八、


 一九九六年一月九日。私はタヒティ島に来ていた。到着は夜。飛行機のエアコンから放たれてタラップに踊り出ると、再び南太平洋のむら気のある湿気を嗅いだのだった。その匂いはサモアとよく似ていたが、白みを帯びていたことで、また別の味がした。うつろいがこの味付けの手伝いをしたようだった。
 ファッアア空港からタクシーは、すぐにパペーテの町に入って、「ホテル・コンティキ」の前に乗りつけた。街灯は湿った夜霧の幻想を、はじける泡のように(みなぎ)らせていた。
 ポーターに部屋まで案内され、一人になると、私はついにここまでやって来た、と感じた。そしてその次にヒナノのことを思いだした。偶然(コワダンス)とはいえ「あの人」のことでいっぱいだった頭の中に、ポリネシア式微笑をもってすべり込んできた女、ヒナノ。
 私の手の中には彼女からもらった電話番号のメモ書きがあった。そしてここタヒティの地を踏むまでにたどった経路が、その時の脳裏に(よみがえ)った。
 サモアの首都、アピア郊外のゴルフ場の隣りにある〈酋長(ファンガ)( ア)(リッイ)〉空港から米領(アメリカン)サモアのトゥトゥイラ島に飛び、そこのパンゴパンゴ空港からはハワイ行きのハワイアン・エアーラインに乗ってホノルル空港まで到着した私は、計画通りハワイでの半日の滞在後、何食わぬ顔でもう一度ホノルル空港に赴き、そのままタヒティ行きのハワイアン・エアーラインに便乗した。
 すべては当初たてたもくろみ通りに事が運んだ。今、こうしてパペーテのホテルのベッドによりすがっていられること事体が夢のようだ。
 私はサモアとハワイ間の往復切符とともに、ハワイとタヒティの往復切符をひそかに別の旅行代理店から入手したのだった。タヒティに向かったことは、恐らくは誰一人として知らない。
 「フランス語(パルレ ヴー)お話し(ル  フ)()なって(ンセ  )?」
 ヒナノとはタヒティ行きの機内で同席した。シートに落ちつくと、彼女はすぐ隣りに座っていた東洋人と目が合ったために声をかけたのだ。
はい(ウィ )(アン)少し( プー)。」
私がこう答えると、ヒナノは明るいメロディのような笑顔を見せた。その頬のたるませ方は、南国のビートを(かな)でるように、サモア人のそれと酷似していた。ハワイの、短時間の滞在だけでも、彼らハワイ人たちが日本人に見せるビジネスライクなスマイルに嫌気がさしているところだった。ヒナノは、潮くさいが太陽の色をした、サモア人のあの大らかな笑顔を三日ぶりに思いださせてくれた。
 「あなた(ヴー ゼ)(ット)中国人( シノワ)?」
いえ(ノン)日本人(ジュ スイ )です(ジャポネ)。」
それ(アロ)じゃ(ル )英語(セ ビ)(アン)話した( コン パ)ほう(ルル )()いい(ングレ)のかしら。」
そのほう( セ プリュ)(ファ)(シル)とって(  プル  )( モ)(ア )です(    )ね。」

 驚いたことに彼女は英語が堪能だった。ハワイの大学で経済学を勉強していると言うので、考えてみればそれは当然のことだ。
 それから私たちは互いに英語で話すようになった。
「あたしの名前はヒナノ。」

「ヒナノ・・・・・・」
「なに。」

「日本人の名前みたいに聞こえる。」

「あら、そう。日本でも女性の名前なのかしら、ヒナノは。」
「わからないけど、あるとしたら、やっぱり女の子の名前だろう。」
 私たちの会話はだんだんと弾んでいった。彼女はハワイにはたくさん日本人が居るが、日本人と話すのはこれが初めてだと言った。
「今は経済学を専攻しているけど、将来は観光業にたずさわりたいと思っているの。そう、いつかは日本にも行ってみたいわ。ねぇ、日本のどこから来ているの。」
「日本の・・・いや、確かに僕は日本人だ。でも今は日本には住んでいない。実はサモアから来たんだ。」
「サモア?」

「あぁ、同じ太平洋の島・・・・・・知らないのかい?」

「サモア・・・確かに、そういう島もあったと記憶しているわ。でも何でサモアから?――分かった、お仕事をしているのね、そこで。」
「いや、仕事ではないんだが。」

「じゃ、何をしているの。」

「その・・・ボランティアを。」

「ボランティアっていうと?」
「つまり・・・音楽を教えてるんだ、そこで。」
「あぁ、先生なのね、あなた。」

「まぁ、そんなもんかな。」

 私は自分の身分を説明するのに、ここまでもたびたび苦労した。意外にも「ボランティア」は意味がなかなか通じない単語だった。「僕は音楽の先生」――そう名乗ったほうが簡単だったし、相手もそれを聞くと納得した。
 「あなたの名前をまだ聞いてなかったわね。」

「カズヤ・フジイ。カズヤと呼んでもいい。」

「カズヤ、あたしのおうちの電話番号をここに書いておくわ。」

「そうか、じゃ僕もサモアの住所と連絡先を・・・」
「いらないわ。又会うでしょうから、その時に。いい?忘れないでよ。必ず電話してくるのよ、絶対に。」――
 ・・・・・・ホテルの部屋の電話機が目に止まったので、さっそくヒナノのうちに電話してみようかと思ったが、二日に渡る機内泊で疲れていたこともあり、さっき別れたばかりの彼女がもう帰宅しているという確信もなかったために、その日のうちに電話することは控えて、すぐに寝に入った。
 翌日、朝っぱらに売店で買ったサンドウィッチで軽い食事を済ませると、私は町中で旅行代理店を探した。そこでタヒティの島めぐりをするための飛行機の周遊券を手に入れるためだ。晴れてはいるが、カラリとした空気はない。蒸気じみた微風は、いつも(かす)かに青空を(かす)ませていた。
 町の中心街、ポマレ通りに面し、道からは心持ち奥まった所に、( アル)(ク アン )(シエル)という名の付いたそのトラベル・エージェンシーはあった。
 南太平洋に()える虹は、(まさ)に大空に(そび)える(アルク)であることを見せつけた。赤・橙・黄・緑・青・藍・紫に際どく光る虚空のアーチをまの当たりにして、印画紙に打ちつけられたようなその見事な出来栄えに私は、よく言葉を失ったものだ。虹は、幼い頃絵本の中で見たときのものと、全く同じ姿をしていた。運が良いと、虹はふいに二重になる。虹の向こうにまた虹が生まれ、それぞれの二本の脚で大地に踏みおろしてデュエットを演じる。
 その優雅な自然現象を店の名前にしていた旅行会社で、私はエア・タヒティの周遊券を買った。応対した従業員はひどいフランス語訛りの英語を使う男だったが、普段は二万CFP(一CFP《太平洋フラン》はほぼ一円だ。つまり二万CFPとは二万円と計算すればよい)のコースを、今はシーズンオフだから一万四千CFPでサービスしている、と言ってチケットを私に差しだした。
 コースには、二週間以内という期間制限でボラボラ島、ライアテア島、フアフネ島、モーレア島にタヒティ島の、直行便を除いたすべてのフライトが含まれていた。
 そのチケットを安く入手(ゲット)したことを私はあまりうれしくは思わなかった。男はさかんに「今はシーズンオフだから」と言ったが、正しくはそのような理由ではないことが容易に推測できたからだ。
 嘘だろう、やはりこの閑散とした観光地の町なみは、あれのせいなのだろう。「(ニュークルール)」の。
 誰も一言も核のことを口にしなかったが、旅行者がいつになくまばらであることは明らかだった。町の中央市場では、売り子のお婆ちゃんたちが何くわぬ顔をして近海で獲れた魚を陳列させていた。彼女たちの鷹揚(おうよう)な目は「あたしたちは何十年も前からここで魚を売ってるんだから」と語っていた。
 しかし、市場にはいつもの活気があるはずもなかった。
 私はその片すみで、ふと椰子の実が売られているのを見た。驚いたことに、それらは外皮をはがさずに、本体の木から切り落としたままの姿で、商売用の四つ足キャリアの上に山積みにされていた。サモアでは、市場に陳列する時点では、外皮をはがし、内側の殻をきれいにむき出しにされた状態で置かれるのが当然だったのだ。
 しかし、よく見るとその椰子の実の群れはサモアで一般的な椰子(ニウ)とは違う品種だった。タヒティ人はその外皮の一辺を鋭い刃物でそぎ落とし、そこにストローを突っこんでココナッツ・ジュースを飲むのを常としているようだった。
 夕方になって、太陽が()いだ海面をそぞろに染めると、パペーテ湾の海岸線には、ぼちぼちとルロットたちが集まり出す。
 ルロットは二トン前後の屋根付きトラックを改造してできた移動式レストランで、「屋台」と表現した方がイメージは近い。中華料理、ピッツァリア、西洋風料理、クレープ屋、車の中のせま苦しい厨房で、運転手兼シェフの中国人、あるいはフランス人、あるいはタヒティ人、あるいはその混血がフライパン片手に腕をふるう。
 日が暮れる頃には、湾の広場に幾重にもルロットが立ち並ぶようになり、あたりには食欲をそそるいい匂いがたちこめる。どこからともなく、誘われるようにやって来る客たちははしゃぎ、騒ぎ、熱波(ねっぱ)の名残りに賑わいを添える。
 夜が来た。そこには二人ぐらいで小じんまりとやっているルロットもあれば、派手な看板を掲げてギャルソンや女給仕(フィーユ)を雇う人気ルロットもある。
 私は「中国料理〈ラ・キュイジンヌ・シノワーズ〉」と表の立て看板にある、全体を白くペイントしたルロットに目をつけ、カウンターの隅の席にさりげなく腰をかけた。
 座ってみると、ルロットの中は(もちろん頭上では雨よけのためにシートの屋根が覆っているものの)意外に殺風景で、白いペイントはむしろカウンターのラインを小ぎれいに見せた。


