2003四国合宿

西進さらば国鉄色気動車四国へ・・・トラブルの家路

西進

 鉄道研究会の合宿は9月1日、2日の両日、四国の高松と松山で行われる。現地集合だ。これに合わせて旅行を計画し、8月31日、出発。

 久々に乗った「あざみ野」行き始発電車の横浜市営地下鉄、乗車駅が始発駅ということで乗客はまばらである。上大岡で京浜急行の特急「泉岳寺」行きに乗り換えた。数年前までは旧1000形の運用であったが、久々のこの日はオールクロスシートの600形がやってきた。乗車率はほぼ50%で、私も席を確保できた。30分ほど走り続けると、列車は終点の手前の品川駅に到着する。東側は1ヶ月後の新幹線開業を控えて高層ビル群が立ち並ぶ新都心へと変化していた。

 JRに乗り換えて改札を通過。山手線のホームに駆け下りるが列車の扉が10m手前で閉まった。直後に東海道線の東京行き到着のアナウンスがあったので東海道線に乗ることにした。

 東京に到着し、ホームの端のほうからノコノコ歩いて新幹線ホームへと向かう。乗車列車は7時3分17番線発の「ひかり113号・広島行き」である。ところが予想外に早く到着し、ホームにはその一つ前の6時33分発の「ひかり141号・岡山行き」が停車していた。なお、通常は16番線からの発車であり、この列車はJR西日本仕様のB編成であった。ちなみに、この列車は新横浜、小田原、名古屋、米原から姫路までの各駅に停車する。私が乗る30分後の列車との岡山到着時刻の差は16分に縮まる。

 先行列車の発車を見送り、売店でサンドイッチと飲料を買い込んで指定された席に近い乗車口に移動した。まもなく私の乗車する「ひかり113号」が入線してきた。編成はJR東海仕様のC50編成だった。かなり新しい車両である。C編成は全54編成を製造するとされているので、100系の最後がまもなくであるのを感じさせた。自分の席について発車のときを待つ・・・。

 7時3分、定刻どおり発車。発車は非常に静かで、気づかないうちに動いているといった感じである。都会のビルの谷間を右に左に縫うように走り、寝台特急「サンライズ出雲・瀬戸」と離合、7時8分、開業間近の新幹線品川駅を通過し、京浜急行の鉄橋を潜り抜け、八ッ山のトンネルを通過すると横須賀線を捕捉、あっという間に追い抜いて直線区間に入り、加速を続ける。美富士橋を通過後、しばらくすると減速を開始。7時13分、多摩川橋梁を通過すると左側に急カーブをきり、曲線を脱して再度加速に入る。二つの日吉トンネルを貫け、大倉山トンネル付近で車内放送が入り、減速。新横浜プリンスホテルを右手に見ながら列車は新横浜駅に停車する。

 7時20分、新横浜発車。次は名古屋まで停まらない。少し天気が怪しいが、列車の運行に支障は無い。7時27分、新幹線で一番短い大和第二トンネルを通過。このあたりから鴨宮までが新幹線開業前に実験線として使われた線区である。40年前に時速200kmを目指した「夢」が駆け抜けたモデル線だが、夢はもはや現実となり日本の大動脈の一部として第二の生涯を歩んでいる。7時29分、相模川橋梁を通過。新横浜を出た直後の怪しげな天気は徐々に回復していった。

 車窓右手には遺跡が発掘されたロビンソン百貨店が見えた。まもなく小田原を通過する。7時36分、小田原通過。このあたりから山岳地帯となり、トンネルが連続する。車窓左手には時折海が見える。小田原付近では晴れていた天気も、また曇りがちになってきた。トンネル内で減速が始まる。まもなく熱海を通過である。熱海駅は地形上、規格外の曲線が2箇所あるため170km/h制限となる。7時41分に通過した。次は三島駅を通過。あまり距離が無いので数分で到達する。7時47分に通過。ここから目に見えて天気が悪くなってきた。静岡県らしく車窓には畑が広がる。しばらく走るとパルプ工場が見えてくる。まもなく新富士を通過する。それにしても暗い。煙突から出た煙が天を覆っている感じだ。7時53分、新富士駅を通過。しばらく走り、工場が見当たらなくなるととたんに晴れてきた。あいにく富士山は良く見えなかったが、長い富士川橋梁を通過。眩しいくらいの日差しが車内に差し込んできた。

