白銀の小さなチャペルが、丸く刈り込んだ庭木の向こうに見える。フレンチ袖の地味なドレスも、瞳子にはただ、その人の魅力を引き立てるだけに思えたのだ。午後になってようやく晴れ間をのぞかせた控えめな空まで、あまりに似つかわしくて。 まるでその場の主役であるかのように。 列席者のあとについて、狭い石段をのぼる。その踊り場にひょっこり、白いマリア像が立っているのに、前の集団から一様に笑いと拍手が起こる。瞳子は知らず、胸が早鳴るのを感じる。抑えられない。 同級生たちと、茶目っ気たっぷりに手をあわせていた顔が振り返り、瞳子の見ているのに気づく。瞳子は立ちすくむ。 いぶかしげに、眉をちょっと寄せた顔が、一転かがやくように笑い、呼びかける声とともに、そして。 差し出されたその手は、手前の人垣を自然と左右に分け、末来をしめす預言者の杖のように、毅然と身をもたげる。 その、懐かしい指先を。 瞳子はとうとう、握ることができなかったのだ。 どうしてキスなんて、したの? 海賊船長のように荒々しく、彼女が助手席に乗り込んでくる。クーラーをかけた車内に吹き込む風は、晴れといっても6月らしく水を含んでしっとりしている。 「いいわ、出して」 「急かさないでよ。ベルト、ちゃんと締めたらどう?」 信号が青になり、動き出した右側の列に、瞳子はゆっくりアクセルを踏んで、車の鼻先を滑り込ませる。 「相変わらず、慎重ね。もう免許をとって一年なんでしょう」 「一年だろうが十年だろうが。慎重であるに越したことはないわ」 「確かにね。ただあなたの場合、普段とギャップがあるなって。全然無鉄砲な人じゃないのよね。高等部の頃から、ずっと思ってたわ」 視界の端で、隣席の彼女は瞳子を見ようともせず、一瞬笑ったようだった。 都心のゆるい下り坂は、久々の好天の日曜に、あちこちから這い出してきた車でいっぱいだ。まるで亀が一列に並んで甲羅干しをしているよう。 標識につられて仰ぎ見たフロントガラスのてっぺんで、建物の屋根に切り取られた空の深淵が、きらりと瞳子を見返した。 「可南子さん」 ![]() 信号待ちの後尾について、瞳子はとうとう同乗者に向き直る。 「何、瞳子さん」 タヌキ寝入りを決め込んでいた可南子は、ちらりと瞳子を見遣って口の端をつりあげた。 「あなたが呼び出したんでしょう。何の用事、どこへ行きたいかさっさと言いなさい。私、タクシーの運転手じゃなくってよ」 「しばらく、このまま走っててよ」 「そんな、いい加減。私だって暇じゃないのよ」 「わかってる。でもちょっと寝たいの。昨日寝てないのよ。次に演るやつのね、稽古で」 「スケジュール管理ができてないだけじゃない」 「返す言葉もございません。でも、管理の出来てる瞳子さんがこうやって出てきてくれたってことは、ある程度時間を私のために割いてくれるってことよね?だったら別に、いいじゃない」 思わず黙り込んだ瞳子を尻目に、可南子は長い手足を伸ばして、あくびをした。七分丈のカーディガンの袖から出た腕が健康的にぱきぽき鳴り、瞳子はまるで、彼女がたった今新しい肉体に脱皮しようとしている瑞々しい生き物のように思う。 瞳子は車をスタートさせる。可南子の唇に乗った薄い色のリップが、ガラスに映り、街路樹に咲いた花であるかのように錯覚させる。 黄金でできたオブジェみたいなビル群を避けて、瞳子は環状道路を南に進路をとった。 「男なんて、最低の生き物なんじゃなかった?」 ひととき静まった隣から、やがてからから笑いが返ってくる。 「そう。確かにそう言ったわ。瞳子さん、誰に聞いたの。祐巳さま?」 とたんに、てんでの方向に霧散していた関心が一致団結して、瞳子に、一番近い記憶を引き出させる。 何か言いかけた唇が、凪の水面のように細まり、かしげた首の上で、だんだん寂しげな目つきが、それでも柔らかく瞳子をとらえていた、あの日。 「お姉さまは、そんなこと自分からほいほい喋る人じゃないわ」 「そうね」 「あの頃のあなた、誰にでもそんなこと言ってたじゃないの」 最初の発言とは裏腹に、可南子は全く眠ろうとしない。瞳子は、覚悟をきめて、彼女の口のふたたび動くのを待つ。 「この前の祐巳さま、とても綺麗だったわね」 けれども、可南子はそう言ったきり、瞳子の予期した話題に近寄ろうとしなかった。 代わりに、仕事の話がはじまる。立場の違いなのか、可南子は窮屈さのない口調で、自分の見聞きしたことを、とれたて新鮮の話題として話す。