チャレンジカップ参加作品



               
『恋病』



 私の頭の中には百万人の若林くんが住んでいる。変な喩えかもしれないけど、

それがいちばん的確な表現だと思った。だって、最近の私は寝ても覚めても

彼のことばかり考えていた。最近? いや、彼と出会ったその時から、今のような

状態が続いていると言ってよいだろう。


 それは、むかし観たSF映画で、一瞬のうちに地球が宇宙人に侵略されてしまった

話に似ている気がした。地球がかつて育んできた歴史が一瞬にして、宇宙人に

よって奪われてしまうといったストーリー。私も若林くんに出会ったその時から、

脳内のほぼ全域を彼一色に染められてしまった。若林くんに出会う前まで、私は

一体ナニを考えて過ごしてきたのだろうかと考えてしまうほどに。

 朝、カーテンの隙間から射し込んでくる光によって瞼を開けば、夜更かしな若林

くんは、きっとまだ夢の中にいるのだろうなぁ、なんてコトを想いながら布団の中で

まどろんでみたり。朝食を作り始めてタマゴの殻を割れば、若林くんはスクランブル

エッグ派かしら、それとも目玉焼き派かしら、目玉焼き派なら若林くんはきっと私と

同じ醤油をかけるタイプに違いないなぁ、なんてことを勝手に想像しているのだ。

 二十代も半ばに突入した大のオトナが中学生のように恋におちてしまったのだから、

たちが悪い。私は完全に恋の病に侵されていた。


 だから今日も私は、若林くんのことを考えながら一日を終わらせる予定だった。

パジャマに着替えて、いつものようにベッドに入り、羊が一匹、羊が二匹、若林くんが

三人、若林くんが四人……と、寝る時も彼のことを考えながら眠りに就こうと思って

いたのだ。羊が飛び越える柵を、若林くんはハードルを飛ぶように軽やかに越えていく。

そして、そのまま夢の世界へと連れて行ってもらう予定だった。

 しかし、そんなことばかり考えていたので注意散漫になっていたのだろう。

 ボズンッと鈍い音が部屋中に響いたと同時に、後頭部に激痛が走った。


「いっ……痛っ……!」


 布団に入ろうと横たわった瞬間に、わたしはベッドの頭上の柵におもいきり頭を

ぶつけていた。ナニが起こったのかさえわからずに、目の前が一瞬まっ暗になって

チカリと光さえ見える始末だ。角材で一撃をくらわされたような衝撃だった。


 後頭部を手の平でさすり、出血していないかを確かめる。どうやら、流血は

免れたようだ。だが、さすっているうちに後頭部がだんだんと大きな盛り上がりを

みせてきた。内出血をしてしまったらしい。ポップコーンがパァンッと膨らむように、

脳がパンクしそうな感じまでする。


 ふと、頭の中に「死」という言葉がよぎった。享年二十五歳、後頭部を強打して

死亡……なんていう空想が頭に浮かび、恐ろしくなる。若林くんに好きだって伝え

ないまま、死んじゃうのは絶対にイヤだ。


 そんなことを考えているうちに、今度は鼻の奥がむず痒くなってきた。誰かが、

鼻の中をくすぐっているような感じ。そう思った瞬間に、ものすごい勢いで

くしゃみが出た。壊れた機関銃のように連発する。手で抑えるなんて余裕すらない。

わたしは、キノコの胞子が飛ぶがごとく粘液を部屋中にばら撒いた。粘液は玉と

なって飛んでいたが、なぜか、その玉は肌色をしていた。


 いや、違った! 目を凝らして見れば、その二ミリほどの粘液には、頭に胴体、

足に腕がついているではないか。つまり、立派な人間の形をしているのだ。

顔の部分には切れ長の澄んだ瞳に、筋の通った鼻とぼってり唇。ナニもかもが

ミニサイズだけど、私にはわかった。これは丸裸の若林くんに違いない。


 驚いている間にも、くしゃみは止まらず、次々と私の鼻の奥からは若林くんが

飛び出してきた。ざっと部屋を見渡してみても数千人のコビト若林くんがいる。


 しかも、若林くんたちは、綺麗に列を作り軍隊のように行進し始めた。

「ワカワカワカ」とヘリウムを吸ったような高音で口を揃えて叫んでいる。時折、

右向けミギ! 左向けヒダリ! なんてことをしながら隊列を整えたりして。

その間にも、私はくしゃみが止まらず、つぎつぎと若林くんを生産していた。


