チャレンジカップ参加作品



              『愛ぬ、願いを、



「北海道は寒いね」と容子は小さな声を漏らす。

 釧路の駅に隣接した、薄暗い待合所に立っている。

 風が吹くたびコートの胸元を引き締め、缶コーヒーに張り付いたシールを親指でさすりながら、

手のひらに温もりを伝わらせていた。

 モノレールからみえた東京は、色づき始めた川辺の桜が風を春色にかえていたが、北海道は

まだ肌寒く、風に舞う枯れ葉が冬のなごりを感じさせていた。

 容子が道東を選んだのは、「北海道はとても素敵だった」という先輩の話に感化されてのこと

だが、この時期、阿寒湖まで足を延ばす観光客は少ないようであった。

 十五時発のバスに乗っても、阿寒に着くのは十七時である。旅の目的が果たせそうもなく、

容子は予約したリゾートホテルをキャンセルして、行き先を札幌に変えようかと悩んでいた。

 すると、左手に大きなバッグと、大きなリュックを背負った青年が、待合室に近づいてきた。

「阿寒湖畔行きのバス。ここですか?」

 容子は自信なさげに、

「多分、そうだと思います」と答えた。

 青年の容姿を転瞬にみて、目的を果たせる人になるかも知れないという予感が、容子の心の

中でうまれた。

 青年は時刻表をみながら、

「一日に四本しかないんですね。この路線」と呆れ声で話しかけてくる。

 自分が地元の人間と勘違いされていると容子は受け取めた。

「そうみたいですね。私、東京から来たので……」

「ひとりで、ですか?」

「ええ。卒業旅行なんです」

「僕は春休みを利用してます。院生になれたので気楽です」

「その荷物、テントですか?」

「寝泊まりしながら、道内を放浪してます」といって青年は、はにかむ。

 二人が当たり障りのない会話を続けていると、ほどなくしてバスが目の前で止まる。塗装が

腐食し、ボディー広告もサビ色が滲んでいた。

 青年が先に乗り込み、中央の位置を陣取った。容子も彼の後を追い、青年が座った席の、

通路を挟んだ隣席を選ぶ。

 発車時刻が来ても席はひとつも埋まらない。いずれは廃線の窮地に追い込まれるだろうことが、

容易に予想された。容子はこのバスの運命と自分はよく似ているなと、降車のボタンを遠い

目線でみながら、避けられない現実のことを考えていた。



 二週間前のことだった。

 理由のない発熱を時折繰り返していた容子は、母に言われて仕方なく病院を訪れた。容子が

通っていた大学の付属病院で、人間ドックに匹敵するほどの精密検査を受けた。

 結果は最悪だった。

 難病に指定されている『膠原病』(こうげんびょう)の一種で、最も危険性が高い『結節性多発動

脈炎』の疑いがあるという診断が下された。

 動脈血管が、ある日突然、炎症を引き起こす病気だ。詳しい原因は不明だが、自己免疫が

自身の血管細胞を攻撃してしまうことが、発病と関係しているといわれいている。

 普段の生活にはまったく支障がないものの、ひとたび中枢神経や心臓で炎症が起これば、

いとも簡単に生命の危機が訪れる、瞬間的な破壊力を持つ、死に至る病である。

 一ヶ月先に決まった入院治療まで、ステロイド剤を服用しながら様子をみることになっていた。

 「入院したら退院できる可能性は保証できないから、それまでの間に好きなことをしておきなさい」

と、最終宣告ともとれる言葉を担当医から聞かされていたのだった。



 容子には、我がままとも誤解される純粋な部分があった。思春期を迎えたあたりから男に裸を

みせたことも、躯体を重ね合わせた経験もない。

 結婚するまでは貞操を守りたいという、古い価値観を持っていたからだ。

 これまでに付き合ってきた彼氏は何人か居た。

 行為を求められなかった訳ではない。ロングブーツを履けば格好良く決まるし、魅了する笑顔や

輝く気持ちを読みとる術で、何人もの男性から求愛を受けてきた。性に関心がなかった訳

でもなく、求めてきた彼氏に信念を話し、自分でも欲望を抑えてこれまで回避してきたのだ。

 だが、結婚どころか、明日さえ普通に暮らせるのかが分からなくなった今、体験したことのない

女の痛みと、天使も墜ちる官能を、一度は知りたいというのが容子の最後の望みとなっていた。

 以前付き合った彼氏と寄りを戻すことも考えたが、先々のことを考えれば、未練が残らない

