第5回チャレンジカップ参加作品



              
『リンリンデー』            



 通勤時間のこみあった電車内で、葦山ミツオは緊張した面持ちで座席にすわっていた。

 ひざはぴったりと閉じ、腿にきちんとカバンをのせ、その上に両手をきちんと八の字の

形で置いている。髪はカツラと見まがうほど、きっちりと七三にかためられていた。

 身につけているものも、クリーニングにだしたばかりのスーツをはじめ、すべてが

過剰なまでにととのえられていた。

 ミツオの耳にかすかなモーター音がとどいた。すばやくカバンを開き、ケータイを

取りだす。

 受信したメールには、こうあった。

『右肩先端に、数片の雲脂が御付着いたしましてございます。多くの方が御不快の

念を御想起あそばされる恐れがございますゆえ、可能な限り速やかに御処理あそば

されることが、適当かと存じ上げます。』

 ミツオはすばやく右肩の先を見た。凝視しなければわからないほどの小さな雲脂、

つまりフケが、確かにそこにある。

 ふくらんだカバンの中から、ウェットティッシュを取りだす。ティッシュを右肩にあてて

持ちあげると、フケはきれいに取れていた。決してはらってはいけない。そんなことを

すれば、周囲に迷惑がかかってしまう。

 ほっと息つくひまもなく、またケータイが震えた。

『左方下顎部の付け根に、一毛の御髭が見受けられます。貴殿の身につけておられる

衣服等から勘案するに、それは、貴殿にとってふさわしからぬ状態かと察せられます。

可能な限り速やかに御処理あそばされることが、適当かと存じ上げます。』

 ミツオの顔から血の気が引いた。指摘された左の下あごのつけ根を指でさぐると、

確かにそり残したひげが一本のびていた。

 あれだけ何度もチェックしたのに。

 ひげを親指で隠しながら、対策を練った。カバンの中にはカミソリも鏡もある。だが、

刃物をここでだすわけにはいかない。

 会社がある駅は、まだ先だ。次の駅でおりたいのは山々だが、今日は全身のチェックに

時間をかけすぎて、ギリギリの時間になってしまった。

 考えがまとまらないうちに、またメールがとどいた。

『貴殿の左前方に、御年を召された御婦人が、御起立あそばされてございます。貴殿の

御姿から推測される年齢と比較いたしますに、ここは御婦人に席をお譲りするのが適当

かと存じ上げます。』

 心の中で舌打ちをする。ひげに気を取られていて、油断していた。

 顔をあげると、確かに老人と言えなくもない女性が、つり革につかまっている。ただし、

ミツオがここ数日仕事でろくに寝ていないのに比べ、太く頑丈そうな四肢を持ったピンク

色の頬の女性は、いかにも元気そうだった。だが――

「どうぞ、おすわりください」

 不満をおぼえながらも、ミツオは席を立った。

 メールに逆らうわけにはいかないのだ。そんなことをすれば、どんな批判がくるか、

考えただけでもおそろしい。

「あら、どうも」

 女性はそっけなく言って、すばやく腰をおろした。ミツオには一瞥もくれない。彼女の

視線は、ケータイのディスプレイにそそがれていた。

 女性の左隣には、私服を着た大学生くらいの男がすわっている。必要以上にさげて

はいた太いジーンズをはじめ、全体的にだらしない格好だ。まるで股間に広げた扇子が

はさまっているかのように、足を大きく広げている。

 女性と同じく一心不乱にケータイを見つめる彼は、しかし注意されることがないのだ。

男に直接声をかける奇特な人間がいないかぎりは。

 ミツオのケータイに、またメールがとどいた。慇懃な言葉使いながらも、ひげの件を

催促する内容だった。

 しかたがない、とあきらめて、次の駅で電車をおりた。

 その際も、「申し訳ありません、私この駅で降りたいと思っておりますので、一時だけ

そのための空間をお作りいただけるようお願い申し上げます」と言わなければならな

かった。もちろん、乗客に体が触れないように、細心の注意をはらいながらおりた。

 駅でほっと息をつくまもなく、すぐにメールがとどく。

『貴殿が電動機付客車を御降りになられた際、貴殿の右肘が、ドア右端に御起立あそば

された妙齢の御婦人の御背中を、いささか強く御擦過いたしましてございます。

 電動機付客車が御出発あらせられた現在におきましては、貴殿が当御婦人に御謝罪

いたします機会は失せられたと申し上げても過言ではないかと察せられますものの、

貴殿におきましては、なにとぞ御心中の内に反省の念を御想起あそばされますよう

お願い申し上げます。』

 意味がわからない。

 しかし、こんな時のために翻訳機能もついているのだ。翻訳というのは変な気がするが、

