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Freedom (自由) 2003.9.9
この世の真実を知らないほとんどの人は洞窟の中に住んでいて、生まれてこの方
一度も洞窟の外に出たことがない。
洞窟の入り口に背を向け、手足を縛り付けられ、洞窟の奥の壁しか見ることが
出来ない。
後ろには高い塀があって、この塀の上を動物の切り絵だの花の切り絵だの、
様々な形の人形が通り過ぎている。
さらにその後ろには、たき火が燃えていて、これらの人形は、この火に照らされて、
洞窟の奥の壁にその影を落としている。洞窟の中の住人は、いわゆる影絵芝居を
見ているが、それが虚像であることを知らない。
住人たちは、首を後ろに回してこの塀の上の人形を見ることが出来ないから、
住人たちが見ているものは、この影絵だけだ。
しかし、洞窟の中の住人は、生まれてこの方、この影絵しか見ていないから、
この影絵が本当のもの、当たり前のもの、現実の全てだと思っている。ところがある時、住人のうちの一人が、この洞窟の壁に映る影絵は
どこから来るのだろうか? と不思議に思った。いつも、何か変だなと思っていた。
彼は、洞窟の壁に映る影が、本物なのだろうか? と、いつも考えていた。
そして彼は、ある時ついに、この囚われの身から解放され、自由になった。
彼が、後ろを振り向いて塀の方を見たら、初めて見るたき火のまぶしさに
目をくらませた。
最初は、塀の上を動く人形も、まぶしさによく見えなかった。
次第にこの光に慣れて、これらのものをよく見られるようになると、
彼は、自分が今まで見ていたものは、本当に存在するものではなくて、
この塀の上を動く人形の影に過ぎなかったことに気がつく。
この洞窟は、外に通じていて、彼はこの塀をよじ登り洞窟の外に出た。
洞窟の外は、太陽の光が差し込んでいて、さらに目がくらんだ。
やがて彼の目は日の光の明るさに慣れ、外の世界をじっくり見回すことが
出来るようになった。
初めて見る世界は、色とりどりの動植物で満たされ、とても美しい。
そして彼は、ここで初めて、自分がかつて洞窟の奥の壁に見ていたものが、
この外の世界の動植物の影にしか過ぎないことを悟る。
彼がこの洞窟の外で見たものは、真理の世界。
この外の世界は、実は永遠不変のイデアの世界。
洞窟の奥から解放された彼は、この外の世界が真実で、
洞窟の奥の壁に映る影は、その模像、写しに過ぎなかったことを悟る。
上記の話は、2500年前、哲学者プラトンが説いた「国家論」中の「洞窟の比喩」です。
僕は、幸いにも哲学を専門的に勉強した訳ではありません。
大学で、プラトンの「洞窟の比喩」をどの様に教しえているのかも知りません。
もし、僕が大学で哲学を専攻し、専門的に教わったとしたら、間違った知識を
植え付けられていたのではないだろうかと思うと、ぞっとします。
少なくても、洞窟の比喩についてネット上で調べた限りでは、洞窟の比喩とは何か?を
解説・解釈・考察したり、僕が納得できる様な説明文を見たことがありません。
洞窟とは何か?
洞窟の住人とは誰か?
影絵とは何か?
洞窟の世界、外の世界とは何か?
いつも考えていた洞窟の比喩の疑問について、僕なりの解釈を試みてみました。
まず最初にこれを読んで、古代ギリシア人も、現代人もさほど変わりはないな、
との印象を受けた。
洞窟の中の住人とは、束縛され、自分の信じ込んでいる世界を頑なに信じ、
それで満足している人達である。
いわゆる「バカの壁」(養老孟司著:新潮新書)の存在に気づかない、気づいても
直ぐに忘れる人達で、古代人も、現代人も自分で自分の檻を作り、自ら囚われ人となり、
自ら自由を放棄している。
少なくても、僕にはそう見える。
では、自由という名の虚像に囚われている人達が見ている影とは何だろうか?
