記憶が甦ってきた。
あの不思議な町の静かな眠りと昇華の神殿の記憶から目覚めると、
私は裸でベッドの中に居た。
隣には愛おしい彼が居て、瞬間的に記憶を無くす町のことを話して聞かせた
小春日和な日曜の午後三時。
私は彼に「だからもう一度、天国に導いて」とせがんでみた。
〈了〉
2005.5
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