樂の音その6

樂の音その6



クラシックの聴き方3
05/1/26
 いっせい翁

 りっちゃんの、この新しいカテに気がついて読ませて頂きました。音楽の知識もない一介の時々聴く人に過ぎなく、また10代でなく20台で初めてクラシックを知った、甚だ音楽には縁遠い輩ですが、「労音」という懐かしい言葉を目にして、うん十年前の青春時代のクラッシクとの出会いの頃を思い出しました。

受験勉強でよく参考書かついでクラシック喫茶に行ってたものですから、そこで初めてクラシックなる交響曲を聴いて、世の中すごい音楽があるもんだと、それがきっかけでした。その程度の聴き始めでしたが、でも何度も聴いているうちに、ベートーベンでも指揮者によって音が違うものだなと、そこに興味を持ち始めたものです。今でもカールベームの7番は大好きです。

従って聴く曲は大作ものばかりでしたけど、当時はテープレコーダーなるものもまだ世に出ておらず、生の演奏を聴くしかないと思っていたところ、幸運にも初来日したウインフイルの上等席が手に入って、人生初めて聴いた生演奏が、カラヤンのウインフイルでした。もう学生になった頃で、第二外国語がドイツ語だったものですから、前夜必要な単語を一生懸命並べて何とか文にして暗記、演奏後待ち構えてカラヤンのサインをもらった時の天にも昇る思い出は今も忘れられません。

同じ曲を、違う指揮者で何度も聴いて、演奏が(曲の解釈とでも言うのですかね)微妙に違うことに興味を持って入ったものですから、曲そのものの背景など何の知識も無いのですが、初めてお正月に朝日に輝く雪深いグランドキャニオンに立った時、ふいにドボルジャークの新世界のある小節が口に出てくる・・・取引競争に負けてミゾレ降るミシガンの五大湖の淵をトボトボ帰路についた時、なぜかワグナーのタンホイザーの何楽章か、口すさみ乍ら歩いたこともあった。

左様に、私のクラシックとの付き合いは、響きを持って入ってくる音と自分の感覚の融合が一致した時の、何物にも代えがたい瞬間の安らぎを喜ぶ伴侶のようなものであったと思います。だから、上品に聴かねばならん、という意識より、音と自分のその時の感覚の融合を求める付き合い方ですから、自然に寡黙になってしまい、逆に周囲のざわつきには閉口してしまいます。

素人の思い出話で失礼しました。




いっせい翁は博識だけど、音楽にも詳しいのね。私は、音楽鑑賞の時間は眠っていたし、聞くのは自分の練習用ばかりだから、ほんと、あまり知らないのですよ。生演奏も、合唱関係からの縁と財布に相談だし。

今日の新聞に養老さんの授業のことが載っていたけれど、「同じ」という言葉があった。みんなと共有できるということはすばらしいことだね。音楽もそう。その時々の思い出、状況や感情と共に、たぶん脳に保存されているんだと思うけど、それが演奏で引き出されるんだろうなあ。

「野菊」をみんなで歌った時、一人の男性が涙しているのを見たことがある。心の琴線に触れたとでも言うのかな?そういうことができる力が音楽にはある。心を癒すことも、励ましのメッセージを送ること・・・マア、いつも心を込めて歌うよう心がけてはいるんだけどね。

労音もすごい力があるんだね。合唱団も健在らしい。それぞれの団でそれぞれに、いい音楽目指しましょう。いっせい翁また、投稿お願いします。






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