あるがままに


 大切なことは自分が自分であること、どの瞬間もただ自分のままであり続けることです。自分でいて下さい。自分のままでいて下さい。自分そのままで、ありのままで。ありのままにいることの美しさに気付いて下さい。ありのままでいることの気楽さを知って下さい。ありのままでいることの楽しさを堪能して下さい。

 そこには愛があります。おしつけがましさのない、義務感のない柔らかな愛です。負い目を感じさせない風のごとき無条件の愛となります。そこには悦びがあります。最高に貢献する姿があります。他を生かす形となります。

 私はあなたが善人であるか悪人であるかには興味がありません。あなたが心の中でつぶやくいいわけは、いったい誰のためなのでしょうか? 誰に対して飾ろうとしているのですか? あなたが心の中でつぶやく不平は一体誰が聞いているのでしょう。そして人は何を得るのでしょう。

 それは自己愛ではありません、自身を傷つけるものでしかありません。神はあなた自身を大切にしなさい、労りなさい、愛しなさいといいます。そこであなたはより快適でありたいと思い、快適さを追求します。ところが、この「快適でありたい」という願望は、実はあなたの不快の種そのものとなります。

 あなたが今とても快適な状況に満足しているとしましょう。そこにあなたの快適さを妨げる何者かがやってきたら、あなたはどのように感じるでしょう。その侵入者に対し人は不快感を覚えます。とても神のごとき愛そのものとしてい続ける事は出来ません。実はあなたが、あなたの外的世界に対して、快適さを求めた瞬間(自分が自分以外になろうとした瞬間)、あなたはその身の内に不快の種を宿すのです。快適さと不快さは一枚のコインの表と裏にすぎません。別の何かではないのです。あなたが外的世界に対して何かプラスを求めれば求めるほど、あなたが手に入れたプラスと同じだけのマイナスの要因をその懐深くしまい込んでいるのです。

 自分が自分以外の何かになろうとすればするほど苦しみの種があなたの身の内で成長を始めます。「それじゃこの世は最悪じゃないか」、「それでは人間は幸せにはなれないじゃないか」、「だったら生きている意味がないではないか」と反論が聞こえそうです。でもそれがこの三次元世界そのものなのです。実に多彩で、多面的なパラドックスの世界です。

 そしてそれこそがこの三次元世界の真の意味での存在理由であると知らされました。無限の快適さの世界から、そうでない環境を体験したいと考えた意識体が、その「不快さ」なるものを体験してみたくて、この二極の対立の世界の中へわざわざ入ってきた、というのが真相のようです。

 「不快さ」は根源の無の世界では決して感じる事の出来ない、大きな魂の昂揚感を体感させる要因であるとも言えるのです。黒が白を際だたせ、悪が善を引き立てます。三次元物質世界とはそういうところなのです。英雄には敵役が必要なように・・・。

 あなたは意識の進化を求めて今存在しています。人はこれまで意識の進化を求め続けて転生を繰り返してきました。それを外的社会環境で成功を求め続ける事と勘違いし続けてきました。意識の進化とは、神に還るという事です。神に還るとは、元々自分が神そのものであった事を思い出す事です。元々神であるものが、神以外の何者にもなる事など出来ません。あなたは今現在もその本質は神であり、今後のどの時点においても神以外の何かになる事など出来ません。今そこが、その瞬間がすでに完全です。今はその不自由ささえ感じてみたくて、そこにそうしているだけです。

 「そんなことを言っても信じられない」という人がたくさんいます。でもこれはあなたが信じるか信じないかという問題ではなく、あなたがこの考えを受け入れるか受け入れないかの選択の問題なのです。理性で考えて判断できる問題ではないでしょう。

 そのため人は気の遠くなるような年月をかけ、難行苦行の修行にはげみ続けてきました。そしてもうそろそろ悟りとは修行の果てに手にするものではなく、元々あなたの足下にあったことに気付く時がやってきました。あなたの表面意識がどう考えるにせよ、トータルなあなたにとって、今その状態がベストポジションなのです。そこ以外のどこかへ行こうとしないで下さい。あなた以外の誰かのように成ろうとしないで下さい。

 総ては唯そうなっているだけなのです。唯そのままを感じて下さい。それがあなたが今そこにいる理由だからです。不都合そうに見える状況に意味を与える必要もありません。唯そうであるだけなのです。

 自分を愛しなさい、大切にしなさいというのは、あなたの外部に何か別のプラスを求めなさいという事ではなく、あなたが今どんな環境にいたとしても、今のその瞬間が最高である事を知りなさいという事です。今そこがあなたの意識の進化にとって最高の環境だからです。

 あなたが今、最高の環境にあると満足しているときに、その環境が破壊されたとしたら、そこもまたその瞬間が最高であることを疑わないでいると、「一体何が起きたのだろう」、「この破壊によって私には一体どんな学びが出来るのだろう」と、いつもただ起きてくることをワクワクと楽しめるようになってきます。それがあなたの悟りです。自分を大切にするという事です。自分を最高に労るということです。今あるがままを愛して下さい。そのままの自分を受け入れて下さい。