 落ち着け! 私は自分に言い聞かせながら、この今の状況がなぜ起きてしまった

のかを考えた。


 思いつく要因は、三つ。頭を打ったことによる幻覚症状か。もしくは、既に

夢の中の出来事なのか。そして、三つめが一番ややこしい。もしかして、私の

頭の中に本当に数万人規模の若林くんが住みついていて、人口密度が

高すぎて脳の中でパンパンになっていたところを、後頭部強打によって

ついにパンク。外に飛び出してしまったのではないかということだ。


 どうしたら良いものかと、あぐねいていると、ふとメグミの存在が頭を霞めた。

 合コン仲間の笹木メグミのことだ。大学病院で研修医として働いていて、

才女で美人なのだが、冷淡かつシビア。恋愛に関しても、もちろんクールだった。


「男はさ。遺伝子で選びなさいよ」が彼女の口ぐせだ。異質な遺伝子を持った

人間と子供を作ったほうが、その子供が多質な遺伝子を持つから生きのびる

可能性が高いのだという。

 一年前に私が彼氏にふられた時も、「ゴリラだって、オスとメスは四年周期で

パートナーを変えるの。だから、あなたの彼が他の女の子を好きになって

しまったのだって、別に不思議じゃないのよ。生物学的にそういうものなの。

彼はオスゴリラだったのだと思って忘れなさい」と、妙な励まし方をしてくれた。

一緒に泣いてくれた友人もいたけど、私を冷静にしてくれたのは彼女の

その言葉だった。


 だから、今の私に落ち着きなさいと苦言を呈し、この状況をどうにかして

くれそうなのはメグミしかいないと思ったのだ。


 彼女は夜勤の仕事中だろうか。それとも、もう休んでいるだろうか。

けど、それは彼女の場合に関してだけ言えば、あまり考えなくてもよい

ことかもしれなかった。メグミは、電話にでられる状態の時に繋がる友達

ではないのだ。自分がでたい時にだけ電話をとるタイプの子なのだから。


 私は、携帯電話のアドレスからメグミの番号を拾うと、通話ボタンを

押した。何度か呼び出し音が続いた後、気だるそうな声が耳に届いた。


「どうしたのよ?」

 ガラガラしたカサついた声からして、メグミは寝ていたのかもしれない。

申し訳なかった。


「うん、実はね。今、すごくヤバイ状況なの」

「ヤバイって、なにが?」

 これら一連のことを、どう説明したらよいものだろうか。落ち着いて

上手く話すことができないものの、部屋中に二ミリほどの若林くんが

いっぱいいることまで説明し終わったところで、メグミはポツリとヒトコト

つぶやいた。


「あんた、そりゃぁ重症だね」

 そう言われても仕方がない。誰だって、こんな馬鹿な話を信じてくれる

人はいないだろう。最後まで話を聞いてくれただけでもありがたかった。

「友達のよしみとして、優秀な医者を紹介してあげるから。明日、時間を

作ってうちの病院に来なさい。いいわね!」

 そう言って、メグミには電話を切られた。

 若林くんは、ついに数万人規模にまで膨れあがり、部屋は私の脳内と

同じ百パーセント若林くん状態になっていた。いったい何人の若林くんが

私の頭の中にはいたのだろうか。


――未知数。

 そんな気がした。

 そしてついに彼らは、私のパジャマのズボンの隙間から体へと這い

上がってきた。このまま、若林くんたちに体中に貼りつかれて呼吸をする

ことが不可能になってしまっても、それは本望だとさえ思えた。でも、

やっぱりリアル若林くんに好きだって言っていないことが、こころ残りだ。


 その時ふと、ある考えが浮かんだ。もしかしたら、彼を好きだと思って

いるのに告白することができないストレスが、今の幻覚症状を起こして

いるのかもしれないということだ。


 つまり、リアル若林くんに告白すれば、このミニ若林くんたちは消える

ような気がした。


 私は、若林くんに電話をして今すぐ告白しようと思い、携帯電話をとった。

呼び出し音が鳴り始める。私の体は既に三分の二を若林くんで埋め尽くされて

しまっていた。


 ガチャリと彼が電話口にでたのがわかった。

 私は、ありったけの想いを彼に伝えようと息をすいこみ叫んだ。

「あなたが、好き。ダイダイダイ好き、死ぬほど好きなのよー!!」






                       著作:かおり