08年その1版井戸端会議風伝言板

この半年もさまざまなことがありました。少しは風向きが変わったのかしら?もやいの湯浅さんやペシャワール会の中村さんの活動に驚嘆しつつ、まずは病気の安定と、庭仕事と、ささやかながら自分のできることを続けています。三味線の練習も、音楽活動も・・・ただ、本当にそれが精一杯。もうちょっと余裕が欲しいのですが・・・

No.60

反貧困

 りっちゃん
08/6/24

著者はもやいの湯浅さん。住所不定状態にある人たちがアパートを借りる際の連帯保証人になるという活動や相談活動など、個々の問題に実践的に対応されている。素晴らしい!! アフガンの中村さんと同じではないか。その活動から見えてきた日本の社会の危うさ。「自己責任論」のまやかし。貧困とは何か。では、その貧困への対策とは?そして、私がやりたかったこと、できることは何か?というのが見えてきた。ウーン、勉強になる。

2007年の東京新聞生活図鑑に描かれた、三層のセイフティネット。@は雇用、Aは社会保険、Bは公的扶助。ところが実際には、@の穴に落ちた人は、AでもBでも引っかからないで、“すべり台”のごとく転落してしまうのだ。
  「このことは、働いても生活保護基準(最低生活費)以下の収入しか得られない「働く貧困層(ワーキング・プア層)」を考えてみると、はっきりする。非正規化が進んだ後に労働市場に出ていった若者たちにとって、正規雇用職に就くことはかつてよりずっと難しくなっている。正規雇用のパイが減っているのだから当然だ。
  非正規で働けば、より高い失業リスクにさらされる。派遣労働の合間、または企業業績のわずかな変化の影響で、失業の憂き目に遭うことがある。しかし彼/彼女らの多くは、非正規であるがゆえに雇用保険に加入しておらず、失業しても失業給付を受けることができない。失業しやすく雇用のネットからこぼれ落ちやすい非正規労働者ほど、実は社会保険のネットにも引っかかりにくい。失業給付の受給資格をもつのは、現実には失業のおそれの低い大企業の正社員が中心であり、失業給付はその意味で、格差是正機能を持ち合わせていない。
  さらに、この人たちは、たとえ生活困窮に立ち至ったとしても、事実上生活保護を受けることができない。そもそも生活保護という制度自体を知らない人がいる。制度の存在を知っていても、自分が受けられるとも、また受けたいとも思わない。さらには本当に生活に窮して自治体窓口を訪れたところで、「まだ若いんだから働けるはずだ」という「水際作戦」が待ち構えている。
  つまり、三層であるべきセーフティネットが三段構えになっていない。・・・非正規労働者にとって三つのネットはワンセットであり、そこから丸ごと排除されている。一段目から落ちる人は二段目も三段目も素通りしてしまう構造になっている。」

私の場合も、年齢・持病・経験のなさ、から、就職自体が難しい。結構重宝に使われていたから能力がないということではないのだが・・・失業保険・社会保険完備の所なんて、はなからないのだ。実感だなぁ。うーん、“すべり台”というより“穴ぼこ”に近い。

「このような雇用(労働)状況は、人々が望んで作り出したものではない。非正規労働者の代表格であるフリーターが四一七万人にまで達したのは二〇〇一年だが(内閣府『平成一五年版国民生活自書 デフレと生活 −若年フリーターの現在』)、未だかつて正規雇用を募集しても人が集まらず、非正規雇用を自ら望む人たちが多数を占めたという時期はない。「自由で多様な働き方」を求めて、人々が非正規労働に流れていったとする考え方は後付けであり、実際のプロセスを歪曲している。  実際には、一九九〇年代の長期不況の中で、企業による労働者の非正規化が徐々に進行していった。当時の経団連が「新時代の「日本的経営」」(1995年)で、労働者を「長期蓄積能力活用型」「高度専門能力活用型」「雇用柔軟型」に三分類し、一部の主力正社員以外は派遣や請負による非正規でまかない、それによって人件費を軽減して企業業績を好転させようと提唱した。その後、事態はその提言どおりに進行した。」

「経済アナリストの森永卓郎氏は、次のように指摘している。
 「日本では二〇〇二年一月から景気回復が始まり、名目GDPが一四兆円増える一方、雇用者報酬は五兆円減った。だが、大企業の役員報酬は一人当たり五年間で八四%も増えている。また、株主への配当は二・六倍になっている。ということは、パイが増える中で、人件費を抑制して、株主と大企業の役員だけが手取りを増やしたのだ」(「ホワイトカラー・エグゼンプション、導入の動きは消えていない」日経BP社コラム「SAFETYIAPAN」第六七回、二〇〇七年一月二九日)」

怒りの矛先がまちがっているとは思うものの、アキバ殺人事件のようなものが起きるのは当然とも言える。喰うための犯罪、介護の疲れ殺人、児童虐待、貧困の世代間連鎖など、そのしわ寄せはより弱い人に押し付けられる。

「政治家でも官僚でも評論家でもなく、落下する人たちと日々接している私たちは、その人たちの視線で物事を捉え直す必要があるし、そこからしか見えてこないものがある。」と湯浅さんは五重の排除があると言っている。@は、教育課程からの排除。この背後には親世代の貧困がある。A企業福祉からの排除。低賃金、不安定雇用、保険に入れない、企業の福利厚生を受けられない、組合にも入れない。B家族福祉からの排除。親や子どもに頼れない、頼れる親や子どもがいない。Cは、公的福祉からの排除。「若い人たちには「まだ働ける」「親に養ってもらえ」、年老いた人たちには「子どもに養ってもらえ」、母子家庭には「別れた夫から養育費をもらえ」「子どもを施設に預けて働け」、ホームレスには「住所がないと保護できない」――その人が本当に生きていけるかどうかに関係なく、追い返す技法ばかりが洗練されてしまっている生活保護行政の現状がある。」、最後のセイフティネットがこうでは・・・やりきれないです。

Dは、自分自身からの排除。「第一から第四の排除を受け、しかもそれが自己責任論によって「あなたのせい」と片づけられ、さらには本人自身がそれを内面化して「自分のせい」と捉えてしまう場合、人は自分の尊厳を守れずに、自分を大切に思えない状態にまで追い込まれる。ある相談者が言っていた。「死ねないから生きているにすぎない」と。周囲からの排除を受け続け、外堀を埋め尽くされた状態に続くのは、「世の中とは、誰も何もしてくれないものなのだ」「生きていても、どうせいいことは何一つない」という心理状態である。」

これも実感だなぁ。後述する“溜め”のおかげで自殺することなく何とか生きているけれど、危なかったよ。「自己責任論」もそうだけれど、社会制度での「排除」が、雰囲気として身の回りにも降りてきていて、受け入れられていると信頼していたところで「排除」されると、きついねぇ。怒りが起きて戦えればいいのかもしれないけれど、その気力や体力がないのだよ。世の中、人の心に余裕がなくなって「排除」の思想が蔓延しているという印象は強い。こっちの“溜め”が増えた分、少し生きやすくはなっている。

「溜め″とは、溜池の「溜め」である。大きな溜池を持っている地域は、多少雨が少なくても慌てることない。その水は田畑を潤し、作物を育てることができる。逆に溜池が小さければ、少々日照りが続くだけで田畑が干上がり、深刻なダメージを受ける。このように溜め″は、外界からの衝撃を吸収してくれるクッション(緩衝材)の役割を果たすとともに、そこからエネルギーを汲み出す諸力の源泉となる。」

例えば、親が大学まで出してくれた。親と同居で食うには困らない。貯金があれば失業中も暮らしてはいける。相談できる友人がいる。アパートを借りる際の保証人になってくれる人がいる。等等。人生経験とか自信とかもあるかな。“溜め”がない人も実際にはいるんだということが、“溜め”を持っている人にはなかなか理解できないかもしれない。貧困への「自己責任論」の濫用を防ぐためには、「貧困の背景・実態を多くの人たちに知らせる必要がある。公的セーフティネットの機能不全ぶり、五重の排除という背景、溜め″がないという状態、それらが広く伝わって初めて、貧困には自己責任だけでは片づけられない多様な要因のあることが社会的に共有される」。だから、この本も書いたということだ。

で、政府の対策というと、
  「二〇〇七年五月、三一歳の男性の生活保護申請に同行したら、対応した福祉事務所職員が「私にも同じ年齢の子どもがいるけど、うちの子は働いているわよ」と言った。その職員には「うちの子」と生活保護の申請をしなければならないほどに追い詰められたその男性との溜め≠フ違いがまったく見えていなかったし、見ようともしていなかった。三一歳の男性たるもの、すべからく働いていなければならない/働けるはずだ、という現実的諸条件を無視した偽の平等論が、今現在働ける状態にない人たちをますます精神的に追い詰め、働ける状態からますます遠ざけている。
  政府の「再チャレンジ」政策も基本的には同じ発想である。・・・二〇〇六年二一月二六日に発表された政府の「再チャレンジ支援総合プラン」には、五〇〇項目以上の再チャレンジ政策が並べられ、予算は一七二〇億円(二〇〇七年度)に達したが、その冒頭一頁目には「達成すべきもの自体を直接付与するような施策も考えられるが、再チャレンジ支援策としては位置づけないこととする」と書いてあった。直接給付による生活保障はしない、という宣言である。」
  ・・・つまり、実際には役立たず。イラクの自衛隊とおんなじだねぇ。「母子家庭に対する就業支援の一事業である「常用雇用転換奨励金」(常用雇用を前提にシングルマザーを雇用した企業に一人当たり三〇万円の奨励金を出す制度)の実施状況は、東京・大阪・埼玉・千葉・神奈川など多くの自治体で○パーセント。その制度を利用して正社員になれたのは、四年間でわずか九二人だったという。」

「結果として、さまざまなサポートセンターを設置するお金、職員配置のお金ばかりが消費されていく。大川興業社長の大川豊氏は、雇用保険の流用金の問題に絡めて、細分化された数々の施策は、結局役人の天下り先確保のために過ぎないのではないかと語っているが(保坂展人・大川豊・岩瀬達哉『官の錬金術 − 失業保険一兆円はどこへ消えたか』WAVE出版、二〇〇五年)、小林美希氏は、同じようなことが再チャレンジ政策でも起こっていることを暴露した。フリーターの就労支援対策として設置された若年向けハローワーク「ジョブカフェ」運営の再委託を受けたリクルートが、日給一二万円という人件費(プロジェクトマネージャー。事務スタッフでも五万円)を計上していた一件だ(小林美希「日給二一万円の「異常」委託費− ジョブカフェ内部文書入手、「高額人件費」のからくり」朝日新聞社『AERA』二〇〇七年一二月三日号)。
  溜め″のない人たちをダシに、政府や企業が私腹を肥やしているのだとしたら、国家ぐるみで貧困者を食い物にする「貧困ビジネス」(第五章参照)に手を染めていると言われても仕方がない(アメリカがすでにそのような状態にあることは、堤未来『ルポ貧困大国アメリカ』岩波新書、二〇〇八年を参照)。」
  と、またしても、税金の無駄遣い。

「日本では、収入がいくら以下の水準だと貧困とみなすというような貧困指標(貧困ライン)が存在しない。そのため、憲法二五条に基づいて生存権を保障している生活保護法の定める基準(生活保護基準)が、国の最低ラインを画する最低生活費として機能している。つまり、生活保護基準は、生活保護受給者が毎月受け取る金額であると同時に、国全体の最低生活費でもある。したがって、日本における絶対的貧困とは、生活保護基準を下回った状態で生活することを指す。
  ところがすでに述べたように、日本政府は捕捉率を調査していないので、どれだけの人が最低生活費以下の貧困状態にあるか、公式な数字が存在していない。」
  屁理屈を捏ねて逃げ回っていたが、「二〇〇七年一〇月一九日、厚生労働省はついに一般世帯の消費実態(生活扶助支出相当額)と生活保護世帯の生活保護基準を比較する詳細な分析を公表した(「生活扶助基準に関する検討会」第一回資料)。それによれば、所得の低い六〜八%の人たちは、生活保護世帯よりも貧しい暮らしをしていた。これは「平成一六年全国消費実態調査」の個票に基づいて、一件ごとの世帯収入を生活保護基準に当てはめ、高齢世帯についてはその持っている資産についても織り込むなど、相当な労力を割いた詳細・緻密な分析だった。「困難である」「意味がない」と言っていた政府に、実はその基礎情報も能力もあることが示された。   しかしながら、その分析結果は、貧困層の概算や捕捉率の推計、低所得者対策の基礎情報など、貧困問題の解消に結びつく方向で活用されることはなく、「生活保護を受けていない貧乏な人たちがこれだけいるのだから」と、生活保護基準(最低生活費)切下げに向けた材料として「活用」された。」
  基準が下げられたということは、今、豊かに生活している人も無関係ではない。いざという場合に、自分たちだって、その程度の保障しか受けられないということなのだ。一体誰のための政府なのか?そしてそのことを国民みんなで問わないと、自分だって困ることになるのだよ。こんな政府でいいのか?

「なぜ、日本政府は貧困問題に向き合おうとしないのか。日本社会における貧困の広がりを認めなければ、貧困が生み出される社会構造はそのままに放置され、貧困はさらに拡大する。生活苦による犯罪、児童虐待を含む家庭内暴力、自殺が減ることはなく、社会の活力はますます失われ、少子高齢化にも拍車がかかっていくだろう。ただちに大規模な実態調査を行い、その結果を踏まえて対策を立てるべきである。
  しかし、まさしくそれゆえに、政府は貧困と向き合いたがらない。貧困の実態を知ってしまえば、放置することは許されない。なぜなら、貧困とは「あってはならない」ものだからだ。最低生活費以下で暮らす人が膨大に存在すること、それは一言でいえば憲法二五条違反の状態である。国には、当然にその違憲状態を解消する義務が生じる。貧困に対処し、貧困問題を解消させるのが政治の重要な目的の一つだというのは、世界の常識でもある。しかしそれは、この間の政府の「小さな政府」路線に根本的な修正を迫らずにおかない。」
  自己責任論は、政府に向かっていうべきことなんだよなぁ。少子高齢化だって、障害者自立支援法だって、後期高齢者医療制度だって、自分たちがやらなければならないことを、放り出していることに過ぎない。団塊の世代はここに来て出現したのではなく、働いている間は保険料も税金もちゃんと払ってきたはず。使い込んで借金こさえたのはお前らだろうが・・・

と、私はここで遠吠えをするくらいのことしか出来ていないが、もやいの連帯保証人の活動は、中村さんとペシャワール会の用水路と同じく、有効である。東京都でも「あんしん入居制度」を実施したそうだが、
  「多くの場合に対象者が高齢者や障害者手帳を有する者などに限定されている上、「区内に住民票を設定してから二年を経過している者」という住民票要件が課されているために、使い勝手が悪い(横浜市「民間住宅あんしん入居制度」は、その中で唯一使い勝手のいい制度を作っている)。また、多くの自治体がサービス発足時に小さく広報誌に載せる程度で、利用呼びかけをほとんど行っておらず、制度そのものが知られていない。さらには、民間の債務保証会社と利用希望者を橋渡しするだけで、自らが対応するわけではなく、利用料も高い。その結果、二〇〇六年度の累積利用件数が、東京都と二三区すべての入居支援制度の利用者を合わせても、大半がボランティアで運営されている一民間団体である〈もやい〉の実績に及ばない、という冗談のような事態が続いている。」
  「もし、各自治体が、ほとんど利用されないサービスのために使っている費用を〈もやい〉の運営に充ててくれるならば、今の数倍の人たちが連帯保証人問題で蹟くことなくアパート入居を果たせるはずだが、発足後六年半、行政からの資金は一円たりとも入っておらず、メンバーの大半が無償ボランティアで活動を支えている。」

いとこが言うてました。「貧乏人が貧乏人を助けているんだよね」。まぁね。金持ちには見えてないと言うか、見ようとしていないからねぇ。政府も官僚も、そういうこっちゃ。だからこそ、「「反貧困」を担う活動が、一人でも多くの「市民」によって担われ、「社会」に働きかけ、政治を変え、日本社会総体において貧困問題がスタートラインに立つ」ことが必要なのだ。
  湯浅さんが関わっている「反貧困」活動はもやいの他にも、エム・クルーユニオン(エム・クルーという日雇い派遣会社の偽装請負問題や不当天引き問題などの是正)、ホームレス総合相談ネットワーク首都圏生活保護支援法律家ネットワークあうん反貧困助け合いネットワーク生活保護問題対策全国会議ホームレス法的支援者交流会、埼玉生活支援ネットワーク、反貧困ネットワーク、貧困研究会など、多岐にわたる。個々の問題への解決を計ると同時に、セイフティーネットの綻びの補修を計り、日本社会へ問題提議をし、社会を動かすことにつなげてもいる。なかなかすごいっす。

私が合唱を続けてきたのは、湯浅さんの言う“溜め”作りだったのだと思う。コーラスに参加する人たちって、割と生活が豊かな人が多いけれど、そういう人にも“溜め”が必要で、心が豊かになれば、人にも優しくなれるからね、と思っていたのだ、多分。もちろん自分自身の“溜め”でもある。草むしりもそうなんだよね。荒れ庭では心も荒れる。見てくれた人が少しでも心豊かになれるように、って、場所的に見る人数は少ないのだけれど、それでもやる人間は私だけだから・・・少しでも有効活用できるように、もう少し工夫が必要かな。歌の方も、ここの所めげることが多かったけれど、続けてみよう。一緒に小平で活動できる仲間探しも必要かな。まぁ、病気のこともあるから、慌ててもいけないね。少しずつ、できることから・・・もちろん、伝言板での遠吠えと、九条の会やタリの会での動くことも体調を見て出来る範囲頑張ります。なあんだ、今までどおりじゃん。でも、確認できただけでも収穫だわ。できれば、個々の問題に対応できる力がつくといいのだけれど・・・





No.59

WAMと高麗博物館

 りっちゃん
08/6/21

6月14日(土)、タリの会のイベント、WAM(アクティブ・ミュージアム「女たちの戦争と平和資料館」)高麗博物館の見学、大久保散策及び飲み会に参加しました。

WAMは、高田馬場から早稲田正門行きのバスに乗り「西早稲田」下車。徒歩2分。早稲田に通っていたメンバーが、「懐かしい!!」の連発。久しぶりのバスにみんなもなんとはなしに心うきうき。WAMでは、元慰安婦たちのポートレートがお出迎え。苦渋の人生を送られ、それでも自分の「尊厳」を失わずに、声をあげる勇気を持った女性たちだからこそ、ひとりひとりのお顔に、皺と魅力と生命力とが刻まれています。

真剣に説明してくださった中でも、一番印象に残ったのは、「広義の強制はあっても狭義の強制はなかった」とする安倍発言に対し、「英語では広義も狭義もない、当人の意思に反して行われたことは同じ」との説明。確かにこのことはキチンと押さえておかないといけないことだ。でも、反論ではないけれど、「遊郭の女性も同じ」ではないと私は思う。自由な意思に反して選ばされた道であろうと、家族のために犠牲になるという「覚悟」があったかないかの違いがある。例えば、「マミー・ストーバー」 だって、他に選択の余地はなかった。だが彼女はその道に入ってから攻勢に転じている。
  翻って慰安婦の場合はどうであったか。特別展「ある日、日本軍がやってきた」ー中国・戦場での強かんと慰安所ーでの、彼女たちの証言を読めばわかるように、日本軍がやってきて、拉致され、強かんされ、家族は身代金を払わされ、日本軍が撤退すれば、放り出されたのです。彼女たちの「自由」「尊厳」は奪われたままであった。

「ロラ・マシン」も見たけれど、やはり「慰安婦」をミュージカルで表現するのは、難しい。強かんされたことは抽象的に表現されていたけれど、それも一時的な印象で、「慰安婦」としての生活は描かれていない。その後の二次被害というのかなぁ、被害者でありながら、責任を負わない日本政府がいて、日常の暮らしでは、昔ながらの男性優位社会での差別を受けてしまう。その象徴が「破廉恥な全面広告をだした議員44人+3人」。わかっている人には何の説得力もないけれど、金の力でしつこく「彼女たちは売春婦」と嘘の宣伝をしてくれる。ミュージカルでは周りの人たちがまるで彼女の味方、応援する側のような描かれ方だったけれど、実際はそんなきれいごとではすまなかったろうと思う。「不特定多数の男の相手をした」というだけで、非難されてしまう。さらに、「敵国の軍隊の男たち」への嫌悪感まで、彼女たちに押し付けられていただろう。優しい旦那さんに恵まれて(古い言い方だけど・・・実際も多分・・・)も、心の傷は治らないで、自殺された方もいる。子どもが欲しくても、機能的損傷を受けていたためにできなかった人も多いだろう。彼女たちのその後の人生までも、日本軍が奪ったのだと言える。

幸いにもそういう立場に置かれることのなかった私だから言えることだが、そういう傷には、「私は被害者である」と声を発することが一番の解決方法だと思う。黙っていては傷は深くなるばかりだ。だが、声をあげるには、相当な勇気が要る。時間もかかる。

声をあげることに時間がかかったのは、心の整理や身辺の状況というのもあるだろうけれど、最大の原因はやはり日本政府の対応だろう。何せ「河野談話」が1993年だもの。「慰安婦」の存在は戦後引き揚げてきた元兵隊の話からバレテいたのに・・・公式に認めるのが遅すぎた。まったく、恥ずかしいちゃぁない。
  「慰安婦裁判」では、事実に向き合うよりも、「除斥期間」とやらの屁理屈で棄却されることが多い。−戦後50年以上を経過しているので除斥期間の経過により損害賠償請求権は消滅したーだと。彼女たちの人生の苦渋、そして、日本政府の対応の遅さを見れば、そんなことは言えるはずはないのに・・・おまえらそれでも人間か?

WAMがこの場所に作られたのは、誰でもが来やすい場所にということだそうな。その分会場は狭いけれど、確かに、言えてる。みんなに知って欲しい。だのに、教科書には載っていないんだって。自主規制? 日本の恥部は知りたくない?知られたくない? それは日本を愛している人の発想ではないね。日本をよくしたいと思ったら、きちんと過去の恥部をさらして、反省することが大事なんだよ。

おほっ。天皇裕仁の写真も飾ってある。「女性国際戦犯法廷」(2000年)で、責任を問われ有罪となっている。戦争責任も問われて当然なんだけれどな。

高麗博物館は、ドンキの隣のビルの7階。ちょっとわかりづらい。私も前を何回か通ったことがあるのに、看板には気づかなかった。特別展示は「文禄・慶長の役と日朝の陶磁」。井戸茶碗が素敵。落語でおなじみ。元は朝鮮の普通の飯茶碗。庶民性と気品が一体化している。

お隣の国だというのに、朝鮮の文化や歴史に関しての知識は私も少ない。秀吉の朝鮮出兵についてのとらえ方の違いも最近まで理解できなかった。ほとんどの日本人は、いまだに知らないんじゃないかなぁ。戦国時代が終わりを告げようという時、ご褒美の領土が欲しくて朝鮮侵略をしたという理解だったけれど、世界的には大航海時代、植民地を求めて航海する諸国に遅れまじとの発想が秀吉にはあったようね。うーむ。秀吉が死んで良かったというべきか。目的が明とは、さすが秀吉、考えることがでかい!というべきか。でも無茶だなぁ。私はやっぱり後処理をした徳川家康が好きだよ。

戦場が朝鮮だったから、復興するまで朝鮮は大変だったろう。秀吉を嫌うのは当然だね。そして、特別展では、陶磁の職工が日本に連れ去られ、九州・中国地方に有名な窯ができ、陶磁器の文化が発達し、日本は輸出もしていたそうな。好みもあるけれど、やっぱり、その後の作品よりも、井戸茶碗の素朴さ、気品が秀逸。「粉青」という技法だそうだが、それが今、見直されているそうです。面白いことに、文禄・慶長の役で“唐辛子”が日本から朝鮮に渡り、キムチができたのはそれからだそうで、「ヘぇー!!」であります。

職安通り向かいの「韓国市場」では、キムチに魅力を感じつつ、飲み会が控えているので、パス。辛そうなインスタントラーメンと中国産の干し杏を購入。干し杏は一人でつまんで、もう食べ切ってしまった。なんでも大量で廉い。魚介類特に蛸(冷凍もの)が目に付いた。買い物だけでも楽しそうだ。また、行きたい。

飲み会会場は、線路から2本目の路地を入った「ハレルヤ」。ここも料理一皿の量が多い。お腹が一杯になった。飲んだのは、私はビールとマッコリ。おいしかった。なんかねぇ、タリの会の雰囲気はもともといいのだけれど、飲み会に参加して、一段とまたいい雰囲気になったような気がした。別れが惜しいというのかな。マッコリで、体調が悪かったのもすっかりなおったし・・・今度はうちの庭でやろうよ。ビールと焼肉パーティ。引越しの手伝いで更新が遅くなったけれど、それもこれも“溜め”なんだと思う。人間関係の“溜め”を作っていきたい。





No.58

講座報告〈帰国事業〉

 りっちゃん
08/6/12

庭仕事(剪定)を頑張りすぎたのか、疲れが出て報告が遅くなりました。加藤健一さんのお話を聞いてきました。資料(帰国事業の影をたどる・北朝鮮へのエクソダス テッサ・モーリス・スズキ著、絶望への船出 週刊金曜日、朝鮮新報より抜粋、帰国運動とはなんだったのか 高崎宗司・和田春樹 論座等)をたくさんいただきました。膨大です。加藤さんも印刷した方もご苦労様でした。ここで紹介するのはそのごく一部。

T お話の前の一言(そのうちのまた一言なんですが・・・)このテーマは自分の同時代史のひとこまです。私自身は無党派、無宗教。日本は侵略者であり、また「分断」は日本の植民地政策がもたらしたもの、という歴史認識を持っています。さらに、この問題に関しては素人です。

U 帰還事業の概要 日本政府と「北」の関与を基に、赤十字国際委員会の運営、監督のもとに行われた。1959年12月、976人が新しい生活を求めて、北朝鮮の清津に向かったのを皮切りに、事業は断続的に1984年まで、93,340人が出国、「北」へ移り住んだ。そのほとんどが、朝鮮半島南部の出身(93%)であった。したがって、移り住んだ先には親戚、縁者はいなかったという。

V 帰還事業に関わった団体とその責任の重さ
  1、日本政府
    治安対策(「共産主義的なところのある朝鮮人の排除」)、経済問題(生活保護費を払わずに済ませたい)、政治問題(日米安保)のための追い出し
  注1)(2004年赤十字国際委が保有していた帰還事業に関する文書の機密指定が解除された)1956年日赤外事部長井上益太郎が国際委特使に「(日本政府は)貧困にあえぎ、共産主義思想信奉者と思われる在日朝鮮人を、数万人の単位で追い払いたい、と考えている。この計画は、治安上の問題及び在日朝鮮人の生活保護費の負担軽減等財政上の問題を同時に解決してくれる」「日本政府は、在日朝鮮人の大量帰還が実現するよう、必要とあらば、その要求を煽る(原文はフランス語で、provoquer)用意がある」と伝えた。
  注2) 警視庁の人が国際委に「朝鮮人の犯罪率は高い。特に密輸は大きい。生活保護の名目で政府の財源をつぎ込ませ再軍備を妨げようとしている。財政問題であると同時に国家の安全保障問題に関わる問題だ」と言った。
  注3) 厚生省は1956年2月、警察との共同で、朝鮮人居住地を急襲した。@生活保護の受給証明書の提示の求め A財産の秘匿、商売の状況、特に闇の仕事をしていないかなど。多くの極貧の朝鮮人にとって生活保護は唯一の公的福祉であった。朝鮮戦争特需が終わって、この時代、経済上のしわ寄せは低賃金労働者が多い、社会周辺部の朝鮮人労働者にきていた。
  2、日本赤十字
    帰還事業は政府、与党がまず動いたが、それを実践していったのは日本赤十字。外務省系列の重光葵、岡崎勝男、井上益太郎。
  3、国際赤十字
    人道的に事業を実施したい意志はあったが、アジアへの知識不足、人不足及び世界情勢の影響により、帰国者の意思確認等あいまいなまま事業を進めた。
  注9) 国際委が問題にしたことは、日本に残留した場合の処遇。国籍は失ったが、歴史的経緯により、失業保険・生活保護・就職・労働基準法等、福祉・労働・就職の面で、差別は受けないということ。日本政府は、差別はない、と回答した。テッサ・モーリスはその厚顔ぶりにあきれたと書いている。
  注12) 労働基準法も雇用安定法も、実態は適用不充分。失業保険の適用も事実上生かされていなかった。健康保険も、年金も排除されていた。
  注15) 国際委は、帰国作業の実務は日本赤十字が坦務するものと思っていたが、実際には、地方の役人が赤十字の基本も知らずに、作業を進めていた。
  4、北朝鮮
    朝鮮戦争後、復興支援をしていた中国兵士たちの帰還が1957年、その分の労働力を得るため、また冷戦下、ソ連とも距離を置く自主路線を継続するために国際的な評価を高めたい、との思惑があった。1958年、金日成「日本で生活の手段を失い、祖国の旨に戻りたいという同胞たちを迎える」発言。
  5、韓国
    帰還事業が進行していく中、結局、具体的な在日の受け入れ策を提示しないまま、反共上、反対運動だけは展開していた。当時は受け入れる経済的余裕もなかった。
  注3)李承晩政府は帰還事業を妨害しようとした。妨害には熱心だが、自分の元への帰国には余り熱心ではなかった。
  6、アメリカ
    人道的には、見て見ぬふりをしつつ、日本の意向に沿って黙認、是認。韓国に対しては、その主張を、力で抑えたと言ってよい。
  注3) アメリカは北へ行く人々の将来はバラ色ではないことを諸情報から承知していた。しかし、冷戦戦略の中で、この問題について積極的に関与しなかった。
  7、ソビエト
    この時期、北朝鮮とソビエトは不仲であった。日米安保条約の改定時期もあり、北朝鮮との関係改善、支援の観点から、帰国船の提供など。大きな役割をになった。
  8、総連
    総連は帰還事業が具体化してからは大きくこの事業にタッチ、拡大に貢献している。日本における推進母体。領事館の役割をになった。携わった人々は北朝鮮からの依頼もあるが、祖国建設への参加者の移送という「熱意」で参加し、移送業務に従事し、「夢」を煽った。
  9、在日
    日本の敗戦後の社会の中で、開放されたとはいえ、多くの在日は、まさに貧困の中にいた。北朝鮮はその中で、朝鮮戦争後ではあるが、再建へのあゆみを続けていた。在日から見れば、韓国より、夢のある国に見えた。