 車窓に茶畑が広がる。静岡らしい光景である。8時2分、静岡駅を通過。松尾芭蕉の俳句、「五月雨の空吹き落とせ大井川」の大井川は8時8分の通過だった。東海道本線との離合を繰り返しながら列車は走る。天気はまた下り坂。8時14分、掛川駅通過。8時20分、飯田線で眺めた天竜川を渡り、すぐにアクトタワーが近づき8時22分、急カーブをきりながら浜松駅を通過した。車窓右手に浜名湖を見ながら列車は驀進、長かった静岡県内を抜け、愛知県内に入る。8時32分、豊橋駅を通過。懐かしい飯田線の119系が留置されていた。名古屋に向けて北上する。進行方向右側の座席に座っているので日差しが入るはずなのだが、この時点では曇っていてそれほど強くなかったが、8時43分の三河安城の通過の後はとたんに晴れてきて車内に日差しが差し込んだ。

 減速に入り車内放送が始まる。まもなく名古屋である。さっきまで強かった日差しがとたんになくなり、代わりに怪しげな雲が空を覆い始めた。ここでは皇族列車である「のぞみ43号」に道を譲るのだが、停車中に大粒の雨が降り出し、窓をたくさんの水滴が駆け下りていった。

 「のぞみ43号」の後を追うようにして発車。すぐに雨は上がり、9時10分過ぎに岐阜羽島駅を通過、続いて木曽川、長良川、揖斐川の三つの河川を次々に渡って西進を続ける。米原駅手前では再び晴天となり、9時23分に米原通過。直後にまた雲が立ち込めてきて怪しい天気となった。しかし、すぐに持ち直して再び天候が回復、長い京都までの区間を列車は驀進した。9時45分、京都に到着。1分少々の停車時間ですぐに発車。京阪の町並みを一直線に貫く線路を驀進し、新大阪手前の車窓左側には鳥飼基地が見えた。中には大阪に来たことを実感させられる700系7000番台E編成「ひかりレールスター」や、この日で定期運用を全て離脱する16両編成の100系が数本停車していた。


大阪第一車両所(鳥飼基地)

 新大阪に着いた。乗客の半分はここで降りてしまい、空席が目立つようになった。10時5分、新大阪を発車。しばらく走るとトンネルに突入。山陽新幹線は半分がトンネル内を走るので景色はあまり期待できない・・・。車内放送が入り減速、トンネルを出て新神戸に停車。新神戸を出てすぐにトンネルに入り、そのトンネルを出るとまたトンネルに入り・・・(以下略)、10時27分に西明石を通過、高架脇の線路をを走る223系の新快速をあっという間に抜き去り、加古川を通過して、10時34分に姫路を通過、ここから先は速度制限が解除されて、500系なら時速300kmでの走行が可能となる。10時40分に相生を通過し、ここからは再度トンネルの連続である。

 10時57分岡山に到着し下車、合宿は四国だがここから逆方面の鳥取に向かう。津山線の快速「ことぶき」に乗車したが、車両は塗装が変わっただけのキハ47系。期待外れだった。列車は単線ののどかな風景の中を結構な速度で走っている。車内はマニアのガキンチョが騒ぎまくってうるさかった。外を眺めると、石垣を使った民家を多く見ることだ出来たような気がする。山の中を走る路線なので、セオリー通り川の近くを走っている。特にトラブルもなく、順調に列車は進み、終点の津山に着いた。

