Degeneracy —退化—


【任務終了、直後】
「何だ——誰かと思ったら、刹那か」
 シャワーの水音の向こうから不意に声がした。冷淡で、人を小馬鹿にしたような響きがはっきりと見える口調には、厭になる程聞き覚えがある。エミリオだ。
 振り返るのも癪にさわる。壁に向かったままで俺は心の耳をふさぎ、シャワーを全開にした。
 そんな俺を見透かしてか、他には誰も居ず、がらんと明るいシャワールームの中、エミリオはわざわざ俺の左隣のブースを選んで入りやがった。
 くす、と鼻が鳴ったか? くそ、忌ま忌ましい。
 ざあ、という新しい水音が、俺の立てる水音に混じる。リズムのない協和音の壁を突き破って、エミリオのでかい独り言がシャワールーム中に響きわたる。
「今日は二人狩ったよ。一人は、まだ目覚めたてだったみたいで——フフ、ろくな技も使えない奴だった。投げ落としてやったら、地面には一面、紅い花が咲いて……それはもう奇麗だった——」
 ある種の感情を削ぎ落としたエミリオの声が、本でも読み上げるように淡々と続いた。
 俺は黙々と身体を磨いた。
 ……お前に自慢されるまでもなく、俺もこの手で三人殺してきた。だが、それを知っても、お前はやはり鼻先で笑うだけだろう? ——くそ、ほんとに忌ま忌ましい。
 ふん。お前になど、言うだけムダだ。解りきっている。
 と、ひょいと背中を叩かれた。
 自分でも不様なほど驚いて振り向くと、まっすぐに俺を見るエミリオの瞳と目が合った。
「どうしたの刹那。今日はずいぶんおとなしいね」
 ブースを仕切る壁からこちらを覗いているエミリオは、首をわずかに右へ傾げて身を壁の断面にもたせかけ、右腕を俺の背へ伸ばしていた。濡れて頬に張りついたエメラルドグリーンの髪から頬へと、音もなく水滴が流れ落ちるのが見えた。
 俺が黙ったままでいると、エミリオは少しだけ腕を引いて白く細い指を軽く丸め、形式的なくすくす笑いと人差し指とを俺に向けた。
「フフッ。……負けたの?」
「そんなわけあるか! 俺だって——、……」
 つい返した声が思いの外尖っていることに俺は気づき、口をつぐんだ。怖がったふうでもなくソッと右腕を引き、壁に添うように肩をすくめたエミリオの口元がキュッと吊り上がる。
「殺してきた。そうだろ? フフ、ずいぶんと血の匂いがするもんな。……別に、僕より多く殺してきたこと、黙ってなくてもいいじゃないか。誉めてやるのに」
「言う必要なんてないからだ」
 ……エミリオは笑みを崩さずに俺を見ている。見抜かれてる。何もかも。
 ああ、なぜこいつには俺の心が判るんだ。エミリオのテレパス感応能力はほとんど無いと聞いたのに。それともあれはウォンの作り話だったのか?
 エミリオは俺から目を離さず、壁にゆっくりと円を描くように指を這わせながら低い声で言った。
「全部顔に出てるよ、刹那は。おもしろいくらいだ。ねえ刹那——
 そんなに僕のことが……嫌い?」
 嫌い——誰が? 誰を?
 ……水の音が……すうっと遠くなったような気がした。
『嫌い?』 挑発の言葉を無造作に投げてくるエミリオに、俺は一瞬反応をためらった。そうだ。ここで肯定するのも否定するのも、それを通り越して怒ってしまうのもこいつの計算の裡なんだ。
 俺は後ろ手でシャワーを止めた。
「そんなことを気にするお前でもないだろう?」
 できるだけ素っ気なく俺は言ってみせた。答えをはっきり見せない……これは、まるっきり逃げの言葉だ。判ってる。
 そして、解られてる。
 エミリオは笑みを引っ込め、芝居がかった仕草で手を振った。
「はん、そう言うと思った! ……まあいいや。もう出るの?」
「出る」
「ふうん。——あとで君の部屋に行くよ。そんなに遅くならないと思うけど」
「……好きにしろ」
 エミリオとのやり取りはいつも儀式のようだ。無機質なアメジストの瞳は、いつも俺を透明にする。こいつの瞳の前では、俺の何もかもが隠しようのない石塊に変わってしまう。
 なぜだ。
「じゃ、あとでね」
 ひらひらと踊る手が壁の向こうに消えたのを見てから、俺はロッカールームへ向かった。

【堕天使の独白】

 刹那をからかい、身体に染み付いた血の匂いが鼻の奥で麻痺したころ、僕はようやく一息つく気分になった。
 血の華を見るのは存外気分がいいことに気づいたのはいつだっただろう。ウォンが教えてくれたんだっけかな。まあいいか、そんなことは。
 シャワーを止め、身体を拭きながらロッカールームに上がる。いつもながら、ロッカールームはかすかに汗くさい。
 ルームの片隅にある、クリーニング上がりの制服の山をあさったけど、僕のはなかった。当然だ。昨日も一昨日も汚してしまったんだから。さすがに毎日じゃ着替えのクリーニングも追いつかない。
「もう少し奇麗な戦い方もできるかもしれないけどね」
 いやに生白い両手を見ながら、誰にともなく呟いてみる。……だけど、あの華を見ずに終わるのはとても惜しいんだ。
 仕方ない。誰かのを借りるか。適当に山を崩し、合いそうなサイズの服を引っ張り出す。上級士官のもののようだけど、他のを探すのも面倒だからこれでいいことにしよう。
 着てみたら、思ったより大きかった。ジャケットの半袖はこのままでいいとして、ズボンは裾を折り返さないと踏んでしまいそうだし、ジャケットの端をズボンに突っ込んでベルトを締めたら、だいぶしわが入ってしまう。
 まあいいか。
 ……この恰好で行ったら、刹那の奴、どんな顔をするかな。いくつかの表情を思い浮かべると、自然に笑いが込み上げてきた。
 あいつ、僕より十以上も年上なのに、ちっともポーカーフェイスができやしない。全部表情(カオ)に出てるよって教えてやっても、解ってんだかないんだか。
 どうせまたあからさまにイヤな顔して、やっぱり来たか、みたいなことを言って——僕が全部解ってることを知ってて、でも裏をかいてやろうとか思っていたりするんだよ。
 どうせみんな死ぬのにさ。この先が長かろうと短かろうと、どうせいつかは。
 なら、楽しい方がいいじゃん。
 僕は楽しいよ、刹那。
 君はきっと楽しくないんだね。

【交錯】
 こういう時のエミリオは、計ったようにきっちり俺の前に現れる。そう、俺が焦れて、いいかげん待ちくたびれて、眠ろうかと思う頃合いだ。
 軍の宿舎にしては設備が整っているらしい俺の部屋は、それでも殺風景だ。ベッドと、クローゼットと、パソコンが置かれたデスクと、鉄格子がはまった窓があるだけ。鉄格子は、外部からの干渉を避けるためとか何とか言われたが、俺には、俺を閉じ込めるためのもののように思えてならない。(エミリオは『だってそうでしょ?』と平然と返しやがった)
 一人部屋をあてがってくれたウォンには感謝するが、この格子ばかりはいただけないぜ。
 ……こんな下らないことばかり茫っと考えていたのは、もちろん、他にすることがなかったからだ。
 俺は時間に縛られた作戦を与えられてるわけじゃないから、気の向くままにサイキッカー共を狩っていられるが、それも休息あってのことだ。今日は、何の日だか忘れたが、妙に街が浮かれて騒いでいやがった。それもそれでうっとうしく、もう外へ出る気も起きやしない。
 そろそろ眠くなってきた……ような気がする。
(待ってた、と思われたくないな)
 明かりをつけたまま、俺はベッドに寝転んだ。
 頭の下に組んだ腕を敷き、天井を見上げる。見慣れた、単純なデザインの照明が明るく室内を照らしている。空調が完璧に効いた室内はTシャツ一枚でも充分暖かく、年が変わるのも近いこの季節を切り落としたように忘れさせてくれる。
 人を殺したあとの、奇妙な血の昂ぶりさえも消し去れる。
 俺はスリッパを足先だけで払い飛ばした。
「だらしないなあ」
 と、笑いを含んだ声が唐突に聞こえてきた。
「スリッパくらい、きちんと脱いでからベッドに入りなよ」
 顔だけ上げて声のした方を見る。と、ドア口に片腕を預け、もう片方の手を腰に当てたエミリオがこちらを見て笑っていた。
 いつの間に来たのか、ドアを開ける気配さえ感じられなかった。そんなにぼうっとしていた覚えはないんだが……。
 だが、動揺などしてないぞ、俺は。
「……説教しに来るつもりだったのか、貴様」
「さてね」
 声を低めてドアを閉めたエミリオは、楽しげに口元を歪めて腕を広げてみせた。
 ——服が違う。上級士官用の上等なやつだ。サイズが合っていず、半袖は肘までかぶっていて、だぶつく上着の裾をベルトで押さえてある。月並みな言い方だが、まるで服が歩いているようだ。
 ほんと、こいつ……体の線が細い。俺はぼんやりとそんなことを思った。
 エミリオは形の良い笑いを崩さないまま室内に大股で入ってきて、ベッドの足元の方へ腰を下ろした。そして両腕をつき、身を乗り出して俺を見つめた。
「どうしたの。口が半分開いてるよ」
 そんなはずはないが、俺は形式的に腕で唇を隠してみせる。エミリオの表情が、さらに楽しげなものへと変わる。性格の悪い笑いだ。
 俺は腕を戻しながら言った。
「お前がおかしな恰好をしているからだ」
「ああ、やっぱり変? 僕の服がまだ返ってきてなかったから、そこらにあるのを適当に着ちゃったんだけど」
「人のを取るくらいなら裸でいろ」
「またあ。それじゃ、僕、シャワールームからここまで、裸で来なきゃいけないじゃないか」
「何で俺の部屋なんだ。自分の部屋に帰れば、私服ぐらいあるだろう」
「ないよ。刹那も知ってるだろ。僕の私物は無いってことぐらい。……だから君の服を貸せよ、刹那」
「どうしてそうなる?」
「こんな恰好で廊下をうろうろできないからさ。決死の覚悟で走ってきたんだよ?」
「フン、断る。俺の物は俺の物だ。制服くらい自分で管理しておけ」
「けち」
 エミリオは拗ねたように身を引き、肩をすくめて顎を襟の中に沈めた。
 そこからじっと上目遣いにこっちを見るエミリオの表情は、妙に俺の心へ入り込んできた。感情が欠け落ちたはずの瞳の奥に宿る不思議な熱情の刃が、俺の自制を少しずつ削り取っていく感覚がする。
 ……判ってるんだ、こいつ。自分が他人の目にどう映ってるのか。一番欲しいものを手に入れるにはどうすればいいのか。
 その策略に乗るほど俺は人が好くない。大体、走ってきたにしちゃ息がちっとも乱れてない奴の言葉なんて、丸々信じるほうがばかだ。
 解ってるさ、それぐらい……!
「ところで何しに来たんだ。服が欲しいならウォンの所へ行った方が早いだろ」
「……いいの? 僕が今晩、ウォンのベッドで過ごしても」
「——どういう意味だ」
「そういう意味だよ」
 エミリオは妙に抑えた声で言うと口元だけで薄く笑い、儚げな表情を作って俺を見た。……そうだ。エミリオとウォンも、全く関係がないわけじゃない。それは互いに、いや、ウォンまで含めて俺たち三人が知っている事実。
 ……つまり、また挑発されたんだ、俺は。
 エミリオは、俺がいいと言うわけがないことを知ってて、こんなことを言う。
(どうして俺は、こんな奴に振り回されてるんだ?)
「なら行け。俺はもう眠い」
「冷たいな。今日も退屈な夜だろうから、せっかく訪ねてきてやったのに——」
「大きなお世話だ」
 拗ねたポーズのまま低く呟くエミリオから、俺は顔を背けた。
 だが、徐々に艶を増していくエミリオの声の意味に気づいている俺は……エミリオの存在を拒みきれなくなってきている。
 耳の中の鼓動が大きく、熱い。一度騒いだ血は、そう簡単に鎮まってはくれない。鎮める手段は数えるほどしかない。
 ああ、いつもそうだ。解ってる。
 そしてエミリオも、絶対にこの感覚を知っている。だから俺を求めてくるんだ、いつも。
『奴ダッテ人ヲ殺シテキタンダカラ。』
(——ウォンの所へでもどこへでも行ってくれ。どこでもいいから、とにかく早くここから出て行ってくれ)
 俺は微かにそう望んだ。でもそれを口にすることができない。口が動かない。
 エミリオの言葉は不快な部分を逆なでするから、いちいち気に障る。
 エミリオの存在は不愉快。いつもそう思っているのに追い出すことができない。そんな自分まで厭になって、更に何もかも厭になっていくのが厭だ。
(どうして俺は、こんな奴に、いつも)
 と——俺の左の腿に冷たい手が触れた。
「やっぱり嫌いなんだね、僕のこと」
 俺が目を戻すと、エミリオは視線を外して俺の腿に頬を寄せてきた。
 ……先に火を点けるのは大抵エミリオだ。
 ある時は俺をさらりとかわし、ある時は俺の先回りをするこの驕慢な堕天使の手によって、祭壇の蝋燭に炎が灯される。
 何も言わずに俺も目をそらす。だが、見てないと更に感覚は鋭くなる。冷たいままのエミリオの右手が俺の肌をためらいがちに撫でているのが、はっきりと判ってしまう。
「……そうさ、僕だってだいきらいだよ、刹那のことなんか」
 熱い吐息に包まれた言葉が、這い回る右手の上に重なる。……そして俺は外側からゆっくりと崩されてゆく。
 気がつくと俺はそれを不快だと思わなくなっている。
『否、本当ハ、最初カラ不快ナンカジャナカッタ。』
 呪文のように積み重なるエミリオの言葉は、裏返された本心なんだ。……嫌い? きらい? キライ? 「そんなことはない、好きだ」などと言うはずがないことを知っているくせに。
 好きかと訊いて否定されるのが怖くて、わざと逆に訊ねてくる。期待なんかしてない、と自分に言い聞かせて……。
 期待なんて、裏切られるより、最初から持っていない方がラクだからな。
 ああ、とっても子どもっぽい発想だよ、エミリオ。とてもお前らしい。
「俺も……嫌いさ、お前なんか」
 淡々と呟いて手を伸ばすと、エミリオは苦しそうに笑って指に触れてきた。

