チャレンジカップ参加作品



                  『電波ガール』



「電波をね、探しているの」
 真夜中二時の交差点で、彼と彼女はガードレールに背中を預けて座り込んでいた。
車道との境目の段差に腰掛け、滅多に車の通らないアスファルトをぼんやりと見つめている。
 信号機は黄色く疲れた点滅をくりかえし、街灯は気だるく二人を照らしている。
 彼は彼女とは幼馴染だった。彼氏彼女という関係ではなく、純粋に親友といえるような仲だった。
お互いに同性の友人のように気軽に文句も言い合ったし、恋愛話にも花を咲かせた。
 遠く離れた街の大学を受けた彼は、夏休みを利用して地元に残った彼女にこうして会いに
来たのだった。
「電波って、どんな?」
「妹からのね、電波。メッセージなんだ」
 彼女に会いに来たのだ。そのはずだった。
 憔悴した笑顔で彼を迎えてくれた彼女の母親に教えられてここに来た。午後の六時だった。
その時間から、昔と何も変わらない愛す可き無邪気な微笑を浮かべた彼女とこうして肩を
並べている。
 小さなウェストポーチの中のラジオをイヤホンで聴いている彼女の隣に黙って座って、
ただひたすらに八時間。
 唐突に語り始めた彼女に、彼は昔のように自然に返していた。
「妹が五月にね、ここでね、ひき逃げにあったの。お母さんから聞いた?」
「うん。聞いた。君も一緒だったんだってね」
 彼女のイヤホンから漏れ聞こえてくるのは、音楽でも軽快なトークでもない。
 雑音。
 えんえんと続く耳障りな雑音を、彼女は愛おしそうに聴き続けていた。
「ひかれてね、もう駄目だってときにね、何か、何か私に言おうとしたの」
「何て?」
「分からない。聞き取れなかったの」
 彼女の母親は、彼女はもう壊れてしまったのだと言った。半分泣きそうになりながら、
ごめんね、と、彼に言った。どうやら、二人はそういう関係だったのだと思っているらしかった。
娘が一人の男と休日の度に遊びに行くのを見れば、どこの母親だってそう思ったかも
しれない。
 彼は彼女をじっと見つめていた。
 どこからどうみても、昔のままの彼女だった。
 ただ、彼の知らない世界を見ていることを除けば。
「で、何で電波なの?」
「妹がね、葬式のあとに夢に出たの」
「それで?」
「周波数をね・・・・・・ええと、ほら、これに合わせてここに座っててってさ。ひき逃げの犯人が
分かるんだって」
 彼女はポーチからラジオを取り出して彼に見せた。
「なんでそれなの?」
「知らない」
 ごそごそとラジオをしまうと、夜空をぼうっと眺め始めた。
 小学生のときも中学生のときも、そして高校生になっても、彼女は妹を何よりも大切に
していた。彼女の妹は、姉よりも何においても勝っていた。何をしても駄目な彼女はことある
ごとに妹と比べられた。家柄が無駄に良かったせいか、彼女にとってそれは普通の家庭の
長女よりも重くのしかかっていた。
 ――妹はあんなに出来がいいのに、何が駄目なのかしら。
 ――姉妹なのに。
 ――長女なのに。
 大人たちの容赦のない言葉は、残酷に彼女のココロを抉り続けた。
 それでも、彼女の妹だけは彼女を慰め続けていた。
 彼女のストレスの原因でもある妹は、同時に彼女の心の支えでもあったのだ。
 彼女のココロのマイナスと、彼と妹でのプラス。
 そのプラマイゼロの均衡は、四月で彼と離れてマイナスに傾き、五月の事故で崩壊は
決定的になった。
 彼女の《電波》は、彼女のココロの最後の防御。彼女を診た精神科医はそう母親に告げた。
 妹と、離れないための。
 ――しかし、彼はそうは思えなかった。
「それにしても嬉しいなぁ。まさか君がわざわざ会いに来てくれるなんて、私思ってなかったよ」
 そう笑って彼と一緒に地元を離れた高校時代の同級生たちについて聞いてくる彼女を
見ると、彼女が狂っているとはどうしても思えなかった。
 担任が今何をしているか。部活の後輩は元気でやっているのか。付き合ってたやつらは
今でも別れていないのか。
 どうでもいい話に花を咲かせ、数ヶ月ぶりに彼と彼女は笑いあった。
 ささやかに聞こえてくるノイズをBGMに、気の早い朝日にアスファルトが照らされるまで
二人は語り合った。

 彼女が変わってしまったのは分かっていた。
 しかし、彼にはそれでも心地よかった。
 彼にとって彼女はやっぱり彼女であって、一般に電波と呼ばれる人々になってしまった
彼女もまた彼にとっては彼女だった。
 ただ、途切れることのないノイズだけが、微妙に彼と彼女を隔てていた。
 変わってしまった友人に対しての偽りきれない哀しさを、彼は確かに感じてはいた。

 午前五時。細めのジーパンをパンパンはたきながら立ち上がった彼女は、お腹が
すいたから帰ると言った。
 立ち上がった彼女の影に、それまで見えなかった花束が置いてあった。
 朝食に誘われて、ついて行った。彼の家より幾らか高級なマンションに日をまたいで再び
訪れた。彼女の両親は彼女が帰ってきたのを見て顔を曇らせたが、その後ろに彼がいるのを
知って彼が気が引けるほどに丁重にもてなしてくれた。帰り際、娘をお願いしますと言われた
ものの、彼はどう返していいのか分からなかった。
 ――僕には、どうしようもないんです。
 ――彼女は、壊れてなんかいないんですから。
 口には出さなかったが、あいまいに微笑んで家に帰った。
 滞在中、彼は出来る限り彼女の横に座っていた。
 彼女の言う《電波》を聞いてみたかったから。
 彼女と同じ世界を、覗いてみたいと思ったから。
 何より。
 彼女のココロのマイナスが少しでもプラスに向かえばいいと、そう思ったから。
 ニコニコと無邪気に微笑む彼女の昔の部分が、ほんのりと好きだったから。

             ×

 十二月。
 サークルのカラオケから帰ってきた彼の元に親から電話があった。
 彼女が死んだという電話だった。
 午後九時二十三分、一台の車の前にいきなり飛び出したらしい。
 乗っていたのは一組のカップル。
 その車を調べると、車体の下に二人分の血痕が残っていた。
 新しいものと、相当古いもの。
 彼女と妹の、二人分。
 母親が泣きながら報告しているのをぼんやりと聞きながら、彼は安心していた。
 ――電波を、聞けたんだね。
 ならば悲しむことは何もないじゃないか。彼は小さく微笑むと、興奮してまくし立てる母親を
無視して受話器を置いた。
 振り返ると、部屋の隅っこのラジオのスイッチを入れた。
 いつか見た、あの周波数に合わせる。
 聞こえてくるのは、懐かしいノイズ。
 イヤホンを差し込み、ベッドに寝転がった。
 彼女の周波数。
 電波に乗せてあの夜の会話が聞こえてきそうな気がして、彼は一筋涙を流した。

 やっぱり彼女が好きだったのかもな、と、涙を流した。
 あの可愛い微笑が、愛す可き微笑が、ノイズの中に浮かんで、消えた。

 〈了〉


                 著作:平和主義者