 店員はしばらく私には気付かないでいた。さりげなくおもむろに入ったからであろう。そして私と目が合うと、あわてた様子で体を揺らせてから口を開いた。
ご注文( アヴェ)( ヴ)お済み( デジャ)です( オルデ)か、お客(ムッシュ)さん(ウ   )。」
いや( ノン)( パ)まだ( ズアンコ)(ール)焼きそば(アン チャオメ)(ン )( シ)つくれ(ル ヴ プレ)。」
かしこまりました( ウィ ムッシュウ )。」
およそ中国人と日本人がフランス語で会話することほど奇妙なシーンはない。しかもそのステージはタヒティなのだ。
 そう、タヒティを訪れてまずびっくりしたのは中国人の多さだった。彼らはいわゆる「華僑」の人たちだった。その証拠にフランス語は使っても、決してフランス人やタヒティ人と結婚することはなかった。
 何を頼んでも食前にはフランスパンのこま切れが目の前にサービスされる。これは半ばしきたりのようなもので、たとえ私が中華料理屋に入っても、注文した後には必ずカゴに入ったフランスパンの切れ端を女給仕(フィーユ)は運んできた。
 ところでそのルロットで出された焼きそば(チャオメン)の逸品ぶりに私は堪能した。それは言ってみればただの焼きそばだったわけだが、日本を出発して以来、サモアのどんな中華料理屋でも味わうことの出来ない本格派の旨みを()きだしていた。
 私は一年ぶりに食による幸福感に(ひた)った。そういった意味ではタヒティ滞在の二週間は食べることの楽しみを久しぶりに享受することの出来る、貴重な日々となった。
 翌日、私はエアー・タヒティでボラボラ島へと向かった。ヒナノへの電話は結局出来ずじまいだった。前夜のルロットでの晩餐はかなり心地よく、真夜中近くまでそこに居残ってしまった。ホテルの部屋に帰っても、あとは寝るだけになった。時計の針はもう十二時近くを指していたのだった。
 ボラボラ島の村、ヴァイタペ。空港からの旅客用フェリーはそこへ乗りつけた。ヴァイタペは二、三の小規模レストランと、黒真珠のおみやげ屋がいくつかあるだけの、風情がかすれた村だ。そこは島の主な観光スポットとなるマティラ岬へのアクセスポイントでしかなかった。
 「泊まる( ケ ロテ)ホテル(ル アレ )()どこ( レス)だい(テ  )。」
ヴァンに乗った運転手が声をかけてきた。一人で停泊所にたたずんでいる私は格好の獲物だっただろう。
 「まだ(ジュ ネ )決めて(パ デシデ )いない(アンコール )でも(メ セ)安い( ビアン )(ロテ)(ル )いい(パ シェ)(ール)」――これは相手の気を引くための嘘ではなく、事実その時点では本当に泊まる所も決めていなかった。まず行ってみる、着いてみればホテルなど何とかなるものだ。私はそうた(  、)()をくくって旅に出た。
 そしてその風来ぶりを見すかすかのように、ヴァンの運転手は魚を引っかけたわけだが、私は逆にわざとその中年男に釣られたようなふりをしただけだった。
それ( サ )なら(ヴァ ビ)マキラ岬(アン シェ ポー)(リン)ポーリン( ア マキラ)がいいよ。連れて(ジュ ヴェ)行って( ヴ コン)あげよう(デュイール)。」
男が「マティ(、、)ラ」のことを「マ()ラ」と発音したので、私はぎょっとしてもう一度「マティラ?」ときき返した。

「ウィ、マキラ。」

――この発音変化は、サモア人にもまったく同様に見られるものだった!
 サモア人はよく「タ、ティ、トゥ、テ、ト」を「カ、キ、ク、ケ、コ」と言いかえて発音した(いわば「カ行」の発音が「タ行」の俗調として存在した)。これは我々が「知らない」を「知らねぇ(、、)」、「してしまった」を「しちゃっ(、、、)た」と発音を変えるようなものだと想像して頂きたい。たとえば「マタイ(家長)」は会話では「マ()イ」になったし、「マトゥア(親・年上)」はうちとけた仲の話では「マ()ア」と発音した。
 この共通性はタヒティに住むポリネシア人種がサモア人の祖先と深い関係を持つことを直感的に推測させた。(まさ)しくそれは、私がサモアに赴任する前にさんざん読んだ文献の実体験ともなったのだ。
 ヴァンは私一人という乗客を乗せて島の南西部に位置するマティラ岬へとひた走る。助手席から私は右手に、とびっきり澄みわたったマリンブルーがかもしだすリッチな風景と、海原にぽつりぽつりと散在する小島(モトゥ)を眺め、一方左手の運転手側には、彼の影を通して遠くに切り立った死火山の、頂上が平らにへずられた雄々しい姿に見とれながら、その二十分もかからないような行程を夢見心地のままに過ごした。
 運転手は「シェ・ポーリン」の前で私をおろすと、五百CFPをふんだくってからフロントの女に二、三の言葉をタヒティ語でかけ、再びヴァンに乗って消えていった。きっと次の獲物を探しに行ったのだろう。
 フロントの女はタヒティ人にしては細身の、ということはフランス人の血が若干は混じった、ある程度の英語が話せる、幼い子持ちのマダムだった。旦那がコテージのオーナーであることは、相手のほんのとるに足らない造作だけでも容易に推測できた。女の威厳が私にそう思わせたのだろう。
 「フロント」というといかにも聞こえはいいが、椰子の葉やパンダナスの葉でこしらえた、むしろ小屋に近いものだった。かろうじて屋根だけはあった。
 〈小島(モトゥ)へバーベキューの小旅行に行ってみませんか。もちろんボートは当コテージ持ち。釣りをするもよし、シュノーケリングするもよし、ゆったりと南の島の優雅なひとときを満喫するもよし。ご希望によっては鮫の餌付けもご披露いたします。半日コースと一日コース有り〉・・・私はフロントの隅で掲示されていた宣伝文を読んだ。思わず「参加してみたい」と思ったが、「一日コースが一万CFP」という値を見て尻ごみした。

 「海辺の二人用のコテージが一泊五千CFP。山側にもあるけどそこは出来たばっかりだし少し広めなので六千よ。どちらにする?」

フロントの若いマダムが傍らの幼な子をあやしながらそうきいたので、私は少し迷ってから「それだったら五千CFPの海辺の方にしようか」と言った。
「そう。今から案内するわ。見てから決めた方がいいわよ。」
 タヒティの高級・水上コテージなどは一泊四万〜五万するのが当たり前だ。それから考えるとその十分の一近い値で宿を提供する「シェ・ポーリン」などは日本でいえば民宿、あるいはそれ以下のランクで、私のような貧乏旅行人には非常に良心的な所だった。そしてそんなレベルの宿でも決してフランス風のホテル式流儀を怠っていないことは、さすがに立派だった。「最初に部屋を見てください、それから決めてください」――これは世界各国で共通の、「hôtel(オテル)」と呼ばれうる宿での決まり文句だった。この挨拶がない限りは「hôtel(オテル)」とは呼ばずに「hostel(ホステル)」と称された。
 二人用のバンガローに通されると、部屋の中は思ったよりも狭く、高床式の木造小屋にセミ・ダブルベッドが大きく場所を占めていた。物価の高いタヒティのことを考えると、五千CFP、このくらいの安価が関の山なのだろう。むしろボラボラ島のマティラ岬と言う、世界にも名だたる景勝地で、こんなにもわずかな消費のヴァカンスを満喫できるとしたら、それは幸運と言うべきだろう。私はマダムに即答した。
「気に入った。三泊することにするよ。」
「鍵は渡しておくわね。宿代はチェック・アウトの時にまとめて頂くわ。」
「マウルウル(ありがとう)。」

