チャレンジカップ参加作品
『濃藍に吹く風』
「比奈! こんな時間に何処行くの!」
「うるさいクソババア!」
叫んだあと、ムカつく自己嫌悪が競りあがってきたけど、言い返さないでは
いられなかった。
安マンションのスチールドアを派手な音をたてて閉め、狭い階段を駆け足で
下りてゆく。
少し弾んだ息を整えていると、物悲しい匂いを含んだ初秋の風が、パーカーの
肩に纏わりついてきた。
振り返り、蛍光灯でしらけたマンション入り口を見て舌打ちをする。
追いかけてくる根性もねえの。
青い顔のまま、テーブルを睨んでいる母さんを想像して、何に対してか判らない
嫌悪感を募らせる。
何処行くのって、そう行く場所なんてない。せいぜいが友達のところか公園、
コンビニがいいところだ。毎回カラオケやファミレスに入れるほどお小遣い
貰ってないだろ。
街灯と、月明かりに明るい夜道を歩いてゆく。
さほど教育熱心でもなかった母さんが、勉強勉強と言い始め、やたらと干渉して
くるようになったのは何時ごろだっただろうか。
宿題はした? テスト勉強はしてるの? 畳み掛ける台詞にやったと答えると、
じゃあ予習と復習は? ふざけるな。部屋を物色され、携帯も無断で見られていた。
母さんは私が気に入らない。母さんの理想の枠に私が満たないから、勉強や
干渉で埋めようとする。
息苦しさに歩調を速めた。
嫌な苛立ちと、焦燥感に似た不安が競りあがってくる。自分でも把握しきれない
様々な感情は、腹の底に溜まってふつふつと沸いていた。何もかも投げ出したくて、
酷いことを言ったり夜に外出したりしてみても、その度に罪悪感が油を注いで
腹の底が沸きたった。いっそのこと、壁にでも激突して爆死したい気分になる。
公園の入り口に差し掛かり、鞄から携帯を取り出し短縮を押した。
「もしもし? 何時もの公園。こられる?」
苛立ちを押し隠すように陽気な声をだしてみた。
『ごめぇ。今日うちのババちゃん風邪で仕事休んでんだ』
美玖の少し眠そうな声が抑揚なく響く。
母さんは美玖のことも嫌いだ。中学生なのにばっちりきめているメイクと、
ちょっと派手な服装、はっきりしないしゃべり方が気に入らないらしい。極めつけは
万引き事件だろう。
美玖は去年の夏に万引きで捕まった。初犯ということで通報はされなかったが、
親と学校には連絡がいった。内密に処理されたはずなのに、翌日には連絡網が
回ったかのように知れ渡っていた。万引きは確かに事件だったけど、大人たちの
ような深刻さはなかった。エナメル、フリスク、何故か栄養ドリンク、もっとマシな物
盗ればいいのに。そんな具合だった。
でも美玖の場合は違った。盗もうとしたものは妊娠検査薬だった。大人達は
色めきたった。
『比奈聞いてる』
呼びかけられて慌てて相槌を返す。
「聞いてるって。んじゃしょうがないね」
『今からどうすんの。うち来る?』
「いいよ。コンビニでも寄って帰る。おばさん、気をつけてあげてね」
美玖のお母さんは、夜間のビル清掃を仕事にしていた。
『ん。お粥食わせたからもう寝かせる』
じゃあね、と言って携帯を閉じた。
本当に行くところがなくなったので、コンビニに足を向けた。
明かりが盛大に漏れているコンビニには、若いサラリーマンと大学生っぽい男、
清潔感のない女の姿があった。駐車場には五、六人の高校生が、タイヤ止めに
腰かけて騒いでいる。店内より外の方が賑やかだなんて、コンビに経営も大変
だと、少し上から目線で考えながら品物を見て回った。
雑誌が読みたかったけれど、店内にいる三人が全員立ち読みしているので、
一つ手前の棚で逡巡する。あの仲間には何故か加わりたくなかった。
視線を何気なく手前の棚に這わせていると、ある物の上で止まった。
四角く細長い箱に入ったそれ。手のひらサイズの生理用品が、他の商品に
紛れるように置かれていた。よく知らない私には、それが妊娠検査薬に思えた。
美玖を思い出す。
美玖は優しい。私よりずっと優しい。同じ母子家庭なのに、私と違ってお母さん
を大切にしている。派手な格好をしていても、付け睫毛ばっちりのメイクでも、
おばさんの代わりに洗濯をしたり食事の仕度をしたりする。
万引きだって……。
生理用品にじっと視線を合わせた。手に取ることはさすがに抵抗があった。
