亜細亜大陸への「ひかり」の時代
「ひかり」という列車愛称を辿ってゆくと、なんと戦前までさかのぼることが出来ます。第二次世界大戦前の省線(国鉄)では、一部の特急列車にしか与えられていなかった。「富士」「櫻」「燕」「鴎」の東海道、山陽路を走る四種の特急だけである。この特急「富士」と接続する急行列車として「ひかり」は生まれた。接続すると言っても、ホームが隣り合わせだったりするわけではない。というのも、ご存知だろうか、日露戦争(1905年)、朝鮮併合(1910年)によって、日本が所有また敷設権を獲得した鉄道を……。そう、まず、日露戦争勝利後、日本はロシアが中国から獲得した南満州鉄道の敷設権を獲得した。1910年、日韓併合条約で朝鮮併合を行い、日本の下関と釜山を経由して南満州鉄道の奉天を結ぶ朝鮮鉄道を建設した。 これらの鉄道と、当時のロシア帝国のシベリア鉄道を横断すれば、ヨーロッパまで到達することが出来る。1912年からは、東京からロンドンまでの切符が発売されていた。
新幹線の原型となる型破りな高速車両もこの頃誕生した。ご存知の方も多いと思うが、南満州鉄道を駆け抜けた特急「あじあ」である。この列車は、「パシナ」と呼ばれる専用の流線型蒸気機関車に牽引された、冷暖房完全装備で、当時としては超豪華な特急だった。新幹線と同じく標準軌を採用した南満州鉄道を走る蒸気機関車「パシナ」は、動輪の直径が2mもあり、最高速度は120km/hにも達した。当時としては並外れた性能をもった蒸気機関車であった。このことは、当時の国語の教科書に13ページに渡って紹介されていたという。
そして、東京からの「富士」の旅客を、南満州鉄道の特急「あじあ」に橋渡しをする使命を受けて、1933年、朝鮮鉄道の釜山〜奉天間に、第一・第二急行「ひかり」が誕生した。
東京 | 下関 | 釜山 | 大邸着 | 京城着 | 平壌着 | 奉天着 | |
第一特急「富士」 | 15:00 | 9:35 | ― | ― | ― | ― | ― |
国鉄関釜連絡船 | ― | 10:30 | 18:00 | ― | ― | ― | ― |
第一急行「ひかり」 | ― | ― | 19:20 | 21:33 | 3:05 | 7:33 | 16:20 |
ファシズムが台頭し、世界大戦が始まった直後の1942年には、「ひかり」は釜山〜ハルピンまで延長されて運転された。しかし、軍事輸送が拡大するにつれ、満鉄の「あじあ」が廃止されるなど、次第に旅客列車を圧迫していった。それでも、最後まで「ひかり」は残った。
日本に上陸した「ひかり」
大陸の「ひかり」が戦争の敗北によって消え去ってから十数年、「ひかり」は再び走り始めた。場所は北九州、博多から小倉を経由して大分と熊本を結ぶ、国鉄初の定期気動車急行列車だった。電車急行よりも早く走り始めたが、使われたキハ55系の設備があまり良くなかったので、すぐに準急に格下げされた。しかしながら、列車としては好評を得ていたので、行先を異にする編成を分割・併合する列車として発展していった。2年後には第一「ひかり」、第二「ひかり」の二本が設定され、複雑な経路で運転された。ややこしいのでここでは省略しますが、この二本の列車は似ているようで似ていないので誤乗が多く、後者はのちに「ひまわり」と改称された。この「ひまわり」は、新幹線博多開業まで残った。
再び一本体制に戻った準急「ひかり」は、キハ58系で運転されるようになると、1962年に再び急行「ひかり」として走り出した。そして2年後、新幹線が開業すると、鹿児島本線のルートと豊肥本線のルートに分割され、前者を「にちりん」、後者を「阿蘇」の原型となる「くさせんり」として運転されるようになった。
新幹線として大躍進した「ひかり」
当初、新幹線には愛称を設定しない予定であった。航空機のように「○○列車」と呼ぶ予定だったのである。しかしながら、国民の間には、今までの特急には愛称があったので、「超特急」を冠する新幹線には当然愛称があるものだという考えが強く、愛称が公募されることとなった。
そして、公募が行われた。集まった葉書はなんと56万通にもなった。東海道本線のビジネス特急「こだま」は9万3000通、後の東北上越新幹線は16万通であるから、いかにたくさんの応募があったかがわかる。そして、応募のあった愛称の中で、一番多かったものが「ひかり」であった。
なぜ「ひかり」が多くの2万票も集めたか。 それは超高速という文字を超光速と書いてみたり、実験段階での取材でも「光のように速い」という形容詞がよく使われていたことがある。これらのことから、この決定に対して、異議は全く無かった。もちろん、東京から遠く離れた九州では急行「ひかり」が走っていたことなど、一般の人々は知る由も無かっただろう。
1964年10月1日、国鉄の最高技術を結集した0系新幹線電車によって、夢の超特急「ひかり」は走りはじめました。建設段階では、国内ではバカ事業と揶揄され、航空機が発達した欧米からは、「衰退する鉄道を建設するなど愚かだ」と切り捨てられたが、いざ走りはじめたらこのような陰口は全く聞かれなくなり、欧米は東アジアの小国で起きた鉄道革命に衝撃を受け、結局のところ鉄道の可能性を再認識せざるを得なくなった。それだけ、この0系が世界に与えた影響は大きかったのです。