X 加藤さんのまとめ
  今、何でも北朝鮮が悪い、という風潮に、どこかおかしいと思いながら、この帰還事業の検証を自分なりに始めた。といっても、ほとんど「テッサ・モーリス・スズキ著の「朝鮮へのエクソダス」によっているが、やはり、この事業の問題の本質は日本だった。朝鮮を植民地化し、朝鮮人を安い労働力として使ってきたが、敗戦で朝鮮半島を失い、邪魔になったので、日本政府などが追い出しを画策。
  一方、われわれ自身も、皆、「北へ帰るんだ」、そんな認識で、この問題を受け止め、対応してきた。この問題の本質を分かってみれば、われわれ自身の認識の魯鈍さ、甘さ、無能さを思い知らされる。かつての戦争も、そのような単純な認識から始まっているといっていいだろう。まさに熱病のようなもの。
  この問題は、日本政府や与党が在日の歴史的経過をかなぐり捨てて、経済事情などから追い出しを計ったところからはじまる。これを、アメリカも、ソビエトも、冷戦上の国際的構想のエサに使い、北朝鮮もこれを国際的な人道上の花火に使ったというのが実態だ。
 人権という観点で、この実態を正面から受け止め、同じようなことを繰り返さないということが必要だと思った次第である。

だいぶ端折りましたが、以上が加藤さんの報告。わたしの感想としては、一言で「棄民」政策。関東軍による満州開拓団の棄民、帰国事業と同時期の移民(棄民)政策も、そして現在問題となっている後期高齢者(長寿からぶんだくれ)制度も、改革されちゃった医療問題・格差問題もそうだよ。変わっていない。政権も変わっていないから、政策の基本姿勢が変わるはずもないか。
  私自身は、帰国事業のことなどトンと知りませんでした。昨今のテレビで[へぇーそんなことがあったのかぁ]程度。日本人の責任の取りようとしては、しつこく出される「棄民」政策に、しつこく「NO!!」をいい続けるしかないかなぁ。
  北朝鮮に帰った人たちのその後の情報については、日本での情報のおかしさ、北朝鮮の秘密主義に阻まれて、確実にどうということはいえないと思う。信頼できる在日の人たちからの個別情報ぐらいしか当てにはできないと思う。どこの国も政府とは国民を騙そうとするものだ、ということを念頭には置きつつ、その国のことはその国民に任せるというのがわたしの基本姿勢。よって、帰国した人のその後については、言及したくない。まぁね、一党独裁の国では、圧政が行われたとしても不思議ではないとも思うけれど・・・日本も似たような状況といえば言えるから・・・偉そうな口は利けないんじゃないかなぁ。

朝鮮戦争についてもほとんど知らなかった。ヤルタ会議ですでに分断が決定されていたことは小田実の本で知ったのかな。1950年9月には、朝鮮半島のほとんどが北朝鮮側に南進されていたとは・・・3日間の空白の謎も興味深い。米軍と、多国籍軍の出動は、正当だったのだろうか? 内戦という面もあると思うけれど・・・なんせ、どちらの国も自分が朝鮮半島全部を領土と主張しているようだから・・・ン?日本特別掃海隊?進駐軍の指示により海上保安庁から派遣されたって?吉田茂の2枚舌め!!1950年10月16日吉田茂首相の承認で編成されたと、憲法違反ではないか!!

「夢」を描いて騙すのも、煽りの手段だけれども、「生活保護削減」のキャンペーンは脅しだね。何で生活保護を受けるような生活だったのか、それも植民地政策から来ているわけで、当然、自立できるように対応する責任は日本政府にあったわけで・・・まったく恥ずかしいやねぇ。無責任政府は軟硬両面で追い出しかぁ。そういう点では頭いいんだから、よほど気をつけないと、すぐに騙されちゃう。お父さんが帰国事業に携わっていたという李さんへのインタビューでは、李さんが客観的な視点を持っていて、なんか安心。彼女の意見では「国交が正常化していれば、この問題もいい結果となったのでは」とおっしゃっていました。拉致問題の解決も、国交正常化も、今の政権ではいつになるやら・・・北朝鮮に住んでいる人たちには、自由な往来はできないようですが、在日の人たちはできる。彼らと北朝鮮との交流で、情勢が変化することには期待が持てる。私たち日本人としてできることの一つとして、在日の人たちの人権問題を整えて行きたいねぇ。ということで、〜学校支援の活動を一歩前に進めるための学習会〜もよろしく!!





No.57

医者、用水路を拓く

 りっちゃん
08/6/11

副題は、アフガンの大地から世界の虚構に挑む。著者は中村哲さん。大まかなところは講演会報告を読んでください。ここではわたしが聞き取れなかったこと、及び、お話に出なかったことなどを書きます。

背広姿の中村医師は、とても穏やかな印象でしたが、この本を読むと、“すごい人だなぁ”と圧倒されました。人を生かすために用水路が必要となったら、アフガンの厳しい自然にも、決して負けない。米軍の機銃掃射の件でも謝罪させているし、土地収用問題で怒りをあらわにする現地の人にも、話し合いで対応しているし、右岸と左岸の対立では、血を流しながら、「アフガン人同士で争うな!!」と諌めているし、自分の意志を貫いている姿にただただ敬服。まずは、田中正造の詩。

毒野も、ウカト見レバ普通の原野ナリ
  涙ヲ以テ見レバ地獄ノ餓鬼ノミ
  気力ヲ以テ見レバ竹鎗
  臆病ヲ以テ見レバ疾病ノミ

「どんな時代でも事実を見据え、時を超えて「人があるべき普遍性」を示す人々はいる。さまざまな意見が飛び交う中で、私たちに足りないのは、田中正造の「涙」と「気力」である」」。それを実行している一人が中村さんだ。もちろん、先頭に立ってはいても一人で用水路はできない。人を活かしながら、育てながらである。少しでもまねできたらなぁと思う。(はぁ〜、今のところ、自分が生きていくだけでヨロヨロ状態) 謙虚で純で、真面目なところは鈴木さんと一緒。考え方や文章が科学的、やはりお医者さんだから。

「テロ特措法」成立時に国会の参考人として発言している。「信じがたい狂気の支配する時であればこそ、正気を対置して事実を伝えるべきである」との思いから、「アフガンの現状、特に大干ばつによる人々の惨状とアフガン難民の実態を述べ、自衛隊派遣よりも飢餓救援を訴えた」。「こうして不確かな情報に基づいて、軍隊が日本から送られるとなれば、住民は軍服を着た集団を見て異様に感ずるでありましょう」「よって自衛隊派遣は有害無益、飢餓状態の解消こそが最大の問題であります」。鈴木宗男が野次を飛ばし、亀井(善)が発言の取り消しを求めたとも書いてある。現地を知らない者が、知っている人の言に耳を傾けないとは、大馬鹿野郎だなぁ。「どんなに言い張っても、現地の英字紙にはジャパニーズ・アーミーだと書いてある。憲法の枠内だの何だのというのは内輪の論議であって、米国同盟軍としかとられない。罪のないものを巻き添えにして政治目的を達すのがテロリズムと言うならば、報復爆撃も同じレベルの蛮行である」、「理不尽な武力行使は敵意を増すばかりである。命の尊さにアメリカ人、日本人、アフガン人に変わりがあろうか。対日感情は一挙に悪化するだろう。これは過去先輩たちが血を流して得た(平和主義という)教訓を毀つものである」。

有害“無益”については、友人より情報あり。もともと、日本政府の言う“国際貢献”とは、ブッシュ政権への貢献でしかない。だからこれは当然の結果。約4340トンの水が自衛隊により、イラクのサマワ市民のために浄水されたそうだけれど、自衛隊自身が使ったのとほぼ同じ。行かなければ、その水はアフガンの人に使われたということか? 行った意味があるの? 税金の無駄遣い? 239億円+135億円だって。もったいない。ペシャワール会の用水路の工費は、第一期工事13キロで9億円。これは農業用水なので、飲料のみでも、一時的なものでもない。「水路開発に携わるための工事参加・水路による農作物収入・水路による健康レベルの向上などを考えると、はるかに効率のよい人道支援である」と、友人は感心するけれど、だからぁ、自衛隊派遣の“人道支援”は、イラクの人たちのためではなくって、ブッシュ政権への“支援”でしかないから、最初から比較になりません。日本政府が本気でアフガンの人たちのために“人道支援”をするのなら、ペシャワール会に依頼するか、少なくとも相談したら、よいのだ。

タリバン政権について、ちょっと見直しちゃったのが、カーブルでの食糧配給が、タリバーンの兵士たちの協力によって、整然と行われたこと。激しい空襲下でも治安が保たれて略奪などもなく、陥落時には事前に退去の勧告があり、計画的に撤去、人質の解放。うーん、なかなかやるわねぇ、という印象。「タリバーン政権の初期の頃の支持層は、概ねアフガン農村の伝統的価値観を保持する生真面目な農民たちだったといえる」。政権内部で過激な主張が主流になったのは、2001年の国連制裁がきっかけとのこと。大干ばつで400万人が飢餓線上(2000年5月・WHO)というときに、食糧まで断とうとしたからだそうです。国際支援のNGOが撤退。そして、2002年のアフガン復興支援ブーム。「最も不満だったのは、砂漠化による農村の崩壊が等閑視され、外国のアイデアが重視されたことだった。都市化された空間で育った先進諸国民は、飢餓の辛さを体験したものが少ない。電気や電話はどこにもあって、金さえあれば何とかなると思っている節がある。――罪のない子をたくさん餓死させた上、ご丁寧に爆弾を振りまいて殺傷し、いまさら教育支援だの、医療支援だのあるものか。人の命をなんと思っとるんだ――これが偽らざる心情であった」。インドネシア・アチュの報告でもあったように、国際支援団体がくると、インフレが起こり、現地の暮らしが大変になったそうだ。ペシャワール会も医者や技師の引き抜きがあって、だいぶ足をひっぱられたようだよ。

「2007年6月現在、アフガニスタン復興は未だ途上であり、戦火は泥沼の様相を呈している。米国と同盟軍の兵力は4万人を超え、初期の3倍以上に膨れ上がっている」。アフガンの農民自身がタリバン的要素を持っており、欧米軍がそのすべてを敵に廻していては、いつまでたってもラチがあかないのは自明のことである。解決策は撤退しかないだろう。アフガンのことはアフガンの人たちに任せる。支援はアフガンの人たちが自分たちで自主的に運営できる方向を目指して。ISAFと言うのが、講演会のとき聞き取れなかった。日本語では“国際治安支援部隊”。名前で惑わされてはいけない。“誰のための治安”か、“誰のための支援”か。英国からの増兵により、やっとカーブルから出たそうだけれど、相変わらず空爆・誤爆が多いし、歴史的にも欧米軍は、アフガンの人たちに嫌われている。伊勢崎賢治氏の名前も出たそうだけれど、ドタバタしていたのでトンと記憶にない。「米国に擁立された他ならぬカルザイ政権自体が、「300億ドルの軍事費が復興に使われていたら、もっと復興が進んだだろう」と、批判的な意見を公然と述べたと言われる」。昔から、治水できる者が国を治めることもできるということで・・・ペシャワール会及び中村さんは、地元の住民だけでなく、カルザイ政権にもだいぶ信頼されてきつつあるようだ。

この本は、ペシャワール会の過去6年間の活動報告である。ほとんどは用水路建設について、技術的なこと、苦労・工夫・解決などに費やされている。
  「この四年間は洪水、土石流、集中豪雨、地すべりなど、あらゆる自然災害との戦いに明け暮れた。自然はヒトの都合を待ってくれないので、こちらがそれに適合して動かねばならなかった。
  これまで、漠然と「自然=環境問題」を考えたことはあったが、これほど劇的な形で矢面に立たされるとは、思ってもいなかった。しかも、インダス河支流の規模は予想を超える大きさで、「河川」とつき合うのが決して長閑なものでないことを思い知った。しかし、この用水路建設事業によって、自然と人間、人間と人間の関係について、より深く気付くものがあったと感じている。それをどこまで正確に伝え得るかは心もとないが、平和とは決して人間同士だけの問題でなく、自然との関り方に深く依拠していることは確かである。」

人間同士で争っている場合じゃぁない。万年雪が消え、沙漠化が進んでいる。その状況下で自然災害+人災に対して果敢に戦ってこられた中村さんを始め、ペシャワール会の皆さんに拍手を送ります。(寄付できたらなぁ)で、また最悪の大干ばつと、治安悪化のための邦人退去の指示が出ることを予想して、第二期工事を急いでいるようです。日本政府はアフガンに自衛隊を派兵なんて馬鹿なことをするんじゃぁないでしょうねぇ。せめて中村さんたちの足をひっぱらないでくれぇー!!

ジア医師の「男性虐待」説(冗談よもちろん)、ポンプ(国際団体が各村に一基を配ったが、石油代が高くて使えないor払える金持ちが水を売る)、人災(MADERAの堰)、米軍の謝罪への返事(米軍司令部との接触は、危険)など、他にも載せたいことはあるのですが、思わず涙してしまったこの文だけ載せて、あとは本を買って読んでください。ペシャワール会の活動資金になると思いますので・・・

「上空を軍用機がけたたましく飛び交い、私たちは地上で汗を流す。彼らは殺すために飛び、人々は生きるために働く。彼らは脅え、人々は楽天的だ。彼らは大げさに武装し、人々は埃まみれのオンポロ姿だ。彼らは何かを守るが、人々には失うものがない。
  「民主国家? テロ戦争? それがどうしたって言うんだい。外人とお偉方の言うことは、どうも解からねえ。俺たちは国際正義とやらにだまされ、殺されてきたのさ。ルース (ロシア=ソ連)もアングレーズ(英米人)も、まっぴらだ。世の中、とっくの昔に狂ってる。だから預言者も出てきたのさ。それでも、こうして生かせてもらってる。奴らのお陰じゃあない。神の御慈悲だよ。まっとうに生きてりや、怖いことがあるものか」
  これが、人々と共有できる私の心情でもある。」(そして、今、日本でまっとうに生きることが、大切なのでは、とつくづく思う。)





No.56

失敗の愛国心

 りっちゃん
08/6/3

著者は鈴木邦男さん。「はじめに」の冒頭の言葉、「はじめまして、鈴木邦男です。
40年間、「右翼」をやってきた。」
  男の人や仕事を続けてきた女性には、分からないかもしれないけれど、私にとってはこれがなんともうらやましい。女に生まれたこと、専業主婦をしてきたことを悔やむというのではないが、何をやっても長続きはできなかった。自分のやりたいことがどうしても二の次ぎになってしまうからだ。しかし、彼が遠回りして得たもの。暴力は嫌だ、というのは、私の方が(理論的ではないが)早く会得していた。

祖父が医者で、いのちを大事にしていたから、というのがまずある。私はおじいちゃん子で、ずいぶんと可愛がってもらったが、一度ひどく怒られたことがある。一緒に遊び育ったのが男ばかり、どうしても体力的に負けてしまい、悔しい想いをする時が多々あった。ある時、小石を投げて対抗。それを見ていた祖父が私の首根っこをつかんで、叱ったのだ。怖くてその時は意味が分からなかったが、小石でも当たり所が悪ければ、命を失う。そのことを注意されたのだ。
  それと、やはり、子どもを生む性であり、育てた経験があるから。暴力は嫌だ。戦争も嫌だ。そういう気持ちが確固として根付いている。

この本では、鈴木さんの人生と、そこから会得したものが書かれている。このパンセシリーズは高校生へのメッセージでもあるらしい。素敵なメッセージだと思う。ますますファンになった。

鈴木さんが高校受験に失敗したとはいえ、ミッションスクールに入学したこと、大学受験で早稲田と慶応6学部を受験したということは、経済的に豊かなおうちなのだろうと思う。そして頭もいい。全部受かったなんて・・・すごい!!
  ミッションスクールでは、キリスト教を強制されたから反発を感じたとのこと。もともと「自由」が好き。強制が嫌いな性格なのね。「カーッとなるとおさえがきかない」点も私と共通している。

「右翼度70パーセント、左翼度30パーセント?」では、私自身どうなんだろうかと考えてしまった。自分は左翼とばかり思っていたが、もともと「左翼」とは暴力革命を前提とした上での「急進派」とのこと。いや、それでは私は「左翼」ではありません。「左翼は、アメリカではなくソ連寄りだし、国際的、革命的、反天皇制・・・というイメージだった。・・・右翼は、「日本を守ろう」、国家的、民族的、保守的、伝統的、そして天皇中心主義だ。」私は天皇中心主義ではありません。ご先祖が徳川家に勤めていたのもあって、その存在が軽く感じられる。でも、生活上は、とっても保守的。めんどくさがりやだからでもあるのですが、家具の配置や毎日の習慣など、変えることを考えたくもない。伝統も民族文化も大事にしたいし、日本を良くしたいとも思うし、別にソ連よりでもないし・・・「脳と同じだ。情緒をつかさどる右脳と、論理をつかさどる左脳がある。両方あって人間だ。いま、気がついたが右翼は右脳的だ。情緒的に考える。左翼は左脳的で、論理的に考える。両方バランスがとれて人間なのだろう」を読むと、絶対私って論理的というより情緒的。ひょっとしたら、右翼度85%ありそう。ただ、日本をもっと良くしたいから、選挙では左翼といわれる方に投票してきた。天皇制以外では、鈴木さんと共通点が多い。

わたしのイメージとしては、右翼って、純な人が多い。ただ、方法が間違っている。暴力はいけません、街宣車の騒音もいただけません。なんかダサいです。

「四十年も右翼運動をしていると、多くの人を見ることになる。「自分こそ愛国者だ」と言っている人の中にもくだらない人はいる。一方「愛国心なんか必要ない」と言っている人の中にも立派な人はいる。「何を語るか」ではなく、「何をやるか」だ。
  そんなことがやっと分かった。「思想」ではなく、人間だ。そんな簡単なことが分かるのに四十年もかかった。その、迷い、悩み、失敗してきた経過を書いてみよう」
  人間、幾つになっても学ぶことがたくさんあるんだなぁ。

17歳の時、同じ17歳の山口二矢が浅沼稲次郎・社会党委員長を刺殺。ショックと同時に愛することが、なぜ殺人に行きつくのか、疑問に思う。受験のための上京ついでに愛国党の赤尾敏と面談。それが警察→学校(&母親)の知るところとなり、マークされていたのも知らず、先生とトラぶって退学。復学。受験。入学して「成長の家」に下宿。右翼活動に入る。全国学協で活躍。左翼学生の70年安保の運動が警察につぶされると同時に、右翼の活動も下火に。内ゲバにより委員長追放。産経新聞に就職。そして三島事件。「一水会」設立。サラリーマンの「サークル活動」のようなものの筈が、自衛隊の千歳駐屯地で、ストリッパーを呼んだと聞き、防衛庁の門によじ登り中に入り逮捕。ソ連との「北洋漁業件問題」で自らの利権のために密約で取引した河野一郎建設相の家を焼き討ちし、「経団連事件」を起こした野村秀介さん(目元の優しい感じ、笑顔、とても事件を起こす人には見えない)や三島とともに自決した森田必勝氏に「負い目」を感じていたためと言う。母親に「お前は捕まりたかったんだね」と言われる。それからは一水会の専従になった。同時に各種雑誌の原稿料で生活を維持。『腹腹時計と〈狼〉』で、連続企業爆破事件の犯人たちも、まるで右翼の「血盟団」のようだと実感。血盟団」とは、「1932年(昭和七)、日蓮宗の僧侶であった井上日召を中心にして「一人一殺」を唱えた集団が、国を軽んじ、ただ私利私欲に走ったとして名指しした政財界人を殺した事件」だそうな。

「一水会」の活動が過激になり、見沢知廉氏による「スパイ」と疑われた仲間への殺人が起こり、また「赤報隊事件」(朝日新聞阪神支局襲撃事件)の犯人と疑われての別件逮捕など「一水会」にとって嵐の時代。「本島等長崎市長へのテロ」についての「朝生テレビ」出演。小田実に「テロを支持するのか?」と聞かれ素直に答える。「鈴木君以外はみな、テロ支持だという。だったら、こういう話をしていても、気に食わなかったら殺すといぅことだ。そんな人たちと話せるか!」と指摘されてから、「僕らはべつに人を殺したり、傷つけるために愛国運動をしているわけではない」、ということに思い至る。「占領中にアメリカに与えられた憲法を一度は見直し、改めよう。そして、もっと自主独立の国になってもらいたい、と。もっと自由で、平和で、独立した国になってもらいたいと思っている。
  だったら、それを穏やかに話したらいい。聞いてくれないからといって、いきなり暴力では、かえって、嫌われるだけだ。」
「我々の側がまず、「テロ否定宣言」をすべきではないか。それによって「言論の場」がすぐに来ないとしても、たとえ小さな声でも言論でやるしかない。僕はそう思った」。
  そうして、今の鈴木邦男さんがいる。

「いろんな失敗をしたから、広い世界が開けた。その時、失敗しないで、「成功」していたら、「小さな世界」に安住し、そこから脱出できなかっただろう」
  「極端なことを言ったら、投げたり、殴ったりなんかは教わらなくていい。受身だけを習ったらいい。さらに言えば、「人生の受身」を教えたらいい。失敗した時、どうするか。死のうと思い絶望した時、どうするか。どう「受身」を取るかだ。また、「謝り方」も教えたらいい。人間はみな、間違うのだ。その時、素直に謝れるかどうか。「ごめんなさい」と「ありがとうございます」。この二つさえキチンと言えれば、人生は渡れる」
  「人生の「受け身」については、前にいったように、自分を別の角度から見ることだ。客観的に、突き放して見る。これしかない。そして、「そのうち笑い話になるさ」「そのうち、『失敗してよかった』と思えるさ」と信じることだ」
  「さらに大事なことがある。何があっても死なないことだ」(昔は情報が少なかったから、自殺なんてことも知らずにすんだ)
  「いまを楽しまないのでは、何のためにいまを生きているのか分からない。今、生きているのは、それなりの理由があるからだ」
  「神々だって、その子孫の天皇だって、こんなに間違いがある。失敗がある。殺し合ったり、争い、憎み合う。ましてやわれわれ人間はもっと間違う。だから反省し、謙虚な人間になろう」
  いいこと言うなぁ。日本の歴史についても、勉強になりました。

「平安時代の約三五〇年間は、日本は「死刑廃止の国」だった。仏教の影響もあるだろう。人を殺すと崇ると考えられた。大火事、大地震などは死んだ人の祟りだと思っていた。だから殺さないで、遠島に流した」
  「日本は「武器の進化」を止めた唯一の国だ。ふつう、刀から鉄砲、大砲……と、武器は進化する。進化したら過去の武器は捨て去る。ところが日本は種子島に鉄砲が伝えられ、織田信長はそれを大いに使ったが、これが主流にはならなかった」
  「江戸時代は、国家としての軍備はなかったのだ。藩には兵隊がいたが、国家を守る軍隊はない。ずっと、「非武装中立」の国だったのだ」
  やっぱり日本人で平和好きだったのねぇ、と納得。

  「加えて、ずっと謙虚な国だった。大化改新のころは中国、朝鮮から人もものもドッと来た。外国の文化を限度なく受け入れた。こんな国はほかにない。外国の人や文化を尊重し、受け入れたのだ」

明治以降についてはちょっと見解が違う。彼は、自虐でもいい、謙虚が一番というが、自虐と謙虚は明らかに違う。自虐の場合は元に自分を否定しているがゆえに、他人や他国に対して反動で否定、傲慢、攻撃しがちになる。自分に自信を持っての謙虚さなら、吸収も早いし、相手にも優しくなれる。

鈴木さん自身「40年間、「右翼」をやってきた」と言い切れるだけの人生を歩んでこられたから、失敗の部分にも目がゆくし、訂正もきくのだと思う。

「侵略や虐殺などすべて嘘だと思っていた。
  ところが、どうも、いろんなことがあったらしい、と分かるようになってきた」
  「(日本が)神の国というならば、世界中が「神の国」だ」
  そして、「西欧の植民地支配に反対する」といって戦争をしながら、同じように植民地支配をしたのだから、弁解の余地はない。
  国家も個人も同じだ。失敗したら謝る。間違いも謝る。そこから、仲よくなることもできるんだ」

「ごめんなさい」は勇気がないとなかなか言えないものだ。だが、それ以前に、失敗や間違いを認める、素直さと頭脳が必要かも。鈴木さんは頭がいい上に、素直で勉強家でもある。右左を問わず、誰からも学んでいる。日本人がもともと持っている美徳だ。今は、ともすれば、目をつぶって現実を見ようとしない、自分の意見と違う立場の人の話しに耳を傾けようともしない。もっと広がりたいねぇ。体力と相談してボチボチとだけれど、学習会などにも出かけましょうっと。





No.55

中村哲さん講演会

 りっちゃん
08/5/31

5月29日、雨が降り止まぬというのに、盛況でした。開場30分前から人が並び始め、資料も途中から追加。もぎり役をやっていたため、ビデオ上映の途中から入場。アフガンでのペシャワール会の活動は、まずはハンセン病患者の診療から始まり、診療所に来る子どもの皮膚炎でも、水があればすぐに治るものが、干ばつで水がないために悪化してしまう。食糧が足りなければ栄養失調状態で、直るものも直らない。命を守るためには診療だけにとどまらず、井戸を掘り、灌漑工事をすることになる。戦争と干ばつでアフガンの人々の暮らしが脅かされてきた歴史がうつしだされました。活動の中でも大事にされてきたことは、現地の人を尊重し、彼らとともに協力し合い、いつか外国人が去り、彼らだけになっても活動できるように配慮すること。ブルカ(女性の被り物)一つとっても、現地の人の暮らしを尊重する・理解するということなしに、単純に正か悪かなどと決め付けないで!!とのことでした。「30年連れ添った妻でさえよく分からないのに、言葉も習慣も違う現地の人をすぐ理解などできるはずがありません。当然努力と時間がかかります」。

中村哲さんのお話は、淡々とした語り口で実に含蓄のあるものでした。アフガンの地理的特徴は、ヒマラヤに続く山岳地帯で、谷が深く、そこに各部族が住んでおり、地域ごとの自治が営まれている。1989年アフガンからソ連軍が撤退。アフガンの人々は、イギリスとの3回にわたる戦争も、モンゴルの侵略もすべて退けてきたと自負している。紀元前4世紀、アレクサンドロス大王の征服以降は独立を保っている、と。

中村医師は、ある村で「フランス人か?」(ここで客席より笑い声)と聞かれ、「日本人」と答えたら、大変好意的に迎えられたとか。アフガニスタンのほとんどの人が、日本を知っている。「日露戦争」――西欧列強の国に対し、不撓不屈の精神で戦い、勝ったとは言えないまでも退けたこと。「ヒロシマ・ナガサキ」に原爆を落とされた国でありながら、経済復興を果たしたこと。そんな経済力を持つ国でありながら、戦後は他国に対し派兵をしてこなかったこと。これを中村医師は「美しい誤解」(これにも笑い声が・・・)と表現され、近年、真実が暴露されつつあるとおしゃっていました。すなわち、強大な国にはへいこらして、弱い国には尊大な態度をとるということが・・・