 もし今あなたが「自分は自分のことを一番大切にしているのに、どうも世の中が今一つうまく行かない」と思っているとしたら、それはきっと自分を大切に思うあまり、自分の意識を小さく小さく閉じこめてしまっているのかも知れません。

  自分が不快感を感じたくないからといって、苦手な人を避けていると、あなたはいつも、また苦手な人に出会うのではないかと怯えながら生き続けることになります。快適でありたいと、不快さを避けてばかりいると、どんどん自分の住む世界が狭くなって、そのうち自分の部屋から出られなくなってしまいます。

 あなたの外界に見える世界は実はあなたの意識が写し出す幻影です。苦手な人と、そうでない人を分けるとは、自分の意識を半分に分けているということです。人は好きな物と嫌いな物を分け、自分の意識を分割し、いい環境と悪い環境を分けまた自分の意識を半分にして、都合のいい出来事と都合の悪い出来事を作りだしてはまたまた自分の意識を更に細かく分けていきます。

 こうしてあなたは自分の意識を自らちっぽけな存在へと駆り立てているのです。自分を愛するとは自分の意識を広げるという事です。自分を大切にしたい人は、人を拒絶するのではなく受け入れていく事です。あなたが今嫌いな人を受け入れるたびにあなたの意識は拡大します。都合の悪い出来事を受け入れた時、あなたの意識が広がります。

 「嫌いな人を好きになれといわれてもそんなの無理だよ」と思っているのも解っています。しかし人が人を嫌いに感じるには分けがあります。それはあなたの意識の中に、こういうことをすることはいけないことであり、許せないといった考え方があるからです。あなたの中のこういう認識が一つ消えるたびに、他を分ける思いが消え、あなたの意識が広がります。

 ある人があなたを非難します。するとあなたは突然その人に敵意を感じます。「あの人は失敬な人だ。俺は悪くない。人の話もろくに聞かずにいきなり人を罵倒するとはなんという無礼な人だ。あんな人は断じて許せない。あんな人がいるからこの世がおかしくなって来るんだ」などと、あなたのエゴのつぶやきは心の中でエスカレートしていきます。あなたのエゴは傍若無人、こんな時は無理やりエゴを黙らせたりせず、思う存分エゴに喋らせてあげて下さい。ただし人のいないところでやることをお奨めします。

  エゴはとても飽きっぽいのです。無理やり理性でブレーキをかけたりせず、好きなだけ発散させてあげると、やがて波が引くようにあなたのエゴの声は小さくなり、おとなしくなってお休みします。その瞬間本物のあなたが意識の表面に上がってきて、「あれ、俺はどうしてこんなにイライラしていたんだ?」と感じます。

 起きた現実を、目覚めた状態で観察してみると「どうやら俺は人から非難されたときにカッとなる性質があるようだな」と自分の内部にある認識に気付きます。こうなればしめたもの。現実の渦に巻き込まれず、常に醒めた状態で観察し続けると「人から非難されたとき俺はなぜ怒りの感情が出るんだ? あいつがいきなり俺を非難したということは、きっと何か俺のことが原因であいつの感情を逆撫でしたに違いない。きっとあいつは自分の感情を癒したくて俺にあんなことを言ったんだ」

 人は怒りや恐れの感情にいるとき、人を愛することが出来ず人を責めてしまいます。それが人の常です。本当はあなたを阻害する人なんかいないのです。もしそのように見えたり感じたとしたら、単にその人は、今、自らを守るために必死で戦っている弱い人でしかありません。 

 
本当に自分のことが解ってくると、世の中に悪い人などいないということが解ってきます。世の中に悪い人がいないということを確信すると、嫌いな人はいなくなります。

 あなたが今そのままで最高であるように、あなたのまわりにいるどの他人も例外なく、今その瞬間が最高なのです。たとえ今怒り狂っているように見える人がいたとしても、その人の進化にとってそれがよいことだから起こっているわけです。

 この世界で真の意味で困っている人など一人もいません。あなたの意識が透明で無色になってくると、比較するための基準が無くなり、人や出来事や環境を比較しなくり、総てをあるがままに受け入れられるようになってきます。まずあなた自身、今あるがままをそのまま抱きとめ、今そのままを心から愛し大切にして下さい。大切な事は自分が自分であること、どの瞬間もただ自分のままであり続けること。それがブッダの言った中道に入るということです。

 自分が自分であるとは、普通であること。あなたにとってどんな特別な状態もないところ、最もいやすいところ、それがありのまま、あなたが最も他に貢献できるポジションです。悟りとは、手の届かない高みにあるわけでなく、総てを手放したときそこにあったことに気付きます。

  大切なことは自分が自分であること。それが究極の悟りです。