【逡巡】

 どうして、こいつでなきゃいけないんだろう。僕はこんな奴、どうでもいいと思っているはずなのに。
 ただ、からかうとおもしろいし、適当に僕を悦ばせてくれるから遊んでやってるだけ、のはずなのに。……そうだよ、気持ち良さならウォンの方が上なんだ。
 それなのにどうして、僕はこいつのところへ来てしまうんだろう。
 年上だから、とか何とか言って、何かあればすぐ僕をへこまそうとするこのノーテンキな俄(にわか)サイキッカーを、どうして僕は——
 殺さないんだろう……。

【闇に沈む】
 大事そうに俺の指を包み込んだエミリオは、かすかに震える唇で手の甲にそっと口づけた。
 次いで、唇の動きを追った舌先が、手首へと伝い上がって来ようとする。
 俺はその先を許さず、手を返し、頬から滑らせてエミリオの髪に触れた。指の間へするりとこぼれ落ちるエメラルドグリーンの流れの中に、潤んだアメジストの瞳が伏せられ、くん、と小さく声が漏れた。
 たまらず俺は両手をエミリオの頭に回して胸元へ引き寄せた。細くて軽い身体は、大した抵抗もなく俺の上にかぶさってきた。
「刹那の根性悪」
 俺の胸に頬をつけ、エミリオは囁いた。
「貴様の方こそ」
 碧の髪に顔を寄せながら俺も呟く。
 洗いたての髪は、シャンプーの匂いと、それでも消せないわずかな汗の匂いがした。
 と、俺の手を振り払ってエミリオが顔を上げた。
 俺の両脇に腕を突っ張って身を持ち上げ、挑むように俺の目を覗き込んでくる。垂れた髪に縁取られた頬がうっすらと赤い。
 エミリオは熱っぽい瞳を隠そうともせず、媚びるような笑いを刻んで言った。
「刹那。君さ、色々言ってはいるけど、ほんとは僕が欲しくて仕方ないんだろ?」
「ばか言うな。なんでお前のような奴……」
 続きは唇で遮られた。
 鮮やかな口づけは互いの奥深くまで入り込むほど激しいものだった。俺たちは夢中で舌をからませ合い、快楽のいとぐちを掘り起こした。
 柔らかくしなる舌が、俺を搦め取ってゆく。息は荒く、耳につく程大きくなっている。くん、と鳴いているような声がまたエミリオから漏れて、それがなおさら俺を煽る。
 Tシャツの裾からエミリオの手が入り込んで来た。俺はエミリオのズボンから容赦なくジャケットを引き抜き、背に手を回した。
 先に上着を脱ぎ捨てたのはエミリオだった。
 俺の上にまたがったエミリオの、あらわになった白い肌に手を当てる。エミリオは自分から胸へと手を導いた。まだ未熟な突起だが、女のように『感じる』という。
「んっ……」
 指先でこすってやると、甘いため息が漏れた。だが、これだけでは足りないことは解ってる。実際エミリオは、片手を胸に残し、もう片方の手を下腹へ導こうとしている。
「まだだ」
 俺は身を起こしてエミリオの手を握り返し、主導権を奪い取った。エミリオは身をすくめ、俺の手に手を重ねてきた。
「そんな……っ」
「まだズボンが残ってるだろ。上からでいいのか」
「……よくない」
 うなだれ、小さな子どものように素直に首を横に振ったエミリオは、小刻みに震える手をベルトにかけた。
 ファスナーを降ろしきったところで俺が手を伸ばすと、エミリオは俺の首に手を回してきた。脱がせてくれ、ということか。
「ガキみたいだぜ」
 耳元に吹きかけると、エミリオの身体がびくりと撥ねた。
「……うるさいな……!」
「フフ」
 強がりも心地よく受け取りながら、俺はズボンをそっと引き下げてやった。臑毛も満足に生えていないすらりとした足が、俺の前に投げ出された。
 その中心に、深い色の淡い繁みに囲まれた根がそそり立っている。
 俺の前へ無造作に足を広げたエミリオは、顔をわずかに傾け、舌で唇を舐めながら淫猥な微笑みを浮かべた。ああ、こんな表情、普段じゃ絶対見られない。
「ほら刹那……僕、もうこんなだ。イカせてみろよ……!」
「言葉が違うだろ……イカせてください、と言え」
 目の前に置かれた膝を撫でてやりながら、俺も俺自身の昂ぶりを痛いほど感じていた。
 半開きの愛らしい口を汚してやりたい。いや、それ以上に、もっと奥深くまで汚してやりたい!
 俺もTシャツとブリーフを脱ぎ捨てた。
 俺が膝立ちになると、エミリオは足を広げたままでゆっくりと仰向けに身体を沈めた。そして、股を隠すように片膝を立て、手で覆ってみせた。
「してもいいけど……僕をイカせてからだよ……」
 ふざけたことを。
「何を言う。ここはこんなに俺を欲しがってるのに」
 俺はエミリオの手をかわし、後ろの穴へ中指を突き入れた。
「——っう!」
 乾いたままの指はさすがに刺激が強すぎたらしい。拒絶を示してエミリオの身体が大きく撥ねた。
「っつ……く、やめ……! せ、つな……痛……い……ッ!」
「フン。充分緩んでるじゃないか」
「う……あっ……ああっ!」
 エミリオは身体を丸め、俺の腕を握り締めるときつく爪を立ててきた。だが、抜いてなどやらない。
 気にせず俺は指を動かし続けた。
 大きく脈打ち、熱に満たされた中をこすり、時に揺さぶってやると、動きに合わせてエミリオが喘ぎながら苦しげに首を振った。……その仕草は、完全な拒絶ではないことを俺は知っている。爪は変わらず俺の腕に刺さったままだが、腰の動きが変わってきているからだ。自分から求めるように。
 俺は指を止めずにエミリオの耳へ口を寄せ、息を吹きかけるように囁きかけた。
「欲しがってるのはお前の方だ。俺の指でさえ離そうとしない」
「……ちがう、よ……」
「何が違う?」
 俺は優しく優しく話しかけた。俺の指を咥え込み、ぶるぶると震えるエミリオの身体がいとおしい。突っ込んだ指に、爪が食い込む腕に、エミリオの震えが伝わってくる。
 こらえきれない快楽が溢れてる。
 エミリオは、涙の浮かんだ瞳を俺に向け、食いしばった歯の間から言った。
「ちが……よ、せつな。ぼくが、ほしいのは……君の、身体だ……。きみなんかじゃ……な、い」
「ふ——そうか。それなら仕方ない」
 俺はエミリオから手を引き抜いた。
「あ——っ、く、は……ぁ……」
 エミリオはことさら派手な吐息を宙に吐き出し、身体の力を抜いた。俺は背を伸ばして座り直し、今さっきまでエミリオが爪を立てていた腕を伸ばし、髪をつかんで強引に引き寄せた。
「痛っ!」
「俺のこれが欲しいんだろ。このまま突っ込まれたくなけりゃ、自分で濡らしてみろ」
 掠れる声で言いながら、足の間に倒れ込んだエミリオの頬へ俺自身を押し当てる。柔らかな肌に先がこすれて……不快げに目を閉じて顔を歪めるエミリオがどうにもいとおしくて……俺は、それだけでイってしまいそうな気になる。
 エミリオは厭そうな表情を崩さず、俺を咥えた。俺が好きな表情を解っていて、作っている。ふ、そうだ。それでいい。
 寄せられた眉の下で閉じた睫が震えてる。逆に口は大きく開かれ、俺を限界まで受け入れてる。
 舌を使って丹念に舐められると、喉の奥から声がこぼれた。思わずエミリオの頭を上から押さえつけていた。
「せつな……」
 その動きを察したエミリオが薄く目を開き、唇の端だけに笑みを刻んで、くぐもった声で言った。
「もう……イっちゃう? でも……これじゃ僕、全然……楽しめないんじゃないの……?」
「やかましい……!」
 俺はエミリオから俺を引き抜いた。光の糸が一瞬俺とエミリオの口とをつないだ。
 エミリオが口の端に垂れた雫を拭うより早く押し倒し、再び唇を重ねた。エミリオは俺の首に腕を回し、しっかりと抱え込んだ。俺も、エミリオの顔を手で挟み込んだ。
 それは、最初のよりずっと濃密なキスになった。涎が溢れるのも気にせず、俺たちは互いの口を犯し合った。いや、口だけでなく、顔ぜんたいを舐め合った。
 もう自分の息遣いしか聞こえない。自分の鼓動しか聞こえない。
 エミリオの腰が活発に動いている。俺を求めてか?
 それとも、ただ快楽だけを求めて?
(どちらでもいい)
 俺も、お前の身体さえあれば満足だ。
 俺はエミリオの片足を肩に担ぎ、開いた股の間に身体を割り込ませた。
「せつ……な、ぁ……」
 潤んだ瞳で俺を見、手を差し伸べる淫らな天使。
 俺はその白い手の甲に口づけ、敬虔な信者のような面で聖地に踏み込む。
「いくぞ……」
「あ——ああ、は、あ……っ!」
 俺が入っていくのに合わせて、エミリオは身をよじった。濡れているのは俺だけだからな。多少きついのは仕方ない。
 だが、受け入れるのに慣れているエミリオは、決して苦痛ではない喘ぎ声を上げて俺を締めつけてくる。力の抜き方もいい感じだ、エミリオ。
 熱い。俺も、お前も。
「いいぞ……お前の、なか……!」
「う……っ、は、あうっ! ……せつな……っ!」
 俺の動きに合わせてエミリオの身体が撥ねる。悩ましげに揺れる髪からは、はっきりとした汗の匂いが立ち上ってくる。熱い肉壁を俺がこする度にエミリオの口から歓喜の叫びが放たれる。
 キモチいい。俺を咥えて離さないエミリオが。
「あっ……もっと……もっとぉ……!」
 応えてやるよ。だって、俺もキモチいい。
(こんなふうになっても、まだ心は遠い。いや、遠いからこそ、繋がっていられるのかもしれない。
『相手がひざまずき、泣いて許しを乞うまで。そう、どちらかが屈するまで』
 そんなことを考えたこともあったが……
 先に溺れたのは、俺)