彼らが見ているのもは、物欲という名の幸せ、知識という名のプライドである。
物が、お金が人間を豊かに、幸せにしてくれる、と頑なに信じている。
記憶能力が、教わった知識が知恵だと、知能だと信じ込んでいる。
物欲を捨てた、物に捕らわれない心で世の中を見ると、まったく新しい世界が
見えてくる。
まさに、洞窟の中で虚像を一生懸命つかもうとして、苦しみもがいている人達が、
大衆心理の愚かさが、人間の愚かさが見えてくる。
教えられてきた価値観、教わった知識にしがみつき、何ら疑いを持たず、それらが
自分という存在を形成し、頑なに信じている。
また、真実を教えとなえても、自分のこれまでの価値観を捨てることが出来ず、
まったく新しい価値観を拒絶する。
一時的に外の世界を知ろうと努力しても、直ぐに洞窟の世界での安住の道を
選んでしまう。
外の世界が存在していることすら忘れてしまう。
洞窟の中の世界が真実であり、現実であり、善であり、幸せだと信じて疑わない。
高級な衣服に身を纏うこと、高学歴であること、他人からおだてられ羨ましがられる
のが幸せだと信じて疑わない。
みんな、その虚像に、虚栄に、束縛に、洞窟の中で努力して苦しみもがいている。
まさに、洞窟の中で両手両足を縛られ影を見て、それを真実だと思い込んでいる。
では、外の世界、真理の世界、イデアの世界とはどんな世界だろう。
まず、外の世界を知るには、自分を捨てる必要がある。
全ての欲望を捨てる、自分さえ捨てるのである。
すると捕らわれていた足かせのクサリが切れ、代わりに自由が手に入る。
洞窟の世界から出られるようになる。外の世界から洞窟を見ることが出来る。
今まで教わってきた価値観を捨て、違った角度から世の中を見渡すこととなる。
洞窟の中の人間がどこに進もうとしているのかが見えてくる。
何を目指しているのかが見えてくる。
人間の愚かさが見えてくる。
影でしかない欲望を求め、奪い合い、叩き合い、殺し合っている、そんな
洞窟の中が見えてくる。
洞窟の中でふんぞり返っている学者や政治家などの無知・無能さが見えてくる。
その人達の無意味な努力と小さな幸せで喜んでいる姿に、哀れみすら覚えてくる。
世界の、国家の、教育者の、洞窟の中で暮らす指導者の愚かさが見えてくる。
そして、地球の未来が見えてくる。
進んでいる未来への方向が見えてくる。
外の世界を知ると、智恵が働きだす。未来が読めてくる。
未来に向けて自分が何をすべきか、現代人が進もうとしている方向の修正先が
分かってくる。
イデアとは、人間の真理である。
人間の真理が見えてくるから、人の心が読める、過去が読める、未来が読める。
いわゆる第3の目が開けてくる。
本当の幸せは、モノの豊富さや虚栄ではない。
本当の幸せとは、他人から喜こばれて得られる心の動きである。
本当の喜びとは、他人から羨ましがられることではない。
本当の喜びとは、他人を救い感謝されたときの心の喜びである。
本当に頭の良い人とは、記憶力が高い人ではない。
本当に頭の良い人とは、智恵を使い真理を説き、未来に進もうとする人である。
モノに囲まれ安心して楽しく暮らすことが自由ではない。
本当の自由とは、何事にも捕らわれず、欲望を極力捨て、自分さえも捨てられた時に
始めて得られるのである。
真理の世界を知ろうとしない人は、真実を探そうとしない人は、一生を洞窟から
抜け出せないで苦しみもがく道を進むのである。
それが苦しいことであるとは考えもしないで。小さな幸せに一喜一憂しながら。
もっと素晴らしい世界があることを知らないままに、生涯を終えるのである。
●追加記事 (掲示板への質問と回答)
Q:イデアとは、イデアに気がつかない、イデアを知らない人たちの例えとしての
シチュエーションではないでしょうか?
必ずしも自由になることが幸せとは限らないと思います。
真実さえ見れれば幸せか?っていう話ですよ。
「もっと素晴らしい世界があることを知らないままに、生涯を終える」方がいい人も
います。
A:イデアに関して現在言われている、その解釈は解っています。
僕の考えでは、例えとは、それこそ影でしかないのです。
真実から映し出された影(喩え)なのです。
プラトンの比喩を学者は影ばかり追っていて、真実を追わない。
だから、真実を写し出してみました。
比喩という表現手法は聖書にもあり、聖書の解釈も影ばかり追っていて、
そこに書かれている真実を理解しようとしない。
この比喩は何? なぜ比喩を使って説明するの? この比喩は何を意味するのだろう?
