このごろ思うこと パート3

☆白山登山
  (1996年8月)

  福井で津留の講演会を主催して下さっている方が「津留さんと一緒に白山へ登ろう」という企画を立てて下さっているのを知った時、私も白山へ行きたいと強く思いました。
  津留から、2700メートルの山なんだよ。と聞かされても、私にそんな登山が出来るだろうか等とは少しも思わないのです。やりたい事は絶対に出来るという思考しか出てこないのです。

  いただいた資料に「白山とは福井県にある白山だけを指すものではなく、富士山も立山も、モンブランも、アンデスもヒマラヤもいわゆる秀麗な山は古来より『白山=永遠の神への生命の道すじ・清らかな魂』と呼ばれています。その白山ネットワークの中心的存在が『ハクサンキクリヒメ』と呼ばれる神様です。小は人と人との調和をはかることから、大は地球が他の惑星にぶつからないよう正しく軌道を運行しているのも『白山菊理姫』のお働きです。宇宙の創造神ともいわれる中心の都のような栄えたところから、地球に力を与え、創造に力を貸されるため、降り立たれた方です」とありました。

 8月4、5日と白山登山をしたのですが、前日に講演会があるので、3日の朝一番の飛行機で、津留を含め一行4人は福井へ出発しました。
 当日は朝6時に集合し、3台の車に分乗して登山口まで行きました。全部で12人です。8時にはもう登り始めていました。30分位登ったところで私が一番ビリになり、呼吸が苦しくなり、足もがたがたになって、登れるだろうかという不安がきた時、もう一人苦しくなった人が、最後尾をキープして登って下さっていた野村さんに「休ませて」と言いました。野村さんは「夕方までに着けばいいのだからゆっくり登ろう」と言って下さいました。その言葉で、マイペースで登ぼろうと決めました。野村さんから「吸って、吸って、はいて、はいて」と山登りの呼吸法を教えていただき、やってみたのですがどうも私には合いません。そこでブリージングの魚住さんの教えが頭に浮かびました。とにかくたくさん酸素を吸って、細胞の隅々にまで行き渡らせるよう心がけ、呼吸に意識を向けて、深い円環呼吸をしながら登り始めると、だんだん体が楽になってきました。

 天候は薄曇り、時々風が吹き抜けて暑さを和らげ、汗だくになって少し寒くなると太陽が顔をのぞかせ、絶妙なタイミングでサポートしてくれました。その上、今年は高山植物の当たり年だそうで、色とりどりのかわいい花が心をなごませてくれました。
 頂上の事は考えないで、今の瞬間、瞬間を楽しんで、自分の体にピッタリとおさまって、グラウンディングして一歩一歩あるきました。ちょっとでも体から抜け出ると、すぐころびそうになってしまいます。雪解け水の湧き水に喉を潤し、小さい池にはサンショウウオがいたり、小鳥の澄んだ鳴き声にうっとりしたり、行き交う人ごとに「こんにちは」と声をかけあったり、見晴らしの良いところでちょっと立ち止まり、良くここまで登ってきたものだと我ながら感心しながら景色を堪能したり、下って来る人に「もうすぐですよ、がんばってくださいね」と励まされたり、いっぱいサポートがありました。

 頂上の少し下のあたりから、『キクリヒメ』の波動を感じ始めました。清らかで、やさしく、そして愛に満ち、すべてをその懐に包み込むような気持ちのいい波動です。急に元気が出てきました。
 室堂平の白山奥宮にお参りし、そこにリュックをおいて、さらに頂上にある白山奥の院まで登りました。頂上に着いた時にはさすがに大感激でした。八合目あたりにある南竜山荘までの下りは万年雪の上を歩いたり、お池回りコースで色々な池を見たり、お花畑を歩いたり、凍えそうなくらい冷たい川で足を洗ったり、ゆったりと楽しんで歩きました。