9・11以降の日本、世界は異常でした。主犯とされたアルカイーダを擁護したとしてアフガンにアメリカが侵攻。ペシャワール会もアフガンから撤退せざろう得ませんでした。多くの人が餓死する寸前と聞き、食糧を首都カブールまで運ぶことになりました。アフガン人のスタッフが命がけでトラック輸送をしました。カルザイ政権が発足し、自由になったとの報道が日本でもされたようですが、その自由とは、阿片を栽培する自由、外国兵相手に売春をする自由、おべっかを使いぼろもうけをする自由などで、99.9%のアフガン人は、飢えに脅かされたままです。干ばつの影響も大きく、村があったところが数ヵ月後には、何もない砂漠と化してしまう。中村医師は水路工事のために聴診器ではなく、重機の操縦桿を手に。2007年に第一期工事を完了。その間、危険だったのは米兵による空襲。機銃掃射されたこともあったそうです。蛇籠工法という、日本の伝統工法が主力。金網の中に石を入れて、それをつなげ、その上に柳を植え、金網がさびた頃には、柳の根がしっかりと石の間に張って守る。コンクリートでは、氾濫が起き易い。日本でも伝統工法でやればいいのにねぇ。しかも、蛇籠なら、現地の人が必要な時にはいつでも修理できるという利点もある。工事を始めるといううわさを聞きつけ、たくさんの人が集まってきた。日当で、なんとか食いつなぎ、そして水が通れば、農業ができる。食べていける。昨年の渇水により、ほとんどの地域に被害がでましたが、ペシャワール会の作ったマルワリード用水路の範囲はほとんど被害がありませんでした。平和をつくるということに、武力は無力です。水、緑、人々の笑顔を見れば・・・

工事の間、もちろん、みんな武器など持ちません。シャベルを手にはしますが・・・米軍による医療品の配布を診療所付近でやるとの話を断ったそうです。診療所ではちゃんとした診察をした上で、必要な薬を出します。ただ配られるのでは迷惑。また、軍の警備つきの医療援助では、外国人の誘拐死亡が6人あったそうです。徹底した地方自治ですから、「日本の戦国時代」のように、農民がその土地を守る侍にもなるのだそうで、下手に米軍とかかわりを持つことも危険につながるそうです。何も武器を持たない、軍隊とは関係しないことが、一番安全なのだそうです。9条の精神ですねぇ。

質問の中で聞きなれない言葉が・・・「マドラサ」。「マドラサ」とは、その地域共同体の中心ともいえるもので、子どもたちの教育・福祉の場でもあり、一般課目のほかにコーランの学習もあり、その子どもたちを「タリブ」その複数形が「タリバーン」です。また、マドラサにはモスクも含まれ、そこでは地域全体の家長らが集まり、地域について協議する場でもあります。子どもたちを呼ぶ「名」のために誤解が生じてしまうのですが、いわゆるタリバンとはまったく関係がありません。その「マドラサ」の建設も、用水路のついでに行うことにしました。住民は大喜びです。

農業試験場のようなものも活動しているそうです。乾燥に強いものの栽培。そばとかサツマイモとか。サツマイモは現地の人も好まれるとかで、盗まれることがあるそうです。将来有望? いくら乾燥に強くても、食べてもらえなくては意味がないですから・・・

伝統医療と西欧医療についての質問もありました。中村医師は、西欧医療にはお金が絡んでくる。倫理的な問題があると感じられているようでした。確かに、高額な医療が果たして人間にとって幸福をもたらすかどうか、私も疑問に思うことがある。援助も同じこと。高額な機器を贈っても、現地の人が使いこなせなくては、その機器を売った会社が儲かるだけで、途中で修繕不能となり、現地の人の幸せを得ることにはならない。ペシャワール会の活動は着実に現地の人々に受け入れられ、自主性を養い、幸せを運んでいるが、翻って、日本の人々の暮らしはどんなものだろうか? 海外援助にしてもお金をばら撒くやり方では、日本の企業にはプラスになっても、日本人と現地の人に幸せを運んでいるのだろうか? 考えちゃうねぇ。アフガンの人々とペシャワール会の活動から、学ぶことが一杯あるようだよ。

打ち合わせが足りなくて、なんだか駆けずり回ったりして、ちゃんとお話が聞けたんだか自信がないけれど、講演会のご報告でした。





No.54

小平飛行騒音

 りっちゃん
08/5/27

24日(土)、市民自治こだいらの学習会で、イラストレーターでもある、小平飛行騒音対策ネットワーク代表、尾崎一郎さんのお話をうかがいました。

お隣のご主人からも「ヘリがうるさいけど、何とかならないか」と聞いていたし、私も2階にいれば築40年の家の振動がすごいし、庭にいれば低空飛行が怖いし、何しろ、ヘリコプターが多いでしょう?飛行機と違って、ゆっくりな分騒音がいつまでも続くのよねぇ。うるさい!!

「小平はもともと静かな住宅地として武蔵の豊かな自然に恵まれた環境をずっと保ってきました。
  しかし、近年、毎日のようにヘリコプターがけたたましく飛び交い、大型飛行機やジェット練習機が轟音を響かせ、低空飛行を繰り返すようになり、私たち市民の生活環境はひどく悪化しています。
  それらの飛行機やヘリコプターの多くは、陸上自衛隊立川基地と航空自衛隊入間基地の所属機です。多い日には数十機、述べ数100機を超える飛来が確認されたこともあります。一時間に10機を越す集中的な飛来も頻発していますが、事前連絡などは何もなく一方的に飛行訓練が強行されています。

状況1 騒音は・・・ 飛行高度は、地上からわずか370〜500メートル程度です。そのため飛行騒音は、市の調査によると、騒々しくて会話のできない地下鉄の車内や鉄道のガード下近辺のレベル以上(65〜85デシベル)にまで達しています。

状況2 墜落事故が・・・ 航空自衛隊の飛行機や陸上自衛隊のヘリコプターは、これまでに数多くの墜落事故や空中衝突事故などを起こしています。現に、毎日のように小平市内を飛行していた入間基地のジョット練習機(T33)が、入間川の河川敷に墜落炎上するという事故(99年11月22日)が起きています。もし、市内の住宅地や商店街、学校や病院などに墜落していたらと思うと本当にぞっとします。

状況3 立川基地のヘリコプターが、ブリヂストン工場上空(BSポイント)で航空法の最低安全高度を守らず超低空飛行をしていたり、入間基地のジョット機がニアミス防止の飛行高度を守らずに危険な低空飛行をしたいたことが確認され、新聞報道されました。しかし、その後も違反飛行が繰り返されました。

状況4 市議会から意見書出る・・・ 私たち市民の要望を受け、2005年に端議会から防衛庁に対し現状改善を求める意見書が全会一致で出されました。しかし、立川基地のヘリコプターなどの飛来は増加傾向にあります。」

飛行高度

尾崎さんが、ビデオや新聞記事のコピー、図など詳しい資料を元に丁寧に説明してくださったのだけれど、みんなもこれから夏にかけて窓を開けると一層うるさいだろうねぇって。テレビや電話の声が聞こえなくて困るって。基本的には8時から8時までの間ってことになっているけれど、例外もあって、夜の12時半ごろというのもあったそうよ。この頃はピー公に起こされちゃうけれど、それ以前はお寝坊りっちゃんにとって、朝の8時は大迷惑だった。いまは夜勤のなくなった甥も、夜勤あけの日中の騒音はうるさかっただろうし、健康にも響いちゃう。24時間開店のこの時代。迷惑している人が多いんじゃないのかなぁ。

なんでこんなに低空なのかというと、高度海抜3000フィート(915m)より上空は米軍機専用だから。右の図と、1都8県にまたがる横田空域も見てね。ここには日本の飛行機は飛べないのよ。もちろん自衛隊機だけでなく民間機も。避けて通れば燃料も無駄だし、危険も増す。自衛隊機はこの空域の下しか飛べないから、低空飛行しかできないのよ。高さがあれば回避できるかもしれない事故も、低空だと余裕がない。しかも下は住宅地。事故がおきる可能性は当然高い。

ちょっと見づらいかな。一番上が米軍機。衝突防止の安全間隔が500フィート(152.5m)、入間基地関係機(空自)2000(610m)〜2500(762.5m)フィート、衝突防止の安全間隔500フィート(152.5m)、立川基地関係機(陸自)が1500フィート(457.5m)以下。海抜だから、ここの海抜が約80m。たったの300m以内を飛んでいるということ。そりゃぁ、うるさいわ。で、違反が多いのは、上を重視、下を軽視、つまり米軍を住民よりも大事にしているということで・・・やれやれ、まんまだよ。

わたしがびっくりしたのは、実際に事故があったということと、最後のビデオで、世界第二位の軍事費を使っている日本の自衛隊の軍備の実態をみんながわかっていないということ。なんで北朝鮮や中国を怖がるのかと思っていたら、日本の軍備よりこの2国の方が強力だと勘違いしていたのねぇ。そんなことあるわけないでしょう。どんなにお金をかけた処で、もともとの経済力が違っているのだから・・・

で、イラクでもアフガンでも米軍がお手上げということは、どんなに軍事力が強大であろうとも、勝てないということ。名目上はともかく。実際には。で、潜水艦一隻だったかな、それとベイブリッジが同じ値段と聞いてみんながため息。無理に仮想敵国を作って、そんなにお金をかける必要があるのだろうか?池上さんも言っていたように、日本には資源がないから、攻め込んでくる必要がもともとない。なあんにもなしで、国民の生活のために使った方が、いいんでなぁい?自衛隊も災害救助専門にして・・・消費税の3%分だってよ。軍事費が。馬鹿みたい。詳細はいつか一つのページにまとめたいなぁと考えています。ざっとのご報告でした。





No.53

私たち共産党の味方です

 りっちゃん
08/5/27

共産党の元・最高幹部筆坂秀世さんと、新右翼「一水会」顧問の鈴木邦男さんの対談本です。帯には、投票用紙に「日本共産党」と書けないあなたへ、とあります。うん、私もできるだけ違う名前を書こうとしていると思う。

どうしてかと言うと、一つは、大昔中国語を習っていた時に、まわりがみんな「民青」(ミンチン)を嫌っていたこと、校長先生が、元・共産党で、彼は何もいわなかったけれど、彼みたいに優しくていい人で信頼できる人が離れた(除名されたのかも)党なら、あんまりな信頼できないなぁ、と言う印象があったこと。

決定的なのは、 私も共産系の合唱団で痛い目にあった経験があるから・・・この本に書いてあることが実感でよくわかる。かたくなで、身内びいきで、そして絶対に自分たちは正しいと思っている。批判をするものは絶対に許さない。私たちはこきつかわれたあげく、シカトされた。元相棒は歌うこともできなくなった。心の傷が深い。そして傷つけた側は、どうも何も感じていない様子。

筆坂―加藤氏(評論家の加藤周一氏)は、「伝統的な日本社会では、職場の集団へ個人が高度に組みこまれている。そのことは、一方で個人の安全を保証すると同時に、他方では成員すべてを同化させようとする圧力として働く。強制的な同化現象、個人(あるいは少数)の意見の圧殺、個人の自由の極端な制限」がある、と言っています。僕に、「変節者、転向者」という汚い言葉を投げつける共産党という組織の特質と加藤氏が言う伝統的日本社会の特質は、酷似しているように思えます。

筆坂−彼(読売新聞会長の渡邊恒雄氏)はこんなことを言っています。
   《共産党は「報いられることなき献身」を求める。それは宗教的献身とどう違うのか。消耗品の兵士になれということか。「個」の尊厳と主体性はどこにある。だがマルクスやエンゲルス、レーニンの著作には、それらの疑問に答える哲学や言葉が見当たらない。》   (日本経済新聞2006年12月6日付)

鈴木ー・・・筆坂さんに対する共産党の対応はすごいですね。赤旗の紙面を大きく使って不破さんや志位さんが連日コメントをする。まるで機関紙を通して筆坂さんの本(『日本共産党』)の書評を連日やっているようなものですよ(笑)。
  筆坂―いまでも自分たちは「前衛」であり、一段高いところにいると錯覚しているから、こんな思いあがった言葉を吐けるんでしょうね。

ダブルで個の排除が行われる構造なんだぁ。ひとりひとりはとってもいい人が多いんだけれどねぇ。特に地域で動いている人や議員は話のわかる人が多い。
  ただし、やはり、いい人の多い、創価学会の悪口となると、すごい。端から見れば、似たもの同士に過ぎないのに・・・

住んでいる所の9条の会で、うっかり本音「共産党は大嫌い」と言ってしまった。なぜかその後、発言の機会〈定例会〉が無くなった。「お手伝いできることがあればご連絡下さい」というメールを出しても返事が来ない・・・。またシカトかしら?

どうも今ひとつ、9条の会が積極的でないなぁと疑問に思っていたことが一つ、この本で解けたよ。
 憲法制定のための国会の議論の中で、共産党は9条に反対していたんだよ。防衛のための軍隊は必要との考え方のようだった。この本でも
「旧綱領時代に共産党が描いていたビジョンは、@民主連合政府の樹立、A民主主義革命を徹底的に遂行、B社会主義革命の推進、の3段構えでした。@の段階では日米安保条約を廃棄し、自衛隊を解散させる、Aに入った段階で、憲法9条を改正し軍隊を持つ、天皇制も廃止するという考え方だったのです。Bは社会主義の段階 」

つまり、軍隊が欲しいんだ。綱領が変わっても基本的には同じなんじゃぁないかなぁ。
  「いまは民主連合政府ができたとしても日米安保条約を廃棄するだけです。自衛隊解散は、国民合意ができるまでしない、場合によっては自衛隊を活用することもありうるという方針です。つまり民主連合政府ができてもずうっと自衛隊が残ることもありうるわけです。天皇とも共存する、憲法違反の自衛隊も容認する、ということです。これで将来にわたって、憲法は変える必要がなくなったわけです」
拡大解釈の得意な自民党と、どう違うんだ? 憲法改正(悪)を声高に言わないだけか?

「護憲」ばかりで、9条を活かすという発想が足りないと思ったら、そういうことだったのね。これじゃぁ、「護憲」では物足りないという若い人たちの意見も、あたっているわ。

筆坂さんは、共産党が変革できるかどうか、については、少々あきらめムード。右翼の鈴木さんの方が期待が大きいのか、人間的に優しさが備わっているからか、やたらに褒めまくっている。

「敵ではあるけれど、「しかし、運動に入る動機は同じなのだ。「自分のことだけを考えていてはダメだ」という点だ」。「謙虚で、金も名声も求めない共産党の人々こそ最も「日本人らしい」、いや、今の日本人が失った日本人の「美徳」を持った人々ではないか。こうした「美しい日本人」が増えてこそ「美しい日本」は出来る。」

ウーン、確かにそういう人もいるけれど、欲を持っている人だっているけどなぁ。「自分たち」のことだけ考えて、他人様をシカトして、なんとも思わない鈍感な人もいる。共産党員もいろいろ。右翼もかな?

「でも多くの人達は、「それは怖い」と思うだろう。何が怖いのか。「自分こそが正義だ」という独善的な体質。それに、過度の潔癖性。それが怖いのだ。「真面目にやっているのに、それが怖いとは」と共産党は思うだろう。でも、もっとリラックスしたらいい。間違ってもいい。もっと肩の力を抜いて、いろんな意見、批判を聞き、取り入れたらいい。党名も変えたらいい。そうしたら政権だって取れるかもしれない。」

ウーン、革命を信じている共産党員もいるんだけどなぁ。私は暴力は嫌だけれど、そういう人にとっては名前を変えるというのはどうなんだろうか? ちょと判断がつきません。あとのことはさすがの鈴木邦男さんの言うとおりです。

友達の多くは、共産党に期待している。政党で安定してまともなことを言っているのは、やっぱり共産党かなぁ。私も期待はしたいんだけれど・・・9条の会だって、=共産党ではないけれど、だって、私みたいに「共産党嫌い」もいるからねぇ。ちなみに、9条の会のびら配りで、道行く人の中には、「共産党」への嫌悪感をあらわにされた方が何人かいらっしゃいました。再度強調、9条の会は=共産党ではありません。ちなみに、私がいじめにあった合唱団も=共産党ではありません。でも、共産党(社民党にもいたなぁ)の人って、能力とかは高いのよね。運動の経験が長いから。個人的に好きな人も多いしねぇ。集団で凝り固まらなければ、一緒に組むのも、楽しいと思うんだけれど・・・再度強調、創価学会とそっくり。違いは、服装と、学者好きな所かしら? 私は、組織に属するのは好きじゃぁない。個を大事にしたいから。で、いろんな人と友達になりたい口。鈴木さんのこの優しさが好きだなぁ。次ぎの本は、「失敗の愛国者」。鈴木さんの軌跡も書かれているよ。乞うご期待。





No.52

「在日の歴史と文化を知る」講座

 チマ・チョゴリ友の会
08/5/14

チマ友連続講座「在日の歴史と文化を知る」第一回
   「検証<帰国事業>」   お話:加藤健一さん

私たちチマ・チョゴリ友の会が、これまでに企画し、実行してきた催しや活動は、いずれも在日朝鮮・韓国人との出会いのためであり、また歴史を学び、社会を知るためでした。出会いの喜びやそこに育まれる自省が、この国を改め、よりよい市民社会を創らなければ・・・という、意志と行動の原動力になっているように思います。

今回の企画は、在日朝鮮・韓国人と日本人のかかわりを、歴史や社会の動向を通して考える連続講座です。

初回は、「検証<帰国事業>」と題して、加藤健一さんにお話いただきます。日本の近代史を精力的に学ばれている加藤さんですが、今回の講座にあたり、チマ・チョゴリ友の会の創立時からのメンバーで、ハングル講座の講師でもある李壌姫(リ・ヤンヒ)さんへのインタビューも試みられました。どうぞ、ご参加下さい。

  2008年6月5日(木) 午後7時から9時半(6時半開場)
   府中グリーンプラザ7階グループ活動室(府中駅北口徒歩1分)
   資料代:500円




何故?! 朝鮮学校に「補助金」なの?!
〜学校支援の活動を一歩前に進めるための学習会〜


朝鮮学校は、学校教育法の一条校として認められず、各種学校扱いのために学校運営に教育費助成、寄付金課税免除などさまざまな制度からも排除されています。さらに、私立学校振興助成法もまた一条校を対象としているために国や自治体の助成を一切受けることができません。しかし、定住朝鮮・韓国人は所得税も住民税も国民と同額を支払っています。このような差別や困難にもかかわらず、保護者の皆さんは、異国の地にあってもなお自分の言葉、文化を子や孫に伝えていきたいと願い学校を支えてきました。そこで、せめてもの教育支援として全国の自治体は保護者への補助制度を定めてきました。ここ三多摩地域では18市が月額平均1730円を出していますが、小平市、八王子市、小金井市、青梅市、西東京市、東久留米市、清瀬市はそれすら認めていません。そして、拉致事件以降の政府とマスコミの北朝鮮と朝鮮学校を関連付けた批判は、生徒への暴力やいじめとささやかな補助金までなくそうとする動きに拍車をかけ、朝鮮学校に通わせたくても断念せざるを得ない状況も続いています。そこで私たちは、朝鮮学校への唯一の公的支援となっている「補助金」についての困難を打開し、支援を広め深めるための学習会を開くことにしました。

(参考) 〜補助金出すな!の意見でよく耳にする言葉〜

○北朝鮮の思想教育機関だ。○反日教育をしている。○民族教育は自腹でやるのは当然。○朝鮮総連の運営を助けるな。○独裁者崇拝の学校。○北朝鮮から送金があり、困っていない。○やがて朝鮮に帰るのに税金を使うな。○日本だって苦しいのに外国人に税金使うな。○言葉や文化を学びたいなら自国に帰れ。○金がないのなら公立学校にいけ。○よく分からない。○その他

さて、あなたはどのような意見をお持ちですか?学習会でお会いしましょう。

《日時》 2008年6月29日(日)午後2時〜4時半

《内容》 ★保護者からのお話(40分) ★各地域の体験報告2例(各20分) ★会場討論(40分) ★詳細は当日発表します。

《会場》 立川市高松学習館(旧高松公民館) 立川市高松町3-22-5 042-527-0014
    交通: (1)JR立川駅北口より徒歩13分 (2)多摩都市モノレール立川北駅より徒歩13分 (3)JR立川駅北口よりバスをご利用の場合、三ツ藤住宅・幸町団地・立川車庫・けやき台団地・村山団地・若葉町団地行き等に乗車し、最初の停留所「高松町3丁目」で下車、徒歩3分。

《資料代》 500円

《主催》立川の朝鮮学校支援ネットワーク・「ウリの会」

《連絡先》「ウリの会」参加団体、チマ・チョゴリ友の会、オッケントムの会。八王子助成金を実現する会、タリの会、日野補助金減額に反対する会、オモニ会、アポジ会。





6月29日は、翼の練習日なので欠席。なので、意見を書いておくと、私は、日本にとってもいい学校だと思うので、いつか私立学校になればいいなぁと思っているのだけれど、補助金に関して、グチャグチャ言っている人って、本当に心が狭いなぁ、貧しいなぁ、と思う。で、そういう意見を聞くとがっかりして、ひどく疲れちゃう。他のアジアの国に比べたら、日本は豊かだと思うよ。政治が無策だから、この先に不安感は抱いているけれど、日本人の心の優しさを見失って欲しくない。

池上さんの憲法講座で、地方自治では「国民」ではなく「住民」が主人公だと教わった。同じ地域に住んでいるもの同士が助けあうっていう当たり前のこと、自分の民族の言葉や文化を大事にするという当たり前のこと、をぜひ大事にして欲しい。日本人だって、よその国に定住しても自分の文化は大事にしたいって思って欲しいし、ましてや、無理やり、または仕方なく、という歴史があったのだから、その辺のことも配慮しなくては・・・それを「帰れ!!」なんて、よく冷たく言えるよなぁ。暮らしがもう日本にある人が大半だと思うよ。なんで、「仲良く暮らしましょう!」って言えないんだろうか。

日本って、自由の国のはずだよね。理屈から言えば、思想教育であろうと反日教育だろうと、教育の自由を保障しなければいけないのだろうけれど、実際、見学に行ってみたところでは、そんな片鱗も無かったよ。そんなことを思うならば、見学に行きなさい。創価学会のおうちによくある額入りの写真なんか一枚もなかった。あれは、戦前の天皇崇拝を見るようで、私自身は不快に思うけれど、でも、個人の自由ってやつじゃないかと思うけどな。全体に拡がって、「飾らない家は“非国民"!!」なんて言う(無言の圧力も含む)ようになったら、その国や団体の未来はないと思うけどさ。

うちにも「在日の特権を許すな!」っていうチラシが入っていた。特権どころか、今まで(今も)窓口をピシャリと閉じて、普通の権利さえ与えていなかったのに、よく言うよ。私たちも、声が小さくて、ごめんね、なのだ。右翼のこれまたごく一部というか、どういう団体なのかねぇ。右翼なら鈴木邦男さんを見習え!!なんだけど・・・おカネで雇われた人たちって気がする。同じ日本人として、その心の狭さ、無知が ア〜ア、恥ずかしい!





No.51

連続セミナー

 「平和への結集」をめざす市民の風
08/5/14

衆議院山口2区補選で民主党候補が大勝しました。国民の多くが福田政権に「ノー」を突きつけつつあります。福田総理は7月の洞爺湖サミットで、世界に向けリーダーシップを発揮、汚名挽回して政権維持をと考えているようです。しかし、その肝心の地球温暖化対策、日本はボロボロで世界から取り残されつつあるのです。

1997年の京都会議で、世界の先進国は2012年までに温室効果ガスを削減すると約束しました。ところが日本は削減どころか排出量を増やしています。この10年間、何にも有効な対策を打ってこなかったからです。経済界の既得権を重視し、産業界に厳しい制度をことごとく排除してきたからです。

今年のはじめには、沖縄での米兵による少女暴行、護衛艦「あたご」の衝突など、日米関係や自衛隊そのものを問う事件が続きました。消えた年金はさっぱり解決せず、追い討ちをかけるように特別高齢者医療制度、原油や穀物の値上がりによる物価高騰、自暴自棄の凶悪犯罪や自殺が増えています。国民生活は大ピンチなのに、国会は空転し有効な対策を打てていません。平和問題も、社会福祉・高齢者問題、経済政策も、そして地球温暖化問題でも「いきあたりばったり」なのです。

そこで、現在の政治の行き詰まりを打ち破る展望を探るため、私たちは政治セミナーを企画します。人類を脅かす環境問題、国民を脅かす格差・貧困の問題、民意をゆがめる小選挙区制の問題、そして平和にとっての憲法9条の価値などについて、一緒に考えてみませんか。

第1回 地球温暖化問題から取り残される日本の政治
     ―洞爺湖サミットで何をなすべきか―

講師:平田 仁子(ひらた きみこ NPO法人 気候ネットワーク運営委員)
  1970年生まれ。米国環境NGO「Climate Institute」で地球温暖化に関する活動に携わる。98年6月より気候ネットワークに参加。NGOの立場から、国内外の地球温暖化に関する政策研究・政策提言・情報提供などを行う。共著『よくわかる地球温暖化問題 改訂版』(気候ネットワーク編・中央法規出版)。気候ネットワーク:国内の地球温暖化問題に取り組む約160の団体、600の個人が参加する環境NGO。

日時:2008年5月31日(土)14:00〜17:00
  会場:神田公園区民館 神田司町2−2 電話 03-3252-7691
    JR・東京メトロ銀座線神田駅から徒歩5分    東京メトロ丸の内線淡路町駅から徒歩5分    都営新宿線小川町駅から徒歩5分
   ※会場は「みどりの会」で予約しています。
  参加費:800円(前売り500円)

2回目以降の予定
   第2回 「拡大する格差社会と失われゆく憲法の精神」
    〜ワーキングプアと政治の無策〜 (2008年7月下旬開催予定)
   第3回 「小選挙区制は政治を良くできたか」
    〜あるべき選挙制度を考える〜 (2008年9月開催予定)
    ※現職議員を招いたパネルディスカッションを予定
   第4回 「東アジア共同体としての平和政策」
    〜憲法9条と北朝鮮問題〜(2008年11月開催予定)
   広島・長崎へのオプショナルツアー(2008年8月予定)

主催:「平和への結集」をめざす市民の風
  後援:地球平和公共ネットワーク
  協力:みどりの会
  お問い合わせ先:政治セミナー実行委員会 電話番号:080-5373-0575(末次)メール:join@kaze.fm





「国民生活は大ピンチ」とあるけれど、まだまだ日本には経済的余力はあると、そっち方面の勉強をしている友人が言ってたよ。それにしても、中国の地震、ミャンマーの台風、北朝鮮の水害による飢饉、自然の前には人間は微力だねぇ。日本からの援助が届くといいけれど・・・セミナーは、都内だとちょっと遠いです。体調も今はどうも・・・なかなか行けないと思うけれど、テーマによっては「えいやっ!!」と出かけるかもしれません。セバちゃん、その時はよろしく!!





No.50

平和ビジネス

 ヘイキン
08/5/12

お金の問題を切り口?に 平和関係のホームページを作りました。
  掲示板も設けています。
  これから時々覗いてみてください!