「あ……ん、んう……イ、イカせて……せつなぁ」
「イッちまえ。お前なんか、とっとと」
「ああ……」
 まるで泣いているような声。細い腰を懸命に使い、一番感じる場所を必死に求めている。俺は俺で、自分の快楽を追うのに精一杯だ。
 このままへし折ることだってできそうな繊細な身体が、俺の動きに合わせて激しく暴れている。身をよじり、指を咥え、シーツを握り締め——それでも俺を離さない。
 と、エミリオのすすり泣きがひときわ高くなり、動きが急に早くなった。
「ふ……ううん……僕……もう……ああ、あ……」
 俺だって限界に近い。いや、限界だ……!
 俺はそっとエミリオに触れた。はあ、と大きな声が漏れ、びくんと身体が撥ねた。
「エミリオ……」
「せつなぁ……」
 
 俺がエミリオの奥で果てるのと、エミリオが俺の手の中に放つのとは、ほぼ同時だった。

【孤独の天使】

 僕たちの身体を包んでいた熱情は、急激に冷めていった。刹那は最後まで出し切るとあとは一気に引き抜き、大きく息を吐きながら僕の脇に倒れ込んだ。
 僕は行為の余韻に縛られ、しばらく何も考えられなかった。腹の奥が熱くてたまらなかった。今日、人を殺してきたということさえ忘れていた。
 それから、あと一回ぐらいは大丈夫かもしれない、なんて思った。
 でも、汗に濡れた身体を自分でさすってみて、その思いが間違いだということに気づいた。
 いや……あともう一回ぐらい、したいな。中で出されるのはやだけど。
 体をひねって横を見ると、仰向けの刹那がぼんやりと天井を見上げていた。長い前髪が額に幾筋か張りついていた。
 その筋をほぐすようにそっと触れながら僕は言った。
「もう……寝ちゃう?」
「少なくとも、子どもは寝る時間だな」
 そっけなく言った刹那は僕の手を払い、身を軽く起こした。ベッドサイドからタバコを取り、百円ライターで火を点ける。
 ふう、とため息のように紫煙が吐き出された。
「刹那。お前の態度は子どもに対するものじゃないよ」
 僕はどうにもその態度が着に食わず、ぱっと起き上がってタバコを横からかっさらってやった。むっ、と顔をしかめる刹那の目の前で僕もタバコを一口吸い、煙を吐きかけてやる。
「オトナの都合ばっかり押しつけられるのはごめんだ」
「そういうお前こそ自分の都合ばっかり」
 刹那は煙にも動じず、にやりと笑った。こういう時の刹那は妙に寛大で、余計に気に障る。ああ、気に障るったら。
 僕がタバコをくわえたままふてくされていると、刹那が腕を伸ばしてきた。僕は頭を振ってそれを避けようとした。
 刹那が求めたのは、でも、タバコじゃなくて僕の髪だった。頬に軽く甲を添わせながら、ゆっくりとかきあげてくる。
 さら、という髪の流れる音が耳元で大きく響く。僕は身体がびくっと震えるのを抑えられなかった。
 君が欲しいよ……刹那。たとえ今だけだとしても、僕は君が欲しい。
(心なんて、いらないよ……)
 その言葉は、虚勢かもしれないけれど。

【聖なる夜、儚い夜】
「……そういえば」
 エミリオの髪を撫でている時、俺は突然思い出した。
「今日は何の日だった?」
「何の日……? ああ——今日、ね」
 エミリオは、まだ長いタバコの先を灰皿に押しつけながらうっすらと笑った。
「クリスマス・イヴ。街はだいぶ浮かれていたね」
 そう、思い出した。今宵は世界中で聖なる鐘が鳴り響く夜。
 ……でもそれが今の僕たちとどんな関係が?
 エミリオの目はそう言っている。ああ、解ってる。俺たちは、神から一番遠いところにいるんだったよ。
 罪なる聖夜に、祝福あれ。世の全てよ、朽ち果てるがいい。
 背徳の存在に、恵みあれ。世の全てに、絶望よ満ちるがいい。
 ……と、エミリオが俺に顔を寄せて囁いてきた。
「刹那は、今でもあの赤ごろものヒゲジジイを待ってるのかい?」
「そんなもん信じるか。フン——プレゼントを待ってるのはお前の方だろ」
「ハッ、まさか! プレゼントなんて要らない。僕は贈られるより奪い取る方が好きなんだ」
「強がりばかり言うな、この口は」
 俺はエミリオの顎をつまみ、くっと仰向かせた。
「なら奪ってみろ。俺を。身体ではなく、俺の魂を」
「……それはできないな」
 エミリオの瞳は、ひどく冷淡に俺を射た。
「どうしてだ? 奪うのが好みなんだろう」
「ああ、その通りだよ。でも——」
 低い声は感情もなく、ただ俺だけを貫く矢のように響いた。
 
「もう僕のものになっている物を奪うなんて、できないだろ……刹那?」

【言の葉の檻】

 心なんていらない。
 心なんて。
 そう呟く自分に、背く自分がいる。
 なぜ殺せない……? こんなに、こいつの生意気な態度が許せないのに。
 憎いよ刹那。僕は、君が。
『……ああ、やっぱり、だいきらいだ……。』
 繰り返す呪文は、自分への言いわけなんだろうか。
 ねえ刹那。おもしろいくらいによく変わる君の表情、僕は大  なんだよ……!

【紫水晶の束縛】
 俺は返す言葉を見失った。そんなことはないと否定すればするほど、お前の仕掛けた罠にはまっていくように思えて、結局自分で言葉を封じてしまうしかないところまで追い詰められて。
 精一杯虚勢を張って、それでも俺は気づいていた。堕ちたのはお前でなくて……俺。
 光を憎みながら、どうしようもなく魅かれている俺の方だ……!
 
 お前はいつも、高処(たかみ)から俺を見下す。
 アメジストの冷たい瞳に、俺は縛られたまま。
 
 聖なる鐘は鳴り続け、祝福から見離された闇が光に、光が闇に溶けてゆく。救いなどない混沌は、星さえ消えた昏い夜空と交わる。
 俺たちは流れて行くしかないのだろうか。
 鐘の音の絶えた、時から切り離された遙かな岸辺へ。
 
 

Deception —欺瞞—


【宣告】
「あ、そうそう。部隊内恋愛は禁止ですよ」
「……は?」
 命令を受け取り、執務室を退出しようとした間際に付け加えられたウォンの言葉に、俺は思わず足を止めて振り向いていた。
「まあ、あなたには解りきっていることでしょうけどね」
 デスクの向こうのウォンは口元に薄く笑いを刻み込み、こちらを見ている。デスクに両肘を突いて顎を支え、試すような上目遣いだ。
「何のことだ」
 知らぬふりで訊き返したが、心当たりははっきりとあった。
 あのクリスマス・イブ以来、エミリオはあからさまに俺につきまとうようになった。カンの鋭いウォンが気づかないはずがない……あいつが、今までと違う態度を取り始めたことに。
 俺の答えの裏を探るふうでもなく、ウォンはゆるく頭を振った。
「いえいえ。……私はただ、節度ある態度を望んでいるだけですよ」
「フン——」
 俺は鼻を鳴らしただけで執務室を出た。
(あんたに『節度』なんて言われたくないぜ、ウォン)
 そこまで世話を焼いてもらう義理はないからな。
 
 口に出しては言わないものの、おそらくエミリオも同じ事を言われたのだろう。
 近頃奴はやけに早く軍本部から出て行くので、俺と顔を合わせることもない。俺は俺で夜の方が行動しやすいから、軍本部への帰還が零時を回ることがザラになってきている。
 ……そんなふうな、俺たち二人の生活時間帯のずれは、どうも誰かの意図したもののように思えてならない。俺の方ではそのつもりはない……はずだが。
 ああ、そのつもりはない。ウォン如き、何を恐れることがある? 日がな一日、デスクの前で仕事に埋もれているだけの男じゃないか。
 それに、エミリオとのことだって……俺にとっては『恋愛』なんかじゃない。単なる遊びにすぎないんだ。
 だから別に、奴と切り離されたって、どうってことない……。