私は憶えたてのタヒティ語を早速使った。
「あら、タヒティ語を知っているのね。」
「いいや、知っているのは『マウルウル』と『イアオラナ(こんにちは)』だけだよ。」

「その二つを憶えてればもう充分よ。」
 マダムは茶目っ気ある笑顔で頬をゆるませると、フロントへと戻っていった。私は小屋の扉を閉めるとベッドに飛び乗って大の字に寝っころがった。これはどんなホテルに入っても、まず部屋で一人きりになるなり、必ずする行為だった。
 ・・・・・・ついにはるばる、こんな所まで来てしまった。私がそう思ったのはタヒティに来てから二度目だった。一度めは言うまでもなく、着いたその日の夜、「ホテル・コンティキ」の部屋のベッドに寝そべった時だ。
 ふと今さっきまで話をしていたマダムの陽気さを思い出す。彼女が笑う時にさらりと見せる何気ない仕草は、やっぱりサモア人がするものとそっくりだった。
 部屋にはつっかえ棒を支えにして開いている小窓があったが、そこからは輝く真昼の光が差しこんでいた。そして私は窓の向こうで風にたゆたうティアレの花を目をつぶりながらも想像した。そう、ティアレ、これこそが南洋に浮かんだあの芙蓉の花、つまりハイビスカスだった。その鮮やかな赤さは、かすかな香りを晴れわたった青空に漂わせてるはずだった。花弁にちりばめられた黄色や黒色の斑点は、おぼろげな香りを放ち、永遠(とこしえ)のまどろみへと誘っているように思えた。
「あの人」がここにいる、いや、いたなら。――私は窓に近づき、つっかえ棒をはずしてから片手で扉を前に押しひろげた。しばし太陽をもろに浴びて目が(くら)んだが、だんだんと視界がはっきりしてくるうちに、目の前には幾重もの水上コテージの姿が映えた。それは隣りの豪華ホテルの水上コテージの群れで、ハネムーナー用のスィートルームだった。
 楽園だ、自分は今楽園に来ているのだ。・・・案の定、ティアレの花は向こうの方で(ほの)かな風になびいていた。発散した香りは私の鼻元まで伝わってくるように思えた。
 香り、カオリ――水上コテージの中には床面がガラス張りになっているところがあり、そこからは天然の水族館を眺めることができるという。「あの人」といっしょに四つん這いの肩をつき合わせて、熱帯の彩り深い魚たちを眺める時間を過ごすことが出来たなら。
 あぁ、そんな時の自分ときたら、恐らく魚の観賞どころではない。すぐそばに息づく彼女の肉体に溺れてしまうことだろう。・・・・・・ワンピースの水着の、肩口からのびた二の腕はしゃきんと床に着いた肘先のところで鋭角に折り曲がり、両の掌で頬づえをついている。背中から腰、そしてお尻には余分な描線はいっさいなく、僅かに透けた背骨の反りぐあいさえも悩ましい。狂おしい股間からはすべるように白い太腿がおりて板張りの床で愛らしい膝小僧が直角に折れる。ふくらはぎの筋張った肉づきがかかとまで波のような弧で結ばれ、かわいいくるうぶしは(まさ)悪戯(いたずら)をしてあげたいほどのいじらしさなのだ。
 もう一度股間に目をやる。そこで私は女との同化を求めるのだ。そのためにはそれを舐めない訳には行かない。海も、コテージも、部屋の中の暗がりも、ガラス越しに映る魚たちもすべて味方に従えて、舌先をつき出して愛撫しなければならない。めくるめく天然の欲望を満たすためには、さらにむき出しの恥部から彼女の悦びを吸い取ってあげなければならないのだ。

私は自分の股間の(ふく)らみにしびれたので、そのまま白昼夢から引き戻された。確かにここは楽園だ。楽園だが、そもそも楽園というのは「あの人」がいてからこそ楽園になるのだ。「あの人」のいる所は地球のどこでも楽園であり、「あの人」のいない楽園は、果たして楽園だったのか。
 今は二人ともサモアを離れ、「あの人」はクック諸島のラロトンガ島に居るか、それか二番目の目的地であるニュージーランドを回っているはずだった。私はサモアから脱出することを、あたかも籠の扉が開いてから飛びたつ鳥になるようなものだと考えていたので、米領(アメリカン)サモアへ行き、ハワイ滞在の半日をホノルル近くの安宿で休憩を取り、トランジット後のハワイアン・エアーラインに乗ってタヒティに変路するまでは、気分がやたらと爽快だった。
 新しいもの見たさの好奇心と、渡タヒティ禁止条例に違反してまでそれを強行した後ろめたさとが、良心をかき乱してその時はそれなりに目眩(めまい)を覚えるような刺激になった。なるほど渇望と罪悪の心境的同居とはこのことか。私は銀行強盗の犯人が味わうことの出来るスリリングな精神状態をほんの少しだけ噛みしめたような気になった。
 しかし、いざその目的地まで大した難もなく着いてしまうと、今度は贅沢にも物足りなさを感じるようになった。
 私を慰めるものはむしろこの美しい海だけになったのだ。


 たそがれ時、夕陽に色めくその海を、静かな(なぎ)が細かく点々と太陽の反射を(きらめ)かすのを見ながら、ビーチサイドを歩いて渡った。踏みしめる白砂は涼しさが心地よく、一歩進むごとに足の裏が砂地にくい込んで、そのまま履いていたサンダルが砂に持っていかれそうになる感覚は、やっぱりサモアと同じだった。
 ホテルのフロントを抜けて、さらにアスファルトで舗装された車道を横断すると、さっきマダムが説明していた山側のコテージが立ち並ぶ土地に入る。そこへ足を踏み入れるとすぐ左手に「スナック・ポーリン」と表に書かれた簡易レストランがあった。
 まだ時間が早いせいか、客は誰もいなかったが、手前の目にとまった席に腰をかけるとすぐに女給仕が駆け寄ってきた。奥からはにんにくをオリーブ油で炒めた、ジューッという音がして、いい匂いがたちこめてくる。
 「( ケス)( ク)します( ヴ プロネ)か、お客(ムッシュ)(ウ )。」

女は二十歳を過ぎたくらいの若さで、パァレオをきちんと(まと)い、片耳にはティアレの花を差していた。
 その晩のメニューは二つしかない。〈生魚( ポワソン)白ソース(クリュ   )あえ〉か〈銀マダイ(マヒマヒ)のガーリック焼〉、選択肢はこれだけだ。なるほどそれだから「レストラン」とは言えずに「スナック」なのか。
 「〈銀マダイ(マヒマヒ)のガーリック焼〉を下さい。」
かしこまりました( ウィ ムッシュウ   )お客( エ ル )(ボワソ)(ン )お飲み物(ムッシュウ  )(ヴ )(ビュヴ)(ェ )何か(ケルク )お持ち( ショーズ )しましょうか。」
ビール( ドゥ ラ )(ビェ)いい(ール セ )(ビアン)。」
「ヒナノ・ビール( ヴ)よろしい( ゼメ  )ですか。」

「えぇ、ヒナノで。」

 ヒナノ・ビールはタヒティの地ビールだったが、その名を聞くたびに私はヒナノのことを思い出した。そうだ、彼女に電話を入れなければ。
 しかし、ボラボラ島からヒナノに連絡をすることなど途方もないことだ。私は、飛行機で交わした彼女との会話の中で、こんなことをヒナノが言っていたのを憶えている――「タヒティ人って、自分たちの島々の間では余り行き来しないものなのよ。あたしもボラボラ島には行ったことがないわ。小さい頃にフアヒネ島には行ったことがあるけど、それきりね」・・・フアヒネ島、それは私が最後に訪れることになっている島だった。
 出てきた〈銀マダイ(マヒマヒ)のガーリック焼〉は思いのほか食べごたえがあって、充分に満足のいくものだった。つくづくフランス料理の偉大さを味わったのだ。
 その晩はヒナノ・ビールを何度もおかわりしたせいもあって、かなりのほろ酔い気分になってコテージに戻った。蚊がひどく踊っていたので持参した蚊取り線香に火をつけなければならなかった。
 消灯する。潮騒だけが耳に響いて時々集団用のコテージで談話をしている西洋人たちの嬌声がそのかすかな音に混じるだけだ。あの波が打ちつけ泡がうねるザザーという音は、遠く離れたサモアでも必ずしているはずだった。
 次の朝、目覚めてから共同の洗面所で顔を洗うと、鏡の中の自分はもうかなり一人前の(ひげ)(づら)になっている。サモアを発って以来、一回も剃っていないのだ。意図的に伸ばしていたのだが、これといって特別な理由はなかった。あえて言えば、十代(ティーンエイジャー)の旅行者に見間違えられないためだった。東洋人はしばしば若く見られる。ビールなどを頼むと年齢をきかれることもたびたびある。鬚を生やしていると年相応に見られるので例えばホテルで交渉などをする時でも、相手側に見下されないで済むのだ。
 青空を拝めば雲ひとつない。こんな爽やかな朝があるだろうか。私は朝食も摂らないうちに水着に着がえてマティラ岬の西側の渚へと足を運んだ。そこは最も素晴らしいサンディビーチだった。泳いでも泳いでも水深は胸のあたりより深くはならない。沖に向かって縦に百メートルほど泳いでみる。まだ水面は胸よりも下、いや、かえってさっきより浅くなったかも知れない。腰の上くらいだ。今度は海岸線に沿って平行に五十メートルほど水を掻く。眼前の世界は白砂が浮き立たせる真珠色でいっぱいだった。水はこれ以上ないくらいに透明色のしぶきをあげている。魚はいない。一匹とて魚の影は目の中に入ってこない。あるのは、海の存在と自分の思考だけだ。

