チャレンジカップ参加作品
『Dear...』
二人で散歩している夜、ふと丘に行きたくなって、帰り道から
大きくそれた先にあるその場所に足を伸ばした。
てっぺんにある木の下に座って何を思うでもなく先の光の
拡がりを見ていると、背後から草を踏み歩く音がゆっくりと
聞こえてきて。
「……思い切り寄り道しやがって」
それに続いて、溜め息まじりの声が降ってきた。
「うん。なんか急にここに来たくなって。別にこれから用事とか
無いんだし、いいでしょ?」
「……」
問いかけても無言を返してきた彼に、座りなよ、と隣の地面を
軽く叩いて誘った。
やっぱり何も言わないまま、彼は腰をおろす。
藍色に眠る空には、下弦の月。
霞んだ光が柔らかく降ってきて、ゆったりと気持ちを落ち着けて
くれる。
もし今この情景に名前をつけられるなら“癒し”がぴったりだな、
なんてロマンチストな事を考えてみたりした。
ちょっと大げさだけど、それがよく似合う光景だったから。
隣に座る彼を、少しだけ見た。
それに気づく様子もなく、空を見上げるその横顔に、どこか
安心して。
――――けれど、不意に息苦しくなった。
「……手、つないで?」
胸が潰れるような感覚を持て余して尋ねてみると、彼は一瞬目を
丸くして、けれどすぐに眉をひそめてしまう。
「変なところでガキくさいな、お前」
呆れたような声を投げかけられたけど、そっと私の手をとってくれた。
伝わってくる体温を感じながら、確かに子どもみたいだ、なんて思う。
呼吸を止められそうだとまで思った苦しみでも、たかがこんな事で
一気に和らいでしまうのだから。
温もりを感じながら、最近よく考えてたことを、改めて思いなおしてみた。
いつか触れることのできなくなる明日に、私は何を残していけるのか
という事を。
彼と私は、もともと生きている時間が違う。彼が生きることのできる
時間を、私は、生きることが出来ない。
―――確実に、私は彼を置いていかざるを得ないんだ。未だ見えない
時間の、その先に。ただ一人で。
だから、彼が辛くならないために、何を残していけるのだろうと、
考えていた。
他愛もない会話を交わす間も、その手の繋がりを保ったままにして
もらってた。
琥珀の眼差しを柔らかく細めてくれる彼に、やっぱり、息が苦しくなって。
それでも、それを悟られまいと同じ笑みを向けた。
……なんて浅ましいのだろう。
私の存在は、私よりもずっと長い時を生きる彼にとって、ただ枷でしか
ないと言うのに。
彼にもらった幸せを返すことができるくらいに長く、傍には居られない
と言うのに。
それなのに“恋人”だなんて……浅ましいにも程がある。
「ね、こっち向いて」
「……?」
振り向く彼の唇に、キスを落とした。
それがこの傲慢さに対する懺悔になるだなんて、欠片も思って
いないけど。
けれど、彼が幸せそうに微笑ってくれるから。
同じように笑顔を返したその裏で、溢れてきそうな感情だけは
殺した。
一人で泣くことはあってもいい。
けれど、彼の隣でだけは、笑顔でいようと誓った。
限界というものを知ってしまったあの時から、絶対に彼の隣では
泣かないと、誓った。
この手の繋がりは、あまりに儚いと知っているから。
それの代わりに、彼の隣では極力笑顔でいようと、誓った。
それがきっと、私が彼に出来ること。
ずっと先の未来を見ることの叶わない私が、唯一彼にできること。
……ふと、思った。
彼に残すものは、何も無いほうがいいんじゃないか、と。
残した記憶も、この存在の証拠も、きっといつかの明日にただ一人
佇む彼を辛くさせるだけだと、思うから。
だから、何も残さない。
だから、生が続く限り、彼の傍で笑う。
いつかは、彼より先に灰となって消え逝くこの身だけど。
残さない限りは、ずっと先の未だ見えない時の中に忘れ去られていく
存在だけど。
何も残さない事が、一人残る彼の辛さを無くすというなら、それでもいい。
それでも、何処かで“忘れてほしくない”と思うのは、自惚(エゴ)だ。
決して、彼と同じ時間を生きる事のできない私の。
けれど、それはきっと“忘れてほしい”と思う事と、同じなんじゃ
ないかな……とも、思う。
もしそうなら、私は全部、全部呑みこんで、彼の隣で伝え続けよう。
この身が果てるまで、この想いを。
今だけは感じる、今だけは伝えることのできる、この温もりのように。
未だ見えない先の分まで、ずっと、ずっと。
愛しい彼の傍で。
著作:あこや影