【天使の激昂】

 最近、刹那の態度がおかしい。
 何だか夜遅くまで遊んでるようだし、僕が話しかけても生返事ばかりだ。
 久しぶりに会った朝の食堂では、眠そうな目でハムエッグをつつき回していた。
 朝食を載せたトレーを手にした僕は、刹那の隣の席に着いた。なのに刹那は、こっちを見ようともしない。
 仕方ないので僕の方から話しかけてやることにした。
「やあ、刹那。ずい分楽しい夜遊びを覚えたみたいだね、君」
「朝っぱらから出て行くお前よりマシさ」
「へえ。どんな事? 教えてくれよ」
「断る」
 つまらなそうに喋る刹那は、僕と目を合わそうともせず機械的にハムエッグを口に運ぶ。
「なんだよその態度!」
 僕はついカッとなってテーブルを叩いた。がちゃん、と食器が鳴り、食堂にいる人間たちの視線が集まるのを感じた。かまうもんか。
 だけど刹那は、ちらりと僕の手元を見ただけで、また食う作業に戻ってしまった。
「静かにしろ。食堂ではめしを食うもんだ」
「なに冷静ぶってる? 刹那」
「お前こそ、何故そんなにイラついてんだ?」
 ようやく僕を見た刹那の目は、昏く冷ややかだった。ちくしょう、いつの間にこんな目を僕に向けるようになったんだ?
 なんでだよ。
 
 気がつくと僕は立ち上がり、コップの水を刹那の頭めがけてぶっかけていた。
「——どういうつもりだ!」
 噛みつくように叫ぶ刹那の声に、いつもの響きが戻っていた。そうだよ、あんたはそうでなくちゃ。
「あんたの頭がまだ寝てるみたいだから、起こしてやろうと思ったのさ。どう、少しは目が覚めた? それとも、頭が寝ているのは元からだっけ?」
「きさまあ!!」
 刹那はトレーごと食器を投げつけてきた。ひょい、と避けた僕のズボンに、ちょっと色がついているだけの薄いコンソメスープが数滴かかった。
「やったな!?」
 僕もお返しにトレーを持ち上げ、振った。
 手をつけてないスープとサラダが、食器ごと飛んでいく。刹那は椅子を引き、第一撃を避けた。そこへトレーを投げつけてやったけど、刹那の奴、あっさりと手で払いのけやがった。
(お前ばっかり好き勝手させるか!)
 そう思うと、もう止まらなかった。フイ、と意識が高揚し、手の中に四角いエネルギーが凝縮し始めるのを感じた。――食堂に結界、それもいいだろう!
 ……その集中を途中で切られた。
「おいおい。ガキのケンカじゃあるまいし、こんなトコで仲間割れしてどうするよ、てめえら」
 ぶっとい声と、重い波動。
 声のした方を見ると、楽しげな笑顔のガデスと目が合った。
「てめえらの分は構わねえが、他人の食いもんまで粗末にするつもりなら、この俺さまが黙っちゃいないぜ。もし食堂をぶっ壊しなんかしたら、てめえらを殺すまで恨んでやる」
 軍支給の食券をひらひらさせて言うガデスを見て、僕の中で尖った部分が急に萎んでいくのが判った。でも、それを表に出すのはなんだか悔しい。
「うるさいな。邪魔うるつもりならあんたもまとめて潰してやるよ」
「それはまたの機会に譲ってくれ。俺は今からメシを食うんでな」
「知るか!」
 僕の意識は数瞬、ガデスの方へ向いた。
(どうしてこう、僕の周りには物分かりの悪い奴しかいないんだ?)
 その、思考の停止した瞬間……僕は、忘れちゃいけないことを忘れていた。
「お前の相手は俺だろう、エミリオ!」
 ——ヤバい、と思った時には遅かった。後ろから飛んできたシャドウフレアが僕の腕を掠め、皮膚を裂いた。
「ち!」
 咄嗟に腕を押さえて振り向くと、尊大に立つ刹那が手の中に気を溜め始めていた。闇色の……気。
「聞こえなかったか、刹那よ?」
 と、ガデスの声が一トーン下がった。
「ケンカなら外でやれ。ガキでさえ解るリクツだ」
「…………」
 刹那の目は僕を通り越し、わずかの間ガデスと睨み合った。……折れたのはやっぱり刹那だった。
 プイ、と手を振って気を散らすと、僕の方を見ないで食堂を出て行く。どうしてだか、そんな刹那の態度がもどかしくて腹立たしい。
 
 手を出さず見送った僕の方へガデスが来て、肩を叩いてきた。
「エミリオ。てめえも、あんなバカに本気でかかわるこたあねえのに」
「なんかね……イラつくんだ」
「はははっ。そうかもしれねえな! にわかサイキッカーのくせに、やったらエラそばってやがるし」
「エラそばる?」
「エラそうぶってる、ってことさ。頭の悪そうな響きが、奴にぴったりだろ?」
 ニヤリとするガデスにつられて、僕もつい笑ってしまった。
 傲慢さが時には救いのようなものになるってこと、初めて知った。まあ、この傲慢を完全に受け入れるつもりには、なれないけど。

【憤懣の澱】
 エミリオの奴、どういうつもりだ。
 わざわざケンカをふっかけてきたりなんかして……騒ぎを大きくしたかったのか? そもそも、何のための騒ぎだ? いくらウォンに言われたからって、ああまでして仲の悪さをアピールしなくたっていいだろう。
 大体、あいつ自身だって、この関係に本気なわけがない。誘われれば誰とでも寝るという噂を聞いたことがあるし、実際、他の男とキスしている所なら俺もついこの間見た。
 その時は……ショックとか嫉妬とか、そういう気持ちは湧かなかったが、ただなんとなく不愉快だったのを覚えている。
 それに、避け始めたのは奴の方が先なんだ。どうして俺ばかりが責められる?
 くそっ、不愉快だ。どいつもこいつも。
 

【偶然の過失】

 やっちまった。
 僕としたことが、えらいミスだ。
 
 刹那の闇に斬られた腕をそのままで“狩り”に出たのが、そもそもまずかった。あいつの力は案外深くまで潜り込むことに、僕は愚かにも気づいていなかったんだ。
 そして、二つの屈辱を受けた。
 戦闘中に突発的に襲ってきた腕の痛みに気を取られたスキに、相手からの炎弾の直撃を受けた。背を灼く感覚に僕の思考は一瞬途切れ、平衡感覚まで失った。
 それが第一の屈辱。——この僕が、直撃を食らうなんて!< br />  
 さらに第二の屈辱。——奴は……まんまと逃げやがった!
 僕との戦いを放棄して!!
 
 奴と会ったことなど僕の記憶にはないが、奴の目には何故か最初から圧倒された。見たことないはずの、でもどこかなつかしくさえ思える、まっすぐでひたむきな青い瞳。
 サイキッカー特有の、人を見下したような、孤独と狂気を裡にはらんだような昏い目じゃなかった。ただひたすらナニカの為に突き進む者の、透明なまなざしだった。
(でも、僕の記憶にはない)
「くそ……」
 あの目を思い出すたび火傷が重く疼く。
 どこで会ったのか判らないのに、どこかで会ったような気がする目。思い出せないもどかしさは早く切り捨てろとウォンにきつく言われたけれど、思い出したくてたまらない衝動が胸の底で渦巻いているのを感じる。
 なんなんだよ。あいつは。一体。
 とにかく、医療部行きだけは厭だ。小さなスリ傷の手当てでさえ、血液を抜きまくり、僕をコードだらけにしやがるからだ。(ああ、これは刹那みたいな言い方で何だか不快だな)
 
 表門からじゃなく、宿舎に一番近い壁を越えて僕は軍本部へ戻った。警戒厳重と言われる本部だって、僕からすれば紙程度のガードでさえない。
 宙を舞う瞬間、腕と背が猛烈に痛んだものの、着地まで意識を保つことはできた。そのまま人目を盗んで宿舎へ入り、自分の部屋へ向かう。
 宿舎の廊下は無機質に白く明るく、まるでひと気がない。夕食後のひととき、皆は集会室で下らない話でもしているんだろう。そうしててくれ。
 だけど、その空白も長くは続かなかった。今一番会いたくない奴が、角を曲がって現れたからだ。
「どうした、エミリオ。今日はずいぶん遅いじゃないか」
 刹那……!
 くそ。こいつにだけは知られてなるもんか。
 僕は意識して背筋をまっすぐ伸ばし、平然さを整えながらさりげなく壁に背を預け、腕を組んだ。ずきり、と襲ってきた痛みを辛うじてやり過ごす。
「そういう君はこれからご出勤かい? ……夜遊びのハデな刹那さん」
 と、思ったよりもすらすらと言葉が出てきた。これならごまかせる。
「いや、今日はもう終わりだ。お前より手際が良いってことかな」
「ザコをひねるのは……簡単だもんね」
「ザコ相手でも片づけ方ってもんがある」
「ていねいにしりゃ良いってもんでもないだろ」
「チンタラが良いってわけでもないさ」
 刹那は軽く頭を振った。でも、動くつもりはないらしい。僕を避けていたんじゃないのか。なんでこんな時だけのろのろと話に付き合ってくるんだよ、こいつ。いつもなら怒るとこだろうに。
 壁が熱い。血が出てないことをただ祈る。そんな感覚も判らないほど、僕の背中は痺れてるから。
『あんなバカに本気でかかわるこたあねえのに』
 そうさガデス。その通りだ。
 早く消えろよ。  傷が痛むんだよ。  脈打つように 熱いんだ…… ……