 こんな、まるでプールのような海で泳ぐことは、幼い頃からの夢であったことを思い出す。プール?夢?海よ、お前は本当に海なのか。自分は本当は夢の中に居るのではないか。私は顔を上げて潮を舐めてみた。塩辛い。確かにお前は海であり、その水が塩辛いのはこれが夢ではないことの証拠なのだ。
 地球をぐるりと見回してみる。胴体を軸にして「まわれ右」をするように一回転するのだ。自分のほかには誰一人として泳いでいる者はいない。そのことを確信する時の喜び。
 このボラボラ島のマティラ岬(そこは世界中のダイバーたちのメッカだったはずだ!)、そこの浅瀬の海を、自分は今独占している!
 見よ!地球はこんなにに美しい。私が今この美と一体になれるのなら、死んでもかまわない。いや、死はかつて地球から分離したこの肉体が元に戻るだけのことなのだ。死ぬこととは、そんなに大それたことではない・・・・・・。
 宿に帰ると、若いマダムは正面のゲートで掃き掃除をしていた。
「イアオラナ(おはよう)。」
「イアオラナ、あら、泳いでらしたのね、こんな朝から。」
はい(ウィ)。」

「ところで踊りはもう見ましたか。」

「踊り・・・いや、まだ。」

「それともタヒティの踊りは興味おありでなくて?」

「いやいや、ぜひ観てみたい。」

「今夜隣りのホテルのラウンジでタヒティアン・ダンスの演舞があるわ。見るだけならタダだから行ってみるといいわよ。」
 タヒティの踊りは「タムレ・ダンス」とも呼ばれた。打楽器の強烈な拍子とともに、ウクレレとマンドリンの合いの子のような弦楽器の伴奏で陽気な歌がうたわれる。特筆すべきは、やはり踊り子の動きとそれを引き立たせるいでたち(、、、、)だろう。
 まず男も女もパンダナスの葉で編まれた(かんむり)をかぶる。その冠はときに鶏の羽根で装飾され、大げさなものになると高さも幅も一メートルに及ぶ。次に首飾り(レイ)、これも必需だ。これには花びらでつくられたものと、冠の材料と同様、パンダナスで出来たものとがある。
 そして腰みの。パァレオを下地に巻き、さらにその上から椰子の葉やパンダナスの葉を細切りにしたヒラヒラを垂らせる。
 女は椰子の実の殻などでつくられたブラをする。男の上半身はもちろん裸だ。そのかわり男はすね(、、)巻きをあてる。この材料にも椰子の葉やパンダナスが使われる。
 基本的にはサモア人が踊る時の格好とさほど変わらない。椰子の葉は濃い緑を、パンダナスは畳のような色をつくる(編まれる前に必ず天日に干されるためだ)。緑葉色と麦色のコントラストがまた自然の鮮やかさを(かも)すのだ。
 女は腰を小刻みに振るわせて踊る。男はそれに応えるように()()股の膝を蝶のようにたたんだり開いたりしてブルブルさせる動作をくり返す。この男女のシェイクダンスがデュエットで、しかも半裸のままくり広げられるものだから、相当に不埒(ふらち)なシーンが目の前ではなはだしくも再現される。
 なるほどキリスト教の伝道師たちがこの踊りを禁止にしようとした理由もうなずける。
 しかし、どうだろう。人間にとって踊りとは、そもそも「神に捧げる」という大きな目的もあったが、もう一つ、異性を誘うためのセックス・アピールでもあったはずだ。つまり女はただ女であることを強調し、男はひたすら強靭な肉体美を誇負するのが、踊りの源ではなかったか。
 あたかも雄の鳥が雌に求愛のダンスを捧げるように!そう、人間などは動物と少しも変わることはないのだ。雄は雌の気を引き、雌は雄に誘いをかける。何のために。――つまりはただ生殖のためだけに。

見よ!少年は年頃になった時からセックス(あれ)のことしか考えない。少女はセックス(あれ)のことしか話題にしない。
 もしかしたら人間がこの世で発明した唯一のものは「神の存在」だけかも知れないのだ。
 しかし、キリスト教の「神の下僕」たちは、タヒティの、最も自然な、この上なく動物的な踊りを(さげす)み、そして否定した。あぁ「タムレ・ダンス」こそ美を極めた「神の産物」だったかも知れないのに。
 ともかくも、かつて宣教師たちは、目も当てられないほど猥褻(わいせつ)なこの男と女の踊りを、「卑俗で羞恥に満ちたもの」として、いっさいの実演を禁止にしてしまった。

 しかし、時は過ぎ、二次大戦の幕が閉じると、タヒティは観光業に着手し、確実な利益を得るためには客寄せとしてのタムレ・ダンスの復活が余儀なくされた。

地下世界で口頭伝授され続けたタヒティの踊りが再び明るい太陽のもと、本来の姿が日の目を見ることになったのだ。
 私は、夜の一流ホテルのラウンジテラスにたたずんで、この荒々しいダンサーたちの微動と挙動に見とれていた。その晩、コテージのマダムの説明通りに隣りのホテルが催すダンスショーに忍び込んだのだった。
 踊り子たちは、したたる汗に若さを、叫ぶかけ声に熱い思いをこめて立ちまわった。激しいビート、調子のいい弦楽器と和声(コーラス)。女たちは肉迫的なお尻を振り、太腿とふくらはぎをなよやかにくねらせ、両の手を柔らかにしならせる。腰みのは彼女たちの女性自身を増幅させる。いっそう女っぽさを引き立たせるのだ。男たちは均整のとれた胸の筋肉を(さら)し、全身の動きと吠えるようなかけ声で力強さを(みなぎ)らせる。腕と太腿に刻まれた刺青の幾何学的な文様が生命を(たくま)しく讃えている。
 ひと通りショーが終わると、今度はテラスにいる観客の何人かが踊り子たちに誘い出されてタムレ・ダンスを興じる。慣れない客はぶざまながに股を見せて笑いをかい、滞在してから何日もたつ客などは中々な脚さばきを披露して賞讃とからかい(、、、、)の拍手を浴びた。
 確かに、タヒティの踊りは素晴らしいものだった。しかし一方ではその中身にどれだけのショー的要素が組み込まれていたのかを(いぶか)る気持ちもあった。というのも、どうせ観るのなら私は見世物としての舞踏よりも、人々が日常の生活の中で演じている踊りの方を知りたかったからだ。しかしそれに遭遇することは、私のようなただの観光客にとっては難しいことだった。
 ホテルの広いラウンジテラスには、清潔なクロスで覆われた丸テーブルが並び、客のほとんどが西洋人だったが、家族連れやリタイアした老夫婦、ハネムーナァたちが皆籐椅子に座ってくつろいでいた。
 私は大理石風の円筒形の柱に半身をもたげて、突っ立ったまま踊りを眺めた。奥の方にはカウンター・バァがあって、そこでも何人かが首振り椅子に足を組んで座り、身を反らせながらステージの方を向いている。そのステージはテラスの中では建物の屋根が丁度途切れる所にあった。観客はあたかも夜空を背景にショーを見物するような形になっていた。
 ふと私は傍らで展開される私と「あの人」との幻影を思い浮かべてしまう。丸テーブルで向かい合い、余興を満足げに堪能したふりで睦まじく顔を近づける私と「あの人」。女は長い髪にソバージュがかけられ、黒いドレスを身につけているが間違いなく「あの人」であり、男のほうはアロハシャツを着ているが疑いもなく自分自身だ。
                                    
 二人はもったいなげに、パッションの軌道を辿(たど)るような接吻をする。触れ合う唇が無害だと感じる時ほどその接吻が神聖だと思う。この接吻は献身なのだ。相手を憧れる気持ちへの。
 この二人には本当は今の状況(シチュアシオン)は少し不似合いだ。場所はもっと暗く、ブラックライトのきいた、そう、例えば「ビリーズ・ベイ」のようなナイトクラブがいい。やかましい音楽が横行し、男女の享楽が行き交う空間が欲しいところなのだ。
 小汚くペイントされたテーブルに並んで、私が「あの人」と唇を重ねる。――このシーンは、皮肉にもタヒティで、私と「あの人」との理想的な関係を示した映像、一つの象徴としてこの時以来私の胸の内側に刻印された。ネオン、ソバージュ、黒のドレス、白い顔、真っ赤なルージュ、黄色いウィスキーボトル、紫色のたばこの煙、ジントニックに澱むライム、そういった小道具のひとつひとつが記号のようにそのシーンの必需品として体系化された。
 それから比べると今居るこのホテルのラウンジは、ディスコのような喧騒もなく、ショーが終わってしまうと、ただ客の話し声の上にかすかな潮騒が流れているだけだ。照明も蛍光灯ばかりで派手さに欠ける。
 だが、私はそこでこうとも思ってしまった。「この次は『あの人』を連れて来て見たい」と。「いつかまたこの地を踏む機会があるのなら、その時はきっと『あの人』と一緒なのだ」と。
 この思いは希望的観測と、一人よがりな夢想がこめられていたので、初めから実現の見込みはなかったというのに。

 

 


   ――――――――――

 

 

 

 さて、何か静謐(せいひつ)な時の流れがそよ風よりもさりげなく、おぼろげに過ぎていく――。

 ・・・・・・ボラボラ島の滞在は予定通り三泊となり、一月十一日の夕方、次の目的地であるライアテア島を目指すべく、私はボラボラ島の船着場のあるヴァイタペで空港からの送迎フェリーを待っていた。
 「シェ・ポーリン」へと連れて行ってくれたあの初老のドライバーは、三日前、真しくここで私をつかまえたのだった。
 ライアテア島行きの飛行機の出発時間は五時二十分だった。ヴァイタペの船着場から空港までフェリーは三十分を要する。
 四時四十分、フェリーが来ない。本当は四時に来るはずのものだ。すぐそばの入江ではタヒティの子供たちが港に飛び込んではじゃれ合って戯れている。
 四時五十分、まだ来ない。待ちくたびれた西洋人たちが何度も腕時計とにらめっこしながらぶつぶつと文句を言い出した。
 ついに五時を超えた。いくらなんでも一時間の遅刻はひどい。これではどう計算しても五時二十分の飛行機の時間には間に合わない。