そう言われているのだからしかたがない。二度ほどボタンを押すと、こんな文章に変わった。

『あなたが電車を降りる時、ドアの右端にいた若い女性の背中にあなたの右肘が

ちょっと強めに当たったんですよ。

 もう電車が出発したから、あやまることってできないんですけど、反省だけはちゃんと

してくださいよ。』

 くだけてわかりやすいのは結構だが、どことなく反発を覚える文体だった。

 だが気にしている暇はない。ミツオは反省していることをしめすために、もう見えなく

なった電車の方向に深々と頭をさげ、早足でトイレにむかった。

 ひげをそり、一刻も早く会社にむかわなければならない。同情はしてくれるだろうが、

結局はチェックの甘かった自分が悪者にされるのだ。

 イライラはピークに達していた。だが、たとえひとり言でも口にだすわけにはいかない。

高解像度のカメラ同様、高機能の集音マイクも、いたるところに設置されているのだ。

 なれない駅でようやく見つけたトイレにはいり、持っていた安全カミソリでひげを

そった。そり残しがないか再度確認したあと、ミツオは鏡を見ながらため息をついた。

 この『リンリンデー』が始まってから、もうどれくらいになるだろう。

 それは、ある国民的な人気を誇る政治家が考えだした法律だった。

 昔は存在したらしい『叱れる大人』なるものがいなくなり、公共の場でのマナーの

悪化がさかんに喧伝されていたころの話で、カリスマ政治家のキャッチーな文句に

あおられた法律は、国民の圧倒的な支持のもとで成立した。

 以来、毎日、無作為に選ばれた百人たらずの人間が、ほかの国民によって素行を

チェックされることになった。

 あらゆる場所に数えきれないほど存在するカメラとマイクからの映像は、ケータイや

ネットで見ることができる。特に、今や普及率が100%を超えるケータイには、それが

基本機能として組みこまれている。カメラは、ズーム等の操作も可能だった。

 倫理と電話の組みあわせで、『リンリンデー』。いかにも国が採用しそうなネーミングだ。

 マナー違反を見つけたら、それをメールで送る。

 ただし、それらの指摘は、いったんコンピュータに集められ、分類・集約ののち、

先ほどのような言葉づかいにあらためられて、当人に送信される。

メールが膨大な量である上に、中には罵詈雑言を極めたような文章もあるからだ。

マナーを指摘する文章が、そんなことでは具合が悪い。

 コンピュータが送る文章もあまり正確とは言えないかもしれないが、そこはあまり

問題ではない。必要なのは、過剰なまでの装飾だった。それは無条件に威圧感を

かもしだす。いわば、大名行列のようなものだ。あるいは、ビル窓の清掃業者でもない

のにゴンドラにのって結婚式をあげるようなものとも言えるかもしれない。

 要するに、雰囲気が重要なのだ。

 ちなみに、そのコンピュータは『ジーヴス』と呼ばれている。ある小説にでてくる執事の

名前から取ったのだが、そのことを知っているものは今ではほとんどいなかった。

それはつまり、この法律がそれほど浸透したということだ。パンに具をはさんだものを

食べる時、いちいちサンドウィッチ伯爵のことを思いださないのと同じように。



(今日だけ。今日をのりきればいいんだ)

 駅の端にある、汚れたトイレの鏡にうつる自分にむかって、ミツオは無言の

はげましを送った。

 あまりにマナーが悪い場合は延長されることもあるが、たいていの人は一日で終わる

ように努力する。背後にどれだけの人間がいるのかわからない指摘の圧力に、いつまでも

耐えられる者などいないからだ。先ほど座席をゆずった時だって、指摘をしたのは、

何万人という人間かもしれないし、あの女性自身かもしれないのだ。

 ジーヴスからの指摘は、厳密に言えばまちがっていない。しかし、だからこそやりきれ

ない思いにかられてしまう。ひげのことだって、確かにこれは見逃しであり、ミスだといえる。

 だが――ミツオは唇をぎゅっとかみしめた。

(明日になれば、今度は自分が指摘をする側にまわれるんだ)

 口を強くむすんだまま、ミツオは鏡の中の自分にむかってこうつぶやいた。

 すると、彼の顔にかすかな笑みが浮かんだ。

(こんどのやつは、どれだけのマナー違反を犯すだろう)

 そのことを考えると、気持ちが高ぶった。

(これは『復讐』なんかじゃない。あくまで、みんなが気持ちよく生活していくための

『助言』なんだ)

 高ぶる感情を正当化するように、自分に言い聞かせる。

 薄暗いトイレに、ケータイのバイブ音が響く。ミツオは、すばやくディスプレイを見つめた。

「貴殿の襟元からクリーニング店のものとお見受けいたしますタグが……」



 (了)