 津山で下車して津山城跡に行ってみた。小京都と言われるだけあって、趣深い建物が結構立っていた。通りには数人の河童と蛙がお出迎えをしてくれた。津山城跡の入り口はどこだろう? 探してみると、教会風の建物の脇に入り口があった。桜が多い。春は桜が素晴らしい場所のようだ。暫く周りを歩いた後、入場料を払って中に入った。城跡なので建物はほとんどないが、立派な石垣が残されていた。櫓跡から津山の町を眺めたりした。汗を掻き掻き天守閣跡まで上った。天守閣跡には木が植えられていた。近くの建物は復元工事を行っていた。

 汗だくになりながら城跡を後にして津山駅へ向かった。駅前のそば屋で名物らしいそばを食べていると、そば屋の主人が話しかけてきた。何でも、うちの大学の総長の秘書はここ津山の出身らしい。

 駅で新見から生山までの特急「やくも」の自由席切符と、「武蔵」のオレンジカードを衝動買いした後、単行の気動車キハ120系に乗って次の終点、中国勝山へ向かった。疲れすぎて車内ではほとんどを寝て過ごし、気づいたら終点という有様である。田舎駅らしく、乗客はホームの端から線路を渡って反対側のホームにある改札へ向かう。中には列車の真前を通る人もいて、少し危険である。案の定、駅には「列車の前を渡らないでください。」と掲示されていたほか、「通学にはちゃんと定期券を買いましょう」という掲示まで・・・。

 駅を出てとりあえず前の通りをまっすぐと歩くといきなり人力車と遭遇。やり過ごしてさらにまっすぐ進むと神社があった。少々荒れているので賽銭を放り込んでとおみくじを引いて帰ってきた。その近くにあった幼稚園の壁の絵が怖い。アニメのキャラクターの絵なのだが、色使いが・・・。

 駅に戻ったはいいが、列車まであと1時間近くある。ジュースでも飲みながら駅の待合室で時間を過ごした。きれいな木の机と椅子があるのだが、落書きがすごい。列車は津山始発のキハ120系の単行。新見までこの列車に乗る。前よりに立っていたが、山の中をのんびりと進んでゆく。途中、「刑部(おさかべ)駅」で列車交換を行い、無事に新見に到着した。

 新見から米子に行くのだが、普通列車が1時間以上も無い。というわけで津山駅で購入した切符で特急「やくも」に乗車した。3両編成で自由席は満席なので、車掌室前のデッキに乗車した。問題は・・・「デッキはエアコンが効かない」ということで暑い暑い。

 次の停車駅の生山で下車。また1時間近くも待ち時間がある。また飲み物を片手に荷物の整理などを行い、またしても「さよならキハ58系」のオレンジカードを購入した。その後、単行の気動車が到着。しかも「鬼太郎列車」。おまけに発車してみると乗客は私を含め2人。もう日がとっくに落ちているので無理は無い。

 伯備線の山中を列車は進む。途中の小駅全てに停車するが、人が乗車したり降車したりすることはまったくと言っていいほど無かった。ワンマンにもかかわらず、運転士が運賃箱まで降りてくることもない。乗客の無いまま列車は走る。車内が少し暑かったので窓を開けた。座った場所の床下がちょうどエンジンだったらしく、発車のたびに唸りをあげている。気持ちが良かったので寝てしまい、風が直接体に当たり、目が覚めると体が冷え切っていた。窓を閉め、真っ暗な車窓を眺める。山の中を抜け、伯耆大山駅に到着した。まもなく米子である。

 米子で降り、食事をしようと駅ビルのレストランを探すと、全て閉店していた。まあ、既に9時近くになっているのでしょうがない。ホテルへ行き、荷物を下ろしてコンビニエンスストアへ向かう。さすがに田舎、弁当はほとんど残っていない。とりあえず売っているものを買ってホテルに戻って就寝。