子供みたいな目つきで、瞳子に「ギョーカイ」の質問をしたりする。 「卒業、延ばしたりするつもりはないの、先輩」 可南子はたまに、そんなふうに瞳子を呼ぶ。実際、彼女が瞳子と近しい世界へ進むことは、誰も想像しなかったろう。 「考えてないわ。大学との両立は、別に難しくないもの」 「でも、けっこう忙しくなってるんじゃない?この前も夜中のトーク番組に出ていたじゃない。ボクサーと小説家と新人女優の組み合わせって、誰が考えたんだって思ったわ」 「あれは、あのときだけよ」 その答えが、どこか言い訳じみていることに、瞳子は気づいている。 初夏の長い夕暮れの、最初の一波が、空の彼方にかかりはじめている。路肩に停まったバスをゆっくりパスして、瞳子は信号にまかせて、三叉路を左に折れる。 「あっ」 いきなり可南子が叫び、横のガラスにはりついた。ゆっくり、何かを追いかけてその頭が動いていく。少し走って、交差点で止まったところで、可南子は窓に片手をついたまま、瞳子を振り返った。 「リリアン」 どうして、長年通った母校へ通じる道を走っていると気づかなかったのか、よくわからない。 コインパーキングでエンジンを切っても、瞳子は未練がましく、バックやサイドのミラーを覗いて車の位置を確認する。先に下りていた可南子が、鏡の世界の真ん中を背中で断ち割っている。携帯電話の画面を見ているようだ。180を越える身長は、昔も今も、彼女にとって武器でしかないと、瞳子は強く思う。 本格的に演技を学びたくて、先輩のすすめもあり他大学へ進んだ瞳子は、リリアン女子大へ上がった可南子が演劇サークルに入ったと聞いたときには耳を疑ったものだ。 自立心から、大学二年のときに受けたあるオーディションをきっかけに、ぽつぽつとテレビや演劇の仕事をはじめていた瞳子の耳に、しばらく会わなかった可南子の名前がふたたび聞こえてくるようになる。学生演劇のコンクールでの、本人いわく「やぶれかぶれの」演技が、名のある映像作家の注目するところとなったという。お嬢様学校の同じリリアン出身ということで、瞳子も直接、彼女について聞かれる機会もあった。 それもまた縁だったのか、この春には、瞳子が主役をつとめた歴史劇で、ベテランの役者が脇を固めるなか、大抜擢された可南子と、瞳子は高等部卒業以来の再会を果たす。彼女は堂々と、隣国の将校の役を演じきった。 それから、メールや電話でやりとりしたり、待ち合わせて食事をしたり、という仲が続いている。 在籍生ということで、悠々と歩く可南子の背について、瞳子も久しぶりに、リリアンの高い校門をくぐった。 「大きな方の体育館、建て替えするんですってね。夏休みには取り壊すって言うじゃないの。あのおんぼろな薔薇の館よりそっちが先だなんて、ちょっと意外だったわ」 リリアンの敷地を行過ぎた車内で、瞳子はただの世間話のつもりでそう切り出したのだが。 「なに、それ。私知らないわ」 とたんに盛り上がった可南子の、「ちょっと記念に見に行きましょう」という剣幕に押され、瞳子はやむなく、駐車できる場所を探したのだった。 「きっぱり、切れたと思う」 日曜ということで、人気のない並木道で、可南子は手に提げたポーチを軽く叩いてみせた。 「さっきの電話?」 「もうとっくに、会わなくなっていたから」 あるいは、合わなく、かもしれない。共演した劇で知り合った男性との付き合いを、もう「結」のついた物語として、車の中で可南子は、さばさばと瞳子に話したのだ。 「で、最低な生き物、だったかしら?」 「案外、最低でもなかったわ」 二人は声をそろえて笑い、あらためてあたりの静けさを知る。高等部の校舎が見えてくると、あたりの空気が変わったように思えた。 「男として生まれてきてもよかったな、ってちょっとだけ思った。お父さんの、今までわからなかった気持ちがちょっとわかった気がする。女の自分がイヤなわけじゃないけれど」 しばらくして、可南子はぽつりと言った。目が合うと瞳子は、舞台の上で自分を見下ろした可南子の顔つきを、まじまじと思い出す。 三回の公演の最後で、可南子は台本にないことをした。抱き合って別れを惜しむ場面で、瞳子の唇に軽く触れるキスを落としたのだ。 観客にもそれとわかったようで、そこここで音もなく沸き起こったどよめきが、舞台の上の瞳子からも、水の波紋のように広がっていくのが見えた。 ------- 瞳子は、薔薇さまにはならなかった。二年の三学期の選挙には出ず、代わりの二人の立候補者のうち、瞳子のクラスメートの、弁論部のエースが信任を勝ち得た。 三学期いっぱい、一緒に薔薇の館へ通いノウハウを教えた。リリアン生には珍しいほどくだけた性格の彼女は、他メンバーと打ち解けるのも早かった。進級して彼女が紅薔薇さまとなり、祐巳が卒業すると同時に、瞳子は館へ立ち入ることをやめた。 それは二年の学園祭の時点で表明していたことで、姉の祐巳が納得していたこともあり、強く反対されることもなかったが、 「乃梨子さん、相当寂しかったみたいよ」 とは後で可南子に聞いたことだ。三年になり「白薔薇さま」をつとめた親友は、瞳子自身には文句らしいことは言わなかった。 「ねえ先輩、やっぱり演劇部との両立は無理だったの」 プール脇を歩きながら、神妙な声色で可南子が聞く。花壇には、額紫陽花が満開だ。 「どうかしら。現に、令さまは両立してたしね」 「それだけ、瞳子さんが本気だったってことよね。他に理由があるんじゃないかって、あの頃は思ったけど」 思わず瞳子は可南子の横顔を見上げる。当時も、きっと彼女には腹の底で見透かされているかもしれないと、瞳子は思っていたのだ。 「演劇部、やってるみたいじゃない」 クラブハウスの前に出ると、可南子は二階の窓を、商店か何かのように指差す。 「顔出してきたら」 「冗談でしょ。もう私のことを覚えてる子なんていないんだから」 「そうなのよね。時間の経つのってほんと早い」 それでも、開け放した窓から、瞳子は演劇部部室の眺めを思い浮かべる。練習そのものは、体育館や教室の空きスペースを使ってやることが多かった。練習が終わると、階段を上がって部室へ行き、汗を拭いたり髪を整えたり、大急ぎで済ませ、他の部員に挨拶をして部屋を出る。鞄をさげて、はやる足どりをおさえて、最短のルートをたどり、中庭へと。 薔薇の館へと。 「こんな小さかったんだ」 渡り廊下の屋根の下で、可南子が独り言のようにつぶやいた。 今日は無人らしい生徒会室は、主のいない魔法の城のように、ずっと置き去りにされた顔色で佇んでいる。 薔薇のつぼみとして手伝いに来なくなっても、瞳子はたまに、この場に立って館を見上げることがあった。遅い夏の夕暮れなど、柔らかく輪郭をとかす影に包まれて、薔薇の館は、まるで灯台のようにきらめいているのだった。 二年の秋ごろ、瞳子の家の事情が生徒たちの間で噂になったことがある。両親が実の親ではないことを、正面から尋ねてきたクラスメートに、瞳子自身が肯定してみせただけなのだが。尾ひれのつきそうな気配に、祐巳や他のメンバーと話し合って、瞳子は一つのアイデアを実行する。学園祭の山百合会の劇、その演目の案のひとつだった『竹取物語』の主役を演じること。 由乃の大胆なアレンジで、それは原型と程遠い活劇となったが、本番はとても盛り上がった。義理の両親に育てられた娘を正面から瞳子が演じたことで、次第に噂もたち消えていった。 その、通しでのリハーサルをはじめてこなした夕方、瞳子は祐巳に、薔薇の館の前で呼び止められる。 「あのね。自信があって言うわけじゃないんだけど」 祐巳は苦笑いをしながら、それでも瞳子は、いつになく緊張する。 「瞳子、どこか投げ遣りに演じてない?どの演技がって具体的なことじゃなくって、なんていうかな……自分がつまらない存在だから、こんな役を演じることなんてなんでもないんだって、そういう間違った度胸でやってない?」 「そんなこと、ありません」 瞳子は即答した。その答えが嘘か本当かは関係なかった。一刻も早く答えないと許されない気がしたのだ。 館の青い影を背にして、祐巳はいつになく大きく見えた。弱弱しく寄るのみだった波が一つになって高まるように、やがて力を得た強い目つきが、瞳子をつらぬいた。 「もし、瞳子がそんなつもりなら、私は許さないよ」 後にも先にも、あれほど姉を怖いと思ったのは、はじめてだった。 ------- 第一体育館は、外から見る限り、瞳子たちの記憶そのままの姿で、工事の足場などはまだどこにもなかった。連絡通路近くの壁に、「工事のお知らせ」と書かれた紙が、ビニール袋につつまれた状態ではりつけてあるだけだった。 がらんとした床面は濡れたように光って、無人の館内は琥珀の結晶のように静まっている。 「いいのかしら。勝手に上がり込んで」 「いいんじゃない?