「ひかり」は順調に走りつづけ、最初は12両編成、大阪万博にあわせて16両編成、本数も一時間に1本から、最盛期は7本に増えた。JRに移行してからは、航空機と熾烈な争いを強いられたJR西日本が「ウエストひかり」「シャトルひかり」「ファミリーひかり」と、利用者獲得のために国鉄の枠を完全に脱した「ひかり」を作り出した。一方のJR東海では、100系の「ひかり」によるイベントが好評で、0系の「ひかり」を次々と置き換えていった。それに続けと、JR西日本は自社の100系を製造し「グランドひかり」を投入し、300系「のぞみ」の登場まで、「ひかり」の天下は続きました。「のぞみ」の登場後は、速度の遅い「ひかり」は、衰退すると思われましたが、予想に反して0系、100系が早く現役を退くことになったため、300系が「ひかり」に投入されて来ました。
東海道区間では、2003年10月1日のダイヤ改正で「のぞみ」に主役を譲りました。
しかしながら、0系の「ウエストひかり」に代わる新しい700系の「ひかりレールスター」の活躍で、「ひかり」は今でも山陽新幹線の主力列車にに君臨しています。
現在、「ひかり」に使用される車両は、定期列車ではJR東海の300系が主体となっている。
新幹線「こだま」の名前の由来は、「ひかり」の項で述べたが、在来線のビジネス特急「こだま」から来ている。この特急「こだま」は、東京から東海道本線をひた走って大阪までを6時間で結んだ電車特急である。車両は151系が使用されていた。新幹線の愛称公募で10位にランクインし、東海道本線の特急というイメージと、「光速」に対する「音速」のイメージから決定されました。在来線の特急列車を引き継いだ形で、駅間が長い新幹線では各駅に停まります。
「こだま」は、「ひかり」とは異なり、需要の変動が激しかったので、開業時の「ひかり」「こだま」の共通編成から、一等車を1編成1両とした専用編成が登場し、さらにビュッフェ車の数を減らしたり、編成の順番を変えたり、16両に増結したと思えば12両に短縮したり、JRになる前後から廃車予定車両を延命して6両編成を組んだり、中間車を先頭車に改造して6両編成を組んだり、4両編成を組んだり、内装を大幅に変えて車番が複雑化したり、かと思えば内装を大幅に変えたのに車番の変更をしなかったり、12両編成を16両編成に戻したりと、とにかく、0系の「こだま」は複雑な道をたどった。
1999年9月18日に、JR東海の0系が「こだま473号」として最終運転され、これをもってJR東海の「こだま」は、すべて100系に移行された。半年後、山陽路のエースであった「ウエストひかり」が、「ひかりレールスター」の登場によって瞬く間に淘汰されると、その編成をばらして6両に編成した「こだま」が登場した。しかし、ダイヤの過密な東海道では100系の足の遅さ、比較的余裕ののある山陽区間でも、0系の加速の遅さが災いし、両者はあっという間に数が激減している。現在、JR東海の「こだま」は、300系が多くを占め、JR西日本の「こだま」は、0系に比べて加速力の良い100系が短編成化されて塗装変更され、続々投入されている。設備が陳腐化している古い0系は早く廃車となり、「ウエストひかり」の設備を持つ「こだま」が塗装変更されて残っている。
VVVF制御が確立し、電動機の小型化、高速化が実現可能となっていた1992年、JR東海が100系の後継となる高速電車300系新幹線を走らせるにあたり、一般公募の中から有識者による選考によって決定された愛称。「のぞみ」という列車名は、「ひかり」の項で述べた朝鮮鉄道に、南満州鉄道の特急「あじあ」と同時に登場した第七・第八急行列車の愛称であった。1934年のことであった。この前年に「ひかり」が同じ朝鮮鉄道を走っていたので、いまから70年も前に、「ひかり」と「のぞみ」は同じ路線を走っていたことになる。
「のぞみ」は従来の「ひかり」より、格段に速度が速くなった。登場時は新横浜を停車して、名古屋、京都を通過して終点の新大阪に停車するという、奇抜な列車もあったが、今日では全ての列車が名古屋、京都に停車する。
「のぞみ」はその足の速さゆえに、足の遅い0系、100系と同じ線路でダイヤを組むことが難しく、一時間に2本に押さえられている一方、その追撃に逃げ切れない旧車両を次々と置き換えていった。特に、「のぞみ」に抜かれる「ひかり」は、「のぞみ」と同等の速度を出せなければダイヤを維持できないため、いち早く置き換えが始まった。こうして、0系、100系は当初の予測より早く淘汰されていった。さらなる高速化を目指し、世界最速を保持する500系や、居住性と高速性を両立した700系は「ひかり」ではなく「のぞみ」として製造された。「のぞみ」は「ひかり」に代わる次世代の超特急なのである。
2003年10月1日のダイヤ改正により、「のぞみ」は「ひかり」に代わってついに主役の座へと躍り出た。
公募に寄せられた愛称
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