「何をやっているんだ、我々は今日じゅうに発たなければならないんだ。こんな所でまごついている暇などは持ち合わせていないんだ。ほら見ろ!もう五時を過ぎている。どういうことだ。船はいつ来るんだ。」

ついに西洋人たちは不平を言い出した。
 そこへタヒティの老婆が口を入れた。彼女はフェリーが連れてくるその日の最後の客を待ち受けている、何処かのホテルのメイドだったのかも知れない。老婆が発したのは、果たしてとてもつたない英語だったが、その言葉の足りなさが、かえって西洋人がはめている腕時計やそのデジタル表示を小馬鹿にしているように響いた。
「大丈夫、飛行機はいつでも友だちを待っていて、おいて行かれることはないんだよ。」
 それを聞いた白人たちは目を丸くした。老婆の言葉に不意をつかれたのかも知れないし、ただ閉口しただけなのかも知れない。彼女は「お客( ゲ ス)さん()」という単語も「旅客(パッセンジャー)」という単語も知らなかったのだろう。かわりに「友だち(フレンド)」を使った。その「フレンド」と言った表現が我々の虚をついた。
「皆な友だちなんだよ、友だちに腹を立てても仕方がないじゃないか」老婆の言葉があたかもこのように翻訳されて、心に(なご)やかさを広げた。
 そこにはいらだちの汗を(ぬぐ)っていくタヒティの風があった。
 五時十分を過ぎ、ついにフェリーが波の静けさとは不釣合いなエンジン音をたてて姿を現し、飛行機は三十分遅れでボラボラ島を飛びたった。
 数十分とたたないうちにライアテア島に降りたつ。それは機内でサービスされたオレンジジュースが飲みきれるかどうかほどの短い空の旅行だ。
 このライアテア島で私は、その中心となる町、ウトゥロアで逗留することに決めていた。
 空港でウトゥロアの町にある簡易ホテルを予約すると、今すぐ送迎のために車がやって来ると言う。
 小型のヴァンで迎えのために現れた男が中国人だったのでびっくりした。
( )(ヴ )着いた( ヴネ ダ)ばかり(リヴェ  )ですか(  ム)(ッシュ)お客(ウ    )さん?」男が流暢なフランス語できいて来たので、思わず私は「( パル)(ドン )」ときき返してしまった。すると、少しだけ間をおいてから、今度はゆっくりと尋ねてくる。
「英語でもよろしいですよ。フランス語と英語、お客さんの都合のいい方で喋りますから、どちらがいいかおっしゃって下さい。」
 ・・・ウトゥロアの町に着くと、そこはさながらチャイナタウンとも言うべき様相だったので、そのことが二度めに私を驚かせた。店も、レストランも、ホテルも、オーナーはことごとく中国人だった。
 チャイナタウンは世界各国、どこに行っても見ることが出来る。ヨーロッパ、ロンドン、アメリカ、ホノルル、東南アジア、ジャカルタ、豪州、オークランド、そして横浜。しかしフランス領ソシエテ諸島・タヒティの一角、ライアテア島で見られるとは。
 しかもここの偉大な華僑たちは、フランス語を使い、ビジネス用の英語を学び、日常用語としてのタヒティ語をたしなみ、さらにもちろんのこと、母国語としての中国語を喋る。
 ハワイの華僑は英語に加えて、日本語も出来なければ話にならないほど、日本語の能力が重要視されていた。世界中どこに行っても中国人は寛容なのだ。
 ライアテア島はかつてポリネシア人同士の交流の基地であったと言い伝えられている。ポリネシア最北端のハワイをはじめ、西のはずれのマルキーズ諸島、そして東方はクック諸島を越えてニュージーランド・マオリ族まで。ちなみにポリネシア文化圏は太平洋上で線を引っぱって見ると、アメリカ合衆国の広さなどは大きく凌駕(りょうが)して南米大陸の面積に迫るほどの巨大な地域なのだ(東のはてはあの(、、)イースター島になる)。
 中でもライアテア島は地理的に重要な意味を持っていた。しかし二十一世紀を間近に控えた今日、商業的に最も腕を振るっているのはタヒティアンでもなく領主国のフランス人でもなく中国人であるということは、特筆すべきことだった。
 ネイティブ=タヒティアンはいつも大らかで、そして心あるサービスでもてなしてくれる。しかしその反面いい加減さもあり、気遣いに欠ける点で難だったものの、この特徴はサモア人の持つそれとまるで似通っていた。
 それに対し中国人のサービスは、こと細かくすみずみまで目が行き届いていた。タヒティアンよりはよそよそしい所もあるが、それは民族性というものだろう。過剰なフレンドリーさは時として目に余るおせっかいにもなりうる。親切心が逆に客のプライベートを犯してしまうあだになるのだ。
 その点で中国人は「客は客、迎える方は迎える方」という線引きはしっかりしていた。
 中途半端なのはフランス人だ。彼らには根本的に東洋人を見下す姿勢がありありと(うかが)え、それによってにじみ出る矜持が、客に対してへりくだる気持ちを失わせ、元来の「奉仕(セルヴィス)」というものが持つ美徳を狂わせているように映った。応対、言葉使い、会釈の仕方、笑顔(スリール)、緻密な気くばり。――これらすべてがタヒティアンのそれよりも劣って見え、中国人のそれよりも物足りなさを感じさせた。
 フランス人こそ他の現地人のお手本となるべきなのに。彼らには既に植民地時代の王道を闊歩することは出来ないとでも言うのだろうか。「古き( ベル )良き( エポ)時代(ック  )」はやはり忘れ去られた遺物だったのか。彼らは、大きく威張るための胸は残しても、前に進むための足をどこかに放棄してしまった。
 ライアテア島の町、ウトゥロアの簡易ホテル(といっても大理石風の立派なつくりで天井扇風機付きの部屋(シャンブル)だった)で一泊した後に、貸し( レンタ)自転車( シークル)を手にした私は、島の南東部にあたるオポア村を目指してペダルを漕いだ。片道三十五キロメートル、目的地はタプタプアテアのマラエだ。
 マラエとは「神聖な場所」という意味があった。サモア人の言葉で「マラエ」と言えば、それは「人々が集まる広場」を指したが、タヒティで「マラエ」と言えば、そこには神殿があり、祭壇があり、それを囲う石垣が建てられていた。人々はそこで様々な神に捧げる儀式を行った。食人のための生贄を奉ったのも、真にこの台座(しとね)においてだった。しかし今やこれはただの「歴史」であり、現存するマラエはそのための基礎の部分や、壁の跡だけだったりした。
 朝早く、まだ涼しいうちからホテルをスタートしたとはいえ、オポア村までの行程は難儀を極めた。日の差し込める角度が高くなるにつれ、息は少しずつ切れていく。タヒティ独特の湿気がいらだちを誘い、いっそう私に疲労感を与える。
左の方から立ち込める海の美景とはうらはらに、このしんどさは、私が根をあげるほど両肩に重くのしかかり、行く手を遮る。呼吸がついにもたなくなると、ペダルの回転を止めて、道端で休息を入れた。
 日陰でくつろぐと、たちまち第二の襲撃隊である蚊たちの集中攻撃を浴びてしまう。私はそれを避けるために、わざと日なたに腰を下ろす。すると毒気を帯びた太陽の光が、惜しげもなく私の素肌を(さいな)むのだ。
 しばらく小休止を入れると、私はとりつかれたように、サドルに脚を組んで、ペダルを漕ぎはじめる。――このくり返しを何度重ねただろうか。目的地まであと六、七キロという所まで迫ると、今度は信じられない障害が私を待っていた。

・・・・・・無舗装道路。ある時突然アスファルトの車道が途切れて、軟土のでこぼこした道が露わになり、ガタゴトとした揺れに耐えながら進まなければならなくなった。既にウトゥロアの町を出発してからは二時間を経過している。車輪がガツンガツンと道の凹面にぶつかるたびに、その衝撃はサドルを通して股へと伝わる。ただでさえ朝から股ずれの厳しい股間へと。耐えられなくなると、次は立った姿勢のままでペダルを漕ぐ。最初のうちはそれで良い。しかしその体勢もしばらく運転していると、今度はでこぼこ道の振動が掌へと、まるでその皮をむかんばかりに圧力を与えてくる。辛抱しきれなくなると、股をサドルの上に乗せるが、その時の股に感じる激痛ときたら、ほかに例えようもない。
                                    