誰かに注意されたら、謝ればいい」 スリッパも履かずに、広々した板目の上を、どんどん歩いていった可南子が、体育館の真ん中あたりで、いきなり仰向けにひっくり返った。 「あっはははは」 何故か笑い出す。 「はしたないわね」 近づいた瞳子は、肩に下げたバッグから、小ぶりな水筒を出す。中の茶をフタに注いで、可南子に差し出した。 「ありがと。準備いいわね」 あ、これ、ダイエットにいいって話題のやつよね。そう言いながら、可南子は湯気のたったカップをひと息に傾ける。 カップを受け取り、瞳子は可南子の頭の傍に座り、自分の分の茶を注いだ。 「懐かしい。学園祭の前なんて、このあたりで私たちがボールを追いかけてて、舞台の上では瞳子さんたちがリハーサルしてたりしたわよね。体育館いっぱいに通るような声で」 その可南子の声が、さえぎるもののない空間にどんどん押し広がっていく。下を向いていても、瞳子には体育館の壁や天井の形が、はっきりわかる気がした。 「一年のときの学園祭、山百合会の舞台、覚えてる?可南子さんが出たやつ」 「もちろんよ。私の鮮烈デビュー」 「あなた、台詞が棒読みもいいところだったじゃない。祥子さまにダメ出しされて、子供みたいにふくれて」 「ええ。嫌で嫌で仕方なかったわ。紅薔薇さまは怖いし、瞳子さんとは仲良くなかったし。花寺の男どもはいるしね」 離婚した可南子の父親と再婚相手、間に生まれた娘の三人が、その学園祭に来ていたらしい。「会ってたよ」としか祐巳は教えてくれなかったが、学園祭以後可南子が「変わった」と噂するクラスメートは多かった。 瞳子にはその実感はなかった。けれど、今と当時では、可南子はあきらかに違っている。ならば、今に続く時間の中で、きっと彼女を大きく切り替えたものがあるのだろうと、現在の瞳子は思う。 「一番嫌だったのは、ちゃんとお芝居できない自分だったけれど」 可南子の言に、瞳子は口に含んだ茶を戻しそうになる。 「え?そうなの?そうだったの?」 「そうよ。あれで、お芝居の楽しさに目覚めたんだから」 「とてもそうは見えなかったわ」 「瞳子さんたちが稽古してるのを見ていて、羨ましかったんだから」 「部活、変わればよかったのに」 「ううん。バスケットが一番大事だったのは、確かだから」 床に垂れた長い髪にうずもれて、のけぞるような姿勢で、可南子は遠くを見ている。彼女の視界には、さかさまになった体育館の舞台が映っているはずだ。 「思い出よね」 その単語は、瞳子にはまるで、生まれてはじめて聞いたもののように思えた。急な心細さが、宵闇のように心に落ちてくる。暗がりでもそれとわかる、暖かな存在に、すがりつきたくなる。 「可南子さん」 しばらくして呼びかけると返事がない。冷めた茶を飲み干して見ると、瞳子の膝に触れた可南子の指先から、力が抜けている。 くの字になった可南子を覗き込むように、瞳子は身をかがめた。かすかな寝息が聞こえる。肘をついて天井を見上げ、唇だけで瞳子はつぶやく。 どうしてキスなんて、したのよ。 肩に手を置いて、その丸みを確かめ、おずおずと髪を触り、土の中を進むように、指を頭の後ろに這わせたところで、相手は、こらえ切れないといった感じで笑い出す。 「瞳子。そんなにびくびくしないでいいのに。らしくないなあ」 立ったままの瞳子の胸元に、椅子に深くかけた祐巳は頬を寄せて、好奇心たっぷりの目で見上げてきた。 蒸し暑い午後、外は雨で、二階の瞳子の部屋からは、漆喰の白さで塗りつぶされた空と、雨を避けて飛ぶ鳥の群れが見えた。 それじゃあと奮い立ち、瞳子は祐巳の椅子の肘掛を痛いほど握って身をかがめる。何度か目を開けて位置を確かめながら、唇を目指した。 祐巳とのはじめてのキスは、感触も何もまったくわからなかった。乗っている車に、いつの間にかこすった跡がついていたときのように、何の手ごたえも残さなかった。 身を起こすと、変わらず見つめる祐巳の瞳があって、瞳子はまるで夢が覚めたように感じる。 「お姉さま、私が好きですか?」 「ん?もちろんだよ」 ロッキングチェアのように、椅子の前足を上げ下ろしして祐巳が笑う。 「もっと好きになってください。でないと、私」 「もっともっとって、瞳子、どこで満足するのかな。それじゃ私、いつか空っぽになっちゃうかもしれない、よ?」 祐巳に手を触れられて、瞳子は白い空を睨みつけて、懸命に涙をこらえた。 それがひと月ほど前のこと。 |