と問い詰めないのだろう。
教わった知識を教えるのは簡単だけど、新しい発見を見つける眼を持つ必要がある
のではないかと、僕は思う。それが哲学なのだろう。そんな意味を込めて、
コラムを書きました。
イデアについては長くなるので、別の機会にでも。
ただ、世界を見るというのは、喩えの表現方法であって、頭の中のイメージを見ること
などを見ると表現しています。まったく別の世界を直視している訳ではありません。
あくまで概念的なイメージを見る(感じる)です。
さらに、人間の行動をイメージしている訳ではなく、何故この行動を起こすのか?
という人間の心理を読む(推測)こと指します。
Q:比喩は比喩でしかないのでは?
A:比喩の使い方は2種類あります。
1つは、説明しやすくするために使う喩え話。
もう1つは、特定の人にだけ伝えるためにあえて意味を隠して(喩えにして)使う場合。
この特定の比喩とは、芸術作品や神話に多く使われています。
僕が考察をしてるピカソ作品の「ゲルニカ」は、家の中に牛や馬がいる、家が地下、
電気とランプなど、全て1つ1つが喩えで表現されています。
これが何を意味するのか? は第三の目が開かないと見えてきません。
特定の人に伝えたい場合にだけ、喩えを使った作品を残していく手法です。
神話もそうです。
特定の人が読む場合、普通の神話の物語と、もう一つのまったく別の物語を読んで
いたりします。
この様な方法で、大昔の偉人から教え(真理)が永遠に語り継がれてきているのです。
これは、第三の目が開いていない人に
「見たことのない世界の空の色は、こんな色なんだ」といくら説明しても、その人は
実際に見たことがないのでイメージが沸かないので理解されず、この様な解釈は
オカルト扱いされるのが常です。
僕の創った短編創作「子供の国行きの電車」は全て喩えで、色、電車、駅、白い服など
全て前提となる世界設定があって、それを喩えで表現しています。
子供の国行きの電車は、見る人が見ると分かる作品だったりします。
ドリーム・カム・トゥルーの曲にも喩えの歌詞が多くあります。
なぜ、この様な一般の人に理解できない方法をとるのか? 神が天国の扉を開こうと
する時を待っていて、後継者に語り継いでいるのです(謎)。
ちょうど、僕が考察している「千と千尋の神隠し」の裏の物語の様にね。
Q:プラトンの文脈とは違っていると思いますが、洞窟の比喩の現代的な解釈・適用と
してはありだと思います。
ただ、本当の幸せとは〜と喜びとは〜の部分は洞窟の比喩とは関係ない、
琥珀さんの主観であるような気もしますが。
ちなみに、エリック・ハヴロックやウオルター・J・オングの、無文字社会から
文字社会への転換点としてのプラトンを捉えた研究が興味深いです(というか、
今では定説ですが)。
彼らによれば、プラトンの時代、つまりギリシャ語のアルファベットが一般に知れ
渡って初めて、イデア論のような観念論、抽象的思考が可能になったのだそうです。
それ以前の無文字社会(声の文化)では、人々は経験的、感覚的にしか物を
捉えることが できなかった、つまり必然的に影しか見ることができなかったのです。
だから保守的で集団的な社会傾向を示す。プラトンは思惟の力によってこうした旧弊を
打ち破り、理想の哲人国家を打ち立てようとしたのです。
プラトンの洞窟の比喩はこのような彼の時代的文脈から考察される必要があるでしょう。
A:その通りで、プラトンのイデア論を利用して、僕のメッセージを伝えようとしています。
実をいうと、哲学の歴史的背景とか、イデア論の本文を読んだことはありません。
上に書いたとおり、オカルト的といわれる比喩の解釈法から読みとったものです。
この解釈を信じるか? 信じないか? は読み手に判断してもらうしかありません。
Q:結局、幸せとは何なのでしょうか?
A:あのコラムでは何だか分からないですよね。
言いたいことは、幸せは自分の心が感じるものである、ということ。
同じ生活レベルの人が1千円を拾って、Aさんは大喜び、Bさんはちょっと喜び、
Cさんはたかが千円、Dさんはもっと落ちていないかと捜しまくる、とまあ人それぞれで、
幸せも不幸も、本人の心持ち1つだということです。
だから、いくら豪邸に住もうが、豪華な食事をしようが、治安の良い国に住もうが、
それは影でしかなく、真実は自分の心の中にあるんですよ、と言う事で、いくら求め続けても
きりが無く、自分の心を変えなさい、と言う事です。
そして、何が本当の幸せかを探しなさい。と言う事です。
あくまでも、個人的な価値観ですが・・・。
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