 ついに往路だけで携帯したミネラルウォータのプラスティックボトルの半分を費やしてしまうという不覚に陥りながらも、やっとのことで私はタプタプアテアのマラエまで到達した。そのマラエは緑あふれる森の繁みの海岸線に、マングローブの悠然さと付き添うような形で存在していた。敷地面積はすべてを含めると一ヘクタール、つまり野球場くらいの広さの中に石垣の跡だとか、祭壇の亡骸(なきがら)だけが現存していた。
 ビーチに沿ってたたずむ高さ二、三メートルの石垣、それに守られるように足もとでは石畳が織りなされる。この石畳はかつて生贄を奉った時の祭壇の名残なのだ。
 私はその縦二十メートル、横三十メートルほどの石畳の脇に、ポリネシア式の男根像をみとめた。それは高さ七、八十センチほどの、男性自身をかたどった石造だったが、こういった男の象徴(シンボル)像は世界各国、どこでも見ることが出来る。得てしてこういう像は、懐妊祈願の対象物として立てられるものだが、ライアテア島のマラエで果たしてこの男根像がどんな役割を果たしていたかについては、判断が難しい。
 その時、腰の高さまでにも満たないその像が(かも)す静けさが、さっと私の汗を消し去った。都合よく過ぎていった風は、肩から後ろに背負(しょ)いこんでいた気だるさをさらって行った。すると今まではもやもやと雨後の煙のような迷いがたちこめていた胸の奥からいっさいの霧が払拭(ふっしょく)され、新たな光明、七色の閃光が綱渡り師の足もとを照らすようにはっきりとした未来として見えてきたのだ。
 「あの人」への告白の言葉を発する瞬間、それは場所、状況、そしてタイミング・・・すべてをつぶさに計画し、またそれにふさわしい時をわきまえた上で遂行しなければならない。そのために前もってとりそろえる文句、それはすぐに頭の中で組みたてられた。
――「君はとても社交的で、好奇心が旺盛で、可憐な人だね。僕は君のそんなところがとっても好きだよ」・・・・・・このような、喋っている本人でさえも頬を赤らめそうなセリフを、いざ告白の場面に出くわした時の私は、あっけなく、とるに足らないことのように言えてしまうのではないかという絵空事さえ、まるで事実めいて感じたのだ。
 しかし自分は言えるはずだ。そして言わなければならないのだ。来るべき好機を予期して・・・。
 心は固まった。あとはいっさいのことに気をとらわれずに前進するのみだ。マラエのの神聖さが私の勇気に火をつけた。私は勢いだってホテルへの帰路のためのペダルを踏み始めた。ウトゥロアの町で借りたマウンテン・バイクはまた砂利まじりの悪路を走り出した。未舗装道路が続く限りは、パンクに気をつけて運行させなければならない。そのための神経の使いようといったら、緊張で気も狂わんばかりだった。
 いっときでさえ油断は出来ない。私はまた綱渡り師のように慎重に呼吸を整える必要性にかられた。
 とはいうものの、あと十五キロを残した所で、不覚にも手持ちのミネラルウォータを切らせてしまった。すでにアスファルトの道路に入って、パンクの危機からも逃れたところで気をゆるめてしまったのが良くなかった。次には最後の難関、押し寄せる真昼の太陽に耐えなければならなくなった。
 腕時計は一時を表示している。真に、日中の一番気温が上がる時間帯に突入したのだ。これは全く計算外の出来事だ。炎天下の中、私はアスファルトの照り返しをまともに受けながら数十分もの焼けつく時間を息の上がるままに過ごさなければならなくなった。しかも飲み物はもう尽きている。
 それから五キロほどはそれでも我慢できたが、町まであと十キロという所まで来たとき、ついに私は根をあげた。
 しかしその時、それにしても都合のいいことに、右手には島内でも一、二を争う「地中海クラブ」ホテルが見えてきた。私は急きょハンドルを切り返して、道端の炊事小屋まで車輪を寄せた。そこは柱に(あし)葺いた(ふ  )だけの屋根がある吹き抜けで、パァレオを纏っ(まと  )た女が一人、ホテルの客が食べ残した昼食の後片付けをしていた。
 「何か( プュイ )飲む(ジュ  )もの(ボワール)( ケ)ありません(ルク ショーズ  )か。」
「申し訳ございません(ディゾレ  ム)(ッシ)もう(ュウ  )終わって( セ トゥ  )しまいました(フィニ        )わ。」
女は自転車で旅をしている東洋人の姿を認めると、いたわるような口ぶりでこう答えた。
(ドゥ)( ロ)(ー )( )ないん(ヴ ザヴェ )です(ドゥ ロ)(ー )。」
あぁ( ダコー)(ル )それ(ヴォアラ)なら( セルヴ)(エ )ほら(ムッシュ)(ウ )おとり下さい。」
女から受けとったグラスの中の水を飲み干すと、私は生き返った。
 それからウトゥロアの簡易ホテルまでの道のりは、執念をしぼりきって克服した。部屋に戻るなり、私はそのまま大理石風の冷たい床に尻もちをつくように倒れこんだ。まだらな白灰色の床の上で、しばらくは横になったまま、鬱積した疲労が体内で癒されていくのを待つ。
 ブルーのカーテンを透きぬけて注いでくる南国の光を半開きにした(まぶた)の裏で感じる。再び体を起こせるようになるまでは二十分ばかりを要した。その間私は燃えつく日差しのもとでの自転車旅行をあなどっていた、そのしっぺ返しを喰っていたのだった。
 


   ――――――――――



 一月十七日、私は最後の目的地であるフアヒネ島の空港に降りたった。おとといの破天荒(はてんこう)で脚にはまだ筋肉痛が宿り、掌や股の内側には、半ば擦り傷にも似たような痛みが沸いていた。(ひげ)は相変わらず伸ばしたままだ。自身で考えるに、それほど濃い目の鬚ではないが、鼻の下や顎に生える鬚は、すでに「無精ひげ」の範疇を超えて、今度は反対に毎日長さをそろえるなどの手入れが必要になるほどになった。
 〈オテル・ソフィテル・ヘイヴァ〉と印字された看板をかかえている男が、私と目線を合わせると、掲げた看板に指を差してさも〈お前の泊まるホテルはここか〉と尋ねるようにこっちの顔を(うかが)った。
 〈違う〉と答えるように手と首を振ると、次にその男はどこで宿をとるつもりかきいて来た。男は〈オテル・ソフィテル・ヘイヴァ〉の送迎バスの運転手をしていたのだ。
まだ( ジュ )決めて(ネ パ デシ)いない(デ アンコー)()ファレ(メ ジュ)( ヴ)泊まる(ェ レステ )つもり( ア ファレ)だ」私がこう言葉を返すと今度は、
「ファレにはパレットという宿があるが、そこでもいいか。もし気に入らなけりゃ、ウチのホテルに来るがいいさ」と別の誘いの道具を使ってきた。
 「パレット」という人気宿は、いつもヨーロッパ人やアメリカ人のバックパッカーたちでいっぱいなので、部屋が空いている機会(シャンス)を得られるのは難しいと携帯した旅行ガイドには書いてあった。
 果たして・・・九人乗りのミニバスで私一人だけという贅沢なエスコートで「パレット」に着いてみると、オーナーのマダムは「まだ空いている部屋がある」と言う。しかも予算に合わせて二、三の部屋から選べるという、選択権まで与えられた。
 私は迷うことなく最初に案内された部屋(シャンブル)でOKサインを出した。一泊五千CFPほどの宿を難なく取れてしまったことは、真しく願ったり叶ったりだった。
 バスの運転手には「パレット」に泊まることにしたことだけ告げて、送迎代としての五百CFPを払う。マダムと親密に話をしていた所を見ると、きっと二人は顔見知りなのだろう。
 さしずめ男のほうは「今日もまた飛び込みの客を紹介してやったんだ、たまにはマージンのうちのいくらかをおこぼれに預かりたいものだね」くらいの冗談をマダムにかまして行ったのだろう。
 タヒティの各島々では、飛行機が降りるたびにホテルの専属バスが空港まで迎えに来る。たとえその時間に予約の客が入っていなくても毎回やって来る。もし誰も客を捕まえることが出来なければ、運転手はバスをタクシーへと早がわりさせ、別の旅行客をその人たちの目的地へと連れて行くことで、ちょっとした小遣いかせぎをしていた。五百CFPとは缶ビールが二本ほど買うことが出来る値段だ。
 それにしても「パレット」ほどの人気宿に空き部屋があるとは!
 もはや私は「(ニュークルール)」に感謝しなければならないのかも知れない。そういえばタヒティに来てからというもの、日本人の観光客は一人として見かけない。これはハワイのあの(おびただ)しい日本人の頭数から比べると、天と地ほどの差があった。
 やはり核実験は一つの「事件」だったのだ。日本人だったら、誰一人としてタヒティには近づかないだろう。
 「パレット」のマダムは銀髪で小柄なヨーロッパ人だった。どこかに泳ぐことが出来て景色のいいスポットがないかと尋ねると、流れていくような英語の返事が闊達に戻ってきた。その場所はどうやら近くの豪華ホテルの敷地内にあるらしいが、勝手に入って泳いでいても誰も怒るものがいないそうだ。
 私はセミダブルベッドの部屋(シャンブル)で荷物をまとめると、それからくつろぐ暇も惜しんでマダムが手書きの地図を作って教えてくれた、例のビーチへと足を運んだ。
 きめ細かい、粉に近いような白砂の上を、私はもったいなげに踏み続けながら進んでいった。すでに眼前に広がる清楚な海は、犯しがたい天然の淡い青みを(はら)んでいた。
 そこに褐色の肌もあらわにオレンジ色のビギニ姿の若い婦人が、恐らくは自らの幼な子とともに戯れる情景が映った。婦人の麗しい(からだ)は当然私の目を奪うことになったが、中でも()かれずにいられなかったのは、その長い脚だった。彼女が両手につかんだ子どもを自分の股の下に通すような格好でじゃれ合っていたために、その脚線美がいっそう際だった。
 「こんにち( ボン ジュール)(  )」――その女は高い笑い声を放ちながら、通りすがりの私に向かって挨拶の言葉をかけた。私は二たびにわたって彼女の太腿の付け根から膝、すね、そして足首までを注視しないわけにはいかなかった。
 少し遅れてから私は「こんにち( ボン ジュール)(  )」と返事をした。婦人はしばし笑いをとめて、また足もとの子どもを支えるようにかがんで手を回した。――なんという官能的な脚だろうか。細いながらも、黒く焼けた肌がその逞し(たくま  )ささえみずみずしく描きだす。
 この婦人がフランス人とタヒティ人との混血であることはすぐに分かった。純粋なタヒティ人では、こうもバランス良く脚長にならないし、タヒティの女性はフランス人のそれとは違って生来から骨太なのだ。
 遠くで男の声がした。婦人はこれに答えて何か言葉を発したが、それはタヒティ語だったので、何をやりとりしたのかは理解し得なかったが、男のほうの声の主が彼女の夫であることは容易に察しがついた。
 道端で他人に出くわしたとき、相手が知らない人であっても必ず「ボンジュール」や「イアオラナ(こんにちは)」と声をかけるのがタヒティ人の、いや、ポリネシア人たちの習慣だった。サモアにおいても、知らない者同士がそ知らぬ顔のまま通りをすれ違うことなど、ありえなかった。しかしタヒティ語の発音は「R音」にともなう巻き舌があったし、「H音(ハヒフヘホ)」はすべて鼻にかかる喋り方をした。早い話が、「タヒティ」という単語でさえも彼らの正確な発音では「タングィヒティ」と発音しているように聞こえた。この語感が、サモア語のそれとは異質なものだった。
                                    