 平和成金ホームページ
  http://www.geocities.jp/heiwanotori/





9条世界会議でも、戦争ビジネスに負けない、平和ビジネスを構築しようとの提言があったよ。発想がいいですねぇ。成金になる必要はないと思うけれど、これからの発展が楽しみです。わたしも平和で暮らしが立てたらなぁ・・・





No.49

影響力の武器

 りっちゃん
08/5/12

著者はロバート・B・チャルディーニ。副題は「なぜ、人は動かされるのか」。私は冷静だから、著者みたいにカモにはならないから、関係ないと思いつつ読んでみたら、なんだか、思い当たることも・・・私も危ないなぁ。

風呂釜が故障して、プロパンから都市ガスに変えた時に設備がそのままだったので、壊れやすくなっている、部品の交換するより買い換えた方がいいと言われ、乾燥機・瞬間湯沸かし器ともども、買い換えた。風呂釜は何しろ必需品。説明を聞いて、それが値段的にも妥当であること、補助金が出ること、これからも修理を頼む系列会社であること、わずかながら値引き交渉に応じてくれたことなどから、それがベストな選択であったとは思うのだけれど・・・最後に営業マンが言った「つぎはガスコンロですね」が引っかかる。私にとって無事に長く使用できることが大事なのであって、そうどんどん買い換えるわけにはいかない。こっちは預金引き出し生活。この金額で半年寿命が縮まった。この本にある、今だけ、お客様だけ特別情報、なんとか身内に泣いてもらって、作戦をしっかり取られたみたい。それも計算のうちだったし、この設備を買うことが私にとってプラスになれば、それでいいのだけれど、この本によれば、客が騙された部分に関し、認識が薄いとある。別な会社にも問い合わせるべきだったのかなぁと・・・特に不満があるわけではないけれど、私も騙されやすいのかも・・・

「まえがき」には、
  「この際、正直に打ち明けてしまうことにします。私はこれまで、実にだまされやすい人間でした。ずっと昔まで記憶をたどってみても、私は、販売員、基金集めの人、その他さまざまな説得上手な人の売り込み口上のいいカモでした。彼らの中で下劣な動機をもっていたのは、ほんの一握りの人々だったのは確かです。その他の多くの人々 − たとえば、慈善団体の代表者 − は、誠心誠意こうしたことを行っていたのでしょう。でも、そんなことはどうでもいいことです。気がつけば、読みたくもない雑誌を購読することになっていたり、清掃局員の舞踏会のチケットを買わされていたこともしょっちゅうで、自分でも心配になるくらいでした。おそらく、長い間自分がカモの地位に甘んじていたということが、承諾の研究に興味をもつようになった理由だと思います。他の人に対してイエスと答えさせるのは、どのような要因なのだろうか、それらの要因を効率的に使って承諾を引き出すことができるのはどのようなテクニックなのだろうか、何か頼み事をするのに、ちょっとしたやり方の違いで成功したり失敗するのはなぜだろうか、このようなことを考えるようになったのです。
  そこで、実験社会心理学者として、承諾の心理について研究を始めることにしました。」

テクニックの大まかなカテゴリーは、返報性、一貫性、社会的証明、好意、権威、希少性。なんとなく身に覚えがありますよね。例えばタッパーウェアー。友人の家に呼ばれ(好意)、なにかプレゼントをもらい(返報性)、「使いよかった」例を自ら紹介(一貫性および社会的証明)。タッパーウェアーでうまいこと買わされたとしても、懐がそう痛むほどの金額ではないし、それなりに使えるものだからいいけれど(置き場所には困る)・・・ことほどさように、この心理学は社会のあちこちで日常的に存在しているということです。自分はしっかりしているつもりでも、時には騙されているかもしれない。そのことを承知しておいた方がいいなぁと。

さて、返報性について、私は、いつもその場で「ありがとう」を言うことにしている。それでまったく終わりというわけでもなく、心に留めては置くけれど、何しろ離婚してからは経済的にお返しをするというのは難しくなっている。もし、お返しをするとしてもできる範囲、もしくはより困った人に、という場合が多い。それしかできない状況だからでもあるが、実際、世の中はそういうふうに廻っているのではないかとも思う。なにも貧乏人と金持ちが対等につきあうことはない。上から下へ流れていけばいいのだ。昔からの知恵でもあるのかな。

一貫性は怖い。人生が狂う場合もある。一回認めてそれにはまりこむと、自分でもおかしいと感じていても引き返すことができなくなる。こんな宗教にのめりこんでと、友人の例ではしっかり見えるけれど、自分もそういうことをしているのかもしれないとも思う。

この本の例では、セーラーが大酒飲みで結婚の約束を果たさないティムといったんは別れる決意をし、別な男性と婚約までしたのに、ティムの口説きに負けて、ティムと同棲、約束を反古されても、二人は愛し合っている、自分は幸福であると信じきっている。あらあら。

「機械的な一貫性には、もう一つもっと手におえない魅力があります。私たちが考えることを避けるのは、苦労のためではなく、考えることによって厳しい結果が生じるためであることが時々あります。理路整然と考えた結果、望んでいない答えがいまいましいくらいはっきりしてしまうことがあるために、私たちは精神的な面で怠け者になってしまうのです。世の中には、知らない方がましな嫌なことがいくつかあるものです。自動的な一貫性は、あらかじめプログラムされており、よく考えないで反応する方法なので、嫌なことを知らないで済ませられる安全な隠れ家を提供してくれます。堅固な一貫性という要塞の壁の中に閉じ籠もって、理性に攻撃されても頑として受け入れないでいられるのです。」

研究者たちが潜入し、理論で打破したはずの宗教セミナーの参加者はこう言ったそうです。「僕は今夜はお金を払うつもりはなかったんだ。今、本当に文無しに近い状態だからね。だから、次の会合まで待つつもりだったんだ。だけど、君の友人が話し始めたとき、お金をすぐに払った方がいいと思った。そうしなければ、家に帰って彼の言ったことをまた考え始めてしまって、そうしたらもう決して申し込まなくなるって思ったんだ」。また、「洪水」の預言がはずれた宗教団体の参加者は、「二十一日に洪水が起きるって信じなければならないんです。このために、私、すべてのお金を使い果たしてしまったんですから。仕事もやめ、コンピュータの学校もやめて……。信じなければならないんです。」

理性に立ち返るということ自体、相当の勇気がいるのです。まったく一からの出直しをしなければならないのですから・・・

この宗教団体は、その後社会的証明をするために、今までの秘密主義をかなぐり捨てて、報道関係になぜ洪水が起こらなかったかを説明することに奔走しました。社会的証明をすることによって、自分たちを正当化するしかなかったのでしょう。結果は失敗でしたが。

社会的証明も、なかなか怖いものがあります。「風」とか「空気」に、ことに日本人は弱い。いじめの温床でもあります。楽をしないで、時には「自分の頭」で考えないとね「集団的無知」と呼ばれているものも、気をつけないと・・・救急法でも「誰か助けて!」ではなく、「そこの人、救急車を呼んで!」と、特定の人に具体的に指示するように教わりましたが、事件や事故の場合、「誰か他の人が助けるだろう」という心理が働くそうです。「誰も騒いでいないから、たいしたことではないだろう」で、目撃者が多すぎるとかえって殺人事件の通報が遅れたりすることがあるのだそうです。野次馬、好奇心、お節介も、社会に必要なんですねぇ。

「自殺」報道が、他の「自殺」や事故を誘発するのも、社会的証明の作用とか。日本の報道はいけませんねぇ。具体的方法まで教えちゃって・・・真似しろ!!といっているようなものです。もちろん、自殺したくなる社会そのものの変革が一番大事なのですが、マスコミがあおってもいます。

好意。学校における形式的な人種差別廃止のための統合では、逆に偏見を強めてしまったことが記されています。「フラストレーションやコンフリクト、競争といった不快な状況の下で、繰り返し他の人や物に接触すると、好意は減少してしまいます。典型的なアメリカの教室は、まさにこのような不快な状況を作り上げているのです。」そんな状況下でも、「少数民族の生徒の成績は悪くなるより、良くなる可能性の方が十倍も高いのです。」

そして、実験です。少年たちのサマーキャンプで、実験者が意図的に双方の集団のミーティングに競争的な活動を導入したら、悪意が増大しました。キャビン対抗の宝探し、綱引、運動競技会。そこで、「集団同士で競争をすると全員の利益を損ねてしまうのですが、協力すればお互いの利益になるような一連の状況を作ったのです。たとえば、一日がかりの遠足の途中で、町へ食べ物を買いに行くために使える唯一のトラックが動かなくなっているのが「発見」されます。そこで、全員が集められ、車がそこから抜け出るまで、皆でトラックを押したり引いたりしたのです。もう一つの例では、離れた所にあるタンクからパイプで水を引いているキャンプの水道を、研究者が途中で止めてしまいました。すると、少年たちは共通の危機に直面したことで、統一された行動が必要であることを知り、皆で協力してその日のうちに故障を見つけて修理を終わらせました。」時間はかかりましたが、大きな変化が起こりました。「最も重要な手続きは、実験者が二つの集団に対して共通の目標を与えたことでした。これらの目標を達成するために必要とされた協力こそが、最終的に、敵対集団の成員もお互いわかりあえる仲間、価値ある援助者、そして友人なのだと理解させることになったのです。」

学校でも、「学習におけるジグゾー技法の要点は、間近に迫っている試験のために、生徒たちが試験範囲を一緒に勉強するように仕向けることです。そのために、生徒たちをいくつかの協力チームに分け、それぞれの生徒には試験に合格するのに必要な情報の一部分(つまり、ジグゾーパズルの一つのピース)しか与えません。このシステムのもとでは、生徒は交替で教えあい、お互いに助け合わなければなりません。良い成績をとるためには、一人ひとりが他のすべての人を必要とするのです。」

この勉強法は確かによい。日本でもまねしたらいいと思う。ひとりひとりの成績をつけるのが目的ではなく、学力の向上こそが(協力することという力も含め)勉強の目的だものね。受験は別だけどね。

権威の持つ影響力の実験結果は、ぞっとするよ。確かこの部分は他の本でも読んだ記憶がある。

「教師」役が問題を出し、「生徒」役が答える。間違えたら、腕の電極に電気ショックを与える。間違えるたびに電圧が15ボルトずつ上げられていく、「教師」役は知らないけれど、「生徒」役はショックを受けているようなふりをする演技者だった。泣いたり懇願したり・・・で、「何の罪もない他者に対して、苦痛を与えるように指示された場合、普通の人はどの程度の苦痛まで与えようとするのだろうか?」が実験の目的だったのだけれど、なんと、「約三分の二の実験参加者(被験者)は、犠牲者(「生徒」)からの懇願を聞き入れず、研究者が実験の終了を告げるまで、自分の前にある三十個の電気ショック・レバーを次々に引き、最後のレバー(四百五十ボルト)までも引いたのです。さらに驚くべきことに、この研究に参加した四十人の被験者のうち、「教師」としての自分の仕事を途中でやめようとした人はほとんどいませんでした。犠牲者が最初に解放を要求したときも、その後で解放を懇願するようになっても、さらに、ショックに対する犠牲者の反応が、ミルグラムの言葉を借りれば、「非常に苦しみを伴った叫び声」になったときでさえもやめませんでした。」

「教師」役がサディストだったからではありません。みんな普通の人だし、レバーを押すことに苦しんだのです。でも権威には逆らわなかったのです。

注) によれば、「実は、ミルグラムは最初、ナチが優勢であった間、ドイツ国民がなぜ強制収容所で何百万もの罪のない人々の殺戮に加担したかを理解しようとして研究を始めたのである。アメリカで実験手続きがうまくいくことを確かめた後、ドイツで同じ実験を行なう計画を立てていた。ドイツ国民なら十分に服従を示すだろうから、服従という概念の完全な科学的分析ができると確信したからである。しかし、コネティカット州ニューヘブンで行った最初の実験がこのような結果だったので、研究費を節約でき、おまけに自宅の近くで研究できることが明らかになった。「非常に多くの人が服従したのです。ですから、ドイツで実験を行う必要がほとんどないことがわかりました」と彼は述べている。」

ナチズムはなにもドイツだけの特産ではないということだわね。

「テクノロジーは人間よりもずっと速く進化しますから、情報を処理する私たちの能力は、現代生活の特徴である溢れるほどの変化、選択、挑戦を扱うには不適切なものになってきています。下等動物には、外部の環境の複雑さと豊かさを十分に処理する心的装置が備わっていませんが、私たち人間は、次第にこうした下等動物と同じ立場に立たされるようになってきています。認知能力がもともとある程度欠けている下等動物と違って、人間の場合は、複雑な世界を急速に構築することによって、自ら欠陥を作り出してきたのです。ここで作り出された欠陥は、他の動物が長くもってきた欠陥と同じものです。決定を下すとき、状況全体を十分に考慮して分析することが少なくなり、逆に、その状況の中にある特徴のうち、たいていの場合は信頼性が高いたった一つの特徴だけに注意を向けるようになってきています。」ので、作者が「カチッ・サー」と表現した簡便反応を多用することになる。つまり、自分で考えることをサボってしまいがちになります。ほとんどの場合はそれで、いいのですが、大事なことには、充分に気をつけましょう。相手の誠実さをチェック。自然な状況では簡便反応の手掛りとなるはずの証拠を偽ったり、捏造したり、不正に提示する人々の場合はきちんと反撃しましょうって。

今はマスコミが当てにならないからなぁ。日本の行く末とか、世界平和とかは大問題だからね。権威とか、見た目とか、テレビの報道なんかで、「カチッ・サー」で判断しないでね。小泉の「改革」に「カチッ・サー」で、投票しちゃった人が、今頃になって、後期高齢者医療制度(長寿の人を放り出して金はふんだくれ!!制度)の欠陥に気がついて憤っている。一貫性にこだわらずに、「優しさ」を大事にする社会にしていきましょうよ。





No.48

大規模な食糧難

 ハンクネット
08/5/11

朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)が再び大規模な食糧難に見舞われる危険を指摘したWFPの資料を紹介します。本文に触れられているように直接的な原因は昨年の大水害ですが、最近の国際市場での穀物価格の急騰が国内市場に大きく影響しているだけでなく、中国ほか各国からの輸入・緊急援助も難しくしていると伝えられています。ビルマでの水害への緊急援助が各国・国連で進められていますが、これも間接的に朝鮮への支援減に繋がると思われます。

日本政府による非人道的制裁のため、日本からの民間援助も困難になっていますが、北朝鮮人道支援ネットワーク・ジャパン(ハンクネット)では社会的弱者である乳児への粉ミルク支援を継続しております。心ある方々のご支援を是非お願い致します。

粉ミルクカンパ振込先
  郵便振替 00930−6−154275
  百五銀行上野支店(普) 566120

注)この資料は、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)の食糧難について、日本における情報の不足を補い、最も信頼できる情報を紹介するために掲載されています。ただし、資料の中に含まれる主張は必ずしもハンクネットの主張と一致するものではありません。


WFP、収穫不足による食糧危機の可能性を警告

【バンコク・4月16日】国連世界食糧計画(WFP)は本日、朝鮮民主主義人民共和国では昨年8月の大水害などにより全国的な不作となり、急激な食糧難と人道危機が避けられなくなりつつあると警告した。

トニー=バンバリーWFPアジア地域担当官は「朝鮮の食糧事情は明らかに悪く、しかも進行しつつある」と話した。「悲劇が起こらないよう、外部からの支援の必要性がますます高まっています」

国連食糧農業機構(FAO)は最近2008年の食糧不足量を166万トンと予測したが、これは2007年の二倍弱であり、2001年以来最も高い数値である。

首都ピョンヤンでの食糧価格はここ一年で二倍に高騰しており、2004年以来最高値を記録している。米は1キロ約2,000ウォン(2007年4月比700-900ウォン上昇)、玉蜀黍は600ウォン(同350ウォン上昇)である。著しく高騰した豚肉(現在5,500 ウォン) やじゃが芋(5,000ウォン)、卵(1個200ウォン)はほとんどの朝鮮人にとっては高級品となってしまった。労働者の平均月給は約6,000ウォンである。

ジーン=ピエール=マルジュリー朝鮮担当官は「日用品の価格が急に上がったので、今年は更に広範かつ深刻に飢餓が発生するとWFPでは警戒しています」と語った。「今では数日分の米を買うのに月給の三分の一が必要です。社会的な弱者は食糧を得られず、充分に食べられず、栄養が不足し、その為疾病への抵抗力も落ちています」

朝鮮政府の統計をFAOが分析したところ、2007年の穀物(米・玉蜀黍・小麦・大麦・じゃが芋)総生産量は300万トンに過ぎないことが判明した。これは昨年に比べ25%少なく、夏季の旱魃により全国的に収穫が落ち込んだ2001年以来最低の数値である。

朝鮮は不況と厳しい農況により長年慢性的な食糧難が続いているが、昨年の大水害が問題を更に拡大した。朝鮮の農業統計によれば米と玉蜀黍の生産が落ち込んでいるが(其々25%・33%減)、これはともに一番の生育期に水害に見舞われた為である。特に最も水害を被った穀倉地帯の不作が深刻である。最南部にあたる平安道・黄海道・江原道は昨年比23-33%減である。穀倉地帯として知られるこの地域で大幅に収穫が減ったということは、全国的に食糧が不足することを意味している。

マルジュリー担当官は「WFPは長い間、昨年の水害により朝鮮の慢性的食糧難が拡大すると警告してきました。今私たちはその結果を市場で目撃しているのです」と話した。「今年はもっと食糧輸入や食糧援助が必要になるのは明らかです」

2005年までWFPは総人口の4分の1にあたる600万名以上の朝鮮人を支援してきた。2006年からは朝鮮政府の事業縮小の決定に則り、女性や子どもなどの社会的弱者110万名を支援している。2008年8月の食糧援助計画完了まで、朝鮮全203県中50県で4万5千トンの食糧を配給する予定である。WFPは650万名以上の人々が食糧不足に苦しんでいると予測しているが、もし今回の食糧難に対し何ら行動がとられなければ、この数字は更に大きくなるだろう。

バンバリー担当官は話した。「朝鮮の人々が最低限の食糧需要を満たし、過去の悲劇を繰り返さぬ為、私たちWFPの役割を果たす用意はできています」「ですが私たちだけでは問題を解決できません。朝鮮政府は援助機関が事業を実施できる環境を整え、寄付者が自分の寄付が目的通りに使われていると自信を持てるようにしなければなりません。また朝鮮の人々が飢えぬ為、寄付者も自らの役割を果たす必要があります」

今回のWFPの警告は、朝鮮が端境期(各世帯の食糧備蓄が一年で最も少なくなる時期)に入る時期に行われた。今年の端境期は昨年の収穫減の結果例年より早く始まり、冬季の乾燥気候(降雨量が減少した)により更に厳しくなると見込まれる。栄養失調率は既に上がっており、前回のWFPとUNICEFの大規模調査によれば、子どもの37%が慢性栄養失調、母親の三人に一人が栄養失調と貧血を患っている。

「WFPは事態を非常に深刻に捉えており、朝鮮政府や食糧援助への協力を示唆している支援者と協議を重ねています」とバンバリー担当官。

朝鮮でのWFPの支援事業への寄付者には以下が含まれている。韓国(2,000万ドル)・ロシア(800万ドル)・スイス(660万ドル)・ドイツ(340万ドル)・オーストラリア(240万ドル)・国連中央緊急対応基金(CERF、230万ドル)・多国間基金(180万ドル)・キューバ・イタリア(各150万ドル)・カナダ・デンマーク・アイルランド・ルクセンブルク・ノルウェー(各100万ドル)・フィンランド(73万7000ドル)・トルコ(15万ドル)・ギリシャ(4万5000ドル)・民間部門(1万7000ドル)


北朝鮮人道支援ネットワーク・ジャパン(ハンクネット)では、朝鮮に対する制裁措置延長の即時中止の申し入れを行いました。先日内閣府や外務省を訪問し、下記申入れ書を手渡し、口頭でも強く要請しました。

日本政府の朝鮮に対する制裁措置延長の即時中止の申し入れ





No.47

9条世界会議

 りっちゃん
08/5/8

体力的な限界を感じているのに、参加することに意義ありで第九を歌うことにしたけれど、高音部分の口パクが多くて、恥ずかしかった。アップの映像が会場内に流れることもあるので、口パクでも笑顔!は心掛けたけれど・・・でも、でも、もっと恥ずかしかったのは、「アメリカとその同盟国が仕掛けたイラク戦争は、先制攻撃は自衛のためであるという、今までの国際ルールを無視した戦争であり、実際これまでになく残虐である」というマグワイアさんの基調演説を聞いた時、おお、その同盟国にしっかり日本も入っていると思ったんだ。そして、第九を歌った合唱団の呼びかけ人でもある元日弁連会長の土屋さんが、9条、戦争と軍備の放棄は素晴らしいことだけれども、実際には、立派な軍隊を持っている、安保条約もある。(ここで少し、言葉に詰まっていられた)これでは、他国に信用されないし、恥ずかしい、という挨拶を聞いた時。あんまり恥ずかしくて、涙が浮かんでしまった。

世界の国々では、9条を高く評価してくれているというのに・・・ボリビアの憲法も、9条みたいのを作るんだって。コスタリカの人は、うちには本当に軍隊も、米軍の圧力にはねかえし、軍事基地も一切ありませんって。「空軍は鳥がいればいい、陸軍は蟻でたくさん、海軍は魚で充分」というのはコスタリカだったかな。いいねぇ。広島からピースウォークに参加されたお坊さんが言っていました。「文化とは、飛行機やITのことではない。みんなが平和に心豊かに暮らせること」。誰だったかな?「西欧と違い、アジアの交流は文物の交流であった」。そう、侵略・占領や戦争はもうたくさん。「アメリカなど、戦争をして、武器で儲ける国もあるけれど、これからは、平和のための産業を作ろう!」という提案もあった。ワイスさんは、「アメリカのような強大な軍隊を持ってしても、バグダット一つ平和にはできない。武力は無力なんです。貧困、病気、無学、人権侵害、テロ、温暖化。これらを戦争で無くすことはできません。むしろ、戦争が、それらを作り出していると言えます。9条を世界のすべての国々が持てばいいのです」。ボロボロではあるけれど、9条は世界に大きな影響を与えています。軍隊を持たない国は、今、30カ国もあるそうです。「Japan is not alone」世界じゅうの市民から支援されている、との言葉はとても心強く感じました。

びっくりしたのは、私たち合唱団席は舞台の裏側だったのですが、開場と同時に人がぞろぞろ、客席がどんどん埋まっていくのが見えた時です。本当に一席も空席なしの状態でした。会場に入れなかった人もたくさんいたそうです。こんなにもたくさん、平和を愛する人がいるんだと、感動しました。うれしいです。

ほのぼのしたのは、通訳の人があがってしまったのか、なんどかつっかえて、本人に聞いたりして手間取った時、会場のみんながちゃんと待っていた。通訳が終わったら暖かい拍手があった。発言者が、帰るときに、その人の肩に手をかけて多分なぐさめていたんだろうと思う。いいなぁ。みんな発言したいことが一杯あって、押せ押せで、時間に余裕がなかったにもかかわらず、心には余裕がたっぷり。これも9条の精神だね。

『イラク、アメリカ、日本』では、アメリカの元兵士は、「アメリカの普通の青年と同じに、何か生きがいのようなものを求めて入隊した。が、戦争は人殺しにすぎなかった。きちんと言葉にし、行動しないと、戦争に「イエス」というのと同じになってしまう」。イラクの元兵士は、「普通に戦った。で、負けた。軍事行動に終止符を打ち、ピースメーカーになろうと決意しました。誰とも敵対関係にならないこと、なくしたものを再建することをしていますが、誤解されることが多い。武器を持たないのが、いいと思います」。雨宮さんには、高遠さんから「日本の貧困率は世界第二位、軍事費は世界第三位です。どう思われますか」との質問。雨宮さんは「ワーキングプアーの中には、戦争が希望であるという人が出て来ました。堤さんの本にあるアメリカに近い状況になってきています。自衛隊のお誘い文句は、「年収と資格、そして子どもが産める生活」です。若者の失業率は50%。貧困層が増やされて、戦争や戦争ビジネスへいやおうなく加わらざろう得ないという道筋が用意されています。一方で騙されないぞ!!という動きも大きくなっています。人を殺すことに使うのではなく、生かすことに使うべきだと思います」。最後に高遠さんが自身の経験を踏まえて、「私たちが誘拐されたのは、9条があるにもかかわらず、自衛隊のイラク派遣があったためであり、殺されずに解放されたのは、それぞれが、イラクで、丸腰で対話を続けてきたこと、9条の精神に基づいた活動をしてきたからだと思います。だから、9条で命が助かったと言えます」とおっしゃっていました。その通りだと思います。

演奏も良かった。特にグジーさん。何年前か共演したことがあるけれど、その時と変わらない、美しい声で、お顔の方は大人になってさらに美しくなられたようでした。竹山さんの三味線も。普天間かおりさんの「まもりたいもの」も良かったなぁ。海浜幕張は遠かったし、朝9時半集合という、私にとってはきつい一日だったけれど、行ってよかったぁ。





No.46

小平出前講座

 りっちゃん
08/5/8

4月25日に行われた、小平市出前講座「2008年度予算を読み解く」、橋本事務所で行われた学習会の報告。連休中にやることが一杯あって、報告が遅くなりました。何よりも、庭の草むしりに追われる毎日。この時期に抜かないと、また元の荒れ野になってしまう!!

小平市の皆さん、ご安心下さい。安定した企業もあるし、市民の稼ぎもそれなりに安定しているようで、健全財政の模様です。ただし、その分、地方交付税がいただけません。地方交付税は財政力指数が1以上だともらえないのです。17年度が1.035、18年度が1.065なので、武蔵野市の1.63のように、余裕があるという訳ではなく、地方交付税をもらえる所と比べても、収入としては低くなってしまいます。それでも、基地を抱えて、補助金頼って暮らすよりは、安定しているし、健全だし。で、市の財政課の皆さんの工夫・努力・ご苦労も多いようです。

細かいけれど新たな収入を増やしています。市のホームページのバナー広告とか、空いている駐車場を貸したりとか、利子の安い方に借り換えをしたり、借金をへらしてもいます。ちなみに借金は池上さんに教わった単年度会計という考え方から、数年にわたっての事業(たとえば建設費のようなものは、何年か分の支出に当たるということで)借金の形にしておく必要があるのだそうです。だから、ゼロにはできないけれど、減らせるものはどんどん減らしているそうです。基金(預金のようなもの)は例えば職員退職手当基金など、これからでる予定があるものだそうで、預金があるから使っちゃえ!!という訳にはいかないのだそうで・・・池上さんの講座で聞き落として、借金のことが心配だったのですが、説明を聞いて安心致しました。

バブル期や低迷時代も資料の表を見ながら説明していただきました。丁寧に教えていただき、ありがとうございました。小平の職員の中には、横柄な人や切れやすい人もいて、一方ではこんなふうに丁寧に教えてくださる人や、テキパキと適切な対応をしてくださる人もいて、人件費を下手にケチって、職員の質を落とさないようにと、お願いしておきました。道路についても、車のための道路はそろそろおしまいにして、自転車道の整備などしていただきたい事も要望いたしましたが、それこそ武蔵野市のように余裕のあるところは、もう始めてもいるようですが、小平の財政事情では即というわけにも行かないようで・・・ミニバスの運行もまだまだ試運転状態?市民にとってどういうのが一番いいシステムかを構築するまで、時間がかかるかもしれませんね。お互いの意見交換が大事かなぁ。

これは市の問題ではないので、意見を言わなかったけれど、後期高齢者医療特別会計というのが、どうして別枠なのか?やはり医療に関することなどは、みんなで支える、つまり税金で、だれもが安心して使えるようにすべきではないかと思います。地域格差が広がっている中で、各地域で個人で負担する保険料が違うというのは、ますます格差を広げることになります。後期高齢者医療制度(長寿の人からぶんだくれ制度)の見直しを国会でやってほしいです。

今朝の新聞で、ブータンがGNH(国民総幸福)を国の指針としているという話が載っていました。先進国を研究して、貧富の格差や環境破壊、伝統文化の喪失などが進んでいる、その道は歩むまいと決意したとか。人間は物質的な豊かさだけでは幸福になれない。経済的発展のために心の豊かさを犠牲にしてはいけないという考え方なのだそうです。国の方針も国民の幸福度に大きな影響を与えますが、小平市の市民が、何を幸福と感じるか、こまめに理解し、対応できるのは、やはり小平市役所であるとも言えます。市民が幸福になるために、限られた予算をどう有効に使っていくか、財政課の皆さんの、工夫、努力に期待したいと思います。よろしくお願いいたします。





No.45

爺都々逸・川柳

 金太
08/5/6

爺都々逸

 もとをただせば 偽札つくり サブプラカジノ 米国産

爺川柳(名ばかり管理職‥からお題‥)

 名ばかりの 親父かたなし 尻ひかれ
   名ばかりの 首相・総裁 気を使い
   名ばかりの 亭主関白 指図され





今回は、少ないなぁ。というのは金太さん、只今、福生市長選のお手伝いで大忙しの模様。すぐに返還せよ!!とは言わないけれど、みんな、よく考えてね。基地があることによって、自分たちのいのちが危険にさらされているってこと。そして、米軍基地があるということは、イラクやアフガニスタンで、一般の人たち、特に子どもたちの犠牲がでている、そのことの加害者側にいやおうなく立たされてしまっているってことを。

もしあなたが基地容認派だとしても、少なくとも、基地問題に詳しい専門家を、市議のなかに一人、置いておくことを強くお勧めします。米軍はアメリカの国を護るための軍隊であって、日本の国益と相反することも、あるでしょう。監視することは最低限必要です。そのためには、基地問題に長くかかわっていた専門家が必要です。あ〜あ、大好きな福生。私も一票あったらなぁ。