 
【光の保護……】
 誰も見ていないところでエミリオに会うのは久々で、つい俺の声は弾んでしまう。恋愛したての小娘のようじゃないか、これでは。
 いつもなら突っかかるようなことばかり言うエミリオは、今は話をそらしたがっているように見える。
 ……やっぱりこいつ、俺を避けようとしてる。
 だからって、引き留めるようなまねはみっともない。——が、明日は大がかりなミッションが控えている。俺にとっては大したことないが、少し遠出にはなる。となるとまたしばらくこいつの小憎らしい顔が見れない……。
 エミリオは、ふいっと顔を伏せた。
「ザコをいくら片づけたからって、自慢になんかならないよ……。それだけの話なら、他の部隊の奴らにしてやると、いい……。……良い笑い話として、聞いてくれる、だろうさ……」
「フン。奴らとはそもそも目的が違う。俺の任務なんて、話してもムダ——」
 言っている途中で、エミリオの様子がおかしいことに気づいた。
 顔を伏せたまま、肩で息をしている。そういや、顔色もいつもより白かった——いや、青いぐらいだったかもしれない。
「どうした、エミリオ?」
「うるさいな……。放っといて……くれ」
 ……その言葉でピンときた。
「お前、身体の具合でも悪いのか」
「いいから……行け、ったら……!」
 伸ばした腕をエミリオは払いのけた。
 そういやこの間、俺は食堂でシャドウフレアをこいつに噛みつかせたんだっけ。その傷痕は七分袖に隠れて見えないが、でも、あの程度で参っちまうようなヤワじゃないはず。
「——っう!」
 と、勢いで後ろに下がったエミリオの口から、低い呻きが漏れた。背中か!
「そういうことか。見せてみろ!」
「! ——やめろ、よ……っ!!」
 いやがるエミリオを強引に壁から引きはがし、俺は背中をあらためた。
「……何故医療部へ行かない?」
 俺の呟きは、だいぶ低いものになった。
 エミリオの背で服は大きく裂けていて、その下に覗く皮膚は真っ赤に腫れている。べろり、と剥がれた皮膚が垂れ下がっているのは、水ぶくれが破れた痕だろう。
 裂けた服の端が焦げている。炎の技を食らったんだ。炎を使うサイキッカーといえば、ノアにレジーナ・ベルフロンドとかいう女がいるが……その他にも炎の力を持つ奴がいてもおかしくはない。
 こんな傷食らうなんて、どんな戦い方したんだか、こいつ。
 俺の体に回されたエミリオの腕に、わずかに力がこもった。
「こんなの……カスリ傷だ……。だ、誰にも言うなよ……この、こと……」
「ばか。どこがカスリ傷だよ。とにかく……」
「医療部はイヤだっ! 自分で、治せるよ……っ。……お前なんか……どっか行け……」
 言ってるそばからエミリオの声が細くなっていく。俺の腕にかかる重さが増す。
「イヤだ……イヤだよ……」
「ああ、解ったから」
 これはヤバい。俺は直感した。うわごとのような言葉の繰り返しが不明瞭になっていく。熱もあるようだ。細菌感染でもしてたら、本格的にまずい。
 ……ち。何で俺がこいつの面倒見てやらなきゃいけないんだ。こんな状態の人間を放っておけるほど、俺の血の色は変わっちゃいないってことを思い知らされる。人が好すぎるぜ、俺も。
「とにかく、俺の部屋へ連れてってやる。それならいいだろ」
「ん……」
 俺はエミリオの身体を二つ折りに肩へ担ぎ、だらりと下がった脚を押さえながら廊下を急いだ。
 
 白いドアの向こうから怒鳴り声が聞こえた。
「くそう、刹那……だましたな!」
 待合室まで漂ってくる消毒液の臭いにうんざりしながらそれを聞いた。
「フン。医者を怖がるなんて、ガキみたいに」
 奴に届かない呟きを口の中で噛み殺す。あれだけの元気があれば、軍医療スタッフを違う意味で困らせることが出来るだろう。
 医療部は閑散としていた。スタッフが数人ウロついているだけだ。エミリオが多少暴れても惨事にはならないだろう。
「任せたぜ」
「はい」
 受付の女性看護士が冷たい声で小さく頭を下げた。
 あのケガだと、当然ウォンに報告が行く。傷の原因も訊かれるだろう。エミリオがここに来たがらなかったのは、たぶん、そういう雑音を嫌ってのことだ。
 そんなにイヤな敵だったのか? 判らない。
「気をつけろ!」
 医療部を出ようとした俺の耳に、スタッフの叫びが聞こえてきた。
「奴は不安定なんだからな」
 不安定……ね。ああいう年頃は、色んな意味で不安定だ。ご苦労なこった、スタッフども。
 
 それから俺は任務で軍本部を離れた。エミリオがどうなったのか、しばらく知らないままだった。
 

【翳り】

 背中の火傷は、多少痕が残るにしても治るのは早いだろうと言われた。当たり前だ。刹那の奴、慌てたか何だか知らないけど……わざわざ医療部なんかへ放り込まなくたって良かったんだよ、元々。
 問題は、僕の脳裏に灼きついたもう一つの傷の方だった。医療スタッフにも、ウォンにも言わなかったけど、僕の記憶を揺さぶるあの瞳は、いつまでたっても僕を揺さぶり続けて止まない。
 もちろん、炎を使うサイキッカーのことは言った。奴はノアのサイキッカーではないらしい。
 そしてこれは人づてに聞いた話だけど、この報告を受け取った瞬間、ウォンの顔色がはっきりと変わったらしい。
 珍しいことだから教えてやる、と、伝えてくれた奴は笑っていた。僕は笑えなかった。
 そうか……知ってるんだ、きっとウォンは。あの、炎を使う男のこと。
 でも、訊くのは怖かった。僕の中に封じ込めた何かを開くカギになってしまいそうな気がする。それが怖い。
 僕は僕だ。生まれてから十数年の記憶は欠け落ちてるけど、でも僕はこうしてここにいる。そして、記憶喪失者っていうのは、特にサイキッカーには多くいるらしいので、心配することもないと思ってる。
 ……記憶が戻ってくる。それは本当に喜ばしいことなんだろうか。
 ウォンは「過去を振り返ることはない」と言う。
「今あなたがここにいることが、素晴らしいことなんですよ」
 インチキ新興宗教家みたいなスバラシイ口ぶりでうんざりしたけど、無理に記憶を取り戻す必要はないという言葉は本当だろう。ウォンは、今の僕の力を欲している。今の僕の。
 
 そういえば……いつか、遠い昔、僕は自分の力を忌まわしいと思っていたような……。
 
 薄くしか残っていない、遠い過去に犯した罪の意識。
 
 どうしてこんな時に僕は一人なんだ。いつもそうだ。本当に一人でいたくない時に限って、僕は一人だ。
 明かりを灯さない自分の部屋で毛布にくるまり、鉄格子のはまった窓の外を眺めた。刹那は数日前からいない。ガデスも別の任務についている。ウォンの所へは今は行きたくないし……軍の中にそのぐらいしか気を許せる奴がいないことに、不思議とため息が出た。いつもなら考えたこともないことが僕を揺らしている。
 
 何も出来ない時間がこんなに長いなんて思ってもみなかった。
 
 傷が早く治ってほしい。そうすればまた狩りに出られるのに。任務につけるのに。
 一人でいなくて済むのに。
 
 どうして  誰もいてくれないんだよ……。

【帰還】
 今回のミッションは少し手こずって日数がかかってしまったが、まあ、許容範囲だろう。なにせ、山一つ丸々潰してきたんだからな。
 ミッションの一つとして攫ってきた、意識のない少女を執務室のウォンの前に放り出し、俺は任務完了を告げた。
「こいつだろ。神妃の栞」
「はい、確かに。よくやってくれました、刹那」
 言いながらウォンが内線の受話器を上げるのを見つつ、俺は早々に退出しようとした。任務は終わったんだ。
 だが、ウォンの先制の方が速かった。
「ああ、刹那。そろそろエミリオの傷は癒えてる頃ですよ」
「はあ」
「第一発見者として面会に行ったらどうです。もう自室に戻っていますから」
 ……こいつ、一体俺たちをどうしようっていうんだろう。
 そして、どれだけのことをエミリオから聞き出したんだろう。
「じゃあ、そうするよ」
 投げやりに応えると、ウォンはそこで話を切って呼出先と話し始めた。……相変わらず読めねえな。
 
「ああ言われたんじゃ仕方ない、行くか」
 ウォンの執務室の扉を閉めた俺は、呟きというには大きく言って首を回した。ごきごきと派手な音がした。
 
 俺はたぶん、ウォンに試されているんだろう。でなけりゃあんなふうに言うはずもない。
 あの時のウォンの言葉を思い出す。
『部隊内恋愛禁止ですよ』
 呪いのように俺を縛る言葉。
 ああ、だからこれは恋でも愛でもないんだよ。
 
 見舞いに行くだけだ。
 
 白い廊下で、背後から急に声をかけられた。
「刹那。ようやく僕の前に姿を現す気になったか」
 エミリオ!? ……予想外の遭遇に俺は動揺した。
「久しぶりだな。ケガはどうだ」
 振り返って、何とか普段の口調を取り繕って言った。俺の前に立ちはだかっているエミリオは尊大に腕を組み、冷たい瞳で俺を見上げている。
 エミリオは冷笑さえ浮かべずに俺に応えた。
「おかげさまで」
「なら良かったな。死にそうな声を出してたから心配してやってたんだぜ」
「——何故逃げる?」
「は?」
 俺は不審を隠さず問い返した。今のエミリオの言葉はあまりに唐突で、何について責められているのか解らない。
「こそこそ逃げ回って、恰好悪いとは思わないか」
「何のことだ」
「逃げてるって認めるのが厭? そうだろうね、あんたなら」
「俺は何からも逃げてるつもりはないが?」
 エミリオは小さく舌打ちした。
「やっぱお前バカだな。——ウソついて僕を医療部に突っ込んで、そのウソから目をそらしたがってるのなんかお見通しなんだよ!」
「あ?」
「謝れよ。医療部なんてクソな場所に放り込みやがったことを」
 エミリオが腹を立てている理由がようやく解った。なんだ、そんなことか。
「ふざけてんじゃないぞエミリオ。それは貴様のミスのせいだろう? 自分の力不足を俺のせいにすんな」
「あのくらいのケガ、一人で治せた! サイキッカーの治癒能力は通常人より高いってこと、お前は知らないんだな」
「ああ。そりゃ勉強不足で」
 うそぶいてみせる俺の腕を、エミリオは強く掴んだ。いつになく強く。
「久しぶりに、じっくりと話をしようじゃないか。ええ、刹那?」
 言葉と共に、腕を掴んだ手の力が増していく。細い腕のどこにこんな力が、と思える程、強靱な意思がこもった圧力を感じる。なのに顔は無表情だ。
 俺は、背筋に薄寒いものを覚えた。
「断る。俺は明日も忙しい」
「安月給のリーマンみたいなこと言ってんじゃないよ。僕が来いと言ったら来るんだ」
「もう俺の用は済んだ」
「僕のは済んでない」
 俺はそのまま、強引にエミリオの部屋へ連れ込まれた。
 