 山荘に着いたのは本当に夕方でした。夕食の後は、私達一行で一部屋だったので、お互いにヒーリング大会になってしまいました。「レイキ」の出来る方がたくさんいたのです。8時消灯でしたが、毛布を二枚もかけてぐっすり眠りました。
 今まで私は苦労して登山している人を見て、「どうして人は山に登るのだろう」と不思議に思っていたのですが、ああこの波動を求めているのだと解りました。自覚はしていないのでしょうが、『キクリヒメ』の地球創生のころのピュアな心が喜ぶ波動を求めて、我々の魂の故郷に帰りたいのだと・・・。
 地球が分離の方向へ進んでいた時には表へ出てこなかった『キクリヒメ』のお働きが、全ての統合へと方向転換した今、新たな世界の創生のためにとても大切なのではないでしょうか。

  このごろ、瞬間、瞬間に生きるという生き方が身について心がぶれなくなってきました。5%しか機能していない脳でいくら考えてもしかたがないと全託して、毎日起こってくることにただわくわく、どきどきして遊んでいます。それもゆったりと・・・。これは私が選択した生き方です。



☆セドナ旅行  (1996年10月)


  10月5日から13日まで、再びセドナを訪れました。今回のツアーは、エアーチケットの手配以外はすべて、3月のツアーの時偶然乗った(偶然というのは本当は無いそうで、総て必然だったのでしょう)タクシードライバーのブルースに、現地での行動を総ておまかせしました。

  ブルースはヒーラーですが、もう一つの仕事としてタクシードライバーをしているのです。その彼の働いている会社の社長のデビットから、グランドキャニオンの西のはずれにある、ハヴァスキャニオンへの1泊2日のツアーのお勧めがありました。
  ヒルトップというキャニオンの山の頂上から、ヘリコプターで渓谷に降り、その渓谷に住んでいる、スパイ族の村で彼らの作った昼食をとり、ハヴァスの滝で泳いだり、瞑想したあとで、スパイ族のお祭りの踊りを見せていただき、そこから1時間30分ハイキングをして、川のほとりでキャンプをすると言うすごいものでした。『そこは天国に一番近い場所です』という企画書を見たとき、私は行きたいと思いました。そのあとを読むと、次の日は馬で3時間かけて、グランドキャニオンのなかをヒルトップまで登っていくと書いてありました。
 読んだ瞬間はすごい、まるで西部劇のようだ、と興奮した後、まてまて3時間も馬に乗るなんて無茶だ、主催者として事故でもあると大変だ、という心配がやってきました。デビットに何とかジープでいけないかと問い合わせたところ、ヘリコプターか馬でしかいけない狭い山道だということがわかりました。
 今回、参加者は21名だったのですが、ハヴァスツアーの内容を話しても誰一人として躊躇する人はいませんでした。

  実際、そのツアーはすごい物でした。ガイドが3人つき、ヒルトップからヘリコプターで次々と人と荷物をおろしました。26人分のテントと寝袋と朝食です。その後は、キャンプする場所までスパイ族の馬が荷物を運んでくれました。デビットがスパイ族の人達に愛されているから出来たツアーでした。そしてまさにそこは天国のように美しい場所でした。



  馬での帰り道で、私は自分が心配の波動を出し続けているその証拠を見せつけられる事になりました。ほとんどの人が乗馬は初めてでした。デビットに問い合わせた時、馬に乗ったことが無くても大丈夫だというので、観光地で乗る馬のようにただ歩くだけだと思っていたらとんでもない誤解で、どんどん走り続けるのです。振り落とされないようにするのに精一杯で景色を楽しむ余裕などありませんでした。

 それぞれの馬に個性があり、我先に行きたがって、列に割り込む馬あり、ライバル意識があって割り込ませまいとする馬ありです。悲鳴があがったので後ろを振り向くと娘が馬の下敷きになっていたのです。引き返したくても道は狭く、それだけの技術もないし、ガイドのデビットが行ってくれたので、心配しながらも前に進んで行くしかありませんでした。 