 さて、私は宿のマダムが教えた通りの道すじを辿って、格好の海岸を見つけると水着になり、間もなく渚の水際から、そのまま海の淡い色に誘われるがままにゆったりと水中にもぐって行った。
 幼い頃から泳ぎは苦手なほうではない。海中で何度も体を(ひるがえ)して、光と影がおりなす陽炎を全身で満喫した。水深は深い所でも三メートルくらいだったろう。太陽の光が届いてくる場所もあれば届かない岩場の影もある。水の青はカーテンのように揺らいで、素もぐりのままの私の肌をくすぐる。
 魚はここでは大勢いた。黄色と黒と白の(しま)模様(もよう)で色づいたバタフライフィッシュ(蝶魚(ちょううお))はさも熱帯の魚の王様気どりで空間を玉座していた。そこここでは紫と青まじりの、体長が五センチほどしかないユリスズメダイが飛びかう。彼らはいつも群れをなしていて、大物の天敵、つまり鮫や鯨や海豚(いるか)から身を守っていた。
 モンガラの部類は英語では「トリガーフィッシュ」と呼ばれたが、特にその中でもムラサメ・モンガラは好戦的で、自分のテリトリーを侵すものに対しては容赦なく体当たりをぶちかました。私は幾度となくモンガラの強烈な攻撃(アタック)に身もだえした。
 そうかと思うとふとしたときに視界に入る楊子魚(ようじうお)(パイプフィッシュ)のたぐいなどは、心を優雅にさせるものだ。細長く、体長が数十センチに及ぶ、まるで蛇や鰻のような外観をしたこのパイプフィッシュは、何気ないときに忽然と現れ、ゆったりとしたその姿を漂わせていた。後になって分かったことだが、この楊子魚(ようじうお)の部類として、その姿勢を重力に対して縦にとるものを「(たつ)の落とし子(ドラゴンフィッシュ)」と言うのだった。
 こんなにも色とりどりの魚たちをちりばめた海の中は、さしずめ宝石箱にもたとえることが出来る。太陽の光が差し込むと、魚たちはその反射で、美しい色彩を、惜しげもなく(さら)けだした。しかし、太陽がうつろう雲の背後にその光ともども隠れてしまうと、突如として魚たちは輝きを失い、(あや)しくもヒラヒラと原色の鮮やかさを陰鬱にたなびかせるのだ。
 私はしばしこの海という魔力が引き出す絶対的な美に対し感服、いやむしろ恐ろしさをもって降伏していた。何者かに操られ、そのまま満足というものに陥没させられているのではないかと危惧した。
 つまり、自然は完璧に私を飲んでいた。海の中では、ひとつひとつの光景に目を奪われるのでさえも、誰かが故意に私をそうさせているのではないかと疑われた。
 その世界では、もはや自分は自分ではなくなっていた。あらゆる信仰、神の存在に対する畏怖、絶大なものに接する時の盲目的な(おび)え、こういったものに、自分の存在はとるに足りないものとして吹き飛ばされ、反対に肉体だけがこれらの絶対に同化し、海の底に沈殿していくようにも思われた。
 けだし、それは悦楽だったのだ。自由は、何か見えないものに対する神秘に恐怖を抱いていた。しかしその戦慄こそが、快楽をまき起こす源泉だった。不安が輻輳(ふくそう)してはちきれると、それは福音(ふくいん)に姿を変え、海中にほとばしった。
 ――再び浜へあがると、さっきの婦人と子どもはもう見あたらなかった。私は木製の、矢印になった看板に「ビーチ・バァ」という文字を見つけると、白砂の上に設けられたそのバァへと顔をつっこんだ。
 バァデンダァらしき混血の男が「ウェルカム」と言って英語で私を迎えいれてくれる。そこは椰子の葉だけでおったてられた簡素な小屋で、薄暗さが気になるが、いかにも即席で造られた棚には、ブランデー、スコッチ、バーボン、コニャックなど、一応は見栄えのする洋酒が飾ってあった。
 「ヒナノ・ビールを一つ」・・・私はありきたりの注文をした。タヒティに来てからというもの、バァというバァで発する第一声は「ヒナノ・ビールを一つ」と言うのがお決まりになっていた。
 バァテンダァは奉仕しながら面白いことを言ってくれた。私の目の前のグラスにビールを注ぐと、「マヌイア!・・・タヒティでは乾杯するときに皆なでこう叫ぶんだ。マヌイア、とね」――これはサモアでも全く一緒だった。サモア人は盃に最初の口をつける時、必ず「マヌイア」と言ってから呑んだ。この「マヌイア」には「あなたの未来を祝福します」といった意味がこめられていた。
 そう、サモアから三千キロと離れていないタヒティでは、明らかに同じポリネシア文化圏に入った。サモア語の「ファッアフェタイ」とタヒティ語の「マウルウル」は関東語の「ありがとう」と関西語の「おおきに」くらいにしか距離に違いはなかった。
 タヒティ語の「イア・オラ・ナ(こんにちは)」はサモア語の見地から解釈してみると「ほら、あなたはこうして生きてなすった」ともとれなくはなかった。ともかくも、彼らは互いに母国語だけを使っての意思疎通も決して不可能ではなかったのだ。
 だのに、ヨーロッパ人が太平洋上に介入してからというもの、ポリネシアは白人の都合の良いように見事に分断されてしまった。
 まずは英語とフランス語がキリスト教を引っさげてこれらの島々に上陸し、ついでドイツやアメリカが入ってきた。二次大戦後は日本の影響力も大きかった。ソシエテ諸島(タヒティ)やマルキーズ諸島は、完璧にフランス語圏に犯されていた。一方、サモアは特別な歴史を歩む。
 最初にサモアにキリスト教をもたらしたのはイギリス人宣教師ジョン=ウィリアムスであるが、その後、西部のサモア(現サモア)がドイツの、東部サモア(現米領(アメリカン)サモア)がアメリカの支配下に属することになる。
 しかし一次大戦でドイツが大敗を喫すると、現在のサモアはニュージーランドの管轄下に、東部米領(アメリカン)サモアはそのままアメリカのもとにおかれることになった。それから二次大戦の終幕を迎え、独立の気運が高まった西部のサモアはニュージーランドの支援のもと、晴れて新国家「西サモア」を建立するが、東部サモア(主にトゥトゥイラ島)はそのままアメリカの配下に残り、「米領(アメリカン)サモア」と称されるようになった。
 他方、ハワイは二次大戦前からアメリカ合衆国の属国となっていたが、その後、合衆国の五十番目の州となってからは、日本の経済的台頭により、ハワイの観光業において大きく貢献した我が国が、重要な位置を占めるようになった。
 つまり、言わんとすることは、同属のポリネシア人でありながらサモア人はニュージーランドやオーストラリアのような英国連邦のほうしか見ておらず、タヒティ人はフランスのほうにしか全く興味を示さず、ハワイでは日本人、ひいては日本という国が一つの憧れとなっているという矛盾である。
 ポリネシア人同士はそれぞれの母国語だけを使って、文化的にやりとり出来るはずだったが、サモア人は一生懸命に英語を勉強し、タヒティ人は日常語としてのフランス語を使い、ハワイ人は日本語のマスターのために躍起だっている。
 こんな不思議なことがあるだろうか。加えて、サモア人はタヒティのことなどほとんど知らない。タヒティ人は、サモアのことなどまるで視野の中に入っていない。ハワイ人に至っては、サモア、タヒティなどその名さえ知らず、親である合衆国のことよりも、現金を分け与えてくれる日本のことばかりを最大の興味の対象として(あが)めている。
 これを植民地時代の罪として(とが)めることは出来ないものだろうか。ところが、サモア人、タヒティ人、ハワイ人は被害者としての自分たちを全く認識していない。この一つの文化圏を分断させてしまった欧米諸国に、その責任がないと一体誰が言うのだろうか。
 二日後、私は再びタヒティ島の「ホテル・コンティキ」に戻っていた。フアヒネ島からは予定通りローカルの飛行機が発ち、トロピカルな青い海の風景を機内の窓から眺めて、またファッアア空港へと降り立った。ホテル・コンティキの部屋のバルコニィからはパペーテ湾が一望できた。
 私はもちろん、ヒナノのことを忘れてはいなかった。明日の夜、タヒチを後にしなければならないことを考えれば、もう彼女に電話をかけるとしたら、今日しかない。
 ホテルの外線用のボタンを押しては何度もためらわれたが、ヒナノの「必ず電話してくるのよ」という言葉を裏切る後ろめたさの方が胸中にせり出してきて、いよいよダイアルをした。
 その時つまんでいた電話番号のメモ書きは、もうくしゃくしゃになっていた。あの時、飛行機の隣の席で彼女自身が書いてくれたものだ。受話器の向こうで呼び出し音が何回か鳴ると、いよいよ心臓がバクバクをうなり出し、「このまま相手が出なければいい、そしたら『電話したけど留守だった』で済ますことが出来る」とさえ思ったが、相手は出てしまった。
 電話口の声は、本人、つまりヒナノだったのでびっくりした。というのも彼女は「家族と一緒に住んでいる」と話していたからだ。ポリネシア語で「家族」と言えば、それは「拡大家族」を表す。親戚から血のつながらないもらい子まで、一つの家には十人くらいの家族が住んでいるのが当たり前なのだ。
 ・・・「カズヤだよ。」
「まぁ、カズヤなのね。どうだったの、ボラボラ島は。」
「いや、よかったよ。実を言うと明日もう発つんだ。ハワイに行って、ワイキキ・ビーチでちょっと遊んだら、またもとの場所に戻るんだ。」
「サムイ島にでしょ。」
「そう、サモア(、、、)にね。」

