樂の音その58

樂の音その58



ジュピター
07/8/6
 りっちゃん

昨日はセンブンスの演奏会。「ジュピター」はカラオケで友達のお嬢さんが歌ってくれるのを聞いて、詩が素敵、自分の今の気持ちにぴったり、と惚れこんでしまった曲。難しいのはわかっていたけれど、挑戦してみた。

あはっ。リズムの刻み、音程、ビブラート、克服すべき課題は、結局、最後まで解決できませんでした。伴奏とも合わなかったし・・・伴奏者にはご迷惑をかけちゃったなぁ。想いが先行しすぎたのと、いつものことながら、楽譜をきちんと見て練習する前に、自転車に乗りながら歌っている時にヘンな癖をつけちゃったようで・・・

「ザルツに届け」が目標だったのだけれど、あの声ではとても届かなかったなぁ。そう、今回は、演出とかはお客さんのことも考えたけれど、歌自身は完全に個人的な想いを表現したかっただけで、そういう意味では不純な動機だったのかもしれない。片思いだから、届いた所でご迷惑だったろうし・・・そういう意味では最初から大失敗なのかもしれない。来来世あたりに期待はしているけれど、今生では、相手の幸せをただひたすら祈っています。呼んでくれたこともこれから呼んでくれることもありえないのだから。

「どうせ」という言葉は使いたくない。でも、現実には、否定された恋だから、どうしてもそんな気持ちにとらえられてしまう。歌は「どうせ」ではなく、歌いたい。だから、最後の最後まで努力は続けた。そんな自分には満足している。そして、打ち上げで聞くまで知らなかったけれど、仲間の一人が「免疫学」の専門家だそうで、「あなたは偉い、よく頑張っている!!」と、言ってもらえて、すごくうれしかった。最大の褒め言葉。これを書きながらも涙が出ちゃう。なかなかわかってもらえないんだよね。一生懸命にやっていても、歌っていること自体甘えていいとこ取りをしているように見られたり、草むしりで疲労困憊していても、焼けて健康そう!と見られてしまったり、病気の悪化はストレスが原因なので、なるべくストレスから離れようとするとわがままで、孤独を招くなどと脅されたり、「慣れてます」とお返事したけれどね。

歌についてはわがままなのかもしれない。楽しく歌えそうもないところは自分からも止めている。セブンスの打ち上げで、「自分なりに表現をしたい、演奏したい。それができるのがセブンスだ」と聞いて、私の合唱もそうだったよなぁ、もちろん一人で歌うのではないし、最終的な決定権は指揮者にあるのだけれど、「私、こういうふうに歌いたいの」と提案すると、それに指揮者が答えてくれる、というのが楽しかった。それにはまったから続けてきたのだというのもあった。合唱だと人数分表現が大きくなるから、ソロよりもダイナミックなんだよね。「うん」の場合はみんなに「そこは豊かな感じで」とか、「違う」時には、「そこは大きな声ではなくもっと優しく」とか訂正してくれれば、ちゃんと従うのに、この頃、なんかその前に否定されちゃうというか・・・そんな愚痴を言ったら、「それは指揮者が悪い」と仲間のひとりが言っていた。指揮者だけでなく団の雰囲気というのもあったな。いずれにせよ、練習が楽しくなくなれば、通う意味はなくなる。

体力的な限界か、発声の問題か、つかめていないのだけれど、声が悪くなっているのを実感している。限界なのかなぁ。歌うのをやめようかなぁ、と思うこともしばしば。受け入れてくれる所、楽しく歌える所、通うのも大変になってきているので、数は減ったけれど、まだしばらくは歌い続けよう。悩みながら、努力を続けながら・・・

来年のセブンスには、三味線で参加。そして、いつかお面と衣装が手に入ったら、「ひょっとこ踊り」もやるからと宣言してきました。生きている限り元気に、そして、音楽を楽しみたい。仲間とともに。






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