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 さらば国鉄色気動車

 朝、起きてカーテンを開ける。曇っているがもう日が高い時刻。普段ならとっくに起きている時刻だ。荷物をまとめて駅へ向かった。これから乗るのは10月1日ダイヤ改正で引退が決定しているキハ58系で運転される「快速鳥取ライナー」である。国鉄当時からの面影を全てといっていいほど保っている山陰のエースである。定番のキハ58系+キハ28系の2両編成で到着した列車は、やはり国鉄色をまとっていた。写真をしっかり撮って列車に乗り込んだ。デッキから客室に入ろうとしたら中から人が出てきた。なんと高校時代の同級生。日本は狭いと思った瞬間であった。

 米子駅を発車する。国鉄時代と変わらないDMH17形エンジンが唸りをあげて力強く前進してゆく。もはやここでしか聴くことが出来ない貴重な40年前のディーゼルカーの唸りである。それも後1ヶ月ほどで聴けなくなってしまうのである。時代はやはり変わっている。伯耆大山駅と大山口駅に停車し、時折左手に海を見ながら東進し、次の下市駅で長時間の停車である。時刻表を眺めていて、もしやと思い列車から降りて見た。暫くするとDD51が牽引する尾久客車区の寝台車が運用される、東海道を走る唯一の正統派と言われる寝台特急「出雲」がやって来た。もちろん通過である。国鉄色の車両同士が列車交換をする。この光景ももうあまり見られないと思う。

 赤碕駅、浦安駅に停車し、倉吉駅に到着。乗客がどっと入れ替わる。高速道路がほとんど通っていない鳥取県では鉄道は重要な交通手段である。田舎路線とは言え、列車の設定は案外多い。倉吉〜鳥取間に至っては各駅に停車する快速もある。

 右手に広がる山々を見ながら居眠りを繰り返した。気がつけば西鳥取車両支部を通過しまもなく終点の鳥取である。鳥取で降り、私の最後の乗車となったと思われる国鉄キハ58系が回送されるのを見送った。その後、1時間少しの待ち時間で特急「いなば」に乗車するので、列車が来るまで駅前の広場を見てまわった。ちなみにこの日は鳥取名産の二十世紀梨の発送が開始される日だった。

 鳥取駅北口の東には大型のベルや時計などのオブジェが飾られている。南口には「因幡の白兎」に関連した銅像と、前を通ると音楽が鳴り出すものが置かれている。ゆっくり見たかったが雨が降り出したため、南口は断念。売店でみやげ物の物色を行い、購入。自分の昼食となる駅弁を買った。もちろん「元祖かに寿司」である。鳥取のイベントといえば「しゃんしゃん祭り」であるが、それに使われる傘のオブジェが天井からぶら下がっていた。

 特急「いなば」に乗るためにホームへ上がる。カメラを用意して待ち構えると、発車数分前に入線とのこと。待つこと十数分、入ってきた。この列車はキハ58系と同じく10月1日ダイヤ改正で消える運命のキハ181系で運用される。このキハ181系は、直線で最高速度120km/h、30パーミルの勾配を自力で登れるように500馬力エンジンを搭載し、さらにスーパーチャージャーも搭載。全出力をエンジン駆動に使うため、冷却装置は屋根上のラジエーターのみとなっている。最高速度近くではタービンの羽先の速度が音速を超えてしまう脅威のディーゼルカーである。残念ながら電化に追われ、性能を十分に発揮する機会は少なかった。昔はこれから通過する祖父の家の最寄り駅へ向かうときに良く乗ったもので、結構愛着がある。やはり燃費が良く、特急はエンジン2基で900馬力が標準になりつつある時代の波には勝てないらしい。

 鳥取を発車すると因美線に入る。線形が悪く、右に左にグネグネと曲がって山の中へ入ってゆく。郡家駅に停車して若狭鉄道と別れ、千代川を見ながら祖父の実家の最寄り駅を通過。流し雛の里「用瀬」を通過。床屋が切符を売っていると紹介された「因幡社」を通過。ここから本格的に千代川と並走し、車窓左に川を見ながら右に左に曲がること数分、列車は智頭駅に到着する。ここから第三セクターの智頭急行に入る。この路線は高規格なので高速走行が期待できる。

