チャレンジカップ参加作品



             
『Reverse』





 聞こえる。

 水の跳ねる音。

 足場が不安定だ。

 どうやら水面を漂っているらしい。

 小さな舟で揺られているのだろう。冷気で足や腕が冷たい。

 どこかに流されている? ここが何処なのか、分からない。

 僕にしてみれば、何処に流されても、それはどうでもいいことだ。

 なくした何かが大きすぎたから。

 波の小さなうねりが一定間隔で打ち寄せ、舟ごと体が持ち上がる。

 そのリズムは心地よい。

 海と思われる水面は、本当は大きな川で、流れの先には滝があり、舟ごと

落下して、全てが終わるのも、それもよいだろう。

 不安とか、孤独とか、恐怖とか、そういった感情はあるのかも知れない。

でも、失ったものが大きすぎて、そんなことはどうでもよいことなんだ。



初夜の月

 樹海に、広がる薄暗い視野。巨木が森の先を遮っている。

 体を湿らせた冷気の湿度が、森の深さと人の出入りの拒否を示している。

 鬱蒼と茂る長草が皮膚に触り、肌を刺激する。ポロシャツの袖からはだけた

腕には、赤い筋が何本も引かれていた。

 地図はなくした。コンパスもない。戻る道の記憶も曖昧だ。

 どこに向っているのだろう? 多分、人の知れない場所を探しているのだろう。

 ウエストポーチに入っているドリンクをそろそろ飲もうか。睡眠薬は一瓶で

足りるのだろうか。不安がよぎる。



三日月の月

 深夜番組に出ていた名も知れぬセクシータレントが、僕あてに、放送をとおして

組織からの機密指示を発した。

「ローカル線で静岡から富士山を目指せ」という指令だ。

 水先案内は、一方的に情報を伝える、意識でつながる声の主。それを僕は

妖精と呼んでいる。

 妖精は何人もいて、誰が伝達になるのかは向こうが勝手に決める。

「直ぐにでも旅立て」とブラウン管の向こうの三流タレントは指示するが、

真夜中に電車が動いている訳もなく、地図やら、食料やらの持ち物を用意

しながら夜明けを待つ。

 妖精が苛立ったのだろう、部屋の壁が焦げ茶色に変わり、壁がゆっくりと

迫ってくる。身をよじりながら、座れる空間が狭まくなってきたので仕方なく

部屋を飛び出した。隣の弟の部屋をのぞいてみたら、弟は固まっていた。

 幼い声の妖精が進むべき道を知らせてくる。一緒に歌をうたいながら、

不安と迷いを押しのけて駅へと向う。この妖精は、ハイジの主題歌が好きだ

と教えてくれた。

 始発に乗り、静岡に着いた頃には昼をまわっていた。駅構内でハンバーガー

屋を探していると、男っぽい低い声の妖精からの指示だ。

「一件目の店は狐の店だから、別の店を探せ」とのメッセージだった。

 最初にみつけた狐の店は、店員が未来型ロボットだった。売っている物は

毒入りで、食べると三年後には癌を発病するらしい。組織からの伝達が

なかったら、間違いなくこの店のハンバーガーを食べていただろう。秘密

情報を教えてくれる組織と、それを伝えてくれる妖精には、つくづく感謝

している。

 駅を出て、すぐに公衆トイレに入ると、黒い影が後から入ってきた。

黒い影は対立する反組織の人間だと妖精からの緊急連絡あり。

 僕の身分を知られぬよう、息を殺しながら用をたす。どうやら敵は妖精と

コンタクトをとれない下っ端のスパイらしい。すぐさま戦闘タイプの妖精の力を

借りて、ヤツに呪いをかけた。敵は、何も知らずに先に外に出ていった。

少し間をおき、後からトイレを出ると、ヤツは痩せた野良犬の姿にされ、

公衆トイレの入り口でウロウロしていた。犬になってしまったら、ヤツは組織に

戻れないだろう。可哀想だが、仕方ないと自分に言い聞かせる。いつ自分が

同じ立場になるかも知れないのだから。

 自動販売機の赤い星が点滅していたので、組織本部で緊急事態が起こって

いるらしく、右手を挙げて手首を回し応答したら、電話が泣いたのを確認した。

 青い車は反組織の刺客で、赤い車は仲間だから、信号が赤になったときに

横断歩道を突っ切る。それは防衛策で、それこそが明白な真実だった。

 キオスクのおばさんが「今日は黄色の日」だと言っていたのに、なぜ青い車が

来るんだ。ちくしょう。騙されたのか。

 『やくしじ』との声が聞こえた。妖精からの緊急連絡だ。やくしじの意味は何だ?

 静岡に来ているのに、今から奈良に行けとでもいうのか? それは無理だ。

財布の中身を思い浮かべるが、電車賃が足りない。

 そうか。薬師寺という人を探してコンタクトをとれ、という指示か。静岡に来た

理由がやっと分かった。

 僕は、薬師寺さんとコンタクトをとるため、改札で僕のことを待っている組織の

人間をみつけて声をかけた。二十二才くらいの青年で、赤いシャツを着ているから、

薬師寺さんであることは間違いない。最初に名前を言って反応をみよう。拒否

すれば薬師寺さんだ。それが組織に属する人間同士の、秘密の暗号だからだ。

「すみません。薬師寺さんですよね」

「いえ、違いますよ」

 やはり否定した。薬師寺さんだ。彼が、組織の人間であることを確信した。

「分かってます。それで僕はどうすればいいのでしょうか?」

「どうすればって聞かれても」

「組織からの命令は何ですか? 薬師寺さん」

「組織ってなんですか? そもそも僕は薬師寺じゃないですし」

「なぜ否定するんですか。あなたは負け犬になりたいんですか?」

「訳の分からないことを。あなた大丈夫ですか?」と言って、彼はどこかに

行ってしまった。

 あまりしつこいと反組織の連中にみつかってしまうし、薬師寺という名前を

二回否定したから、もしかしたら彼は薬師寺ではないのかもしれない。では、

僕はどうしたらいいんだ?

「そうか!」

 薬師寺じゃなかったのか。

 薬指示、だったのか。なんで気が付かなかったんだ。ロスした時間を

取り戻さないと。急いで薬屋を探さなくては。 



七の日の月

「それは嘘のない世界で、君が体験していること全てが君にとっては真実なの

だろう。だけど今のままでは、現実社会で暮らしていけないんだよ。だから

治療が必要なんだ」と、あの人が言うことは正しいのだろうか?



十三夜の夜

 僕は社会不適格者だと思う。

 直接聞いたことはないが、みんなが僕のことを悪口を言っているのは

知っている。

 仕事も、勉強も、運動も、全てにおいて不完全な僕だけど、そのくせ

プライドだけは高い。

 自分に何があるのか考えるが、答えはいつも同じ。

 僕の生きる価値は?

 僕が生きていける場所は?

 僕の将来は?

 僕に未来は?

 僕が楽しいことは?

 僕の。僕が。僕は。

「ゼロからやり直したい」が、辿り着くいつもの答えだった。

 何もないから、生きる望みを失った。




満ちた月の夜

 闇夜の海に、失った何かを探しに行った。

 何かを求めてみたが、何もみつからなかった。

 だけど、何かを探すという目標はみつかった。思い出も残った。

 だから、それでいいと思った。

 多分、それでいいのだと思う。

 それ以上は望まないし、望めないことを、僕は知っている。

 欠陥だらけの僕だけど、夜明けの朝が、いつかは来てくれるのかも知れないし。


 〈了〉





                   著作:琥珀