No.44

平和的生存権

 りっちゃん
08/5/3

今日は憲法記念日。東京新聞の特報「憲法9条判断 空白35年の理由」を読む。長沼ナイキ基地判決裁判長の話だ。

見出しには、「違憲」出せば総攻撃、政治の意向に身任す、誰でも冷や飯食うのは嫌、身分保障も口先だけ、と書かれている。「69年、札幌地裁で判事になり、まもなくナイキ訴訟を担当。基地予定地の保安林解除の停止を求める仮処分の審理中、平賀健太所長から「農林大臣の判断を尊重すべきだ」と書かれた手紙が届いた」。ほらね。三権分立がその頃から損なわれていたのよ。「国から裁判官忌避を申し立てられたり、高裁から注意処分を受けたり」、「激励と脅迫の手紙の束が自宅に。判決言い渡しを終えた時にはただ安堵した」そうよ。ひどいものだわ。その後も、裁判官は憲法で身分が保障されているはずなのに、「人並みの仕事もさせてくれない」。それで、「長沼事件なんて思い出したくない」という気持ちになっていたそうよ。

1959年の「砂川事件」、「長沼ナイキ基地訴訟」、2008年4月の航空自衛隊のイラクでの活動を違憲とした名古屋高裁判決。まともなのはこれだけかぁ。ナイキ判決では、憲法判断回避が続けば「違憲状態の拡大を認めたのと同じ結果をまねき、違憲審査権の行使も次第に困難にし、公務員の憲法擁護の義務も空虚にする」と“予言”されていたとか。まさに的中。裁判官も公務員。自衛官も公務員。憲法擁護の義務をお持ちのはずだが、「そんなの関係ねぇ!!」だもの・・・元裁判長、福島さんは「今でも嫌な思い出ですが、・・・何かを残した置かないとね」と発言するようになったようだ。これも勇気のいることです。

「ナイキ基地訴訟」でわたしが注目したのは、基地建設のために、保安林が解除され、切られちゃったこと。みどり、大事にしようよぅ。環境問題考えたら、これって私たちの生存権にかかわる問題だよ。基地があることによって、他国から攻撃される危険性も考えてよぅ。「平和的生存権」(国民一人ひとりが平和のうちに生存し、かつその幸福を追求することができる権利)をおびやかされたまま、私たちは日本で暮らしているんだよぅ。せっかくいい憲法を持っていながら・・・

最高裁の国民審査、ちゃんと公報を読んで、この人はヒラメ(上しか見えない)だと思ったら、×を記入してね。それをめんどくさがっているから、こういうことになっちゃうんだよ。





No.43

よその子

 りっちゃん
08/5/1

トリイがなんだか自信無げ。恋人とうまくいかずに別れることになったのもあるのかなぁ。

メインストリーミング法が可決されてから、トリイの独立方式教室は閉鎖されたのに、いつの間にか、自閉症のブー、読字障害のロリ、粗暴なトマソ、妊娠した12歳のクローディアがトリイのところに集まってきた。

「実に美しい、理想的な法律だった。そんな流れの中で、わたしが受け持っていた子どもたちとわたしは現実にからめとられた」。障害児も普通のクラスに入れましょう、って、なんとなくいいことのようだけれど、目に見える障害なら、他の子どもたちも理解もし、協力もしてくれるかもしれないけれど・・・ロリのように脳に損傷があり、その他のことでは決して頭の悪いほうではないと、「怠け者」にされてしまい、先生に憎まれ、人格を否定されると、クラス全体のいじめとなり、かえって、子どもの心に傷を負わせることになる。ひとりひとりに対応するという点では、トリイの教室にはかなわない。結局、予算の削減が狙いだったのでは・・・で、実際に普通のクラスでお邪魔になった子どもたち、副題の「見放された子どもたち」がトリイのところに集まったというわけ。

それにしても、障害児に対する無理解、偏見にあきれてしまう。トリイのクラスのことを「ばかなクラス」、子どもたちを「頭のおかしい連中」、ロリのことを「学校一の知恵遅れ」・・・。

ロリの担任、エドナも、普通の子たちだけが相手なら優秀な先生でいられたのかもしれない。彼女もメインストリーミング法の犠牲者の一人? 「勉強をちゃんとやろうという気が全然ない」「協調性のない子」そして、「何も達成できないで終わることがわかっているああいうとろい子に、あれだけの時間とお金をかけるなんて・・・」。

そして、とうとうロリが爆発するまで追い込んでしまった。ロリの双子の姉リビーによれば、
  「あの先生はロリに本を読ませたんだ。・・・ロリはその本が読めなかった。そしたらみんなが笑ったの。あの子たちも前はぜったいロリのこと笑ったりしなかったのに、今では笑うんだ。それであの先生、次々にロリにどんどん簡単な本を渡していって、これが読めないなんてどういうわけなのっていいつづけたんだよ。・・・みんなはロリを見て笑うばっかりだから、ロリ、泣き出したの。でも先生はそれでもすわらせてくれなかった。ロリにいい子になるように教えてるんだっていって。それでロリは吐いちゃったんだよ。あの先生がロリにクラス全員の前で吐かせたんだよ。それなのにごめんなさいもいわなかったんだよ」。

エドナの説明はこうだった。「誓ってもいいけど、あの子は完全に頭がおかしいわ。きっと精神病院で終わるようなことになるわよ」。自分の思い通りにならない子は「頭のおかしい子」にされてしまうのだ。

ロリの脳の損傷は、実の父親からの虐待が原因。頭蓋骨が骨折し、骨が脳に突き刺さり、破片は取り除かれたが、損傷はそのまま残ってしまった。後遺症のひとつがてんかん。もうひとつは、書かれたものを理解できないこと。

トリイは、「ほんとうにロリのようないい子は見たことがない」と言う。トリイ自身もロリになぐさめられることが多かったが、クラスの子たちにとっても、ロリは大切な存在であり、大きな影響を受ける。

「夢見る子」、自分の世界にはまり込んでしまうブーは、おしゃべりはできても反響言語という、以前に聞いた経験のあること、たとえば天気予報などをペラペラというだけ。意味のある会話はまったくできなかった。バレンタインデーにロリがブーにプレゼントしたカード。そこに貼り付けられた犬や猫をみて、「これは何?」「ワンワン」「これは?」「ニャンニャン」と答えたのだ。しつこく繰り返し訊ねたトマソのお手柄でもある。

トマソは、義母に父と兄が銃殺され、しかもその現場を目撃してしまった経験がある。里親が何回も変わり、引き取られた叔父に7歳で畑で働かされたり、虐待を受けた。叔父は逮捕され、また里親に。「反社会的性格」「絆を形成することができない」とファイルに書かれている。トリイも、第一日目に大暴れされ、脅される。口臭を指摘したりと、心理的にも、動揺させられる。ナイフを首に突きつけられたこともある。だが、ロリの「人のことを気にかける」性格がいい影響を与えた。また、爆発以降のロリを世話するという役割を、トリイから与えられたことも大きかった。「なんかするときに、あいつはおれを頼りにしているから。あいつがちゃんとできているか気をつけていてやらなきゃならないから、もうあんまり怒ったりなんかしてられないんだよ」

爆発後、登校拒否をしていたロリに学校へきてもらいたいからと、読み方をあえて教えないことにしたトリイ。そのことがエドナに知れて大騒動。定年間近、経験豊富なエドナに、トリイはなかなか本音が吐けない。間に立つ上司ダンは残念ながら、強気な発言をする人につく傾向があったし、規則に弱い。学区の特殊教育担当部長のバークが「われわれは人間相手の仕事をしているんだ。ときには規則を曲げなきゃいけないこともあるだろう」とあえて読み方を教えないトリイに理解を示してくれた。

ちゃんとわかってくれる人が上にいると、仕事もたやすくなるのだが・・・

もう一人、トリイを高く評価してくれる上司?がいた。ドクター・ブーム。だが、彼女は、トリイが修士号を持ち、特殊教育の博士課程の訓練も受けているから、重度の知的障害を持つ子どもたちのいる特殊学級を受け持っているベッツイと、「わたしたち」は違うという認識にすぎなかった。トリイからすれば、ベッツイもトリイも、子どもたちを愛し、子どもたちも彼女を愛し、その日その日を何とかしのいでいるに過ぎなかったのだが・・・(つまり、最善を尽くしているということ、さらに言えば、子どもたちの迷惑もお構いなしに、何人もでクラスに押しかけ、子どもたちを見る教師が一人しかいないにもかかわらず、その教師を独占して質問攻めにするのは、非常識だとわたしは思う)。

クローディアは、いつもの生徒と違って、発達に問題があるわけでもなく、学習に躓いているわけでもなく、トリイも大変戸惑ってしまう。性についての質問にも答えねばならないし・・・親は、「高学歴の家庭の問題は、彼らのほうがなんだかんだといって逃げるのがうまいことだった」。心理的なカウンセラーを受けるべきというトリイの提案は、にべもなく断られてしまう。

「赤ちゃんが生まれたらどうするの?」 心配するトリイにクローディアの答はこうだ。
  「なんとかなるわよ」

「もし赤ん坊を手元で育てることになれば、彼女の人生のすでに4分の3が決まってしまったようなものだ。それはティーンエイジャーで未婚の母になった少女たちの90%が歩む道だった。学校を中退するか、そうでなくても大学には進めず、自分と子どもが生活していくのにじゅうぶんな生活費が稼げるような仕事にはつけず、すでにいびつだった家庭内に赤ん坊ができたことでますますできたひびを埋めることもできず、耐え難い状況から抜け出すために結婚をする、などなど。だが、その中でも一番の問題は、自分自身がまだ子ども時代を終えないうちに、無理やり大人にならされてしまうということだろう。このことが彼女をも赤ん坊をも傷つけることになるのだ。こうしてすわっていても、いろいろなチャンスへと通じるドアが閉められるのが聞こえてきた。カチッと鍵のかかる音がわたしの耳の中で響き渡っていた。」

先のことを考えることから逃げていた両親も、クローディアが自殺を図ったことから、カウンセラーを受けさせるようになった。そして出産。クローディアによってつらい決断だったが、赤ん坊を養子に出し、元の学校に戻ることになる。

父親が生きているような発言を繰り返すトマソのことを心配するトリイ。母方の叔父に引き取られることになって別れのときも、「父さんがおれを迎えにきてくれるんだ」。トリイが彼の顔を見つめていると、「わかってるんだよ。おれはイアーゴ叔父さんと暮らすんだ。父さんとは絶対に暮らせないんだ」とトリイに抱きつくのだった。そう、わかってはいたのよ。でも、里親との生活も、厳しいものがあったトマソにとって、父さんが生きていると思いこむことによって、つらい生活でも我慢して、希望を持って生きてきたのだ。

トマソは「トリイがしてくれたことは、おれにトリイを好きにならせることだった。だけど、今になってみれば、トリイのことなんか好きにならなければよかった」とも言うのだった。「誰も愛さなければ、心が張り裂けるような思いをすることもないわ。でもね。トム、じゃあ心って何のためにあるのかしら」。トリイも恋人との別れで張り裂ける想いをしたばかり。相手が子どもでも対等に感じている、尊重しているからこその発言かとも思う。

エピローグでは、燃えているビルから子どもと赤ん坊を助けた新聞記事の少年が、トマソであったことが書かれている。

ブーは、教区学校の自閉症児のためのプログラムに通い、「ママと呼んで欲しい」と願う、やさしいママの願いをかなえることができた。ロリはまた一年留年し、東部へ引越しした。学習障害児のための私立学校へ通い、字は習得できていないが、「そんなことはたいしたことではなかった」と言い切れる環境にあるのだろう。

ロリが留年することで傷つくことを心配したトリイが、ごくごく簡単な本を読ませるというより暗記させた。せめて、自分に自信を持たせたいと思ったからだ。標識なども、字がわからなくても周りの状況で推理、判断できるようにも訓練していた。トマソがしたように、読み手がそばにいればそれで解決することもある。一人だけで生きているんじゃないもの、みんなで協同しあえばいいのさ。そういう力をつければ、識字障害だって、乗り越えられる。そして、それは生きていく力にもなる。

「よその子」という題は、クローディアに「わたしたちみんな、ここではどうせよその子じゃない。なんでそんなに気にかけるの?」と聞かれたことからついたみたい。ひとりひとり違う障害児に振り回されながらも精一杯、気にかけ、尊重し、愛するトリイ。ブーのお母さん、ロリの新しいお父さん、ロリ自身もそうだね。心が張り裂ける時があっても、愛があるから、決してあきらめない。その子の成長を信じている。そんなところがトリイの本の魅力なんだろうなぁ。





No.42

シッコ

 りっちゃん
08/5/1

No.36のマイケル・ムーアの「シッコ」を見てきました。

子どもを亡くしたお母さんの涙を見たら、もうボロボロに泣けちゃいました。救急車で運ばれた病院から保険会社との提携病院へ行くようにと、拒否されてしまい、手遅れで死亡してしまったのです。

別の同じ症状の子は、幾日か入院して直りました。ムーア「どうしてだと思いますか?」お母さん「ここがフランスだから」・・・

その間がいいです。

9・11で救助活動をした救急隊を「英雄」と讃えるブッシュたち。でも、ご本人たちは、呼吸器系の病気で、保険がなかったり、「英雄」を補助するシステムからはずされたりして、苦しんでいます。9・11の犯人がグァンタナモ基地に収容されています。拷問などで批判されたせいか、医療はちゃんとしているとの答弁が、写されます。なので、ムーアはみんなを連れて「以上でなくていい、彼らと同じ医療を受けさせてくれ」と叫びます。無視され、キューバの病院へ。お医者さんが「最善を尽くします」って。それって当たり前のことなんだよね。で、また涙。アメリカでは、いかに保険会社が儲かるかというために医者が、患者さんへ、その治療が対象外だという否認状にサインをします。アメリカの医者だって本分を尽くしたいでしょうに・・・

ムーアがいろんな人に笑われます。「いくらかかったのですか?」と、イギリスの病院で質問したから・・・やっと見つけた会計では、交通費を患者さんがもらえる処で、病院にかかる費用は「ゼロ」。それが当たり前の国では、そんな質問は笑われちゃうんです。カナダ、フランスも「ゼロ」。日本も国民皆保険だけれど、「ゼロ」ではないですねぇ。どうしてぇ?

アメリカの医療制度は、患者さんのためではなく、保険会社のためのものなんです。だから「自由の国」のはずなのに、お金がなくて医療を受けられなかったり、保険に入っていても満足な治療が受けられなかったり、病院を選ぶこともできません。不自由な国です。

ムーアの「どうして?」の質問に答えた人が、「教育、医療、そして自信を持っている人がいると、政府には都合が悪いのです」。日本もアメリカを真似しているからとっても心配。

最後のシーンには笑っちゃいました。ムーアさんって皮肉が上手。彼のメッセージのひとつ「カート・ボネガットさんありがとう」にまた涙。彼もまた皮肉の上手な方でした。

映画がはじまる前の主催者挨拶もまたお見事でした。「まだ81歳」。後期高齢者医療制度がこの映画で言われていた「助け合い」精神にいかに反しているか。くっきり見えました。「さしずめ、私なんかの年齢は“亡者”にしたいところなんでしょうけれど・・・だからこそ、動きます。やります。元気に生きていきます」だって。そうこなくっちゃ。

「アメリカは理想の国ではない。けれど正す能力は高い」そんなメッセージも、ボネガットさん同様、ムーアさんも、アメリカが好きなんだなぁと・・・

それにしても、フランスでの赤ちゃんがいる世帯へのお手伝いさん派遣はいいなぁ。私もその頃は、24時間一人で育てているという感じで、心細かったよ。寝不足と過労もあったし。24時間往診もしてくれるんだ。少子化対策としてぜひ、まねをして欲しいなぁ。アメリカの医療制度は絶対真似しないで欲しい。ねっ。





No.41

〈魔女〉が読む源氏物語

 りっちゃん
08/4/29

著者は駒沢喜美さん。発行所はひろしま女性学研究所(旧・家族社)。面白い!!なんだかすっきり!!

そうだよねぇ。光源氏ってタダの浮気男。あっちの女、こっちの女をうろうろして、問題を解決するどころか、かえって、ややこしくする。幸せにした相手って一人もいないんじゃぁないかなぁ。雨夜の品定めにしても、男の側の自分勝手なことばかり言って、源氏物語のどこがいいのかなぁと思っていたよ。もっとも、勉強用以外には、チョロッとしか読んでいないと思うけれど・・・

「源氏がどんなに高貴な人であろうとも、どんなに優しく口説をつくしても、レイプはレイプである」。納得です。親やそばにいる女性の承諾を得ていたとしても、そういや、本人の承諾ってなかったような。まして、女性の側から積極的に求められたことって、あったけ?

作者は、源氏物語は光源氏が主人公ではなく、彼とかかわりのあった女性、ひとりひとりの物語であると説く。そうだったのかぁ。だから、彼自身が魅力のない男でもいいわけだ。なんかすっきりしたよ。

「紫式部は一人の女性を描くにあたって、必ず三重の視点で描いている。世間の目(常識的観点)とそれへの批判眼(母の眼あるいは作者の眼)、もう一つはその女性の内心の声である」

私は、批判眼の部分を読みとって“つまらない、くだらない”とイメージしていたのかもしれない。それが、紫式部の意図というのまでは見抜けなかったわけだ。今度、じっくり読まなくては・・・なんだか、源氏物語がとっても面白そうに思える。

宇治十帖は「結婚しない女」がテーマであるって。そういえば、やたらと出家するなぁと思った記憶がある。その頃は、結婚しないためには出家しかなかったのだろうか。ウーン、結婚って一面、親からの独立というところもあるんだよね。だけど通い婚だとそれもないということで、夫がいれば二重に「我慢しろ」だし、いなければ「早く」とせっつかれてしまうわけだ。男性を全面否定するのもなんだつまらないと思うけれど、相手が高貴な男性だと、競争相手は増えるし、世間体にも気を使うし、男に忘れ去られてしまえば経済的にダメージを受けるしねぇ。

女は男の所有物にならなければ生きて行けなかった時代。「私は密かに思うのだが、こうした二人の関係こそまさに“恋愛”の妙味だと思う。簡単に一緒になってしまえば“恋愛”も簡単に消えてしまう。お互いに難しい駆け引きをいかにうまくこなすか、ハラハラドキドキしながらカジをとるのが恋愛だと思う」という喜美さんの説はどうかなぁ。私はお互いに生き方に影響を与えるのが恋愛だと思う。だから、一緒に暮らす方がもっと恋愛できる可能性があるとも思う。紫式部の時代では、いかに所有物として優位に立ち、経済的安定を得るか、というのが大きかったのではないかな。だから一生懸命に歌を詠む。自分に相手の気をひきつけるために。

それ以外の、たとえば政治や社会問題って書いてないんだよね。光源氏の社会的働きも書いていない。恋の駆け引きばかり。それも源氏物語が面白くない原因のひとつなんだけれど・・・

現代にもまだまだその頃と同じ状況が残っているとおっしゃっている。セクハラとか、女性の自己反省(自己ひきうけ型、いつも女が悪いことになってしまうこと)とか。でも、なんとか女一人でも生きていける時代。いやぁ、自立と言い切るにはちょっときついけれど、今の時代に生まれてよかったなぁ。

この本は男性に読んでもらいたいなぁ。男と女の間の意識の乖離。それを理解してほしいよ。それを縮めるのが恋愛の過程なのかもしれないねぇ。





 
No.40

光市母子殺人事件

  りっちゃん
08/4/24

気が重いのだけれど、みいみログログにしては、珍しく社会問題をとりあげているので、私も書かなくては、と。どうも、わたしのは少数意見のようなのでなおのこと・・・

ニュースで判決を見て、感じたのは、”なんじゃらほい”。まったく今の司法ときたら・・・自衛隊の派遣が違憲だというのが、画期的判決だって?至極当たり前の判決でしょうに。それが裁判官がちょうど退官だからできたことだと聞いて、なんだかがっかり。立川のビラについては、最高裁だからなぁ、で予測どおり。本当は怒りが湧かなくてはいけないのだろうけれど、もう、疲れちゃって。

「死刑を免れるための嘘だ」、なんていくらなんでも単純すぎる。これは、(権力者に対して)素直に“ごめんなさい”をしないことへの見せしめなんだ、と思った。私みたいにちょっとばかりへそ曲がりな人間にとって、生きづらい世の中なんだなぁと・・・さらに、被害者家族、本村さんのお顔を拝見して、ああ、なんだか幼く見えるなぁ、それって、私がいつの間にか歳をとってしまったってことなんだと、ちょいとばかりショックでした。

この事件が起きた1999年は、自分の問題で、大混乱期。なので、あまり記憶にない。で、あらためてネット検索。山口母子殺人事件と、育ち直しの歌を読ませていただいた。

池上洋通氏が、18歳から20歳未満は、選挙権という権利を持たず、少年法での保護も受けられず、かわいそうな状態、と言っていたのを思い出す。確か、刑法を習ったときには、基本的には教育が目的だったと記憶しているのだけれど・・・

この事件も、ワケのわからない事件としては、テロ事件と共通している。相手は誰でも良かったというのではなさそうだけれど、「屍姦」しているというのは、生きている人間を相手にはできない、つまり、人間関係において成長できていない、つまづいている、ということの証左でもある。弁護側の言う「自分の過ちを現実感を持ってとらえることができなかった」というのは、当たっていると思う。相手が生きていることも自分が生きていることも、希薄にしかとらえられなかったのではないかな。だから、最初は言われるままに「はい、やりました。ごめんなさい」であり、今は、なんとか事件のことを思い起こして、「甘えたい」「ちょうちょ結び」「どらえもんのポケット」などの発言が出てきたというところ。まだまだ、わかっちゃいない、けど、なんとか努力中というところか。

父親の虐待、また、それによる母親のうつ病と自殺。生育暦からしても、「精神的未発達」な状態であることも、だろうなぁ。事件が起きる前に、母親の自殺の前に、なんとかできなかったのかしら? 彼だけに責任を押し付けるのは、大人としてどうもなぁ・・・ 育ちなおしの歌にあった「対応すべき山口県の児童相談所の働きかけはあったのか。児童相談所の情報収集能力、予算、人材は十分にあったのか?」が気にかかるねぇ。DVの対策はどうなっているのかなぁ?ちゃんと動いているの?

テロ殺人事件の特徴のひとつ、「死刑になりたい」。それを死刑にしてどうするのさ?と思うね。こういう事件がもっと増えるだけではないか? 人間のいのちの重さ、罪を償うことの大変さを教えないでどうするの? 死刑制度には基本的に、おんな組いのちの組員でもありますので、一応反対。麻原は死刑でもいいか、という程度ではありますが・・・昨今のベルトコンベアー式の死刑は、嫌です。怖いです。ポンとはんこを押す側も現実感がないからできちゃうのだろうけれど・・・ アチャー、法務大臣もこの元少年も似たもの同士か・・・。困ったもんだ。

そうそう、判決もひどかったけれど、報道もひどかったみたいね。おんな組いのちから、「光市事件の報道に関して、放送倫理検証委員会の意見書が出た。この事件の報道がどんなものだったかがよくわかる。少し長いけど、時間のある方はぜひ一読を!! http://www.bpo.gr.jp/kensyo/kettei/f-index.html」とのお知らせも来ていたよ。これではみんな被害者側の見方しかできないのも道理だねぇ。被害者家族の感情はわからないでもないけれど、その感情の赴くままに行動するのは、リンチという奴ですよ。裁判制度は、人智の成果のはずなんだけれど・・・はぁ。




みいみから読んだ感想メールが来た。みいみろぐろぐにも新たな書き込みがあった。

「人を殺して10年ぐらいで出られちゃうと、私もちょっと微妙です。
釈放なしの終身刑があればいいのでしょうけど、現法では死刑or無期ですから。」

うん、終身刑か、10年や15年では出られない無期懲役も法律改正してつくればいいんじゃないかな。この頃やたらに死刑判決&ベルトコンベアー式死刑執行が多過ぎるから・・・

「本村さんは、似たような境遇の方と一緒に全国犯罪被害者の会を設立して犯罪被害者等基本法の成立に尽力しています。裁判の傍聴も優先されるようになりました」と、みいくんに教わった。一歩前進があったんだね。ただ、この元少年には間に合わなかったけれど・・・

「生育環境が劣悪でも、そういう行為に走らないで頑張っている人も実際にいます」。そうなんだよね。その違いはなんなんだろう。そういうことも解明されれば、犯罪防止に役立つと思うけど・・・

わたしの持論「やられる側はやられてからが可哀想、やる側はやる前から可哀想」に、みいみも同感してくれたようだ。二人とも子どもがいじめに遭った経験があるからね。子どもたちがそれでも元気に育っているのは、「母の愛」があったからだよ。母でなくともいいのかもしれないけれど、上にあげた”違い”のひとつに、自分を認めてくれる人がいるかいないかってあるね、きっと。

「で、そういう意味では、加害者側と被害者側、双方に支援体制があってしかるべきだと思います。両側の人間をフォロー出来るシステムがあるのがベストだと思います。」

裁判制度では、それぞれの立場から見ていくようにはなっているのだけれど、今、司法の三権分立が危ういと私は思っているんだな。それがこのNo.40を書いた趣旨なんだけれど・・・それと別に、刑務所の中で、教育のシステムが有効なのかどうかという問題もあるね。みいくんの「やったことの責任は果たしてもらいたい」というのが、罰だけで終わってしまっては意味がない。賠償については、犯罪被害者等基本法で被害者側への援助が期待されるけれど、反省は教育が有効でないと字面で終わってしまう。家族制度の崩壊で、出所してからの受け皿が無くなりつつあり、再犯率も高くなっているとか。軽犯罪に多いみたいだけれど・・・そういうフォローも必要だね。少年による凶悪犯罪は、減っているそうだけれど、今の子どもたち(青年も)の育ちがなんか怪しいという気はするんだなぁ。学校教育における人間教育や、希望を持てる社会にするなど、大人の責任も大きいね。お互い病人だから、身体をいたわりつつ、やることも一杯あるということだわ。





No.39

緊急バスラ支援

  りっちゃん
08/4/21

「イラク・戦火の子どもたち」の写真展及び車座とやらに行ってきました。豊田直巳さんの写真は特に白血病の子どもたちが痛々しかった。お話の方は、東村山での子どもの声による下校時間の市内放送、「見守ってください」は、不審者への恐怖を煽り、人と人とのつながりが結び合えないことにつながる。放送についての問い合わせには、「凶悪事件が増えていると聞いているから」との返事。でも、警察白書では減少している。鵜呑みにしてしまう怖さをまず初めに指摘されました。

またノーベル賞受賞者の湯川秀樹、朝永振一郎が戦前にそれぞれ京大、東大で原爆の開発の研究をしていたが、ともに、そのことへの言及がなく、つまり反省もなく、恐怖を煽る日本の近況を考え合わせると、大間原子力発電所は、原爆をつくるためではないかと考えるようになったと・・・怖い話だけれど、実際あり得る話でもある。

で、日本での原爆開発の話も初耳だったが、バスラ周辺での戦闘激化もまったく知らなかった。日本ではほとんど報道されていないみたいね。車座に参加されていたJIM-NETの方から報告とカンパの要請がありました。風呂のガス釜が故障で、新しいのを買わねばならず、貧乏人がさらに貧乏人になる予定なのだけれど、千円カンパしてきました。いただいたチラシより一部転載いたします。

3月26日にはじまったバスラ危機、報道等では、30日に、サドル師が、戦闘中止命令を出し、事態は収拾したかのようですが、現実は、さらにその後もアメリカ軍の空爆や家宅捜査が続き、飛行場は封鎖されたままで、住民の生活が圧迫されています。4月9日のイラク占領開始5周年を機にふたたび治安は悪化、今までがんの支援を続けてきたJIM-NETは、事態を深刻に受け止め、緊急支援を開始することになりました。
  1)UNなど国際機関や国際NGOと調整しながら、がんに限らず必要な緊急支援をバスラ地域におこなう。
  2)がんの病院が機能しておらず、この状態が続くことを懸念し、がん病院、がん患者への支援をおこなう。

振込先:郵便振替口座 00540-2-94945
   口座名:日本イラク医療支援ネット   (通信欄に「バスラ」とお書き下さい)

そうそう、豊田さんが堅い話、暗い話になりがちなのを明るくするためか、トイレの後に「手を洗う」話が出たのだけれど、ちょっと付け加えるとね、小咄では、フランスではトイレの前に「手を洗う」のですよ。もちろん、汚い手できれいな自分のものを触らないためですよ。発想の違いが面白いでしょう?今の日本には、そういうユーモアも必要かな。