  しばらくして、広い道になったとき、娘の馬がそばを駆け抜けて行ったので「大丈夫?」と声をかけたら、「大丈夫よ」と言ってくれたのでほっとしながらも、恐怖心が去らず、私はどうしてこの現実を見せられたのか内側に問い続けていました。 

 今私に来ている答えは、広大な砂漠のグランドキャニオンを実際に馬で移動してみて、この肉体だけが自分なら、砂の一粒ほどのちっぽけな存在で、自然の驚異の前に無力感しか感じることが出来ません。
 ネイティブの人達は、石にも、木にも、鳥にも、雨にも、滝にも総ての物に宿る精霊と自分たちが同じであると信じ、全ては一つだと知っているから、この過酷な(都会人がそう思うだけですが)自然のなかで生きていけるのだと思います。

  そして、『この瞬間は完璧です。この瞬間より良い瞬間はありません』と頭で理解していただけの私に、本当にそう思えますか? と試されたようです。
 高次元の私は、何があっても、それが例え死であっても、産まれる前に自分でシナリオを書いてきた事なのだから、何の問題もないと解っているのですが、実際に目の当たりに見ると、まだまだ恐怖心に捕らわれてしまう事がわかって良かったと思います。ゆっくり、自分に一番ふさわしい速度で悟ればいいと思っています。

  後で娘に聞いたのですが、狭い道で馬が競い合って、馬が傾いたので娘が先に落ちて、その上に馬が倒れ、馬は必死で起きあがりそうになり、もう一度倒れかかってきたそうです。幸いにふかふかの土の上だったのと、馬のお腹がのしかかって来たので、軽い打撲ですんだのでした。
 娘にその後恐怖心が来て辛くなかったかと聞くと、少し恐かったけれど、馬の足が心配でかわいそうで、レイキでヒーリングしながら乗っていたけれど、どうしても先頭に行きたがる馬で、どんどん走るので足が痛くないかと心配だったそうです。又、「馬どおしの駆け引きがおもしろかった。一番についたのよ」 と聞いて、前々から思っていたとおり、私より大きな魂の人だと感心しました。



☆孫誕生  (1998年2月)

 去年の12月29日初孫が授かりました。孫は可愛いと聞いてはいましたが、こんなにもいとけない命と毎日接することの出来る幸せをかみしめています。

 娘は幼い頃から両親の修羅場を見て育った為、男女関係に臆病で、高校・大学と同性のお友達とばかり遊び、社会人になってさえ、娘の口からボーイフレンドやまして恋人の話が出ることはありませんでした。
 「好きな人が出来たら自分の方から積極的にいかないと、じっと待っているだけでは何も起きないわよ」と言ったことさえありました。そんな娘がはじめて好きになった人は何と妻子のある人でした。

 幸せそうに彼の話をする娘に、心からよかったねと声援を送りました。恋を知った娘はキラキラと輝いて綺麗になっていきました。娘から妻子ある、かなり歳の離れた人とおつき合いを始めたと聞いても、私は彼女のハートチャクラを開いてくれたことに感謝こそすれ、いけないことだとは思いませんでした。子供の頃のつらい体験から、自分の内側に入り、宇宙の真理を探していた娘にとって、同じくらいの年齢の人では満足できなかったのでしょう。

  結婚願望の全くない娘に「せっかく女性を選んでこの生を体験するために来たのだから、結婚はしなくても子供は産んだ方がいいよ」とよく言ってはいたのですが、実際に「妊娠した。一人で産んで育てるつもりだけど可能な限りサポートして欲しい」と頼まれたときは思考が駆け巡り、さすがの私も即座にOKとは言えませんでした。

