樂の音その77

樂の音その77



ひいらぎ合唱団演奏会
10/5/24
 りっちゃん

演奏会から2週間もたってしまった。庭仕事に追われていたのもあり、疲れが溜まっていたのもあり・・・

私自身は高音が出づらくなって、もうソプラノを歌うのは嫌だぁ、の思いが強かった。「これで最後、あとはバリトンに移籍するんだ」と、自分に言い聞かせて、なるべく下を向かないで、指揮を見るように、思いを込めて歌うのに必死だった。練習ではテンポがばらばらな時もあり、みんなは不安を感じていたようだが、全体のことまで考える余裕もなかったのもあり、ある意味ひいらぎ合唱団の底力を信じていたのもありで、その辺の心配はしてなかった。

演奏会そのものは大成功だったと思う。練習で悪いところを出し切っていたから?みんな緊張感を持って、ちゃんと指揮を見ていたんじゃないかな。ホールの音響が良かったのもある。リハで、結構澄んだ声が出ていた。なので、変に頑張る必要がないとそれぞれが自覚できたのかも知れない。それになんと言っても6年間の練習の積み重ねというのがあるからねぇ。

「ソプラノ良かったよ」「合唱聞いている時間とてもいい時間でした。清々した時間とでもいいましょうか?本当にすてきな合唱でした」「以前よりよくまとまっていたように思いました。『さる』の歌では、涙が出てしまいました。悲しい歌詞の雰囲気も伝わってきたので」「小林先生の指揮にハーモニーが「吸い付いている」感じで、一体感がありました」「『内なる遠さ』の深さを感じた」等々。

『内なる遠さ』は、『さる』以外はちょっとわかりずらいし、重い曲だから、あんまり歌いたくなかったけれど、練習時間は相当かけていたからねぇ。解説(いつも先生に頼まれて文献をしらべてくれて解説してくれるメンバーが書いたもの)に「いろいろな生き物の姿にたとえて書かれてこの詩の宗教的な意味をあえて挙げるならば、1『飛翔』(しらさぎ)は神の慈愛、2『崖の上』(かもしか)は人間の努力、3『合掌』(さる)は争いをおこす人間の愚かさ、4『燃えるもの』(蜘蛛)はひたすらな祈り、5『己を光に』(深海魚)は願望の切実、をそれぞれ表わしていると思われます」とかっこよく書かれている。わたしが思うに、1は人間の善良性、2はカモシカに甘ったれずに自分で自分に向き合えよ、3はいのちの尊厳、4はあくなき追求、5は救いかなぁ。でも内向き過ぎるという印象。小林先生は表現にしても、音色にしても、テンポにしても、各自の自由と自主性を尊重してくれるから、まぁ、困っちゃう時もあるけど、私は好きだな。まとまるまで時間がかかるけれど、強制されているという感じがないし、もちろん、排除もない。

今、合唱が好きじゃぁない。小林先生にもそういっちゃって悪かったかなぁと思うけれど、本当の本音。嫌な経験を他の合唱団で積み重ねていたから。だから、私がいられるのは「ひいらぎ」と「こげら」だけ。なので、声が出なくても、なるべくいたいとは思って、「バリトンへの移籍」を望んでいるということ。打ち上げで根回ししておいたけれど、万が一、断られたら、退団してもいい。歌も、三味線とお囃子もあるから、どうしても合唱にしがみついている必要はない。

混声合唱団のハーモニーが気持ちよくて、一時は「合唱こそいのち」みたいに思っていたのがウソみたい。わたしが嫌いになったというよりも、合唱に嫌われたというべきかな。人間の醜さがかいま見えてしまうのが嫌なのかな。そういう団はどんどん辞めたが、いつの間にか、九曜混成が20年。ひいらぎも15、6年たってしまった。雰囲気もだいぶ変わってしまったかな。私自身が変わったのもある。歴史を感じつつ、とにかく終わってホッ。楽屋で先輩が「ここまで来たら、とにかくみんな元気で歌えるってことが一番」と。本当に私もそう思う。スタッフも聞いて下さる人も含め、みんな元気でここに一堂に会しているということが一番大事なことなのだと思った。





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