No.38

ルポ貧困大国アメリカ

  りっちゃん
08/4/11

著者は堤未果さん。龍平さんの結婚相手です。なんかねぇ、未果さんの方がしっかりしてカカア殿下のご夫婦になられるのでは・・・なんて、勝手な想像を楽しんじゃってます。いえ、ご聡明な方と、この本から・・・

プロローグでは、サブプライムローンがやはり2重の詐欺であったことが語られています。
  「サブプライムローンとは、社会的信用度の低い層向けの住宅ローンだ。二〇〇一年一月にアメリカ金融監督当局が出した通達によると、具体的には以下の四項目のうちどれかにあてはまる者が対象となる。
 (一)過去一二か月以内に三〇日延滞を二回以上、又は過去二四か月以内に六〇日延滞を一回以上している。
 (二)過去二四か月以内に抵当権の実行と債務免除をされている。
 (三)過去五年以内に破産宣告を受けている。
 (四)返済負担額が収入の五〇%以上になる。
  その利率は一般のプライム(優良顧客)と比べ非常に高く、最初の二、三年は利子が低いがその期間を過ぎると急激に一〇〜一五%に跳ね上がる」。

セールスマンの口上は、「あなた方が国境を越えてやってきたアメリカという国は、不可能を可能にする場所なんですよ」。さらに、「住宅価格は上がり続けますから」

「家を出た一か月後にインタビューに答えたマリオはその時のことをこう語る。
  「正直言ってよくわからないんです。一つだけわかっているのは、単に長年の夢が破れただけでなく、自分たちがその前の苦しかった時代よりさらに底辺に転がり落ちたこと、しかもそこからは二度と這い上がれないだろうという現実です」
  アメリカの住宅ブームが勢いを失い始めた時、業者が新たに目をつけたターゲットは国内に増え続ける不法移民と低所得層だった。自己破産歴を持つ者やクレジットカードが作れない彼らでも住宅ローンを組めるという触れこみで顧客をつかむやり方だ。
  マリオのように、英語のできないヒスパニック系には、あまりきちんと説明をせずに契約させるケースが非常に多く、利率も同じ所得層の白人と比べもともと三割から四割高だったという」。

「この債権を担保としたサブプライム担保証券は一般の住宅ローンを担保にした証券よりリスクは高いものの金利自体が高いために利回りが大きく、ヘッジファンドや銀行が飛びついた」。

まぁね、金融業界が飛びついたのはアホとしか言いようがない。そのあおりを食らう日本って、おぼっちゃん?いい“かも”だわね。結局不動産屋は儲けたわけだ。リスクを上手に回避して・・・しかし、空き家がもったいないなぁ。ずらりだもの。一番目のほうは詐欺として立件できないものだろうか。返せなくなることを承知していたとしか思えない。もやいの事務局長湯浅氏が「貧困ビジネス」と呼んだそうだけれど、貧乏人からカネをふんだくって、借金だらけにさせて、セールスマンの心は痛まないのだろうか。いや、彼自身も追い立てられているのだろう。ノルマを果たせなければ自分が喰えなくなる。貧すれば鈍する。心も貧しくなる。まさに貧困大国。

「サブプライムローン問題などで自己破産をした人々の救済に携わるマサチューセッツ州のNPO、「ESAC」の住宅問題カウンセラー、バージニア・プラットは、低所得層を狙ってサブプライムローンを押しつけた金融機関のやり方を怒りを込めてこう表現する。
「まるでハゲタカです。最近入ってきた移民たちにはクレジットカ−ド利用歴もなく、ヒスパニック系の家族の三五%はそもそも銀行口座すら持っていません。こういう人たちの個人情報が金融機関に出回っているんです。それを見ながら地図上に印をつければ「カモ」の分布図ができあがる。金融機関の営業マンたちはそれを見てピンポイントで勧誘に回るというわけです」

未果さんの文章は、詳細なデータと、的確な分析、そして生の声。この3点セットで問題を追っていく。

「同じアメリカ国内で、貧しいために大学に行きたくても行けない、または卒業したものの学資ローンの返済に圧迫される若者たちや、健康保険がないために医者にかかれない人々、失業し生活苦から消費者金融に手を出した多重債務者、強化され続ける移民法を恐れる不法移民たち……こうした人たちが今、前述したフェルナンデス夫妻と同じように束の間の「夢を見せられ」、暴走した市場原理に引きずり込まれているのだ。
  その実態が、今アメリカ社会のすみずみから噴き出している問題一つひとつを検証し、それらをつなぎ合わせると鮮明に見えてくる。
  そこに浮かび上がってくるのは、国境、人種、宗教、性別、年齢などあらゆるカテゴリーを超えて世界を二極化している格差構造と、それをむしろ糧として回り続けるマーケットの存在、私たちが今まで持っていた、国家単位の世界観を根底からひっくり返さなければ、いつのまにか一方的に呑み込まれていきかねない程の恐ろしい暴走型市場原理システムだ。
  そこでは「弱者」が食いものにされ、人間らしく生きるための生存権を奪われた挙げ句、使い捨てにされていく。
  それは日本国憲法第二五条でいう、すべての国民が健康で文化的な最低限度の暮らしを営める権利を侵されることだ。
  世界を覆うこの巨大な力によって国民がそれを奪われ、「民営化された戦争」に商品として引きずり込まれていくという流れは、フェルナンデス夫妻を始めこの本に出てくるさまざまな例を通して映し出されている。
  「教育」「いのち」「暮らし」という、国民に責任を負うべき政府の主要業務が「民営化」され、市場の論理で回されるようになった時、はたしてそれは「国家」と呼べるのか?私たちには一体この流れに抵抗する術はあるのだろうか?
  単にアメリカという国の格差・貧困問題を超えた、日本にとって決して他人事ではないこの流れが、いま海の向こうから警鐘を鳴らしている。」

以上がプロローグ。以下、目次にそって、

第1章 貧困が生み出す肥満国民
  新自由主義登場によって失われたアメリカの中流家庭
  なぜ貧困児童に肥満児が多いのか
――なんと、校内にジュースやファーストフードの自販機があるのだ。「無料ー割引給食プログラム」という制度はあるのだけれど、予算削減のため、人件費を削減し、調理器具も整えず、メニューがジャンクフードのオンパレードとなる。マクドナルドやピザハットなどの大手ファーストフード企業と契約する学校も増えているそうだ。
  フードスタンプで暮らす人々――「フードスタンプの支給額は無収入の4人家族で月額518ドル。一回の食事につき一人1ドル40セントだ。受給者のほとんどは家に調理器具がなかったり、キッチンそのものがないケースも少なくない」ため、やっぱりファーストフードになっちゃう。 
  アメリカ国内の飢餓人口――「2006年度に全米でフードスタンプを受給したアメリカ人は2619万5449人で、2000年から5年間に930万人増加している。」「国税調査局の発表によると、2006年、国内で貧困ライン以下の生活をしている国民は3650万人にのぼる。アメリカ内国歳入局の発表によると、2006年度の時点でおよそ6000万人のアメリカ国民が一日7ドル以下の収入で暮らしているという。」
  『イラクや北朝鮮で非常な独裁者が国民を飢えさせていると大統領は言いますが、あなたの国の国民を飢えさせてるのは一体誰なの?と聞きたいです』
  コラム@ 間違いだらけの肥満児対策

第2章 民営化による国内難民と自由化による経済難民
  人災だったハリケーン・カトリーナ
――その日ブッシュは『移民問題』の意見交換。FEMAの長官が「すべての消防その他救急救援組織は、ハリケーン被災地で、FEMAによって申請・承認されない限り、独自の緊急救援活動をしてはならない」との声明を発表。「FEMAは、市街の保安確保まで救援活動を停止させる決定をし、州兵が到着して治安が回復するまで救急隊員を待機させました。近隣の州から応援に来たボランティア消防隊員も締め出したのです。…FEMAが被災地脱出に必要とされるバスの台数を三一三五台と認定して派遣し始めたのは、ハリケーンが上陸してから五日後の九月三日午後八時でした」

「民営化」の罠――クリントン大統領のときに「FEMAは改革され、自然災害対策プログラムが優先順位の上位に置かれた。予算は増加し、一九九七年には災害予防プログラム「プロジェクト・インパクト」が確立された。」「「災害の緩和に一ドルを費やせば、災害復旧コストの二ドルを節約する」をキーワードに、一九九九年のハリケーン・フロイト上陸時には数日前から一軒一軒の家を回り三〇〇万人を避難させることに成功した。」ブッシュの側近ジョー・アルボーがプロジェクト・インパクトを民営化によって廃止。「洪水の前年の二〇〇四年夏、FEMAはハリケーン上陸を予測していながら、堤防を強化するための災害緩和資金をルイジアナ州に与えませんでした。・・・堤防の保守や建設のための予算は繰り返し削られ、防波堤は未完成のまま放っておかれました。そして気象学者らの予想通りハリケーンは上陸し、町の八〇%は水の底に沈んだのです」。
  「二〇〇七年の時点の報告では、たとえばニューオーリンズ市の四六万人の住民はうち半数以下しか帰還しておらず、住民の六〇%は今も電気が使えず、病院は半数が閉鎖したままで、再開した託児所は被災前の二三%。緊急支援と瓦礫除去費用に数十億ドルが費やされたと発表されているにもかかわらず、ニーオーリンズの町には洪水時に出た瓦礫の三分の一が二〇〇七年現在もまだ放置されたままだ。
  ブッシュ政権が民間企業の一つであるバリバートン社(第5章参照)の子会社、ケロッグ・ブラウン&ルート社に委託した復興予算の五億ドルは一体どこにいってしまったのだろう?
  被災地の賃貸住宅の家賃は被災前の三倍に上昇し、貧困層は次々に追い出され、それに比例して住民の自殺率は被災前の三倍にはねあがっている。」

棄民となった被災者たち――「二〇〇六年四月末、FEMAは、被災地で行った調査の結果、居住可能だと判断された住居の住人だった避難民計一万二〇〇〇人に、支援停止通知書を送付した。」「ヒューストンのビル・ホワイト市長が独自の調査団を現地に送って調べたところ、FEMAが居住可能と判断した住居の90%が「どうみても人間が住める状態ではなかった」という。」「 ブッシュ政権が洪水発生から一年の間に提案したのは、連邦政府が所有する土地を避難民に分配するというものだった。ただし、それには賃貸ではなく分譲で、という条件がついている。」「人影の消えた瓦礫だらけの居住区では、昔からあった低所得者用の公共団地が取り壊され、高級コンドミニアム群とショッピングモールが建設された。」「被災者たちの多くには分譲資金どころか、職も帰りの交通費さえないのだ。住んでいた土地は富裕層の人々に徐々に取って代わられ、被災地再生計画は怒りの声をあげる避難民の間で「民族浄化計画」と呼ばれている。

学校の民営化
  「自由競争」が生み出す経済難民たち
  コラムA ニューオリンズの目に見えぬ宝

第三章 一度の病気で貧困層に転落する人々
  世界一高い医療費で破産する中間層
―― 八〇年代以降、新自由主義の流れが主流になるにつれて、アメリカの公的医療も徐々に縮小されていった。公的医療がふくらむほど、大企業の負担する保険料が増えるからだ。そのため政府は「自己責任」という言葉の下に国民の自己負担率を拡大させ、「自由診療」という保険外診療を増やしていった。
  自己負担が増えて医療費が家計を圧迫し始めると、民間の医療保険に入る国民が増えていき、保険会社の市場は拡大して利益は上昇していく。保険外診療範囲が拡大したことで製薬会社や医療機器の会社も儲かり始め、医療改革は大企業を潤わせ経済を活性化するという政府の目的にそっていたかのようにみえた。
  だが、国民の「いのち」に対しての国の責任範囲を縮少し、「民間」に運営させることは、取り返しのつかない「医療格差」を生み出していったのだった。

日帰り出産する妊婦たち
  競争による効率主義に追い詰められる医師たち
  破綻していくアメリカの公的医療支援
  株式会社化する病院
  笑わない看護師たち
  急増する医療過誤
  急増する無保険者たち
  コラムB不安の「フード・ファディズム」

第4章 出口をふさがれる若者たち
  「落ちこぼれゼロ法」という名の裏口徴兵制策
  経済的な徴兵制
  ノルマに圧迫されるリクルーターたち
  見えない高校生勧誘システム「JROTC」
  民営化される学資ローン
  軍の第二のターゲットはコミュニティ・カレッジの学生
  カード地獄に陥る学生たち
  学資ローン返済免除プログラム
  魅惑のオンライン・ゲーム「アメリカズ・アーミー」
  入隊しても貧困から抜け出せない
  帰還後にはホームレスに
  コラムC誰がメディアの裏側にいるのか?

第5章 世界中のワーキングプアが支える「民営化された戦争」
  「素晴らしいお仕事の話があるんですがね」
  「これは戦争ではなく派遣という純粋などジネスです」
  ターゲットは世界中の貧困層
  戦争で潤う民間戦争請負会社
  見えない「傭兵」
  一元化される個人情報と国民監視体制
  国民身分証法
  州兵としてイラク戦争を支えた日本人
  「これは戦争だ」という実感
  コラムD テロより怖い民営化

エピローグ――「かつてのアメリカがそうであったように、日本でも中間層のサラリーマンが国を支えていた時代には、大学を出れば就職、そして結婚し、家庭を持ってマイホームを購入、退職したら年金暮らしが待っているという「一億総中流の人生計画」が存在した。だが「規制緩和」「民営化」「自己責任」などのキーワードと共に加速していった流れの中で、日本の中間層にいた人々は過労死やリストラの犠牲となり、「ワーキングプア」「ネットカフェ難民」「医療制度の崩壊」「派遣社員」「教育格差」などの言葉がメディアにあふれるようになったのだ。」
  「日本も小泉、安倍内閣の下で民営化が進められ、社会保険庁や介護施設、刑務所などが次々に民営化の流れに組み込まれている。だが「役所がひどいから民営化」という安易な考えが危険であることを、取材した多くのアメリカ人から警告された。アメリカン・ドリームという言葉に非常に弱いアメリカ人は、自由や競争=誰もに与えられる機会の平等だと思い込むふしがある。安易に民営化を支持したために、決して手をつけてはいけない医療や暮らし、子どもたちの未来にかかわる教育が市場にひきずり込まれてゆくことにブレーキをかけられなかったのだ、と彼らは言う。国が国民に対して持つべきこれらの責任を民間にスライドさせてしまうことが、いかに民主主義を破壊するかに気がつかなかったのだ、と。」
  「二〇〇六年七月に公表された対日経済審査報告書(OECD)のデータによると、「OECDにおける相対性貧困率ランキング」において、日本はアメリカに次いで第二位になっている。相対性貧困率とは、すなわちその国の格差レベルを指す。国内に中間層が厚く存在していれば、この数字の上昇にはブレーキがかかる。だが、アメリカの後を迫った結果、日本の中間層は貧困層に転がり落ち、格差は急激に拡大しつつあり、さらにこの先「教育格差」が進めば、国内は一部のエリートとスペシャリスト、低賃金労働者という三層に分かれ、この所得格差は強固に固定化されていくだろう。」
  「何が起きているかを正確に伝えるはずのメディアが口をつぐんでいるならば、表現の自由が侵されているその状態におかしいと声を上げ、健全なメディアを育て直す、それもまた私たち国民の責任なのだ。人間が「いのち」ではなく「商品」として扱われるのであれば、奪われた日本国憲法二五条を取り戻すまで、声を上げ続けなければならない。」
  「無知や無関心は「変えられないのでは」という恐怖を生み、いつしか無力感となって私たちから力を奪う。だが目を伏せて口をつぐんだ時、私たちは初めて負けるのだ。そして大人が自ら舞台をおりた時が、子どもたちにとっての絶望の始まりになる。」
  「現状が辛いほど私たちは試される。だが、取材を通じて得た沢山の人との出会いが、私の中にある「民衆の力」を信じる気持ちを強くし、気づかせる。あきらめさえしなければ、次世代に手渡せるものは限りなく貴いということに。」

9/11以降のアメリカのマスメディアの動向を見て、自身がジャーナリストになることを決意されたそうだ。すばらしい!!





No.37

永続地帯

  りっちゃん
08/4/10

3月31日に緑ネット主催の環境問題学習会に参加しました。その報告です。なんだかんだ忙しかったもので、すっかり遅くなりました。

講師は、千葉大学公共研究センター 倉坂秀史さん。「エネルギー永続地帯」の試算をしたその結果についてお話してくださいました。

今、私たちが使っている石油、天然ガスなどは鉱物資源。いつかは無くなっちゃいます。ウランもそうです。しかも制御できていない。原子力発電所なんか、一回の地震でああだもの。で、なくならない資源を使って、エネルギー需要と食糧需要のすべてを賄うことができる区域を永続地帯とし、そのエネルギー永続地帯について、各市町村ごとに数値を出したのだそうです。なんと、4県で、区域の民生用電力需要の20%以上をすでに賄っていたそうです。

そのほとんどが小水力発電。ダムではなく、水車と同じ原理というのかな。落差が5mあればいいとか。日本は山も水もたっぷり。これは可能性大。他には、太陽光、風力(方向が一定でないといけないんですって、だから海岸線だけかなぁ。小平も風は強いのだけれど、風見鶏付きの風車はできないかしら?)、地熱(日本には火山もある)、バイオマス(日本は農業国ではないので、ペレット状木質などの利用だそうです)、後は波力、生ゴミによる発電も可能性があるそうです。

1957年に工藤宏規という人が「日本の理論包蔵水力」とかいう本を出されたとか。理論上では、民生用電力の65%が賄えるとか。そういう研究もついつい石油に頼ってサボってきちゃったのね。鉱物資源に頼るようになったのは、産業革命以降、それ以前は、永続的なエネルギーで人間はちゃんと暮らしてきたのです。それに、産業革命以降、公害もひどいし、植民地政策とか、今のイラクもアフリカの紛争も、みんな鉱物資源が絡んでいる。だから、それが必要なくなれば、争うこともなくなるかも。それはいいことだわぁ。

さらに、持続可能性という観点では、都会よりも田舎の方が「先進的」になる、とのこと。なんだかうれしくなっちゃうね。ちなみに、格差社会、エネルギー需要密度の格差も100倍以上。都道府県ベスト(ワーストかな?)3は、東京、大阪、神奈川。逆が北海道、岩手、秋田だそうで・・・

永続地帯指標の役割
  @ 長期的な持続可能性が確保された区域を見えるようにする。
  A 「先進性」に関する認識を変える可能性を持つ。
   − 持続可能性という観点では、都会よりも田舎の方が「先進的」になる。同様に、従来は「途上国」とみなされていた地域の方が持続可能性という観点からは「先進的」であることが明らかになる。
  B 脱・化石燃料時代への道筋をあきらかにする。
   − 「エネルギー永続地帯」指標は、現段階でも、自然エネルギー供給の可能性の大きな地域が存在することを明らかにして、このような地域を徐々に拡大して行くという政策の方向性を明らかにする。

ガソリンが下がったなんて喜んでいないで、やたらと道路なんか作らないで、こういう研究に力を入れましょうよ。研究だけでなくもう、どんどん作っていかないといけない段階かな。東京都では、「2020年には再生エネルギーの割合を20%にする」そうです。もっともこれは、クリーンエネルギーを購入する方法もあるのだそうで・・・なんだかなぁ。まだまだカネで解決時代がしばらく続くのか・・・

政策的なインプリケーション
  (1) 日本に適した自然エネルギーの種別として、小水力発電にもっと注目すべき。
  (2) 地方自治体におけるエネルギー政策を立ち上げるべき。
  (3) 国はエネルギー特別会計の一部を地方自治体の自然エネルギー普及に振り向けるべき。
  (4) エネルギー需要密度が大きい都市自治体においては、自然エネルギー証書の購入などの形で、自然エネルギーの普及拡大に寄与すべき。
  (5) 自然エネルギー発電の基礎データが統計情報として定期的に公表されるようにすべき。

なんだか、先行きが明るくなった気がした学習会でした。緑ネットさんありがとう。





No.36

中村哲氏講演会

  りっちゃん
08/4/9

九条の会・小平よりお知らせがきました。

9条の会・小平3周年のつどい
  ペシャワール会 中村哲氏講演会

9条の精神を生かしてアフガンへの復興支援
  「 中村さんとペシャワール会の現地での活動をスライドを見ながらお聞きして、アフガニスタンの実状を学び、平和憲法を持つ日本の真の復興支援とは何かを考えていきましょう」

とき: 5月29日(木) 午後6時半開場 7時開演

ところ:ルネこだいら中ホール

入場料:800円(障害者&付き添い 高校生以下500円)

主催: 9条の会・小平

プレイベントとして、4月26日(土)6時半から、中央公民館講座室2にて、「アイラブ ピース」の上映会も開催されます。参加費無料。私は合宿があるので参加できずに残念。義肢装具士とアフガニスタンの少女とのお話だそうです。




会報の情報に載っていた「シッコ」の上映会。アメリカの医療がどんな悲惨な状況か、日本がアメリカ並になりつつある今、見逃したくないなぁ。いってこようかしら。

日時:4月30日(水)午後2時〜4時10分/午後7時〜9時10分

場所:東村山中央公民館ホール 西武新宿線 東村山駅東口下車 徒歩2分

料金:999円

主催:「シッコ」東村山上映実行委員会





No.35

イラク・戦火の子どもたち

  ちよちゃん
08/4/9

イラク・戦火の子どもたち豊田直巳写真展 in MARU



期間:4月18日(金)〜30日(水)
19日夜はライブにつき休み

会場:Curry&Bar MARU
火〜金 11:30〜15:00 17:30〜20:00 土日 11:30〜20:00 月は休み。
西武新宿線 東村山駅下車 西口徒歩1分
東村山市野口町1-11-3

入場無料


車座&署名会
20日(日)18:30〜  参加費 一杯付1000円



豊田直巳の集中講座 「戦争の作り方、平和の作り方」

日時:  4月20日(日)14:00〜16:30

会場:  スポーツセンター大会議室(2F)

参加費: 500円(資料代) 子ども・学生は無料

主催:  東村山・生活者ネットワーク

※ 写真展と講座、お時間がありましたら、ぜひお出かけ下さい。





No.34

きもの展

  りっちゃん
08/4/4

着物鈴木啓子

ローケツきもの展

2008年4月14日(月)〜20日(日)

11:00AM〜7:00PM(最終日20日は4:00まで)

銀座煉瓦画廊東京都中央区銀座4-13-18医療ビル2階

「きものが変わります。

京都でローケツ染めの着物、帯、小物を染めました。」

いとこの啓ちゃんの着物は、地味だけれど、洒落ているし、手が込んでいる。ぜひ見に来てください。





No.33

生きる術としての哲学

  りっちゃん
08/4/1

この本の副題は「小田実 最後の授業」。二〇〇二年度慶應義塾大学経済学部においておこなわれた講座「現代思想」をもとに書かれた「最後の講義」である。小田実からわれわれへのメッセージであるともに、その講座は「参加するための場なのであり、ことばという交換の手段を用いてお互いが対等にかかわり、それぞれの「職能」や役割を超えてゆこうとする場なのであり、参加し交流するものによって創造される「思想の現場」」であったと編者によって語られている。

「古代アテナイの「デモクラティア」は、一言でいえば、「民衆が力を持って民衆が政治をする」ということです。大衆が政治をする。政治はものを考えなければならないから、そこから哲学が生まれる。それが《Philosophy in Action》になります。」日本語では修辞学。明治に哲学は取り入れられたが、「修辞学科は、この慶応大学も含めてどこもないでしょう。・・・
  「しゃべる」、「聞く」からはじまって、「思考」を固めていった西洋社会のあり方、《Philosophy in Action》を受け入れなかった日本社会のあり方を考え直すときに来ている、と思います」。なので、「ともに考えよう」と小田実さんが連発したとか。「わけのわからないことを言っても、もちろん人はついてこない。ことばによって人を「説得」しなければいけない。脅しではなく、相手を納得させ、その気にさせる。そこから「理性」が出てくる」。私も弱いです。理解はできても人を納得させるのは難しい。

「「社会主義」の理想は費えて、次々に世界から消えていった。それならば資本主義がいいかと言えば、金儲けに狂奔して方向を見失っている。いま、政治や経済のシステムそのものが立て直しのときに来ている」。
  それを彼は「現場」と呼ぶ。
  「「現場」では、自分が決めなければならない。判断しなければいけない。自分で基準を作って決めなければならない。知識を集めて自分自身で判断するときに、《Philosophy》では役に立たない。《Philosophy in Action》が、必要になってくる。だから、「われら」ではなくて、「われ=われ」で考えよう。「われ=われ」は、「一人でもやる、一人でもやめる」という勇気を持った一人一人の「われ」で構成される。決して「われら」に収斂されない」。
  いるんだよねぇ。われら、「世間は」、「常識では」とか言って、で、中身のないスタンプ、決めつけ。いじめでもそう。「太っているから」「汚いから」。それが当然の理由であると思い込んでいるから始末に悪い。実際、権力者(担任)が承認しているケースが多いから、クラスのほとんどが「それが常識」となって、自分の心で感じたり、自分の頭で考えようとはしない。そうやって大人になってしまった人が多い現状では、「改革」の中味を見ることもなく、ただテレビ報道などの流れにのっかて、投票してしまう。自分の暮らしが損なわれることに気がつかない。困ったものだ。騙されないように気をつけて、自分で情報を選択し、自分の頭で考えないと・・・

「一九四五年八月一四日に大阪大空襲がありました。私はその現場にいた。敗戦の一日前ですから、敗戦は既に決まっていた。決まっていたにもかかわらず、爆撃を受けた。私はそこで死んでいたかもしれない。「なぜ爆撃を受けたのか」・・・日本も、アメリカも国家は怖い。これは肝に銘じておいたほうがいい」これが彼の原点であり、「する側」と「される側」という論理の出発点でもあります。

そんな彼のイラク戦争への声明です。
  「誰がどう考えても、
  アメリカがイラクを先制攻撃するのは間違っている。私たち、日本、世界の市民は反対する。
  アメリカは国連からの孤立も辞さないし、核による無差別攻撃の可能性さえ明言している。
  日本はアメリカともイラクとも友好関係を保つ国である。
  日本は、その立場で、一方的にアメリカのイラク攻撃に加担してはならない。
  日本は、両国の間で仲介の労を惜しまず、あらゆる戦争行為をやめさせるようにせよ。」

第2次大戦後、世界には、アウシュビッツと「ヒロシマ」「ナガサキ」の原爆の悲劇は二度とあってはならないという二つの歯止めがありました。しかし、イスラエルでは、アウシュビッツの被害者であったにもかかわらず、同じことをパレスチナ人に行っています。日本でも「福田官房長官(当時)という政権の要にある人が、「非核三原則」、つまり「つくらず、持たず、持ち込ませず」の三原則の見直しもあり得る。時代が変わればそれはしかたがない、という発言をした。「核兵器」が絶対悪でなくなった。」実際にも、イラク戦争では、劣化ウラン弾が使われ、核兵器の通常兵器化、通常兵器の核兵器化によって、その差がアイマイになっています。

「ブッシュがやっていることは、あきらかに「戦争主義」ではなく「好戦主義」でしょう」、「反戦デモのプラカードに「オイルのために血を流すな」。そうだとしたら、これは「利権」のための戦争です。「侵略」です」。

大日本帝国と「民主主義」の本場、古代アテナイの軍隊とを比較考察しています。戦争に突入するかどうかも直接民主主義で、大衆が決めました。アメリカの軍隊は、「アメリカひじき」にあったように食料はたっぷり。日本軍は飢え死にがほとんど。体罰も違います。「しかし、戦闘で人を殺すためのマシーンにする、という意味ではどちらも同じです。徹底的に、人間性を剥奪していきます」。「いずれにせよ、軍隊は相手を殺すためにある。「わが国土を護る」の延長上に、「ここを取る」という論理が出てきます。この国土を護るために危険なところはここだから、ここを占領しなければいけない。「ここ」はどんどん広がっていきます。」
  「アテナイの市民を護る、民主主義と自由を護る、それに反対するやつは非国民だ、という論理。われわれのする戦争は正義の戦争だという論理」。自由を護るために、自由を奪っていくのも同じです。

「「正義の戦争は少しはある」という論理に抗するために私が考えた論理は、非常に簡単です。正義の戦争をする側は、必ず「非正義」、つまり正義に反する側と戦う。正義に反する側はあらゆる手段、不正義の手段を使うでしょう。正義の戦争をするのなら、負けたら意味がない、勝たなければいけない。だから、不正義の側の不正義の手段以上のものを使うことになる。向こうが毒ガスを使ったら、核兵器を使う、ということです。第二次世界大戦では、アメリカは正義の戦争と称して日本と戦った。最後に原爆を落としたでしょう。原爆は正義の戦争のための正義の兵器と言えるのか。それと同じことをいまブッシュがしょうとしています」。