妊娠はおろか、生理という響きさえ卑猥に感じる年頃だ。検査薬を堂々とレジに
持っていき、買うなんて出来やしない。タンポンさえ恥ずかしい気がするのに。
美玖は検査薬を盗った。「生理がこない」そう泣きつく友達のために盗った。
幾ら先生に怒鳴られても、美玖は絶対に盗んだ理由を言わなかった。好奇の
目で見られても、何時ものまったりした態度を崩したりしなかった。
「ちょっと君!」
鋭く呼び止められて振り向いた。
私の顔は酷く強張っていたと思う。足は店の敷居を一歩出ていた。
外の奴らが大喜びしながらこちらを見ていた。
私の手には、細長い箱が握られていた。
「申し訳ありませんでした」
母さんが土下座で叫んだ。狭いバックヤードの椅子や机の狭間に体を丸め、
唾やガムがへばりついていそうな汚いコンクリートの床に額をこすりつけて叫んだ。
「申し訳ありません」
嫌なものを見た気がして視線を逸らせると、店長だという男に頭を押さえ
られて母さんの方に向けられた。
「ちゃんと見てろ!」
それでも見たくなくて視線を下げた。
嫌だった。惨めたらしく背中を丸めて床に額を擦り付けて。親の弱い姿など
見たくはなかった。
「申し訳ありません」
涙声の謝罪が頭をわんわんと回っていた。
どう放免されたのか、母さんの後ろについてとぼとぼと家路についていた。
遠くの幹線道路からはエンジン音が聞こえるのに、住宅街の小道はやけに
静かで、私達だけが世界から除け者にされた気がした。
公園の入り口に差し掛かると、母さんは突然車止めに体を預けて顔を伏せた。
疲れきったように前髪をかき上げ、
「最悪」
ぽつりと呟いた。
確かに最悪だ。親のプライドを砕かれ、屈辱に身をさらした日だっただろう。
明日も仕事だというのに、今日の悔しさに眠ることも出来ず、疲れの癒えない
体を引きずって出社しなくてはいけない。
「万引きなんて……」
何も言い返せなかった。街灯に浮かぶ母さんの疲れきった横顔を見たら、
喉が焼けつく気がした。でもただ一言、私は言った。これだけは言わなくては
いけないと思ったからだ。
「美玖のせいじゃないよ」
弾かれたように視線を上げた母さんの顔。驚きと、そして色々な悲しみが
詰まった表情をしていた。
「万引きは、私の責任だよ」
私の台詞に母さんは、自分が責められたように顔を伏せた。それからゆっくりと
頷き、そして何度も頷いた。
「そうよ。これは比奈の責任よ。比奈が犯した過ちだよ――」
そこまで言って母さんはやり切れないように前髪をぐしゃぐしゃと掴み、体を
揺らしながら嗚咽を洩らしだした。なにか身もだえするほど我慢出来ない、
そんな感じだった。そして突然、深夜を気にも留めず泣き叫び始めた。私だけに
言っているようには聞こえなかった。
「最初はこんなことちっとも望んでなかった! 勉強出来なくたって、全然
かまわなかった。小さい比奈を抱っこして、ただ元気で優しく育ってくれれば
いいって思ってた。
悪い友達の影響を受けたらどうしようって思ったのよ。高校受験もあるし、
勉強に打ち込んで、そんな友達とは付き合わなくなればいいって。だって
考えちゃうのよ。悪いこと覚えたらどうしよう。大人になって後悔するかもしれない。
結婚するときの、相手の両親の顔色まで想像してしまうんだから」
しばらく嗚咽が続いた。まるで母さんが万引きを咎められているようだった。
そして手で覆っていた顔を私に向けると、母さんは唸るように言った。
「ごめん」
涙でくしゃくしゃな顔だった。
「信じてあげられなくて。元気で、友達思いの優しい子に育ってくれてたのに」
美玖を思い出していた。学校でどんなに辛い思いをしても、まったりとした
態度を崩さなかった美玖が、一度だけ泣いたと言った。白髪頭を床にこすりつけ、
今日の母さんのように謝り続けるおばさんの姿を見て泣いたと。
今、同じように喉の奥が締め付けられていた。霞む世界と、寒さに酷く頼りない
気分になっていた。
私は今を見て過ごしていた。母さんは私の未来を見て過ごしていた。未来を
見すぎて母さんは今が判らなくなり、私は今しか見ず、未来はただ来るものだと
思ってた。
「ごめんなさい」
噛み締めるように呟いた言葉は、夜風がさらったはずなのに、しっかり
母さんに届けていた。
母さんが、何度も頷き返していた。
著作:みき