 智頭駅を発車していく。最初はやはり速度を抑えるが、直線区間になると違った。かなりの速度を出している。トンネルの中では独特の音速回転による「キーン」という空気が乖離する音が聞こえた。さすがに性能は只者ではない。智頭急行線内はとばしにとばして走っている。風景の流れ方が先ほどとは全く違っていた。大原駅と佐用駅に停車し、山陽本線上郡駅に停車する。上郡では進行方向が変わるため、到着直後、すかさず椅子の向きを変えた。山陽本線内は線形がいいにもかかわらずまたしても物凄いのろのろ運転。吉井川を右手に見ながらまもなく岡山。

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 四国へ・・・

 岡山から快速マリンライナーに乗って四国へ向かう。列車はこれまた10月1日の改正で消える213系であった。前記の2つの車両に比べて若いが、瀬戸大橋を通るために塩害がひどいらしく、旅客減少も手伝ってテコ入れのための新型車両投入となったとのこと。先頭車はグリーン車、2両目は指定席、その他が自由席である。指定券は持っていなかったので自由席に乗った。

 JR西日本とJR四国の境目に当たる児島駅で降りた。所持している切符の関係上、宇多津で途中下車印を貰わなければならないが、マリンライナーは宇多津を通らないためである。乗換えした普通列車はイメージを一新したJR四国の113系。かなり斬新になっている。特急を待った後、四国へ向けて出発。

 トンネルを抜けるとそこはもう瀬戸大橋。眼下に海が広がる。横浜ベイブリッジのスカイウォークのような感じであるがスケールが全く違う。なんせ世界最大級の橋なのだから。

 右も左も下も海が広がる中、列車はそこそこの速度で走り続ける。四つの橋を渡り終えるとそこはもう四国である。終端の分岐点で宇多津方面と坂出方面に分かれる。宇多津駅で下車し、途中下車印を貰って別の切符で合宿の集合場所、高松を目指す。

 6000系の普通列車に乗り、隣の坂出駅で下車。続いてやってくるマリンライナーに乗車した。岡山では混雑していたが、ここで半分ほど降りてしまうので席は確保できた。高松まではノンストップである。

 高松で集合。まずはじめにうみかぜ81号君を発見。続いて先輩の方々もやって来た。高松琴平電鉄の駅に移動し、琴電に皆で乗り込む。瓦町で降り、ホテルへ向かう。ホテルはシングルルームなので、チェックインしてしまえばあとは誰にも合わない。

 夕食後、私と同様の新入りであるうみかぜ81号君と51号君が集まって讃岐うどんを食べようということになり、同じく新入りの新潟人に電話をしたが、連絡が取れない。しょうがないので3人で歩いて高松駅前へ向かった。うみかぜ81号氏の薦めるうどん屋に入り、私は疲れているのでとろろうどんを頼んだら、とろろ芋の「とろろ」ではなくめかぶの「とろろ」だった。

 うどん屋を出て本屋により、コンビニで新聞を買い込んでホテルに戻る。部屋でデジカメで撮影した写真をパソコンに取り込み、インターネットを楽しんだ。

 次の日、いつものように5時前に目が覚めたので、新聞を読みながらテレビのニュースを見る。暫くして朝食を買いにホテルを出て隣のコンビニに入り、パンを買い込んで部屋に戻って食べた。その後、再度新入り4人と一緒に高松駅に向かった。マニアックな話をしながら十数分、高松駅に到着。

 特急いしづち号に乗って松山へ向かう。発車まで少々時間があるので列車内に荷物を置いたまま撮影を行った。発車時刻に余裕をもって列車に戻り、そのままマニア話に突入。発車してもなお続き、松山まで途切れることは無かった。車内では車内販売が時折通り、切符の回収やゴミの回収なども行っていた。

 あまり車窓を楽しまないまま松山に到着。一旦解散となったので荷物をコインロッカーに預けて駅前の一人でラーメン屋で昼食をとり、市内電車の一日乗車券を買って市電に乗った。そしたら車内にうみかぜ81号君と、51号君を発見。大街道まで一緒に乗車となった。