怖いです。でも、希望もあります。ドイツの「良心的兵役拒否制度」を紹介しています。
  「彼ら(良心的兵役拒否者)は「ミリタリー・サービス(military service)をしないで、代わりに「シビル・サービス(civil service)のひとつを受けもつことになります。いまドイツでは良心的兵役拒否者の方が、兵役につく人よりも数が多くなっています。それほど普及している。これは、法律で定められている一つの権利です。」「ところが、日本では、若者たちはそんなことに直面することもなく、従って「良心的兵役拒否」制度をほとんど知ることもなく、あきらかに平和ボケしています。しかし、いま平和ボケも許されないときが来た。「有事立法」をひとごとみたいに考えてはいけない。そこには徴兵の問題が原理的に入ってくる。徴兵の対象はみなさんのような若者たちだ。」「「シビル・サービス」は、老人介護、精神病院での看護、といったことをやります。この「良心的兵役拒否者」たちは、軍事とは違う形で世界を変えていこうとしています。その意味では、日本国憲法の精神を実践しているわけです。」「つまり、「正義の戦争はやらなければいけない」という立場と「絶対平和を貫け」という立場が、全世界で対抗関係になっている。日本の平和憲法だけが孤立しているみたいに思ってはいけない。」
  日本語しかできない、日本で暮らすしかない、世界の情報が良く見えない私にとって、小田さんの話は、説得力があるし、とても心強い。

「平和憲法は、問題矛盾の解決に一切武力を使わない、ということを基本に据えています。使えば、必ず「被害者であることによって加害者になる」。だから断固として使わない。憲法第九条だけ読んでいても平和主義の原理はわからない。前文に、「戦争をやめようじゃないか」と、全世界に向かって呼びかけているのです。
  日本の憲法は、おもしろい憲法です。普通、憲法は自分の国のことだけを書いてある。人の国のことまで文句をつけているのはわが国の憲法だけです。前文を読んでご覧なさい。「私たちは努力してこれから新しい平和な国をつくる。だからあなたたちも努力しろ」と書いてある。いちばん悪いことをした国がよくまあ平気でこんなことを言えると思うけれども、それだけ誇りに満ちた憲法です。戦争は、いくら「正義」を掲げてやったとしても、結局のところ殺し合いになって終わる。私たちは、もう十分それがわかった。だから新しい世界をつくろう、というのがわれわれの憲法です。」

そして、せっかく平和憲法をもっているのに、「何もしない」のはもったいないですねぇ。世界のあちこちでおきている紛争。水戸黄門みたいに、印籠ならぬ平和憲法を掲げて、「武力では何も解決しない。話し合いでの解決を!!」ぐらい言ってもいいと思うのですが・・・

さて、日本のこと。自身も被災者だった「阪神淡路大震災」について、
  「大災害は、いい加減な虚飾を全部剥がしてしまいます。あっという間にきれいな建物が壊れる。道路も壊れる。「文化都市」というものの仮面がはがれてしまう。普通の比較的豊かな中流の暮らしをしていた人がどうなるか。
  怒りが体内に吹き上がってきている。何が「大国」、「先進国」かと思う。これは、決して「天災」ではない。「人災」だ。ここ十数年、神戸、芦屋、西宮のやって来たことは、地域経済の発展を大義名分としての、税金をふんだんに使った乱開発だった。六甲山を削り、埋め立て地用の土をとり、トンネルを何本も掘り、海は埋め立て地で埋め、高速道路を強引に押し通す」
  一番初めに復旧したのが、明治時代につくられたJR。明治時代につくられた橋も、他の橋がすべて崩落したのに、それだけは残った。最近の科学技術って何なんだ?「科学技術が巨大組織に依存する限り、結局のところ役に立たないのではないか。科学技術の方向を変えなければいけない。自分たちの手の届く大きさのものを見直していこう」「都市計画もやり直す必要があります。東京では数十階建ての超高層ビルを次々に建てていますが、地震がきたら大変なことになります」「日本は被災地の体験から何も学んでいない」。

そして金持ち都市の西宮市の災害対策費が4500万。備蓄のパンも、給水車も、毛布もなかった。自衛隊が活躍したとの報道があったが、災害用ではないから役に立たず、三重県久居市の給水車のおかげで「飲みつないだ」とか。「いまも西宮市は非常用備蓄はゼロです。ベルリンは非常用備蓄二カ月分を持っています。トイレットペーパーからミルクまですべて揃っている。それを絶えず入れ替えているわけです」。
  「大地震があれば、生活基盤は崩壊します」。だからおカネが必要になる。「アメリカ合州国政府は、ノースリッジ地震の一週間後に全壊、全焼の被災者に最高2万2200ドルの小切手を渡しましたが、その論理は見事なものでした。「民主主義国は市民によって成り立っている。市民の生活が危機に陥ることは、すなわち民主主義国家アメリカの基盤が危ういことである。だからわれわれは公的援助をする」。日本では、総理大臣が震災を起こしたわけではないとか、資本主義の原則に反するとか、いろいろな理屈をつけて出さなかった」。ニューオリンズのハリケーン被害の方ではこうはいかなかったようだが・・・駅のホームから人を突き落とした容疑者も被災者のひとり。ほったらかしが生んだ悲劇でもあったのだ。

「その同時期に金融機構が破綻しました。政府はすぐに60兆円の公的援助をしたでしょう。銀行の破綻にはカネを出すけれども、市民の生活が危機に陥っても何もしない。これはひどい国だとは思わないか。こういう国のあり方を変えるためには、若い皆さんのエネルギーと知恵が必要だ。「される」側として、皆さん自身が動くことが必要です」
  政策をつくる、予算を作ることを提唱されています。確かに備蓄ゼロでは、任せていられないなぁ。

その他、ベトナム戦争のこと、秀吉の朝鮮侵略のこと、インドと日本との比較など、「目からうろこ」のお話満載。植民地とは収奪されたということ、日本はゼロからの出発とすると、植民地にされたところはマイナスからの出発であったことが耳に痛い。

また、「今は全世界にわたって、現実の事態の大混迷とともに思想的にも大混乱の時代だ。これまでに常識としてあった論理、倫理がゆらぎ、根底から覆されようとさえしている。その間題が今もっとも鋭い、そして、重いかたちで出てきているのが、「同時多発テロ」とそれに対する「報復戦争」という戦争、暴力の問題でもあれば、臓器移植、遺伝子操作などから始まる「生命科学」の領域であるにちがいない」という、科学の進歩が果たして人間にとってプラスなのか、私自身まだわかっていないという怖さを抱えている。

日本の教育は、すべてに「道」がつくように、技術の習得のみにとどまらず、同時に自分の人格の形成も目指していた。そのことをこれからも大事にしてほしいと願わずにいられない。

自分に何ができるのか、自分の無力さに、時には自分自身が押しつぶされそうな気持になりながら、何とか生きています。何とかできること続けています。





No.32

勧告書

  りっちゃん
08/3/31

29日、タリの会で「朝鮮学校と出会う」というDVDを見ました。韓国の留学生が作ったものです。韓国の学生と朝鮮学校の子どもたち、日本の小学校と朝鮮学校の子どもたち、保護者の交流が描かれています。子どもたちの笑顔がとてもほほえましかった。

民族教育、外国で暮らさねばならなかった人たちが自分のルーツ、自分たちのことば、文化を学ぶ。それはとても当たり前のことです。そして、それは、自分を認め、愛することにつながります。子どもたちの笑顔と笑い声が、それを実証しています。

それに比べて、今の日本の子どもたちはどうなんだろう?今頃になって慌てて民族教育なんて叫んでもねぇ。受験による選別。いじめ。学級崩壊。モンスターペアレント。さらに学力テスト。自分を否定されることの連続では、「死刑になるために、7、8人殺したかった」という気持になるのも、わからなくはない。テレビ報道では、家族、親の責任ばかりいっている。でも、親も悩みながら親として育つのですよ。憲法25条の健康で文化的な最低限の生活が保障されていれば、なんだけれど、この頃は親も経済的にきつい。文化的生活を営めているのだろうか。そして、どんな親の子であろうと、教育を受ける権利はある。学校でこそ、人間の尊厳をきちんと教えて欲しいよな。

朝鮮学校を選んだ理由について、保護者から「当然」との答。遠くへ通わせることや、近所の子どもたちと別な学校へ行かせることへ“不安”もあったけれど、自分たちの祖父母の代から一生懸命護ってきた自分たちの民族への自負心、それを大事にしたいということだろう。「自分たちのコミュニティでもある」との発言に「なるほど」と。日本社会で差別があっても、そこへいけば、ほっとする空間。気兼ねなくおしゃべりできる。今、日本の学校で失われている「信頼関係」が、子ども同士、親同士、保護者と先生の間にしっかりあるのだ。だから、あの笑顔。納得です。

公的援助について、保護者から、「われわれは税金を払っているのだから、日本政府が行うべきだと思う」との発言。本当にまったくです。特に問題は、朝鮮学校が「学校」として認められていないこと。そろばん教室や生け花教室のような「各種学校」扱いのため、大検を受けたり、ダブルスクールに行くなど、子どもたちの負担が大変です。親の経済的負担もです。なんだかなぁ。チマチョゴリを刃物で切るアホな奴らと、おんなじ感覚なんじゃぁないの。日本政府って。韓国の人からすると、朝鮮学校はいままで閉ざされていたという印象があるようだけれど、閉ざしていたのは、日本政府じゃないかと思う。ま、表向きの言論の自由はまだあるので、日本で、交流をいっぱいはかって、お互いの理解を深め、仲良しになってほしいなぁと・・・

で、資料として配布された、日本弁護士連合会から福田総理にあてた、勧告書を以下に載せます。差別はよしましょう。国際化の時代ですよ。

勧 告 書

当連合会は、学校法人横浜中華学園、学校法人東京朝鮮学園及び学校法人神奈川朝鮮学園並びにそれらに通う児童・生徒の各保護者の会からの申立に基づいて調査したところ、中華学校及び朝鮮学校は自らの属する民族の言葉によりその文化・歴史を学ぶ権利をも実現するもので、確立したカリキュラムの中で安定的に教育を行ってきたものであるにもかかわらず、指定寄付金制度等の適用から排除されているものであり、また、朝鮮高級学校の卒業生ないし卒業見込生に関しては、大学・専門学校の入学試験を受験する資格の一律の認定の適用から排除されている。このことは、欧米系評価機関の認定を受けたインターナショナルスクールなどが指定寄付金制度等の適用を受けていることに比しても、また、他の外国人学校の卒業生ないし卒業見込生が入学試験を受験する資格を一律に認められていることに比しても、差別的な取扱いに当たるものであり、これらの学校に通い又は通おうとする生徒の学習権を侵害することとなるものである。
  よって、次のとおり速やかに善処されるよう勧告します。

[勧告の趣旨]
  1 日本に所在する中華学校及び朝鮮学校並びにこれらと同等のいわゆる外国人学校について、所得税法及び法人税法上の指定寄付金制度の適用対象法人等に該当しないとの取扱いを改め、指定寄付金制度の本旨に従って、関連告示を改正するなどしてこれら学校が適用対象に該当するとの取扱いを行うべきである。

2 同様に、日本に所在する中華学校及び朝鮮学校並びにこれらと同等のいわゆる外国人学校について、所得税法及び法人税法上の特定公益増進法人に該当しないとの取扱いを改め、特定公益増進法人制度の本旨に従って、関連告示を改正するなどしてこれら学校が適用対象に該当するとの取扱いを行うべきである。

3 日本に所在する朝鮮学校の卒業生ないし卒業見込生の大学・専門学校の入学試験を受験する資格について、学校教育法上、「高等学校を卒業した者と同等以上(に準ずる)」とされる対象となる学校に朝鮮高級学校が該当しないとの取扱いを改め、関連告示を改正するなどして同学校がこれに該当するとの取扱いを行い、もって同学校の卒業生ないし卒業見込生が個別審査によらずとも一律に大学・専門学校の入学試験を受験する資格を得られるようにすべきである。

4 なお、上記1項及び2項の関連で、現行の私立学校助成制度が学校教育法1条に基づく認可を受けた学校と認可を受けていない学校との間の大きな格差を出現させている問題については、当連合会が既に1998(平成10)年2月20日付け勧告書をもって勧告しているところであるが、未だ改善されていないことから、この点についても引き続き改善が図られるべきであることを、改めて付言する。

第4項の私学助成金がないため、各市から朝鮮学校保護者補助金が出ているのだけれど、なぜか小平市はないのです。どうしてぇ?23区の平均補助金額が7817円。多摩は1692円。翌日の府中「ウリハッキョ」上映会での、「国際人」、「日本にとっても役立つ人に育てています」との校長先生のことばに比して、おお!!けち臭いこと。恥ずかしいね。日本人として・・・





No.31

テロ殺人事件

  りっちゃん
08/3/26

土浦殺傷事件。「殺す相手は誰でも良かった」、「妹を殺そうと思っていた」。なんだか気が重いねぇ。こういう事件は・・・。

『戦後日本は戦争をしてきた』の「ワケのわからない犯罪のウラに叫びがある」の項に書いてある通り、これはテロなんだよね。弱いものに攻撃を向けたテロ。日本の社会の中で見捨てられた人が、自分でもよくわからないまま、より弱いものに刃を向ける。でも、抗議をしたい。自分がここにいるんだということを認めてもらいたい。注目されたい。そういうことなんだと思う。

本当に馬鹿げた行為だと思うし、亡くなられた方にとっては、悔しい限りなんだけれど・・・とっても悲しくなってしまう。

東京新聞 筆洗 より
  ▼約30年に及ぶ検事経験がある弁護士の田代則春さんは、犯人に躊躇や動機がないように見えて、罪悪感や反省も感じられない殺人事件を分析するうちに、次のような思いを深くしたという▼机や人形などの無機物を壊すような感覚で人を殺しており、心の中をのぞけたとしたら人間関係の喪失で、「孤独」という砂漠が広がってはいないか、と。(『人はなぜ、人を殺すのか』)

容疑者の出身校の教頭さんは「高校時代、特に問題を起こしたこともなかったが、なぜこんな事件を起こしたらわからない」と。普通の子って、いっぱい我慢しているんだよ。受験に本格的に立ち向かう時期から生活態度が変わったとも。自動的にクラブ引退が慣例になっているのもおかしなものだ。受験で人生が選別されてしまうこともおかしい。受験のための勉強でなく、人間としての、人格形成の場としての勉強はなかったのか。先生には見えなかったんだなぁ。「孤独」という砂漠が・・・

今、「世界に一つだけの花」を練習しているのだけれど、この歌のメッセージが犯人の心に届いていたならなぁって・・・人の命はかけがえのないものなんだ。最初に殺されたお年寄りも、荒川沖駅で亡くなった27歳の男性も。そして、当人も・・・まだまだ人生これからだったのに・・・生きていることがよほどつらかったんだろうなぁ。(だからといって人を殺すなよ!!) 「小さい花や大きな花、一つとして同じ花はないから・・・」。でも、「受験」や「孤独」など、彼が抱えていた問題は、みんなにも共通のもの。みんなで解決するために、自分でできることを、やっていきたいのだけれど・・・

こんな事件が起こる前に、何とかならないものだろうか。日本の社会が、もっと優しさや、余裕があったら、こんな事件は起こらないと思うのだけれど・・・





No.30

裁判傍聴

  りっちゃん
08/3/21

東京地方裁判所606号法廷に傍聴に行ってきました。338道路を考える会の会報に載っていた「国分寺都市計画道路3・2・8号線訴訟団による国土交通省がおこなった事業認可の取り消しを求める裁判です。

新聞・映画などで見覚えのある門を通ると、弁護士などと別の一般の人の入口で、荷物検査がおこなわれていました。「刃物などを持っている人は警察に連絡します」の看板。金属に反応するゲートをくぐり、荷物を受取る。なんだか物々しくって、はいりずらいところやなぁ。これじゃぁ、庶民から遠くなるよ。小腹がすいたので、パンを買って持っていたのだけれど、廊下は広々として椅子ナシ。とてもパクつける雰囲気ではない。喫煙所は無理としても、いわゆる一服つける(くつろげる)場所がない。

法廷も新聞の絵とそっくり、傍聴席は40席ぐらいかなぁ。満席。第一回ということで原告側が結構集まったから・・・道路は都道だから、被告は都かと思っていたら、国と書かれていたので、あれぇ?国分寺の後は小平の番なのに、まだまだ呑気でちゃんと会報を読んでいなかったのでした。都が申請したのを認可した国が相手でした。

裁判官が着席の前に礼、と同時に傍聴していた人も立ち上がって礼を、ちょっと慌てました。昔の小学校みたい。裁判官が被告、原告になんか聞いていると思ったら、次回の日程決め。反論するのに時間が欲しいとのことで2ヵ月後の日程。その間、調査を進めようという作戦かも。後で聞いたら、たいていは次の日程決めで終わっちゃうんだって。今回のように、申述書を読みあげる方が珍しいのだそうな。書類の提出が主なのかしら?話し合いではなくて・・・

一番後に被告側が入廷してきたのだけれど、なんだか若造ばかりで、大丈夫かいなぁ、という雰囲気。弁護士と官僚、ともに若手?

陳述書 @
  1、「国3・2・8号線」建設計画はまったく無駄な事業
   国交省による「既存ストックの徹底的利活用」(2002)という視点でいえば、東京都は「328号線」の必要性のひとつに府中街道の渋滞とその緩和を挙げています。しかし東京都も認めているようにその「渋滞」個所は一部に過ぎず、それも都市計画路線からはずされた場所が存在することが原因であり、自動車の交通容量を3〜5千台増加すれば解消されるとしています。「328号線」は府中街道のバイパスであり、新たに4万台もの自動車を呼び込む理由はまったく成り立ちません。府中街道全体を、都市計画路線に組み入れて未整備個所を幅員16mに拡幅すれば、かえって府中街道渋滞の解消と近辺の環境改善ににもつながり、その費用もごくわずかで済むでしょう。
   国道43号線道路公害裁判の最高裁判決は、道路の公共性ないし必要性のゆえに、受けた被害が社会生活上受忍すべき範囲内のものであるということは出来ないとし、本件道路の供用が違法と判断しています。また大阪高裁判決の際、裁判長は判決言い渡し後に「道路は造ったら終わりです。公害が酷いからといって道路封鎖は困難です。造る前に慎重な配慮が必要です」と説示しました。
   いま話題の「道路特定財源」の国会議論を聞いていても「道路は造るべきか造らざるべきか」という”飛躍”があり、「無駄な道路」はつくるべきでないという原点に立つべきです。その意味で、まさに「328道路」は550億円もの巨費を投ずる「無駄な道路」の代表というべきでしょう。
   500名もの権利者の暮らしと歴史が破壊され、国分寺市も認めるように沿道住民の健康と環境の悪化の進行など、この建設計画には何のメリットも認められません。
  2、行政側の「328号線」に対する「説明責任と合意形成」の不誠実さ
   2002年に国土建設省は「市民参画型道路計画プロセスのガイドライン」を作成し、住民団体を含めて市民への説明責任と市民との合意形成の必要性と、同時に既存ストックの徹底的利活用を優先させることを提起しました。ところが本件の事業者である東京とも関係住民に責任を持つ国分寺市も、府中街道の改善なども検討せず、本当に必要などうろなのかという疑問に対してきちんと説明していません。「事業の進め方の説明」しかしていないのが実態です。私たちは、「事業の必要性」についてはまったく納得できないのです。
   他方で、市民に対しては行政側の事業を進める「責任と権利」のみの説明しかせず、その事業がおこなわれる際の関係住民の権利には、一切触れませんでした。そして一方的に事業認可を得たのです。そんな不誠実、不充分な状況ですから「物件調査」現場ではトラブルが多発しています。「物件調査」に当たって「断る権利がある」ことを説明せず、住民側からの質問に対してしぶしぶ住民の権利を認めるという状況でした。またこの調査もかなり強引で、借家人に対して家主から「断ると路頭に迷うぞ」という脅しがあったりしています。
   最初住民団体と話し合いに応じていた東京都も国分寺市も、現在はいっさい関係住民との話し合いに応じようとはしません。これでは納得のしようもありませんし、関係住民不在の事業にならざるを得ません。
   したがって私たちは、この状況下で唯一残された手段として裁判に訴えることにしたのです。(以下略)

陳述書 A
  2、私の生い立ちと今の生活状況ーいまの土地に愛着を持っている
   私は、1974年に結婚をして国分寺に移り住み、現在に至っています。この間、二人の子どもを育て、夫婦ともども地域に親しい友だちも出来ました。この地は畑も林も多く自然も豊かです。市役所や郵便局も近く、交通の便も良い住みやすい所です。私とその家族は、いまの土地で30年以上暮らし続け、ここでの生活になじんできました。出来ることなら、静かで暮らしやすいこの町に末永く住み続けたいと思ってきました。
   しかし、耐え難いことに、道路建設によって、30年以上なじんできた私たちの生活は断ち切られ、この町に末永く住み続けたいという私たちのささやかな夢も打ち砕かれようとしているのです。
  3、私がどうしても許せないと思うことー行政から納得の行く説明がない
   私がどうしても許せないと思うのは、道路建設のために立ち退きを強いられている800人の権利者をはじめ周辺住民に、東京都が丁寧で納得の行く説明を行なってこなかったことです。東京都は、都市計画道路がどうしても必要であるかと言うなら、何よりもまず立ち退きを余儀なくされる権利者に理解を求めることは当然ではないでしょうか。東京都や国分寺市が40数年前に立てられた道路計画のためにやってきたことは、一貫して「まず道路建設ありき」「住民の不安や心配は二の次三の次」という態度でした。
  4、立ち退きを迫られる権利者の窮状 立ち退きを迫られている権利者の中には、高齢者、病気の人、介護が欠かせない人なども多く、毎日不安にさいなまれながら暮らしております。また、子どもの教育問題、高齢でローンも組めない問題、動きたくても動けない人など、生活基盤を根底から壊される危機に直面している人も多数います。昨年の秋、私の所に地権者の方から一通の手紙が届きました。手紙には要旨次のような文面が綴られていました。
   「私は、父が30年前に病死して以来、母と助け合いながら二人暮しを続けてきました。母は高齢となり、私の介護が必要な身になりました。介護用ベッドを使い、車椅子も使用しています。少しでも自宅で快適に過ごすことができるように、住宅改修を行い、最近ようやく落ち着いて暮らせるようになりました。ところが急に道路計画の話が浮上し、都の依頼を受けた工事関係者が来て、近々立ち退きに向けての準備段階に入るとの内容をいともたやすく言うのです。母も私も一挙に不安と悲しみと憤りの日々に陥りました。夜も眠れず、食欲もなくなり、頼りない心理状態で毎日を過ごしています。狭い土地に立つ小さな古い家ですが、この場所が人生の基盤であり、心のよりどころなのです。この家で人生の終るそのときまで、人間らしく充実して生きがいのある生活をしていこう、そうできるものと信じて生きてきたのです。それを、新らしく道路を作ることにしたから明け渡せとは信じられない話です。そんな横暴なやり方が許されてよいものでしょうか。弱い住民を苦悩させ、長い年月、やっと根を張って築いてきた生活を取り上げてまで作らなければならない道路なのでしょうか。戦争を体験し、戦後を懸命に生き、今、年老いてなお、誠実と思いやりを心常として人生を送って来た母のささやかな幸せを、私は何としても守りたいと思います。今まで暮らしてきた住民を無理やり追い出して、新しい道路を通すということは絶対に認めるわけに行きません。東京都は、この道路計画を見直し、直ちに中止を決定するよう強く要望します」
  5、まとめ
   行政は、このような地権者の悲痛な叫びを無視して道路建設を強行しようとしています。裁判所におかれましては、どうか、一人一人の権利者の切なる思いを汲み取っていただき、賢明なるご判断を下されるようお願いいたします

審理を開始するにあたっての意見(原告側の弁護士)
   本件で認可取消を求めているのは、国分寺市の良好な住環境にある住宅街に幅36メートルの道路を建設する事業です。
   この道路建設計画について本件事業認可の違法性は明白です。詳細は訴状で明らかにしたとおりであり、審理を通じてさらにいっそう明らかにしていく予定ですが、まず審理を開始するにあたって、以下の4点を強調しておきます。
   第1に、計画が決定されたのは、1965年(昭和40年)です。それから40年以上経た今日、いうまでもなく少子高齢化で人口減少が見込まれるこの時期に、どう考えても新たに道路をつくる必要はないのです。それを1日の交通量4万台を見込んで、540億円という巨額の税金を投入して、新たに道路を建設するという本件事業の計画は、必要性を偽装した「無駄な公共事業」といわざるを得ません。つくられた「公共性」に惑わされることなく、それを裁判所が鋭くチェックしていただきたいのです。
   第2に、仮に、計画通りの交通量が現実のものとなれば、騒音公害や大気汚染など道路公害によって周辺住民は苦しめられることになります。06年をみても、国分寺市内18歳以下を対象としている医療費助成認定数で429名もの多数のぜんそく等の患者がいます。大気汚染訴訟で明らかにされているように道路公害により健康破壊をさらに拡大することは必至です。緑地も奪われ、良好な住環境も破壊されます。これに対して、アセスメントは環境への影響を否定し事業を容認していますが、それには重大な問題があります。行政が行ったアセスメントの結果を鵜呑みにするのではなく、問題点を直視していただきたいと思います。
   第3に、本件道路の計画を具体化するにあたって、住民は、府中街道の改善による渋滞の緩和という選択肢など再三捏起してきました。しかし、行政は、このような代替案の検討を全くおこなわず、住民の疑問や批判に対しても、十分な説明を怠り続けてきたのです。国土交通省はじめ行政が自ら重視している説明責任を何ら果たさないまま、事業が認可され、これが強行されようとしているのです。適性手続の保障やアセスメントのあり方からみても、重大な問題があります。このような事業認可を厳格に判断し、勇気を持って違法判断をしていただきたいと思います。
   最後に、何よりも、このような問題のある道路建設のために、第1原告を含む約250世帯(都の説明によっても約800人)もの多くの住民が立ち退きを余儀なくされます。高齢者の多いこの地域の住民に無理を強要するものです。人格的な生存、健康にも重大な影響を与えることになります。
   都市計画法は、健康で文化的な都市生活及び機能的な都市活動を確保すべきこと等の基本理念を定めていますが、本件の道路建設事業は、このような基本理念に真っ向から反するものです。そして、都市計画法の求める都市の健全な発展と秩序ある整備とは到底言い得ないものです。本件事業の違法性はこの点からも明らかです。
   裁判所がぜひとも住民の訴えに真摯に耳を傾けていただき、私たちが指摘した問題点や実態に迫る真理を実現していただくよう求める次第です。

私は、多分、周辺住民になって、環境が悪くなるだろうことが予想されるのだけれど、母が一番問題にしていたのは、40年以上前から計画があったにもかかわらず、住民には何も知らされていなかったことなんだよね。その間に、家を建てた住民は、てっきりずーっと住めると思っていた。この地に足をつけて暮らしてきた。土地ではなくて、そのことが財産なんだよね。で、高齢になってどこかへ越せ、と言われても、もうやり直しのできるエネルギーはないのだよ。私ですら、子育て期を終えてしまって、小平に新たに友達作り、地元作りをしようとしても、なかなか。それを高齢者に強制するのは、本当に無理。今住んでる近辺に住み替えといっても、土地代が高すぎて、手が出ないのが現状のようよ。
   それと、これを読んで気づいたのが、自分が納税者でもあるということ。府中街道の渋滞はわかるけれど、多額の税金を使って、車にとって便利にしていいのだろうか?これからの日本のことを考えたら、エネルギーの喰わない交通手段にとって便利な交通網を考えるべきでは。車に乗る人が多少不便を感じるくらいの方がいいのではないかとも思う。新しく作る道路は自転車と歩行者専門だけの道路にしちゃえばぁ。
   もう一つ、「勇気を持って」って、言葉。裁判所は行政とは3権分立のはずなんだけれど、勇気を出さないと、住民側の立場に立った判決ってできないの?アメリカにも行政にも弱いなんて、困っちゃうねぇ。勇気もだけど、憲法を尊守して、先のことを考えて、まともな判断が下せますように、です。3人並んだ裁判官の真ん中の人が話をしていたのだけれど、堅苦しい感じではなかったよ。気さくな感じ。期待できるかな?