 エミリオが俺の腕を放したのは、奴がベッドに腰をおろした時だった。
「……で? どんな話をするって?」
「謝れって言ってるだろう」
 言うなり、エミリオは立ったままの俺の腰に抱きついてきた。ぎょっとした俺の鼓動が跳ね上がる。言葉と行動につかみ所が見つからない俺は当惑してエミリオの頭を見下ろした。
「——ウォンとどんな話をした?」
「返事になってないよ刹那」
「ああ、すまなかったよあの時は。——これでいいか」
「よくない」
「それで、ウォンとは話をしたんだろう?」
「…………」
 エミリオは俺の腹に顔を押しつけたまましばらく黙っていた。
「……なんでそんなにウォンとのことを気にするの」
 ようやく漏れた囁きには特に感情の動きは無かった。
「何か言われたんじゃないのか。その——こんなコトするの、どうとか」
「何も」
「……?」
「何も言われてないよ、別に」
 顔を上げずにエミリオは囁く。俺の背に回された手が、服の上を這い回り始めた。
 布と布が擦れる音がひそやかに響いている。
「そうか。お前には言ってなかったんだな。ウォンの奴」
「……みたいだね。何を言われた?」
「お前には関係ない」
「怖いの? ウォンが」
「そういうことにしといてくれ。……いいから離れろ。今日はそういう気分じゃない」
「ああ……もっと言え、刹那。もっと罵れ、いつもみたいに。下らない憎まれ口を叩けよ……もっと」
「……エミリオ?」
 何があったんだ? 視線を合わそうともしないエミリオの態度は、廊下での時とあまりに違いすぎる。その違いに俺は戸惑う。本当はこいつも何か言われたんじゃないか?
「何があったんだ?」
 俺は疑問をそのまま言葉にした。エミリオはゆるゆると頭を横に振った。
「優しいお前なんてお前らしくない! 何考えてやがるって突き飛ばしなよ、僕のこと!!」
「…………」
 俺は口をつぐんでエミリオの頭を見下ろした。
 何かあったんだ。
 何が?
 二人きりになっても言えないことなのか?
「甘えるな。俺はお前のおもちゃじゃない」
 俺は手に力を込め、肩ごとエミリオを押しやった。エミリオはうなだれ、俺に回していた腕を引っ込めた。
「……記憶って……」
 伏せられた口から、低い囁きがこぼれた。
「え?」
「記憶って……一体、どういうものなんだろう」
「あァ?」
「記憶が欠けた奴、記憶がない奴、記憶を捨てたくても捨てられない奴——たくさん狩った、でも」
 言いながらエミリオは頭を抱えた。
「でも……よく分からない。僕だって……切り捨てたはずだったのに……!」
 声が震えているのは気のせいか?
 
 次の瞬間、俺は腕を掴まれ、強引にベッドへ引き倒された。
「エミリオ、お前——」
「黙れ」
 エミリオは俺と目を合わせてこない。その真意を探っているうちに、俺の前ははだけられていた。
 動きに容赦がない。エミリオは早々に手袋を外し、素手で俺のインナーまで剥いて前面を露わにした。俺の抵抗は、腕に絡みついている自分の服に封じられた。
 そして……するり、と胸へ這い上がってくる手の冷たさに、俺は動揺した。
 鼓動が早まるのを止められない。
(今日犯られるのは俺か。初めてのあの日のように)
 その行為を思い出した俺は急に不愉快になった。
「やめろ」
 言ったがエミリオは応えない。空いた方の手で萎れたままの俺を握り、ぬるりとこすり上げる。
 そんなことをしたって……ムダだ。
「やめろって」
「まだウォンが怖いの?」
 答える前に、口に指を突っ込まれた。かすかに汗の味がする。
「あんな奴の言うことを真に受けてビクビクしちゃって……情けないとは思わないわけ?」
 そういうんじゃ……。答えようとしても言葉はかたちにならず、エミリオの指の間に滲んで消えるだけだ。
 俺の言葉を封じた二本の指は、舌をなぶるように動いている。
 
「ん……」
 俺は息を漏らしながら、エミリオの指の動きに逆らうように舌を使った。くっ、と艶めいた微かな喘ぎがエミリオから聞こえた。
 エミリオは俺をいじっていた右手を離し、俺の体の線を辿り始めた。
 股の間から足の付け根を一撫でし、臍に軽く触れてから正中線を這い上ってくる。いつもとは逆に流れる手に、新しい快感を掘り起こされる俺がいる。
「っ……く……」
「やめてほしいんじゃなかったの、刹那」
 俺の口をようやく解放したエミリオが、自分でも指を舐めながら言った。
「こんなに僕の指をびしょびしょにするくらい舐めてるのに。ね、まだやめてほしい?」
「……好きにしろ」
 俺が投げやりに言うと、エミリオは今日初めての笑みをこぼした。ああ、全く——挑発的な笑いだな、お前。
「そう言ってくれると思ってた」
 エミリオは俺に背を向け、斜めに覆いかぶさってきた。自然、腰から下の動きが、エミリオに隠れて見えなくなる。
 もういい。好きにしろと言ったのは俺の方だ。
 
 初めに伝わってきたのは竿をいじる指の動きだった。
「……っう!」
 エミリオの動きが見えないぶん、次に何をされるか判らないという期待と不安が俺を衝く。エミリオは俺に息を吹きかけてくすくす笑ったりしている。
「く……エミリオ、お前……」
「まだまだ、こんなもんじゃ足りないよね……」
 くぐもった声が俺の先を含んだ。含まれると同時に、後ろにも侵入されたのを感じた。
「んあっ!」
 俺の体は反応して跳ねかかったが、動きはエミリオの体で封じられた。くそ——これじゃ、快感を追うことさえままならない。
「あ——っ、く……ふ……」
 舌と指に翻弄される俺の体は、空しくもがく。
 こいつ……うまい……!
 エミリオっは俺の波を読み分けて愛撫に緩急をつけてくる。素早くえぐり込んでくるかと思えば、動きの一切を途中で止めて俺の反応を見たりしている。
「ふ。こんなにしっかり勃ってる……やっぱり、タマってたんしょ。それとも一人で抜いてた?」
「お前じゃなくても……相手なら、いるさ……」
「ガデスなんかとヤッちゃったの? 突っ込むモノを持ってる奴なら誰でもいいのかよ」
「阿呆……あいつは女にしか、キョーミない……だろ。軍には……サイキッカー部隊以外にも、隊は、ある……」
「そうだね……そうだったね」
 低く言ったエミリオは、次の瞬間俺をねじ曲げやがった。
「痛ゥっ!」
 血の気がさあっと引くのが解った。エミリオは肩越しに振り向き、にやっと笑った。
「いいざまだよ刹那」
「くそ……っ」
 俺は服から腕を引き抜きながら身を起こした。姿勢を変えた俺にエミリオは背後から抱きついてきて、濡れた指を再び俺の中へと挿し入れてきた。
「あ……うっ!」
 出入りする二本の指の感覚……それだけで俺は、めまいを起こしそうな快楽を覚えている。
「ローション取れ。枕元の棚にあるやつ」
 俺はその命に従った。……今のこいつだと、平気で俺の穴を裂きかねない。
 震える手でローションの瓶を握る。その間も、エミリオの指は俺の中に収まったまま暴れている。だから、瓶を自分の元へ引き寄せる、という単純な作業さえ、快楽の波に阻まれてうまくいかない。
 取ろうとした瓶が倒れ、転がる。それがまた、エミリオを喜ばしている。くすくす、と艶のある笑い声が聞こえる。
「きちんと取れよ……」
「くっ」
 喘ぎながらもどうにか瓶を拾い、胸元まで持って来ると、エミリオの手が軽々と奪い去った。
 ぴちゃぴちゃ、と冷たい液の音が数回した。そのうち何回かは、俺の尻からした。
ひんやりした液体だったが、俺の熱は冷めることなく高ぶったままだった。
 俺は尻を掲げたまま、エミリオの行為を受けた。
「行くよ……」
 そして——小さな宣告のあと、貫かれた。
 
 あ……つ、い……!
「ほんとに素直だね、君は……」
 四つん這いになった俺の背に、エミリオの息がかかった。押し込みながら俺の上にかぶさってきている。俺は……エミリオの、熱を帯びた肉体と、腰をしっかり抱え込んだ腕に、またも動きを封じられたかたちになっている。
 だから、エミリオの動きに合わせて俺も揺れる。
「フフ……突っ込まれりゃ舐めるし、こんなふうに尻も振るし……好きなんだろ、こういうの……」
「物分りの悪い……お子様には、この……ぐらい、してやらない……とな……っ」
「ああ……そうかい」
「は……あああっ!」
 エミリオの動きが激しくなり、俺を間断ない快楽の波が襲った。
 腹を底からえぐり上げられる気持ち良さに、俺はひたすら喘ぎ声を上げ続けた。
 
 これは恋愛の行き着く果てか、そうじゃないのか。俺には判らない。
 
 どうなんだ。
 
 俺はこいつを 愛して いるんだろうか?
 
 エミリオは後ろからそっと俺に手を這わせた。
 ヌルついた感覚が俺を擦る。やめろ、よすぎ……
「ん……んん、あ、あ、……んっ……!」
 俺はたまらずその手に放っていた。
「はあ、は……あ……」
 頭の中が白くなる。もうどうでもいい。何もかも。
 エミリオがまだ俺の中にいる。それさえどうでもいい。
「僕も、イッていい……? 君の……中で……」
 何を言われたのか理解もできない。理解できなくていい。それでいい。
「好きに……しろ……」
 答えを言い終わらないうちに、俺の奥底にエミリオのしるしが刻まれた。
 熱いものが炸裂する感覚に、俺の快感がもう一度呼び起こされた。
「あ……ああ!」
「ん、んう……っ!」
 
 気がつくと、俺たちは折り重なるようにベッドに沈み込んでいた……。
 

【罪を、抱えて】

 そういや、僕たちは口づけも交わさないまま獣のように抱き合っちゃったな。
 いいか。好きにしろって言ったのは刹那の方だ。
 僕の下で荒い息をついている刹那から、僕を引き抜く。——ん、という微かな呻きが聞こえた。
「ねえ……」
 僕は刹那に沿うように位置を変え、腋から手を滑り込ませて胸を触った。
「何言われたの? ウォンに」
 刹那は僕の手に手を重ね、ぎゅっと握ってきた。
「言っただろ。お前には関係ない……」
 それから刹那は仰向けになり、僕の目を下から覗き込んできた。
「お前こそ何かあったんじゃないのか。この間の、火傷を食らった時」
「…………」
 僕は口をつぐんだ。いくら刹那相手でも、この不安を言葉にした瞬間、それは現実の恐怖となって僕をさいなむような気がしたからだ。
(僕はまだ、犯した記憶のない罪への重い罪悪感に苦しめられている)
 刹那はぶっきらぼうに言った。
「——ま、俺には関係ないことだがな」
「……ごめん」
「何故謝る? 謝らせようとしてたのはお前じゃないか」
 刹那は軽く笑って僕の手を引き、身体を抱き寄せた。
「だがもう謝らないぞ」
「うん……もういい、そんなこと」
 なんでこいつ、こんな時だけ優しいんだろう。普段からこんなに優しくされても気色悪いだけだけど、でも。
 僕の背に回った刹那の手が、ふと傷に触れた。ぴりっ、と電気の疾るような痛みを覚える。……この痛みが消える頃、僕の罪の意識も消えるかな。
 僕たちはそっと唇を重ねた。
 ふわりと触れ合うだけの柔らかいキスを交わす。
(僕は大丈夫だ。今は、一人じゃない)
 もちろん、罪の意識は消えやしないけど。僕はまだ僕のままでいられる。
 刹那は、今の僕しか知らないから。

