駅の栄枯盛衰(駅舎) 


 モータリゼイション時代の到来と共に、ローカル線やローカル私鉄の利用客が減り始めてから久しい。早々にレールをはずして鉄道事業から撤退したところもあるが、乾いたタオルから水を絞り出すような涙ぐましい合理化を進めつつ、レールを守っているところもある。

 合理化と聞いて真っ先に思い浮かぶのは、有人駅の無人化である。列車のワンマン化やポイントの自動制御・集中制御化によって、あちこちの駅から駅員さんの姿が消えていった
 駅員さんがいなくなってしまった駅は、実に寂しい。かつての出札口や手荷物受付窓口は、内側からカーテンがかけられたり、ベニヤ板で塞がれたりしている。もう二度と駅員さんが立つことが無い改札ラッチは取り払われたり、残っていたとしても傾いたりしている。「駅長」という白い文字が書かれた青くて小さなホーロー板が、風に揺られてカタコト鳴っているのを見ると、余計侘びしくなる。

 駅そのものが寂れてくると、それに引きずられるかのように駅前の姿も寂しくなっていく。駅の貨物扱い廃止によって、駅前に鎮座している運送会社の事務所が閉鎖されたり、駅を利用する人が少なくなって、駅前商店や駅前旅館が店じまいして廃屋同然になっていく。真っ昼間だというのに、駅前通りには人影が見えなくなる

 駅舎自体はそのまま残っていても、地元住民の手で手入れされたり他の目的に活用されたり、あるいは地域振興のために立派なものに建て替えられたりするのは幸せな方だ。かつての国鉄日中線熱塩駅のように、たいていは荒れるがままにまかせてお化け屋敷同然の無惨な状態になったり、あるいは無人駅に駅舎は不要とばかりに取り壊され、掘建小屋のようなプレハブや、有蓋貨車の廃車体を再利用したものになったりしている。味気ないことこの上ない

 一概には言えないが、古い駅舎の残存率は、JRや第3セクター鉄道よりもローカル私鉄で高いようだ。おそらくは駅開設当時からのものであろう重厚な駅舎を、こまめに補修しつつ大事に使っているのだろう。新しいけど粗末に使われている駅舎よりは、よっぽどいい。

 ローカル線を旅して、雰囲気の良さそうな古い駅舎を見たら、単に通り過ぎてしまうのはもったいない。できれば途中下車して眺めてみたいものである。
 

 2004.6.6