 大街道で下車し、歩いて松山城のに向かうロープウェイ乗り場へ。あいにく行ったばかりだったが、脇にリフトがあったのでそちらを利用して松山城へと向かった。リフトのちょうど真ん中あたりから天守閣が見えたが、木々に阻まれて良く見ることは出来なかった。

 リフトを降りるとすぐに休憩所があった。色々物色した後、城へ向かった。御影石の石垣が立派にそびえ、城壁には鉄砲を撃つための穴や、急な階段など、防御のための仕組みが至る所にあった。隠れた門などもあり、私も裏にまわるまで全く気づかなかった。天守閣の石垣は最後の砦と言わんばかりに他のものよりも形が揃っていて、きっちりと造られていた。最上階まで上ると松山の町が一望でき、道後温泉や坊ちゃんスタジアムなどが見えた。


国指定重要文化財 松山城

松山の町

 城から降りてきて先ほどの休憩所に行き、カキ氷を買って食べ、土産物を買って再びリフトに乗って松山城を後にした。大街道から再度市電に乗り、道後温泉に向かった。道後温泉には坊ちゃん列車が止まっていて、駅前には足湯があった。集合時刻まであと30分だったので、もう一度市電に乗って松山駅へ向かった。が、渋滞でなかなか先へ進まず、5分ほど遅刻した。

 再び市電に乗ってホテルの最寄である勝山町へ向かった。ホテルに荷物を置いた後、新入り4人組で食事を食べに町へ繰り出した。勝山町から市電に乗って次の大街道で降り、商店街をひたすら歩いて店を探した。歩きすぎて松山市駅まで行ってしまったので、再び市電に乗って大街道へ向かい、商店街をもう一度歩いて串焼きの店に入った。

 食べ放題飲み放題にしたので食べなきゃ損だということで必死に食べる。私は少食なのであまりマイペースで食べていたが、串焼き22本、カレーライス1杯、カレーうどん2杯、ジュースを数杯を詰め込んだ。全員で食べたくしの数を数えてみると128本だった。その後ホテルに戻って高松のときと同様、パソコンにデジカメの画像を取り込んで、インターネットを楽しんだ。

 朝、いつものように4時半に目が覚める。1時間ほど部屋でテレビを見ながら過ごし、5時半ごろに道後温泉に出かけた。朝早すぎたので勝山町から道後温泉まで歩いたが、市電が私を追い抜いていくことは無かった。足湯を通り越して道後温泉本館へ、貸しタオルつき石鹸を購入して朝風呂を楽しんだ。上がった後は汗がダラダラと流れ出し、服を着てもそれは暫く止まらなかった。道後温泉から市電に乗って勝山町へ戻り、ホテルに入るとちょうど朝食の時間であった。一旦部屋に戻り、再度ロビーでセルフサービスの朝食をとる。汗をかなりかいたので、またもやジュースを大量に飲んでしまった。


道後温泉本館

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 トラブルの家路

 部屋に戻り、荷物の整理をしてホテルを出る。勝山町から市電に乗り、松山駅へ向かう。途中、踏み切りで市電が停まり、目の前を伊予鉄道の列車が通過していった。踏み切りに止められる列車も珍しい。松山駅で相生までの自由席特急券を買い、ホームに入ると、ちょうど列車が発車するところだった。あわてて乗り込んで席を確保。松山を後にした。

 車窓左手を眺めながら、時折うたた寝をしたりして列車に揺られていた。気づくと車窓には瀬戸内海が広がっていた。それから暫くすると瀬戸大橋が見え始め、瀬戸大橋を渡った。気づくとまもなく岡山とのこと。


瀬戸内海

 岡山から新幹線に乗るのだが、せっかく来たので撮影を行った。1時間近く経過したころ、時刻表に無い列車のアナウンスが流れたので、8月31日に広島に展示された922系ドクターイエローが東京に戻ってゆくのではないかと期待していたら、本当にやって来た。黄色の車体は一際目立ち、500系とのツーショットを見せた。