一夜だけの相手を探すことが賢明であると判断したのだ。

 とはいえ、出会い系に群がる欲情した男をみつくろい、短絡的に痛みだけを知るというのは、

容子のプライドが許すはずもなかった。



 容子が提案した道東ひとり旅は、親に猛反対された。

 いつ暴発するか分からない起爆装置をかかえた体なのだから、当然だ。

 旅行なら、妹も一緒に連れて家族全員で想い出を作りたいという両親の願いも、容子には痛い

ほどよく分かっていた。だが、旅の目的が「抱かてもいい男」を探すことなのだから、さすがに

親と一緒という訳にもいかない。

 残り少ない自由を自分のために使いたいと強く主張して、緊急に入院できる医療機関を調べた

うえで、半ば強引に北海道行きを決めたのだった。

 治療が始まると、嫌でも痛みと戦うこととなるのに、自分から身体に痛みを与えようとする行為は

とても馬鹿馬鹿しく思えたが、それと引き替えに、これまで抑制してきた葛藤が消え、長く生きたい

という未練も少しは薄れるだろうという思惑が容子の胸のうちにあったのだ。



 炭坑や漁業が衰退した釧路は、廃墟と化したビルがやたらと目につく。走るバスからみえる

街の様子を、容子は海底に沈んだ都市に似ているなと思いながら、ぼんやり外の景色を

眺めていた。

 バスの中でも積極的に話しかけたのは容子だった。けして好みのタイプの青年ではなかったが、

受け入れられないという程でもなく、言葉の端々から知性を感じとっていた。

「今日はどちらに泊まるのですか?」

「湖畔でテント張ります」

「寒くないですか?」

 会話が途切れないよう、次々と質問を繰りだす容子は、自分がこんなにも積極的になれるのだと、

北海道に来て初めて知ったのだった。

「めちゃ寒いですよ。ある意味、修行です」

「私でも、テントで寝ることできます?」

「夏場だったら大丈夫です」

「今日、テントに泊めてくれませんか。駄目ですか?」

「本気?」

「よろしければ」

「寝袋がひとつしかないし、テント、小さいし、食事だってままならないし……」

 といいながらも、アウトドアのことを話すときの青年は声が弾んでいる。

「ですか。残念です。…………。そうそう。阿寒湖の名物、知ってます?」

「マリモかな? あとは、山と、湖と、湿原」

「アイヌの古式舞踊、知ってます? 一緒に見ませんか」

「えっ……」

 声に戸惑いを感じ、彼の目線が泳いでいるのをみた容子は、直ぐさま

「縄文時代からこの地で暮らしてきたのがアイヌ民族なんです」と付け加えた。

「ええ、知ってます。沖縄には琉球民族が。確か、僕たちは大和民族でしたよね」

「アイヌの血を引く人達の、本物の歌舞がみられるんです。神に捧げる祭祀です。アイヌ語では

神をカムイと呼ぶそうです。私は、古来から伝承されている日本の神に、祈願と、その代償として

”貢ぎもの”を捧げに来ました」

「アイヌ舞踊か。見ないと一生後悔しそうですね」といった後、容子に手渡されたアーモンドチョコを

口の中に放り込んだ。

「ひとりで見るのも何かなと思っていたので。ぜひ」

「コンビニで弁当買って、テント張りが終わればやることないので。よしっ。行きましょう」

「やった。楽しくなりそう」

 容子は、ひとつめの結界が解かれた気がして、心の中にVサインをつくった。

「ところで、アイヌ舞踊はどこで見られるんですか?」

「ホテル近くの、民芸店が立ち並ぶ温泉街です。私はそこでアイヌ料理を食べます。よかったら

夕食もご一緒に。どうですか? ご馳走します」



 バスはヘアピンカーブの山道を登り始め、低いエンジン音が唸りをあげる。

 車体が大きく傾く中で、容子は、明日まで魅惑的な”大人の女”を演じ、夕食と舞踊のひとときを

彼と過ごし、一晩をともにする覚悟を決めた。話す言葉に、願いと、悲しみと、苦しみを隠して、

いかにしてこの青年をベッドに引き込むかの戦略を練っている。抱かれた後に、枯れ果てぬ涙を、

これ以上流さなぬことをカムイに誓いながら。

 四月でも、阿寒の気温はマイナスを記録する。テントで寝泊まりするには、そうとう厳しい夜の

冷え込みと、突如発生した光を遮る雷雲が、容子の作戦を援護しているようだった。






                   著作:琥珀