チャレンジカップ参加作品



              
『本の時代』



 キミオは玄関の前にたどりついたところで、手にした本をようやく閉じた。

まだ読み足りないという思いは残るが、しかたがない。

 彼が持っている本は、長方形の厚紙を二枚に折りたたんだほどの薄さしか

なかった。これが彼の時代の本なのだ。

 これの便利なところは薄い冊子程度の本も、何百ページもある分厚い本も、

まったく同じように取り扱えるということだ。

 データはオンラインで管理されていて、すぐに違う本に切り替えることもできる。

これまでに買ったものはもちろん、その場で新たに購入してもいい。

 だが何よりの特徴は、この本のページを『めくることができる』という点だろう。

表示されるのは寒々しい二次元の映像ではなく、実際の厚みを持ったそれだった。

しかもページに触れれば紙の感触があり、ページを繰った音も聞こえる。これは

本を読む時につけるアンテナつきのイヤホンのおかげで、音はイヤホンから、

感触はアンテナから発する特殊な電波が脳を刺激してそう感じさせるのだ。

 キミオは本の表紙にあるスイッチボタンを押した。触れると同時に指紋認証も

行われ、本人でないと操作ができないようになっている。もちろん読んでいた

箇所は自動で記録される仕組みだった。

「まったく便利な時代だ」

 本をかばんにしまいながら、キミオはつぶやいた。本を買う時も内蔵のコンピュータ

が選んでくれる。世間の話題、季節、年齢など、ありとあらゆる条件を考慮して

選ばれるため、それらがはずれることはなかった。自身の情報を入力することも

可能で、そうすれば選定の精度はいっそう高まった。

 現代は細分化、専門化、そして雰囲気の時代。

 キミオはいつか読んだ本の中に、そんなことが書いてあったのを思い出した。

 栄養満点でも錠剤の食事では味気ない。便利なだけでなく、情緒も満足させる

ことが大事なのだ。

 今や誰もがこうして本を読んでいる。かつて人々が本を読まなくなった時代が

あったらしいが、本当だろうか。人生を豊かにすごすためには、本がなくては

ならないのに。

「ただいま」と言いながら、ドアを開けた。

 だがそれに答える声がなかった。いつもならリビングから「おかえり」と、妻の

ミナリが答え、五歳になる息子のケルトは玄関まで迎えにくるはずだった。

「サンタさんなんていないんでしょ……」

 キミオがリビングに入ると、ミナリの隣でケルトが泣いていた。

「どうしたんだ」と、キミオがたずねた。

「あら、おかえりなさい。それがねえ、今日幼稚園でケルトが『サンタなんかいない』

って友達に言われたらしくて。さっきから泣き止んでくれないの」

 ミナリの顔には疲労と困惑が浮かんでいる。

「だってカイ君が言ってたんだもん……」

 細く弱々しい声で、ケルトは言った。

 今日はクリスマスイヴ。現実派と理想派の子どもたちの論争は、この時代に

なっても終わりをつげていないようだ。

「――ちょっとケルトと散歩に行ってきてもいいかな」

 意外な提案にミナリが驚く。ケルトも顔を上げて不思議そうな顔でキミオを

見つめていた。

 だいじょうぶだ、という笑顔をミナリに向けて、二人は散歩にでかけた。



 よく晴れた静かな冬の夜空の下で、キミオは幼い息子の手をとりながら

ゆっくりと歩いていた。家々からもれる明かりに街灯や月の光が混ざり合い、

やわらかな雰囲気を演出している。

 キミオは夜空を見上げながら言った。

「あのね、お父さんとお母さんがプレゼントを買うっていうのは本当だよ」

 そう言った瞬間、ケルトの手に力がこもった。

「でもね、サンタさんがいるっていうのも本当なんだよ」

 キミオはしゃがみこみ、不思議そうな顔で彼を見つめるケルトと目線をあわせた。

「サンタさんがくれるのはね、『あったかい気持ち』なんだ」

「あったかいきもち?」

「うん。クリスマスに街がきれいにかざりつけられたり、子どもにプレゼントを

買ったりするのはね、サンタさんが『あったかい気持ち』をプレゼントしてくれるから

なんだ。これをもらうとね、みんなによろこんでほしいって思うようになるんだよ。

ほら、あの家の人みたいに」

 キミオが指差す先には、外壁を鮮やかなイルミネーションで飾った家があった。

カラフルな星の中を、サンタがトナカイの引くソリに乗って進んでいるデザインだ。