  「一人で育てるって簡単に言うけど、経済的に何の保証もないのにどうするつもりなの」などと言ってしまいました。長い間の思考のクセで、子供を育てるにはお金がなくてはならないと、まだまだ握っている自分に気づかされました。時間は直線上に続いていると錯覚して、将来の心配をしてしまうようです。
 娘は「必要なお金は必ず来る」信じて疑わないのです。人様にアドバイスするときはそう言っているのに、自分のこととなると思考がマイナスに行きがちです。自分を見つめ直すいい機会になりました。心配より新しい命の誕生への期待の方がふくらみ、この命の誕生と成長へとスイッチが入りました。

  娘は彼の家庭を壊すつもりも、彼に援助してもらうつもりもない、ただ父親に喜んで貰えずに産まれてくるのは可哀想だといって、彼に産むことを承知してもらったようでした。
  会社を辞めて、私の仕事を手伝いながらヒーリングやカウンセリングを学び始めた頃の妊娠だったので、子供を育てながら仕事が出来るように、事務所をオフィス街のビルから一戸建ての家へ移すことを決め、家探しから始めました。ハッキリと選択するとその時から道は開けます。津留も賛成してくれました。

 事務所を世田谷に選んだのは、近くに世田谷バースハウスという自分が選んだお産をサポートしてくれる産院があることも大きな要素でした。
 次の難関が娘の父、私の夫への報告でした。ボーイフレンドがいることさえ知らなかった主人は、娘から「子供が出来たので一人で産んで育てるつもりです。相手の人と結婚するつもりも、同居するつもりもありません」と聞かされ、青天の霹靂でした。

 精神世界のことも、自分が娘の心を傷つけてきたことも全く認識していない主人は、娘に面と向かって抵抗や反抗をされたことがない為、世間的な意味でいい娘だと信じていたのですから・・・。でも時間をかけて話して行くうちに、だんだん認めてくれるようになりました。この事は初めて心の問題を深く話し合ういい機会になりました。

  主人は若いうちから地方議員になり、世間体ばかり気にする権力志向の強い人です。私は自分らしく生きることが許されず、疲れ果て神経症に悩まされ、我慢の限界まできて6年前家を出ました。働いたことがなかった私は、心は死んでいたのに肉体が自分だと信じていたので、お金がないと生きていけないとずっと我慢をしていたのです。人間は限界まで来ると自然に反転するもののようです。今、どん底だと苦しんでいらっしゃる方も、今は必要があってその体験をしているのです。もう少しいくとパッと反転して思いのままに生きられるようになりますから、今、充分にその葛藤を味わいつくして下さい。

 家出した2日後に、近所のレストランの張り紙を見て面接に行った私は、その日から働きだしました。誰も知らない町で働いて、一人で生きるのは本当にワクワクするほど楽しいものでした。
 その後、弟(津留晃一)の仕事を手伝うようになり、精神世界を知ったというわけです。そして自分を縛っていたものが一つ一つ取れていき、軽くなり、最後の鏡の主人のことが「この人もただ自分を表現しているだけなんだ。今、彼にとってこの状態を体験する必要があって、体験しているのだから、何一つ変える必要はないんだ」と心から思えるようになったとき、3年振りに家へ帰ることが出来ました。3年間離婚されなかったという事はこの主人との学びがまだ残っているということでしょう。

 娘はアクティブバースの講習会へ参加したり、マタニティヨーガとマタニティ整体に通ったり、またとないマタニティライフを味わいつくしているようでした。

 陣痛のメカニズムを知ることによって、痛みを嫌うのではなく、子宮が収縮することで赤ちゃんを産みだしてくれているのだと子宮に感謝し、イメジェリーでリラックスしながら陣痛の波に乗り、静かで感動的な水中出産でした。頭が出てきたとき、赤ちゃんが自分で首を2、3回まわし、どの位置で出ようかと決めてから一瞬うちにこの地球に自分の力で出てきてくれた時は感激しました。助産婦さんからも「意志的な静かなお産でしたね」と誉めていただきました。

 世間体を気にする主人が、「このことで票がへるようなら、他で頑張って票をふやすから大丈夫」と言ってくれました。そして孫はおじいちゃんの希望に星になりました。