「あはっ、サモア島ね。・・・・・・そう、そうなの。」
「そうなんだ。」
「そしたら、今夜はちょっと時間がとれないかしら。まだあたしの方が都合がつくか分からないけど。良かったら食事でもいかが。」
「いいねぇ、よし分かった。夕方ごろまた電話するよ。」
 私はヒナノの誘いに感動しながらも冷静になって受話器をおろした。それはここ数日、心の片隅にできあがった虚無感が呼びおこした冷静さだった。ライアテア島のタプタプアテアの「マラエ」で告白についての決心をしてからというもの、すでに自分の中で「あせり」というものが芽生えていたのだろう。その根っこが、ヴァカンスを満悦しきって充たされていた私の心から、どんどんと水分を吸い取っていった。そしてそこに隙間が広がれば広がるほど、「早くサモアに帰りたい」という欲求にかりたてられたのだ。
 自分はこんな所で何をしているのだろう。そうだ、旅だ。旅を楽しんでいたのではないか。しかし次の刹那にはまるで別のことを考えている。告白のための設定をどうしくもう(、、、、)か。どうやったら「あの人」を上手くおびきよせられるだろうか。ナイトクラブを(えさ)にしようか。あるいはどこかのレストランへでもいざなう(、、、、)べきか。いやしかし、そのためには自分がサモアに戻らなければ何も始まらない。
 思案に(ふけ)りながらも、口もとの(ひげ)に手をやる。それを人差指と親指で(もてあそ)ぶ。窓の向こうのパペーテ湾に目をやる。鮮やかな空と海の青色が部屋(シャンブル)の中の(ほの)暗さとのコントラストをうつ。レース付きのカーテンはビザンツ様式に刺繍(ししゅう)されている。
 湾のほうに目を移すと、旅客船「タマアリッイ号」が停泊している。こんな風景が視界に刻まれながらも、やはり「あの人」のことが気になるのだ。
 一月十九日、「あの人」が無事ならばすでにニュージーランドからサモアに帰ってきている日付けだった。
                                    
 サモア、愛すべき国。観光化されていない素朴さがある国。今でも昔風の吹き抜けの(ファレ)が立ち並び、村によっては最近になってようやく電話線が一本だけ引かれたような場所もあり、家によってはテレビはおろか、ラジオでさえも置いていない。そういう所には西洋風の食器や簡素な調度品しかなく、なぜか収納としてのスーツケースはあったが、その他には何もなかった。
 しかし、何もないということは何と素晴らしいことなのだ!サモア人はパンダナスを乾燥させた葉で編んだ(むしろ)の上で寝て、この(むしろ)のことを「モエンガ」と呼んだ。のちに西洋人がベッドを持ち運んだとき、サモア人はベッドのことを「モエンガ」と称するようになった。また食事の時に食台のように用いた椰子の葉の盆には「ラウラウ」という名前が付けられていたが、西洋人がテーブルをサモア持ち運んだとき、今度はテーブルが彼らの「ラウラウ」と称する対象となった。
 今でも日々の料理には(まき)を使うのが主流だ。LPガスなどを持てる家は裕福な所だけなのだ。そして日曜日のブランチには必ず石焼き(ウム)料理を食べる。これをサモア人は「トッオナッイ」と名付けている。
 土曜日の深夜、村の男たちは次の日の「トッオナッイ」の食材を()りに舟を出して漁へと出かける。だからサモアでは土曜日を「トッオナッイの日」と呼んでいる。
 彼らには文明的な、無機物に対する知識は全くなかった。しかし愛を知っていた。子どもたちには算数や理科のことなどまるで理解できなかった。しかし生きることを学んでいた。
 つまり、そこには、最も大切な人間的営みがあった。
 あぁサモアよ、この矛盾をいかに解釈しようか。二週間前、確かに私はお前から脱獄したのだった。しかし、私は魂をそこに忘れて来てしまったのだろうか。お前という子宮の中に。
 でなければ何故こんなにも今、お前のことを欲しいと思うのか。いや、それもこれも「あの人」が居るせいなのかも知れない。「あの人」がそこに居るからこそ、お前をいとおしいと思うのだ。
 早く会いたい。「あの人」に会ってタヒティで起こったことを語ってみたい。
 シャワーを浴びてから、柱時計を見て五時を回ったことを確認すると、私はもう一度ヒナノのところに電話をかけた。
 すると中年の男性が電話口に出てこう言った。
「ヒナノかい?わたしはヒナノの父親だが、彼女は今夜は用事があると言って出かけた。何かあるのかね。」
 年配のタヒティ人などはまず英語を使えないものだが、男の喋る英語はこの上なく明瞭だった。娘をハワイに留学させるくらいだ。父親も相当な教育を受けていて当然だろう。
 私は特に何もないことだけを伝えてから電話を切った。そして肩の荷がおりたと思った。約束どおり電話はした。使命は果たしたのだ。もうヒナノに会うことは、二度とないだろう。旅先では行きずりというものがつきものなのだ。
 彼女はタヒティ行きの機内でたまたま横に座っていた女。長い黒髪の、タヒティの女。ただそれだけの存在として、記憶の内にとどまるだけなのだ。
 翌日のファッアア空港で、私はようやく日本人を見た。彼らはハネムーナァで、団体客用のパックツアーに参加している、三組のカップルだった、
 私のような鬚面(ひげづら)の東洋人を見ても、彼らは私を決して同じ日本人だとは思わなかっただろう。しかし、逆に私は彼らの外観だけですぐに日本人であることが分かってしまった。近付いて行って彼らが日本語を使って話をしているのを確かめるまでもなかった。――自信無さげな目もとで薄笑いを浮かべ、やや猫背気味にちょろちょろと歩くのを見れば、遠目からでもすぐ日本人だと判別できた。
 日本人の特徴はその歩き方によって大きく表れる。とにかく我々の歩幅はどうしようもなく小刻みなのだ。
 ハネムーナァたちは、昼下がりの空港のゲートの輝きの中で記念写真を撮り合っていた。彼らと私との、何という差異(ギャップ)がそこにあったことか。それは溝ではなく、もはや幾重にも連なる階段をなしていた。
 幸福の絶頂。――彼らは日本に帰ってから胸を張って親戚じゅうにこう言い回るのだろう。・・・「ううん、全然平気だったの。核実験なんておどかされてたけど、何もなかったの。思い切って行っておいてよかったわ。それにおかげでどこ行ってもすいてたし」・・・
 そこに一人の日本人のバックパッカーが居たことなど、つけ加えることは万に一つもあり得ないだろう。これも一つの行きずりなのだ。
 私はその晩のホノルル行きのハワイアン・エアーラインで帰路に発った。喉もとには最後に呑んだヒナノビールの残り香がうごめいていた。そのビールの色はタヒティの夕陽を反射して、黄金色に(きらめ)いていた。
                                        
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