【ノアへ】
 数日後、俺は新たなミッションを受けた。
「ノア本部へ」
 ……街にはサイキッカーハンターを名乗る奴やら、俺が潰した影高野の生き残りやが動き始めているらしい。その騒ぎに付け込んで、新生ノアの本部をぶっ潰そうってのがウォンの意図だ。
「面白い」
 噂に聞く、サイキッカー集団——新生ノア。死んだはずの昔の総帥も現れたとかで、俺たちの周囲はにわかに騒がしくなってきている。
 俺としちゃ、サイキッカーどもと本気でやりあえる時が来たことに感謝しているんだが。
 
 部屋を出たところで、エミリオに会った。
「君もノアへ?」
「ああ。ウォンの奴、なんだか慌ててるみたいだな」
「うん……旧総帥が現れたせいで、ノアの結束が強くなったことを警戒してるんだ。——これからは単独行動だね、お互い」
「そうなるな」
 俺は腕を伸ばし、エミリオの腰を抱き寄せた。ひと気がないことを視界の端で確認しながら、エミリオの唇を奪う。エミリオは抵抗しなかった。
 軽く舌を絡み合わせてから、離した。エミリオは俺の首に腕を回し、至近距離からまっすぐに俺を見つめて囁いた。
「どういうつもり」
「しばらく会えないだろ」
「ふん……別に、永遠を誓い合った仲でもないのに」
 そんなことを言いながらも、エミリオの口元は笑っていた。かわいいことを言うじゃないか。俺はエミリオの髪に指を突っ込み、頭を撫でた。
 エミリオは俺の手から逃げるように頭を振った。
「……僕、行かなくちゃ」
「そうだな」
 俺たちに与えられた時間は短い。腕をほどくと、エミリオは俺から離れた。
 
 と、歩きだしたエミリオが肩越しに振り向いた。
「……刹那」
「なんだ?」
「……なんでもない」
 何かを言いかけたようだが、それきりだった。また歩き出すエミリオの細い背中を見送りながら、俺は、奴から肝心なことを何も聞いていなかったことを思い出した。
 還ってきたら訊いてみよう。俺も、その時なら話せる気がする。素直に言える気がする。
 エミリオ、俺は……
 
 

DE-cidere —完全に切り離す—


【前哨】

「ウォン。刹那の奴に、何言った?」
「……デスクの上に尻を乗せるのはやめなさいと言っているでしょう、エミリオ」
 ウォンは僕の質問に答えず、手に持った書類から目を上げようともしなかった。
 ここは軍サイキッカー部隊司令官、リチャード・ウォンの執務室。この部屋は、さすがにウォンも趣味を出すのを極力抑えたんだろうけど、それでもやっぱり、軍の一室にしちゃヘンなオブジェとか観葉植物の鉢やらが置いてあって、それなりに悪趣味だ。僕が座っているデスクの上にも、首をもたげた竜のかたちをした金色の文鎮が転がっている。
 デスクの向こうのウォンは顔を上げない。……色々報告やら何やらあるようには思えないサイキッカー部隊なのに、僕が見るウォンは、いつも何かしら書類を眺めて過ごしているように思える。
「はぐらかすなよ。あいつ、ばか正直なんだからすぐに判るんだ」
 僕は腕を組んでウォンの頭を見下ろした。長い髪はていねいに撫でつけられ、後ろでゆるやかに束ねられている。
 その頭をぐしゃぐしゃにしてやりたい、とふと思う。
 仕事に忙しいふりして、僕から目をそらしているんだろ。解ってるんだから。
 だから、言葉を重ねてやるよ。
「何か言ったんだろ?」
「それなら、刹那から直接聞いてください」
「厭だ。僕は、あんたの口から聞きたいんだ。……リチャード・ウォン」
 声をひそめて言うと、ようやくウォンが顔を上げた。丸眼鏡の奥に浮かんでいる表情はいつもの、人をはぐらかすような固まったままの笑顔だった。
「わがままはいけません」
「そんなんじゃないこと、知ってるくせに」
 僕は腕をほどいてデスクに突き、斜めに身を乗り出した。すぐ目の前にウォンの頭がある。整髪料の香りがかすかに鼻をくすぐってくる。
 ウォンは背を伸ばすように少し身を離し、僕を見上げた。
「大したことじゃありませんよ。ただ、部隊内恋愛禁止、とだけ」
「恋愛?」
「はい」
 軽くうなずいたウォンは姿勢を崩し、椅子にもたれかかった。その椅子も、クッションのきいた豪華な革張りだ。
「は——ははは!」
 笑顔の真顔で言うその姿がおかしくて、言葉もミョーに浮いてて、僕は思わず高笑いした。
 ウォンは何も言わず、ただ、腹の上に置いた指をそっと組んだだけだった。僕は笑いを引っ込めた。
「フフ——何だよそれ。ばかばかしい。サイキッカー部隊に女なんていないじゃないか」
「だからですよ」
「ふん?」
 それでもウォンは表情を変えない。つまり……?
「ああ、そうか。僕とのこと?」
「ご想像にお任せしますよ」
「妬いてたの?」
 僕は口の端だけで笑い、突いた手をデスクの反対側へずらして、空いてる片手をウォンに差し出した。
「……にしたって『恋愛』なんて陳腐な言い方だね。僕は、愛なんてものがあること自体信じちゃいないのに。そう……あんたとの関係にもね、ウォン」
 形式的に僕の手を取ったウォンは、アルカイックスマイルを浮かべて僕を見るだけだった。
 
 僕はウォンからミッションを受け取るとすぐに廊下へ出た。
 恋愛だと? はん! あのバカ、まっ正直に信じやがって。……ってことは、あいつ、僕にそういう目を向けてたってことか? ウォンにさえ判ってしまうほどはっきりと?
 ああ、ほんとにばかばかしい。そりゃ、僕だってあいつのことを嫌いじゃないけど、それは、夕飯で肉が出ると嬉しいのと同じくらいの感覚でしかないんだ。
 ましてや愛なんて。笑っちゃうよ。……あいつがそんな器用な感情抱けるタマか。そんなふうに疑われるのがイヤで逃げ回ってただけだろ。
 所詮ニンゲンなんてそんなモンなんだよ。
 ま、かわいい所があるってことか、あいつにも。
 
 軍宿舎の白い廊下を歩いていくと、当の刹那が自分の部屋から出てきた。
「君もノアへ?」
 声をかけると、いつもの、裏づけがあるんだかないんだか分からない自信満々の笑みが返ってきた。
「ああ。ウォンの奴、なんだか慌ててるみたいだな」
「うん……旧総帥が現れたせいで、ノアの結束が強くなったことを警戒してるんだ。——これからは単独行動だね、お互い」
「そうなるな」
 刹那は腕を伸ばし、僕の腰に回してきた。ジシンマンマンの顔が近づいてくる。僕は目を閉じて、刹那の唇を受け止めた。
 軽く舌が絡み合う。刹那は深くまで求めず、あっさりと離れた。僕は刹那の首に腕をかけ、ダークパープルの瞳の奥を覗き込みながらそっと訊いた。
「どういうつもり」
「しばらく会えないだろ」
 あーあ。こういうところが、ウォンにつけこまれる一因なんだな。きっと。
 気がつくと僕の口元が緩んでいた。
「ふん……別に、永遠を誓い合った仲じゃないのに」
 刹那は単純に喜んだようで、僕の頭をぐしゃぐしゃとかき回した。もう、やめろったら。子どもっぽいったらありゃしない。
「……僕、行かなくちゃ」
「そうだな」
 僕が頭を振ると、刹那はすぐに解放してくれた。ずいぶん機嫌が良さそうだけど当たり前だ。僕がそう仕向けてやってるんだから。これだけやってやりゃ満足だろ、刹那?
 僕は刹那に回した腕をほどいて背を向け、歩きだした。
 
〈……ダケド。〉
 
 …… その時 僕の中で 何かが 響いた 。
 
〈……コノママデ イイノカ〉
 
〈……何モ ワカリアワナイ ママデ〉
 
「……刹那」
 
「なんだ?」
「……なんでもない」
 
 僕は何かを言いかけた。
 あれ。  僕は。
        僕は、何をイオウトシタ?
 
 言葉は出てこなかった。かたちとして、音としてつかまえる前にふわりと消えてしまった。
 
 どうして僕は振り向いたりしたんだろう。どうして、刹那の名を呼んだりしたんだろう。
 刹那の上に一瞬よぎった不安の表情、あれは僕の心の鏡かもしれない。
 じゃあ、何に不安を感じたんだ、僕は?
 
 何に?
 

【失われた環】

 狩人の剣は虚しく空(くう)を裂き、安らぎをもたらしていたという歌声は夜の喧噪にかき消された。そうさ、僕を止めることなんて誰にもできやしない。
「……マイト……ごめんね……」
 歌が闇に消える瞬間、女が誰かの名を呟いたのが聞こえた。絆を約束し合った相手の名だろうか。
 くだらない。——ああそうさ、くだらない!
 地に広がった紅い華を見下ろしながら、でも僕は、しばらく動けないでいた。
 どうしてあんな女のことが気にかかる。いや、気になっているのは、最期の瞬間に奴が残した思念だ……
『癒してあげられなくて、ごめんね』
 それは世界へと向けられていながら、同時に、特定の相手に向けられた意思だった。
 かぎりない慈愛。世界への思慕。
 そして——誰か、への想い。
 
 ……ふん。
 そんなものを持っていたから敗けたんだ。当然だ。
「……もう唄わないの……? つまらないな……」
 僕は口の中で小さく言った。葬送の言葉には豪華すぎるくらいだろう。
 
〈……痛イヨ ドコカガ ……ナニカガ……〉
 

【顕われた環】

「エミリオ、探したわよ!! よかった……無事だったのね」
 空を行く僕を高い声が呼び止めた。途端、風が妙な臭いを帯びたのが判った。
 僕の中の一番不快な場所を触ってくる感覚に、身体の方が先に反応した。
「誰だ……お前は」
 言うと同時に、僕の全てが戦闘態勢に入った。
 声のした方へ振り返り、手の中に意識を集め、四角く固める。ぎりぎりまで高まったところで投げはなち、獲物を閉じ込める檻——結界を作る。
 女が動揺して目を見張った。
 そうさ、狩りの始まりだよ。
「どうしたのエミリオ! 私よ、ウエンディーよ!」
 結界を張った僕の前に立ち、叫んでいるのは、風を味方にしたサイキッカーの女。明るいブルーの瞳が、なんだか厭なひたむきさをたたえて僕を見ている。
 なんだか、イヤナ……何かを思い出す。そんな……目。つい最近も、こんな瞳を見た。確か、炎を使う男……
 やめろ。
 そんな目で僕を見るな。
「ウ……エ……ン……」
 やめろ……その目は。頭が……痛くなる!
 脳を、記憶をえぐられるんだっ!
「うわああああああ!」
 やめろ。    消えろおおおおおお!!
 