 0系のこだまに乗り相生駅へ。荷物をコインロッカーに預けて再び撮影。ここでの目的は、世界最速で走る列車を捕捉すること。500系新幹線は定刻どおり通過していった。しかし、これを見た後は、どの新幹線も遅く見える。自分のカメラは2000分の1秒が最速シャッター速度なのだが、これでも列車は50cm近く動くので多少ぶれてしまう。

 115系の普通列車で姫路へ向かう。私は先頭車に乗ってくつろいでいた。何事もなく時間が過ぎてゆき、まもなく姫路というときに非常ブレーキがかかった。何事かと前方を眺めると、特殊信号発光機が発光していた。車内アナウンスでは「すぐに発車します。」と言っていたが、20分もその場に停車していた。その間に雲行きが一気に悪化し夕立が発生。車掌はマイクのスイッチを入れたまま無線を使うものだから、一時車内でも指令とのやり取りが傍受できた。こちらは停まっているにも関わらず、対向車線は普通列車や特急列車が普通に通過していった。近くに居たオジサマと「変ですね〜。」などと話をしながら時間を過ごした。20分を経過したころ、列車は最徐行で姫路駅に向かった。雷の出迎えが激しかった。昨日一緒に串焼きを食べていた新潟人も同じ列車に乗っていたらしい。

 播但線の発着ホームで新潟人と合流。大雨の写真を撮影していると、偶然にも落雷の瞬間を捉えた。(日記参照)ホームでは「停車中の列車は『はまかぜ4号』・・・」などと放送されていたが、そのような列車は停まっていなかった。暫くして京都色のキハ181系「はまかぜ」が遅れてやって来て、新潟人を乗せて新大阪へと走り去った。ほぼ同時に雨も上がった。


はまかぜ4号

 姫路駅でまたしてもコインロッカーに荷物を預けて新幹線の撮影をしていた。この光景を51号君が列車内から発見したらしい。日が落ちてきていたのでそこそこに切り上げて、列車に乗って本日の宿泊地、「西明石」へ。新快速で立ったまま寝てしまった。この間に、胸ポケットに入れていた切符入れをスラれた。幸い、「のぞみ」の特急券しか入っていなかった。が、結構な痛手だった。

 西明石のホテルでテレビをつけると、東京も夕立が凄いらしい。すると久々にYさんからメールが届く。「いまどの列車が止まってるかわかる?」と。「今兵庫県に居るから詳しくは判らないけど、NEWSによると山手線と京浜東北線が止まってる。」と返した。その後、駅にあるお好み焼き屋で「お好み焼き」でも食べようかと思ったのだが、店が閉店間際でお好み焼きはちょっと無理とのことで、「焼きそば」を注文した。店には芸能人の色紙が何枚かあり、「阿藤快」の文字も見えた。

 ホテルに戻って明日の切符を考える。幸いに予備金を鞄の奥底に封印してあるので、このようなことがあっても対応は可能である。結論として、乗るはずだった「のぞみ」に抜かれないで新横浜に着く「ひかり」を選んだ。悩みすぎて深夜になっていた。

 かなり遅く目が覚めた。食事を取って荷物をまとめ、ホテルを出て在来線で新大阪に向かう。新快速は短い編成で、かなり混雑していた。新大阪で予備金を使って切符を買い、弁当を買って300系F編成の「ひかり号」に乗り込む。すぐに寝てしまい、気づけば名古屋。名古屋を出てから弁当を食べ、ちょうど浜松を過ぎたあたりで食べ終わったのでまた睡眠。気づけば小田原を通過した後の光景が広がっていた。「もう着くのか・・・。」

 新横浜に到着と同時に列車から下車し、ホームを後にした。楽しかった合宿の記憶が心の中に、最後の二日間の疲れが体に刻まれた旅行であった。

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