海の底のように静かな夜を背景にしたそれは、とても幻想的な光景だった。

「きれいだねえ――」

 ケルトがその家を見つめながら言った。

「うん。あれもね、あそこの家の人がサンタさんから『あったかい気持ち』を

もらったからなんだよ」

 ケルトはキミオを見つめて言った。

「――うん。わかった。そうなんだね」



「もう寝ちゃった?」

 息子を部屋につれていったキミオがリビングに戻ってくるなり、ミナリが聞いた。

「ううん。絵本読んでから寝るって」

「でもすごいじゃない。あんなに泣いてたのに、どうやって言い聞かせたの?」

「子どもの気持ちになって言っただけだよ。それより僕も寝るよ。ミナリは?」

「私はもう少ししたら。小説が今いいとこなの」

 リビングのテーブルにはミナリの本が開かれていた。

「うん、じゃあおやすみ」

「おやすみ。今日はごくろうさま。助かっちゃった」

 妻のねぎらいに笑顔で答えて、キミオはリビングをあとにした。



 寝室でキミオは本を読んでいた。そのページの冒頭には、こんなタイトルが

書かれていた。

『子どもの未来は大黒柱で決まる! ――クリスマス〜年末年始に向けて――』

 現代は細分化、専門化、そして雰囲気の時代。

 キミオが読んでいるのは、“五歳の息子を持つ父親”に向けた本だった。

そこには、その時期に迎える可能性のあるトラブルの事例と対策が書かれて

いるのだ。

『子どもはちょっとしたことで大きな傷を抱えます。特に五歳の男の子には、

父親が頼りになる大黒柱として接してあげることが重要なのです。』

 自らに暗示をかけるように、その箇所を何度も読み返す。次に、これから先

起こるかもしれない事例に目を通した。クリスマスを乗り切ったあとも油断は

できないのだ。

「まったく便利な時代だ」

 それはなかば無意識のつぶやきだった。キミオは息子と妻から受けた尊敬の

まなざしを思い出しながら、熱心に読み進めた。



『子どもの明るい未来を育てるために――この時期特に注意したいこと――』

 ミナリの読む本の冒頭には、そう書かれていた。小説を読んでいたというのは

嘘ではない。が、小説よりもこちらにかける時間のほうが長いのは確かだった。

『何かトラブルがあった場合、思い切って父親にまかせてみるのもひとつの

手段です。それが父親の家庭における役割の自覚となり、子育てへの積極的な

参加につながるのです。』

 ほんと見事に大成功だった。少し頼りない人かと思っていたのに。

 ミナリは記事どおりにことが進んだことを喜びながら、『父親にまかせてみる』

ほかの事例を頭にたたきこんだ。もちろん、『父親が失敗した時の対処法』を

読むのも忘れなかった。

「まったく便利な時代ね」

 ミナリは感心したようにつぶやいた。



 絵本を読みながら、ケルトは父親の話を思い出していた。

だけど何度考えてみても、やはり気持ちをプレゼントするということがよく

わからなかった。

 あの時ケルトがわかったのは、父親が自分をなぐさめてくれているということ

だった。それを知ったときの暖かい気持ちが彼を元気づけたのだ。

 幸せな気分に浸りながら、ケルトは絵本のページをめくった。緻密に計算

されて作られた絵本は、乾いたスポンジが水を吸い込むように、やわらかい

頭を持つ子どもにたくさんのことを教えた。

 悲しい時やうれしい時は、人はどんな口調や表情になるのか。そして、

悲しがっている人を元気づけようとする人はどんな表情をするのか。ケルトは

絵本によって無意識のうちにそれらを学んでいた。今日だって言語処理能力の

不足分は、父親の表情からにじみでる雰囲気を察することで補うことができた。

学習の成果だった。

 現代は細分化、専門化、そして雰囲気の時代。それはこういう意味も含んでいた。

 子どもの性格や家庭環境を伝えれば、その子にふさわしい本を選んでくれる。

そのサービスは『子どもの未来プロジェクト』と名づけられていた。

 ケルトは本を閉じた。読んでいたのは、寝る前にちょうどいい静かで落ち着いた

内容の絵本だった。ケルトはじっと本を見つめていた。また明日には新しい本が届く。

その時にふさわしい内容の本が。

「まったく便利な時代だなあ」と、ケルトはつぶやいた。

 現代は本の時代。人生を豊かにすごすためには、本はなくてはならないのだ。


 了





                  著作:おーたに