 ――
 
 ここは、どこだ……?
 
 気がつくと、見覚えのある闇の中に僕は立ちつくしていた。
 間違えた。どこだ、なんて言う必要はなかった。見覚えは……そう、痛いほどある。僕が昔いた場所。感覚だけは鋭くて、でも身動きのとれない牢獄。
 そう——
 
『意識の最下層』
 
 思い出した。僕は昔ここにいた。そして、表の僕を冷たく笑って見つめてた。なんであいつがうじうじ言ってるのか解らなくて、仕方ないから、僕が力を与えてやってた。そうだよ、この力さえあれば僕は僕でいられたんだから。
 
 思い出した。だからウォンはあの時僕を解放してくれたんだ。……僕が僕であるために。
 今分かった。だからウォンは光の対極をも作ってくれたんだ。……僕が僕であるために。
 
 人工サイキッカーを造るという実験自体はウォンのシュミだったかもしれないけど、でも、あれは確かに僕という存在を意識してのしわざだった。
 ウォンは実験の最初から闇使いを造ろうとしていた。光だけではバランスが取れないって考えたんだろう。(僕が壊れてしまう? ああ、ありえたね)
 確かに、刹那と出会ってからの僕は、理不尽な怒りを抱えることが少なくなっていた。いわゆる『キレた』状態で力を暴走させることもなくなっていた。あいつがちまちまと怒らせてくれたり、まあ、僕を受け入れてくれたりしたおかげで、僕の中のうっぷんが極端に溜まることがなかったからだ。
 だけどそれは全部計算通りなんだろ、ウォン。僕も刹那も、うまいこと踊らされてた——今なら分かるよ、はっきりと。(でも、不快じゃないのはなぜだろう)
 ……そうだよ。
 たとえウォンの計算シートの上でだけだったとしても、僕はうまくやってきてたんだ。それが解ったこれからはもっと上手に奴を利用してやる。
 なのに、何で今さらあいつが表に出て行く?
 この身体も力も、僕が使ってこそ真の価値があるってものさ。それに今ならもっと賢く立ち回れるし、力だってもっと使いこなせる。
 だって、あいつよりも色々なことを知ったから。
 だから出せ、ここから、早く!!
 
 目の前で時が歪むのが見える。ウォン、奴がいるんだな。僕はここだ。早くこいつを黙らせてくれ。
 僕はこのままじゃ終われない。判ってるんだろ、ウォン、あんたなら!!
 あんたに必要なのは、この僕だろう?
 
〈必要トシテイル ッテ 言ッテ〉
 
 その瞬間、なぜか刹那の得意げな顔が思考を横切った。
(ああそう、奴も僕を……)
 ふと、別れ際のキスが唇の上で熱く蘇った。
 これまでだって何回も交わしたはずのキスなのに、最後の一回だけしか覚えてないことに僕は気づいた。なぜだか胸が苦しい。
(そして 僕も 奴を)
 胸が苦しい……。
 ああ、だけどそれはぜんぶ気のせいなんだ。熱いつもりの唇も、疼くはずの胸もあいつが持って行った。そう……今は。
 
 苦しくないはずの身体が苦しい。誰と一緒にいても感じなかった気持ちが、強く僕を締め上げる。
 ……サミシイ。
 
 どうしてだ。
 あれだけ交わした刹那の感覚が、どうしても思い出せない。
 くそ、そんなものまで、あいつは持ってっちまったのか。
 
 部隊内恋愛禁止。そんな冗談を真に受けるバカ、刹那。ほんとにバカ正直な奴。そんなバカさ、僕は見ていて飽きなかったよ。
 そう、僕は、レンアイなんてしてなくても、刹那と一緒にいられりゃ楽しかった。
 なのに、
 
 その気持ちまで なくなりかかって る
 
 身体だけじゃなくて、僕の記憶、想いまであいつが持って行こうとしている。当然だというツラをして。
 ああ、表に出られただけで僕を超えたと思うな。……あいつが知っているのは僕だけなんだ。お前じゃないんだ!
 
 ——そうだよ。
 身体も、力も奪われて、この上刹那まで渡してたまるか!
 全部取り返してやる。
 出てこい、もう一人の僕。
 
 ケリをつけよう。
 
 
 

  無垢ナノハ 罪ナノ?

 

 僕の前で 僕が呟く

 

   罪ヲ負ウコトデ人は人トして生きルなら、人はハジメから罪ヲ負っテ生まれてクルの?

 

 僕の前で 僕は涙を浮かべている

 

    純真でアルことモ、罪?

 

「お前は……邪魔なんだよ!」
 切り捨ててやる。甘ったれた罪の意識ごと。後悔のいしくれと化した記憶ごと。
 ぶっ壊してやるよ。僕の手で。
 
 
 

 イヤだ。 僕は。
 これいじょう、なにもコワしたくない。
 イヤだよ。みんながイタいから。
 
 僕がイタいから。
 
 もう——————コワシタクないよ!!

 

      僕ガ放ツ      否定ノ矢。

 

「壊したくない————————か!」
 僕でない僕の叫びと共に、僕を貫いた金の矢。深々と刺さったそれは、僕の心そのものを砕く意思!
 致命傷をくらっちまったってことは、僕の方があいつより甘かったってことか? うう……意識を保っているのが、やっとだ……
「つくづく甘いな、お前……」
「……!」
 呻くように言う僕の目の前で怯える僕。砕けかかる魂をかろうじて支えて、僕は、おぼつかない足取りで僕に歩み寄る。
「壊したくない。そんなこと言ってても、僕の心は壊すくせに。僕を壊すくせに。お前も僕なのに。僕もお前なのに。……僕は……
 お前より、色々なものを抱えていたのに——!」
「君、は……」
 後じさる僕の腕を掴んで引き寄せ、強引に手で顔を挟み込む。細かい震えが伝わってくる。
 そうだ、目をそらすな。僕を見ろ。お前が否定したくて、でも捨てられなかった僕を見ろ。
 その瞳の中に映る僕……。なんだ、泣きそうなのは僕の方か?
 震えているのは、僕の手か?
 
「忘れるな。僕はいつまでもお前の心に残る。残ってやる。
 いいか。覚えておけ。
 
 お前は人を愛せない。けれど、
 僕は 人を愛したんだ」
 
 少なくとも僕は お前より 愛を知ってる
 忘れるな   でなきゃ    僕の想いは      どうなってしまう?
 
 あの音使いの残響がよみがえる。
『癒してあげられなくて ごめんね』
 雷使いの叫びがよみがえる。
『これで俺も楽になるのか——だが、パティ』
 この僕の、ずうっと奥底の部分が、その声に共鳴している。彼らが互いに向けあっていた深い深い想いの音色が、僕の中でも響いているのに気づく。
 そのメロディはずっと僕も持っていた。ただ、僕が否定しようとして、気づかなかったふりをしていただけなんだ。
 そうだね、刹那。
 気づいてあげられなくて、すまなかったよ。
 
 忘れるな。
 忘れるな。僕はお前自身。
 忘れるな。 でも、僕はお前とは違う。
「忘れるな。刹那(たにん)を愛した、僕のことを」
「あ……い……」
 ああ、もう思考(あし)に力が入らない。自我が砕けていく。記憶が崩れ去る。
 でも残っていてほしい。この想いだけは。

 

「忘れるな……僕の、気持ち……!」

 

「う、あ………うあああああ!」

 

 空間に僕の叫びが満ちた。

 

 いや、僕たちの?  いや、僕の?

 

 混沌となって、もう   分から ない——
 

 

 僕の心に、烙印のように残る君の記憶。

 

 僕の心に突き刺さっていた、とげのような、お前が抱えていた罪の意識。
 
 ようやくわかった。だけど、僕たちは相いれないんだ。

 

〈破壊ノ天使、嘆キノ天使〉
 肉体が一つでは狭すぎる

 

 幻だったのは僕かもしれない。だけど、あの心まで……恋心、愛まで幻だったなんて思いたくない。
 確かに僕は刹那に恋し、彼を愛していた。そうなんだ。こんな時になって気づくなんて遅すぎるけど……気づかないよりよかった。
 ね。刹那。
 
 この気持ちは形ある真実だ。
 ……そう、信じたかった。

 

 イタい。  イタいよ。
 これはサイセイの痛みなノか。産道を通ルときのあのくつう、身もたマしいも縛りツケられ悲鳴を上ゲるときの、あのイタみ?
 

   

 祝ってやるよ。新たなお前のバースデイ。
 それは同時に、僕の命日。

 

 いたい。
 僕の放った矢と一緒に、僕が消えていく。穢れた白い翼の僕が。
 穢れてる。そんなふうに、君を忌まわしいと思ってるのに……でも、否定しきれない僕がいる。
 そんな僕たちの心は、どこへ行ってしまうんだろう。ね、愛を知ったという僕。
 僕は未だ、愛を知らないけれど。知ることができないかもしれないけど。
 僕は君。君は僕。だけど違う。だけど同じ?
 薄れていく——

 

 そして、reverse。

【過去からの逃走】

 少女に手を引かれ、リチャード・ウォンの豪奢な私邸の一室を出ようとする少年がふと足を止めた。少女の手を気にもかけない、自然だが強引な足の止め方だった。
 意識はほとんどないはずの少年のその行為に眉を寄せた少女が、声をひそめて訊いた。
「どうしたの?」
 立ち止まった少年の虚ろな目は、部屋の隅にわだかまる闇のような彫像を捉えていた。
 否、彫像ではなかった。人だった。腕を大きく振り上げたまま動きを止めた人間だった。長身で、白い服をまとった金髪の男だ。彼のポーズには次の瞬間の動きを予測させるような躍動感が秘められているものの、そこには既に生の輝きはなく、息をしていないことが一目で見て取れた。
 今にも腕を振り下ろそうとする姿をみとめた少女はびくっと身を震わせたが、すぐに安堵のため息をもらした。
 襲ってくることはない。男を前にして少女の恐怖感は消えた。彼女はもう死体を見慣れていた。怖いのは、自分へ攻撃を向けてくる敵だけだ。
「行こ。早くしないと危ない」
 少女は強引に少年の手を引いた。少年はもう抗わなかった。再び意思を失くし、ふわふわとした足取りでついていく。
 
 その頬に一筋、かすかな涙が伝ったことに少女は気づかなかった。

【絶えた祈り】

(刹那……君の最期の瞬間に、僕はいたかい?
 一瞬だけでも、本当の気持ちをぶつけ合えれば。でも、これで良かったのかもしれない。
 こんな僕たちの想いは、どこかに消えてゆくんだね……)
 
 微かな呟き。
 それは、薄くしか残っていない、遠い過去に抱えた罪の意識。
 
〈そして世界は 僕らを失う〉

 

完結