国分寺のグループとは初対面だったけれど、裁判が終わってから、待合室でお話を聞きました。「都との対決にわくわくしてます」との元気なお言葉。いいですねぇ。みなさんほとんど年配者なのに・・・その心がけ、見習わなくては・・・





No.29

これからの日本の座標軸

  りっちゃん
08/3/20

著者は品川正治さん。

この本は、戦後(23年)の一年間、新制中学2年生を教えた著者が、もう一度「社会科の授業」をしてほしいと乞われて始まった講座を載録したもの。あの頃の教育は輝いていたねぇ。私の出た都立高も、モザイク制・指導教官制があり、先生も生徒も真剣に学んでいたし、学ぶ自由もあり、理想もあった。その名残りしか味わえなかった私には、「どの生徒の顔も学校で学べる愉しさに活き活きと明るく、知識への渇望に目を輝かし、新しい日本の未来、平和に生きる期待に全身の歓びを表わしている姿を目にして、私は心から感動して教育に熱中しました」というのがなんとも羨ましい。

自身も兵隊として戦争を体験し、親・兄弟を亡くした子どもたちを前にして、著者が最後の授業で語ったのが、
  「戦争ほど怖ろしいものはない!
  戦争ほど国民を苦しませ、悲しいものはない!
  戦争ほど世界に不幸を与えるものはない!」
  「戦争を起こしたのは国家だったと思いこんでいた。しかしそれは違うと今は思っている。戦争を起こすのも人間だし、それを許さない、戦争させないのも人間だ、と私は信じている。世の中に紛争の種は絶えないでしょう。世界で戦争の種は絶えないでしょう。民族・宗教・政治体制の違いのために起こる紛争は無くならない、でも、それを戦争で解決しょうとするのも人間だし、武力解決をしないと決めるのも人間です。人間というと抽象的に聞こますが、具体的には主権者である国民、選挙で一票を行使する有権者が決めるのです。新憲法は国民が国の主権者であるとはっきり書いてあります。九条には、戦争は絶対にしないと明言し、そのため陸・海・空軍は持たない、国の交戦権はこれを認めないと、世界で初めて宣言しております。
  君たちはこんな時代、こんな国にめぐり合えたのです。広島や長崎に落とされた原子爆弾の犠牲になった何十万の人々、戦いで亡くなった何百万の人々、いや外国の人々の何千万に及ぶ犠牲の上に生まれたこの憲法の精神を守り、これを実現していくことが、これからの私たちであることを肝に銘じて下さい。」
  (犠牲となった)「その人の分まで頑張ろうとするのが遺された人の役目です。その人たちの悲劇を無にしないというのが、憲法9条の精神です。」
  それが彼の座標軸となっているのだそうです。

この本に書かれている12回の講義は、1991年から2006年にかけておこなわれています。日本の転換期というか、混乱期というか・・・これからの日本の座標軸を見定めたいという、著者の想いが伝わってきます。が・・・実際にはまだまだ混沌ですねぇ。

今までの日本のシステムは、優秀で清潔な官僚陣と優秀な技術を持った勤勉な国民とがあって官主導できたこと。その結果、ほとんどが中流階級という、あまり格差のない経済大国になりえたこと。しかし、唯一の貿易黒字国になったことにより、アメリカにとっての脅威、世界の経済にとっての撹乱要因ともなってしまったこと(これって世界の中の地域格差の問題に直面せざるを得なくなったとも言えるかな)。

日本の経済界で活躍している人だから、分析も提言も重みがあるわねぇ。日本の新しいシステムの模索の段階で、彼が期待した通りにはなかなかならない。かえって、危ない方向へと日本が歩んできたような・・・

「単純にアメリカ資本の欲する資本主義の方を目指すようなことをやれば、単に日本経済のみならず、日本社会が根底から動揺するという警戒心は絶対失ってはならないのです」

「今の日米交渉において、私があってほしいと思う姿は、やはりアメリカの価値と日本の価値とを堂々と論議し合う。どちらかの価値に一元化せよとは言わない。双方の価値があってよいとお互いが認めながらやってよいわけですけれど、少なくとも日本の価値というものを主張できるよう交渉をしてほしい。そのためには日本の経済自身の運営が、アメリカとまったく同じものを追求したのでは駄目です」

世界の変化、要求から、変えざるを得ないという点もあるけれど、優秀な官僚?清潔な官僚?民主主義?・・・中から崩れているものが一杯あるような・・・
  ・企業からの政治献金の問題
  ・形だけの国会尊重(質問も答弁もみんな官僚が書いているんだって)
  ・一票の格差、政治不信

「だれも責任をとらない国ではないのかという感じで、これだけの大国が見られるようになってしまいました」って。経済だけでないよねぇ。じぇーんぶ、と言っていいくらい。

シベリア抑留について、国の「棄兵・棄民政策」の違法性を問う第一回口頭弁論が18日京都地裁でおこなわれたって。映画「蟻の兵隊」もそう。だれも責任をとらないまま。東京裁判はやはり、自分たちでおこなうべきだったと思う。そう、品川さんも「蟻の兵隊」の一人なんだよね。8月15日以降も、「日本軍は重慶政府のために八路軍、共産軍とたたかわされたのです」。品川さんたちもおかしい!と声をあげて欲しいなぁ。そういうことをなおざりにして「一億総ざんげ」で、うやむやにしてきたから、この無責任体制になってしまったのではないかな?

“民主主義をもう一度問い直さなくてはいけないのではないか”
  “アメリカとは何なのだ、アメリカを問う”
  “(経済構造の)改革とは一体何なのか”
  3番目は“誰のための改革”だったのかが国民の大部分にも見えてきたのではないかしらと思うのだけれど・・・アメリカもアメリカ自身が変わろうとはしているけれど・・・一番目はなかなかだわねぇ。

やはり、生活者の立場から、というのと品川さんのがんばってきた仕事上の立場と言うのは、だいぶずれていたのではないか、という感じも受ける。

「経済人として私は自分で非常に深く反省しているのですけれども、この戦後の経済運営に関して、平和憲法を持っている国にふさわしい経済とは何かというのを本当に追求したことがあるかどうか。
  私自身、内心性恨たる思いがあります。」
  経済大国の専業主婦だった私も、経済的には、おいしい所をいただいたのかもしれないけれど、幸福感は薄かったなぁ。経済優先で、夫を会社に取られていたから・・・

「みなさん方のこれからの生き方の一つとして、やはり生活の信条と言いますか、潤い、あるいはものの考え方の基本というか、そういうものの中にはお互いに対する愛情、特に異性との間の愛情というのは、これは人間がこれから21世紀をどう過ごしていくかという、どのような難しい論議があろうとも、私は非常に必要なものだと思います。・・・
  私が先ほどから述べてきた難しい国家とか社会とかという問題、そういうものを見ていく目のいちばん発想のもとにあるのが、やはりどう生きていったらいいのかという、そのエネルギーなのです」。
  いまからでも間に合うのかもしれないけれど、もっと早くに気づいて欲しかったなぁ。

品川さんは、この幸福感のなさを、企業価格と市民価格の差からきていると言っている。土地価格なんか、市民感覚とだいぶずっこけたものね。だから動かない。価格破壊とはこの企業価格が破壊されてダウンしていると説明できるのではないかと。そうだといいけれど・・・今の生活用品の値上げラッシュは、先行きの不安につながっています。

日本の経済的岩盤は、個人の家計の金融資産が1000兆円あるから強いのだ、とおっしゃるけれど、それ、もうハゲタカファンドだか、詐欺だか、色んな方面から狙われているという感じがしているんだけれど・・・たとえば、それをなんか素敵な目的のために投資したとして、儲からなくても戻ってくればいいけれど、どうかな?年金も当てにならないのに?家族を当てにしては悪いでしょ。このあとの年代は、経済大国の恩恵どころか借金王国の後始末に追われそうだから・・・

年収1000万円の人も、負担より受益の方が多いとか。そりゃぁ、借金だらけになって当然かも。だけど、
  国民の金でなく、国民の能力でって訳には行かないのかなぁ。私も働きたいのだけれど・・・

「これからは中産階級を本当に成熟した市民社会するのだということと、それから地方分権は本気でやるのだということをはっきりすれば、国家財政に関してはまったく違った状況が生まれることになるのです」。
  うーん、理屈では協力したくても、貧乏人に「受益者負担」を押し付けられてもねぇ。

いままでのシステムが完璧すぎて、国民がみな満足の状態。「全部が受益者になっている。この受益と負担の関係が明らかにされていない、ということなのです。
  国民に知らされなかったということでもう一つ言えば、奇妙なことなのですが、財政はわざと非常に複雑にしてきているわけなのです。ここ数年はとくにあまり国民に分からせないようにしてきたと思います」。
  納得できるなら、負担が増えても払うのではないかしら?私も含め。

それと、潰すのではなく、活かして欲しいと思うのですよ。品川さんの座標軸にもある“人間の尊厳”ということですかね。

「中産階級の人にもっとよこせ、もっとよこせ、ということを言わせている、政府に要請する姿勢を続けさせています。そういう状況に目をつぶっていて良いのでしょうか。パブリック・公は官が支えるのではなくて、もう民が支えますよ、国は本物の福祉に力を入れなさい、本当に病気で悩む人、病人や高齢者の介護に苦しむ家族を助けなさい、という動きが出てこないとおかしいのではないでしょうか」
  聞きようによっては、この文章は、「本当には」困っていないのに、要求ばかりしている人がいるように取れるけれど、「うーん」どうなんでしょうねぇ。日本では申請しないと福祉を受けられない。行政から「あなたはこの補助を受けた方がいいケースだと思いますよ」なんて働きかけがあるわけではない。熟知した人が不正に要求する場合もあるでしょうけれど、それは詐欺という奴で、一般的にはむしろ知らないで、恩恵を受け損なっているケースの方が多いんじゃぁないかと感じています。それと中産階級でも、困っている人は多いのでは・・・道行く人の表情がねぇ、暗いもの。

悩みや困りごとは、いままでの日本なら家族が支えていた。この講義の期間に、経済だけでなく日本の社会そのものが大きく崩れていっている感じがするのだけれど、特に家族がねぇ。私も「出ちゃった」人なんですけれど・・・友人は相談にものってくれるし、励ましてもくれるけれど、限界はある。「遠くの親類、近くの他人」が、それほど信頼できる関係にはなっていない。公を頼るか、ホームレス覚悟で離婚したものの、公も頼りにはならないねぇ。困ったねぇ。

「“この家のかたち”でいちばん悩んでいるのは、先進国です。
  日本を守ると言うのは、結局、日本の文化、日本の国民の歴史、生活を守るということだ、ということになれば、我々が経済で一生懸命やるのも、何も資産をたくさん子孫に残すために頑張っているわけではない。」
  女の一人暮らしというのは、経済的な要因が大きいけれど、国民が幸福ではない原因は、経済だけではない。ひとりひとりさまざまな問題を抱えているのだと思う。共通する大きな点は「信頼」とか「愛」とかが欠けていることなのではないかなぁ。
  公が隠し事をしないで、“国民のため”“住民のため”に働き、信頼を取り戻して欲しいな。
  私たちも経済力だけでなく、自分の能力を活かしながら、これからの日本を良くするように努力したいな。

で、品川さんがあげた「これからの日本の座標軸」(&私の意見)は、
  @平和主義、私はあくまでもこれは日本の国家目標としてとり続けたいというよりも、むしろさらに明確にしていかねばならないだろうと思います。
  A“経済大国”、アメリカを抜くという目標が果たして国家目標として有効なのか?(→自分たちの幸福感を取り戻すためにも、世界に於ける地域格差を減らす方向に、今までの経験を有効に使うというのではどうでしょうかね)。
  B“中産階級国家”、これに関しましては、私自身は形の上では中産階級国家だけれども、実質的にはこれは作られた中産階級国家と言わなければならないと考えています。
  本当の意味の中産階級国家というのは、中産階級が社会を支える、国を支えるという、そういう形でいわば市民としての中産階級が育ってこなければなりません。日本の場合は、税・財政に支えられた中産階級であり、また公を支え、社会を支える意欲があるかどうかというと、まったく逆に、むしろ“もっとよこせ”と政府に要求する大きな勢力になっている。
  まさに自民党の基盤は、その要求する中産階級の要求に答えるという形で政権が続けられてきた、これをどう変えるかということが、一つあると思います。(→要求したのは、建設土木業であって、中産階級ではないよ。生活者ではないというのかな。生活者からの要求をむしろ吸収すべきだったのでは?)
  C“国土の均衡ある発展”という問題に代表される格差を作らないということに関しては、これはすでに財政がそれを許さないという形で、本当は転換せざるとえないと思います。ただ、非常に難しいのは、いまの公共事業とかを減らしていった場合に、地方はどういうような活力を見出していけるのかという問題を、われわれ自身がやはりはっきり描かなければならない時期がきたのではないのかという、そういう感じがあるのです。(地方でも若い世代が生き生きと暮らしていけるような施策をしないとね。補助金で中央政府の「言うことを聞け!」はもうやめて、地域は地域での発想にもとづき、思いきったことができるように財政的な援助を惜しまない方向でないと・・・)

ということで、また長くなってしまったけれど、ぼろぼろになったとはいえども憲法9条の旗を掲げ、もうしばらく続くであろう日本の混乱期を、何とか生き抜き、その間に、信頼関係を築き、足元から民主主義を創っていかねば・・・ふぇー、難しいなぁ




日本の文化、歴史ともに、もともと平和主義である、というお話を、池上さんから聞きました。講座の打ち上げの飲み会で・・・

日本人なら誰でも好感を持っている人物。まず、聖徳太子は、憲法で「和をもって貴しとなす」と言っています。大岡政談はほとんどイソップ物語の盗用だけれども、小石川養生所をつくったことは事実。誰でも入れて、無料。玉川上水の桜並木も、つくった。ハコモノ行政ではないのです。後世の人の私たちの心と目を楽しませてくれる。大石蔵之介も、悪口を言われない。あの事件は浅野家の塩をめぐる利権争いだった。だから、単なる仇討ではなく、中央政府への地方自治からの抗議だった。江戸庶民は知っていたから協力を惜しまなかった。「なーるほど」ですねぇ。

日本の江戸時代に、ほかのいわゆる先進国が何をしていたのかを考えても、日本は、もともと平和だし、日本人はもともと平和が好きなんです。とのお言葉がとても心強かった。天皇が生き残っているというのも、天皇が偉いんじゃぁなくて、日本人みんなが生かしておいたのだと、日本人みんなが偉かったんだなぁと、あらためて思いました。




日曜日、こげら合唱団で歌ったあと、知的障害者の就職状況についての勉強会に参加しました。横河電機など、障害者を雇う会社が結構いい動きをしているとか。人事の採用者が、自分がとった責任もあって、障害者のいい所を見ようとしてくれるのだそうです。

知的障害者というくくりは、福祉の補助のためであって、障害の種類とはまったく別。ひとりひとりの障害(個性)に対応しなくては。作業所や養護学校の、「絵画」・「木工」・「農業」・「陶芸」などは、現実の就職に結びつかない。たとえば、フラッシュのように記憶をしてしまうのは、障害の結果でもあるのだけれど、それを生かして、+努力で、パソコンでのチェックが、並の人間よりもずーっといい仕事ができるとか。障害者は大切にされ、愛されるだけでは駄目で、役に立つ、必要とされていると感じることで、生き生きできるとか。いい勉強になりました。

障害者のお母さんもいて、就職のための実習先で、表評価と裏評価を貰い、裏は女性社員による厳しい評価で、お金を貰うためにはこんなではいけないと、でもそれが、次のステップのために非常に役立ったとか。自閉傾向の子がさわられるのを嫌がるから、抱きしめたりできない。普通の保育の反対と言う発言に、私も一言、保育者や親にとって、まったく別な人格だということを前提にして愛するということでは、障害児の保育も普通児の保育も基本は一緒。むしろ、障害児の方がはっきり嫌!を言う分わかりやすい。普通児の方が我慢している場合があるのでは・・・と意見を言わせて貰った。それを受けて、先生たちは、養護学校から普通の学校へ行けばいいのにね、だって。親への連絡や報告は、褒めるのではなく、事実を述べるのがいいって。

「道草をしたりという悪いことも含め、うちの子も成長しているのよ」というお母さんの話に、なんか共感と言うか力強いものを感じました。

障害者だって、私たちだって、みんなひとりひとり違う。その能力を育て、活かすことが、「平和主義」とともに、これからの日本の座標軸だと思うよ。日本の資源は人間だよ。ね、品川さん。





No.28

ウリの会

  りっちゃん
08/3/13

3月8日、ウリの会主催のフィールドワーク&シンポジウムに参加しました。そのご報告です。

まずは西国立から立川朝鮮学校への通学路をみんなでぞろぞろ歩きました。帰宅途中の子どもたちが、みんな挨拶をしてくれます。可愛いですねぇ。新潟県栄村の子どもたちも道ゆく人全員に挨拶するそうです。地域で子育てしているから・・・立川に住んでいる人たちにもそういう意識があると嬉しいのですが・・・途中、ウリの会が警察や市役所に交渉して、『ここは通学路』とか『この先学校あり』とかの看板をあらたに設置したのを見せていただきました。でも、校門直前の看板『この先学校あり』は、運転手が見た時には、学校はもう後ろにあるのでは・・・信号から校門までのポール3本設置は大変有効とのこと。ウリの会の皆さん、保護者の方たちの熱心さの賜物ですね。できることから少しずつ積み重ねるというのも大事なことです。

私には、道路というのは、通行するだけのものなのかい?という疑問が常々あるのですよ。昔話で恐縮ですが、池袋の駅周辺には、傷病兵の方が募金箱を持っていたり、靴磨きのオジサンがいたりしました。学校へ通う道には、ごく稀に、子供だましの手品用品(?)を売る人がいたり、車がほとんど通らなかった時代ですから、私たちも、遊びながら帰ったものです。草を縛ったりしませんでしたか?家の周辺では、さすがに大人たちに怒られましたが、みごとな落とし穴を路地に作ったりもしました。磁石をつけたヒモを引きずって、缶や釘を集めたこともありました。考えてみれば、公園なんかができたのは高学年になってからですし、手入れのいい畑なんかに入ったらそれこそ怒鳴られましたから、道路とうちの庭でしか遊べませんでした。だから、今のアスファルトの、通るだけの道路ってなんか違和感があるのよねぇ。人と人との出会いや社交の場でもあったはず、と思うのですよ。

今の子達は、さすがに遊びはしません。車の通行量が多いもの。それでも、おしゃべりに夢中になって、3人横並びとか、特に小学生は、ふざけた弾みに横にひょこっと動いたり、自転車暴走族(会社に遅刻しちゃう!とすっ飛ばして走る時)だった私は、群れを見かけると、なるべく避けて道路中央を走ったものです。

少子化対策のこともあるし、「通学路」というのなら、いっそ、子ども専用道路があってもいいんじゃないかなぁって。第三小学校も近くにあることだし、道路も片道通行だけど結構数があるから、片道通行をやめて、そのうちの一つを通学路(大人も通っていいけど、子ども優先、子ども天国の道路)にしちゃえば、って。そこはアスファルトでなくてもいいよね。土と草の道なら、照り返しもなくて、地域住民にとってもいいんじゃないかなぁ。日本の道路っていつの間にか車にとって便利なものになってしまった。道路行政、なんか間違っていない?大きな通りも、通り抜けられる小さな通りも、歩行者優先道路、自転車優先道路、車優先道路と分けたらいいのにな。それぐらい大胆な道路行政をやって欲しいな。

この間、新聞のコラムに、「歩行者優先なんだから、歩道を走る自転車のベルを鳴らすな。「そこをどけ」というふうに聞こえる。だから私は、意地でもどかない」、みたいなのがあった。大きいベルだと確かにそう聞こえちゃうかもしれない。けれど、狭い車道では自転車は怖いねん。歩道は、段差があったり、でこぼこしていたり、電柱があったり、車の来ないのを見ては車道に、広い歩道でも、向こうから来ない、または余裕を持ってすれ違いできるのを確認しながら走ってます。ベルを鳴らすのは、「ここに自転車に乗っている私がいますよ」というお知らせ。脇によっていただければ、「すみません」「ありがとう」と言ってます。「どいてやらない」はなんだか淋しいですねぇ。正直、そういう人にはいらいらします。でも耳の遠い人もいるし、「歩行者優先」だし、いらいらしながらも、脇を抜けていけるのを待っています。タイミングが悪く、横に動く人もいるんだよねぇ。だから、やっぱりベルは必要。安いので買った小さなベルなら、やさしい音が鳴るので、早め、まめに鳴らすようにしています。お互い、譲り合いの気持で行きたいものです。自分が歩行者の時には、黙ってすり抜けられたら、それも怖いもの。

シンポジウムでは、立川朝鮮学校支援ネットワーク・「ウリの会」、その参加団体、「チマ・チョゴリ友の会」「オッケントンムの会」「八王子助成金を実現する会」「タリの会」(私も会員です)「日野補助金減額に反対する会」「オモニ会」「アボジ会」の紹介、感動的なオモニ・アポジ発言(学校とともに、保護者が子どもたちを慈しんでいる様子がよくわかります。学級崩壊やモンスターとは無縁の世界、公立の教育関係者が見学するといいのになぁ。電車通学やバッシングへの不安、学校として認められてないために自主運営、その経済的負担のご苦労など)、町田朝鮮学校からの報告、ウリの会からの提案、学校からの提案、討論がありました。交流会は、ピー公が待っているのでパスしちゃったけれど、チヂミとかおいしそうだった。キムチだけゲット。

印象に残ったのは、校長先生が誰か(忘れちゃったぁ)に言われたとか、「朝鮮学校の問題は、日本自身がどうあるべきかと問われている問題です」と。だから、「お願いします」ではなく、「一緒にやって行きましょう」なんですよねって。それと、学校として認められていないということが、大きなネックになっている。補助金にしても、資格にしても。外国人学校の先駆者でもあるんですって。子どもの人権、教育権を考えたら、せめて私立校として認めて欲しいよなぁ。民族教育を大事にしているという点はすごくいいことだと思うけど・・・それも含めて、30人学級、先生と保護者の熱心さや相互の連携、子どもたちの素直さ、むしろ学ぶべき点がたくさんあるんだけどなぁ。私立校になれば、日本人の子どもたちも入りやすくなる。朝鮮語と日本語の両方をしゃべれるようになる、朝鮮文化にも親しくなれる。ひとりひとりを丁寧に見てもらえるから、いじめや登校拒否もない。教育課程は日本のそれと同一だっていうから、学校として認可すればいいのに・・・

「ウリハッキョ」(私たちの学校)が、3月29日(土)、午後1時10分開場、府中グリーンプラザ5階、参加費500円で、上映されます。ぜひ行って見たい。主催は、チマ・チョゴリ友の会。当日券もあるそうです。



ハンクネットから、「日本労働組合総連合会(連合)が行っている拉致問題の解決を求め る葉書送付運動に対し、以下のように抗議しました」とのメールも着ている。以下はハンクネットで読んでください。学校とはまったく別なことなんだけれど、ここのところ、一寸サボり状態なもので・・・それにね、拉致問題が盛んな時には、保護者の皆さんが子どもたちの安全のことをとても心配されたそうです。なんか、そういうの聞くと、うるうるしちゃうよ。親心は一緒だもの。それと、そういう穢いことをする日本人がいるっていうのは悲しいね。今の日本が当人にとって、暮らしづらいものがあるのはわかるけれど、子どもたちに八つ当たりなんかするなよって思う。

拉致問題も早く解決して欲しいけれど、それこそ抗議でなく、一緒に協力してできないものかねぇ。日本側の対応は、政治(政党の争い)が絡み過ぎ。連合はいい子ぶりっ子したいのだろうけれど、それって解決にはつながらないよ。

経済制裁も早く解いて欲しいなぁ。ミルクが船で送れないから、輸送料がかかって大変なんだって。日本人の優しさが、半減しちゃう。これって、寄付したいという意志(自由)を阻害してるってことだよ。朝鮮大学の卒業旅行も飛行機になってしまうので、これまた経費が負担になるんだって。納税者の懐を痛めてどうするんだよ、と思うね。教育権への侵害でもあるし・・・「国際人になりたい」という朝鮮大学の学生の夢、大事にしたいと思わないのかなぁ。日本に住み、税金を払ってくれる、バイリンガルの国際人は、日本にとっても必要な人たちなんだと思うけれど・・・





No.27

爺川柳(08・03)

  金太
08/3/12

オバマ氏の  「チェンジ」ヒラリと  交わされて

サブプラが  モノライン乗り  破滅した

百倍の  保障をすると  モノライン
  (自分の資産の百倍も!そんなのあり?)

ランク付け  その会社にも  騙されて
  (実は最大の悪かもね)

カタカナ語  庶民を騙す  手口かな

オートマの  船も車も  事故続く

「あたご」船(ヤマ)  漁船沈めて  知らん顔

防衛相  真相隠して  盾となる

振り込み詐欺集団怒る
   なんでぇ!なんでぇ!国家ぐるみの振込詐欺だ!
   年金から天引きなんてやっていいのかよ!俺たちは1回きりだよ!
   年に6回も振り込ませやがって!こう云うのは常習犯って言うのだ。
    (介護保険、後期高齢者医療保険、65才以上の国民年金、この次は?)

昔と今
   昔「うそつきは泥棒の始まり」
   今「うそつきは大臣の資格」

 昔「姨捨山は無料だった」
   今「姨捨山は有料になる」

都々逸
   漁船沈めて  居直る海自  国のためなら  我慢せよ
   海路陸路も  交通渋滞  そこに割り込む  自衛隊




イージス艦の事件、“国”で一番大事なのは、“国民”なんだよね。それがわかってない人は、「国のためなら、一人や二人のいのちなんて・・・」と考えちゃうんだろうね。そういう発想が許されてしまうと、「もう戦前なんじゃないか?」と不安になる。だから、あれは絶対に許せない事件だよ。今後、どういう罪に問われるか、しっかり注目して行かねば・・・

ほんと、カタカナが多いと、意味がわからなくて、ついていけない感じがする。あいまいにしておきたいから、わざと日本語にしないのかしら?マスコミって。「サブプライムローン」ではなく、「二重詐欺高金利住宅ローンの証券取引」じゃないかな。ローンを借りた人への詐欺、証券を買った人への詐欺。だとしたら取締らないと・・・

笑っちゃっててはいけないのだけど、昔と今では、つい声を立てて笑ってしまいました。金太さん、快調です。





No.26

長屋問答(08・02)

  金太
08/3/12

「サブプライムローン」ってなんだ?

   八公  大家さん!サブナントカはひどい事をやったんだって。
   熊公  なんだ八!またサブのやつ喧嘩か?
   大家  そうじゃないよ。サブプライムローンってアメリカから始まった経済混乱の話だ。
   熊公  な〜んだ、つまらない。ところでサブプラってなんですか?
   大家  サブ(Sub)とは「下の」とか「次の」。プライム(Prim)とは「第一の」とか「主要な」ことを意味する。つまり二の次と言うことで「低所得者向けの住宅ローン」のことだ。問題は、もともと返済能力が低いから返せなくなる恐れがあるからその危険と引き換えに高い金利がふっかけられている。
   熊公  おかしいじゃないか。稼ぎがないのに高い金利って?
   大家  そのやり方が汚いぞ!最初は低い金利で固定し、数年後から変動制の高い金利に移る仕組みになっている。
   八公  それがどうして国際金融事情に影響するのですか?
   大家  貸した金を返済期限前に確実に回収するために、このローンの元本と利息を受取る権利を証券化して売却した。
   熊公  こりゃぁコゲつき間違いなしだ!なんでプロ中のプロが引っかかったのかなぁ?
   大家  そうだ、高い金利が高い配当に変身して人気を呼び、蜜に群がった。引っ掛けるには住宅ローンだけでなく他のローン債権と組み合わせて別の証券に仕立て上げられて世界中にばら撒かれた。
   八公  俺たちには関係ない話だ。
   大家  そうじゃないぞ。「G7」の後、額賀財務大臣は税金を投入して金融機関を助けることを表明している。当然くらしに回す予算は削られる。そればかりでないぞ、サブプライムローンで金融市場から逃げ出した投機マネーはオイルや穀物市場に流れて原油高・穀物高などを起こしている。
   熊公  ところでどのくらいの損失になるの?
   大家  31兆5千億円以上になるとみている。アメリカでは大手銀行シティ・グループ、大手証券会社メリルリンチ、日本では野村證券だ。決算期を迎えて銀行や損保などぼちぼちと漏れ聞こえてくる。その他フランスやドイツなどEU諸国に広がっている。
   八公  俺たちは1日働いてナンボの世界だ。
   大家  資本主義生産は、物をつくって売りさばき元手を引いてその差が儲けとなる。工場生産になると技術の発展に即して設備投資など図らなければ同業者に負けてしまう。その全部が自己資金というわけにはいかない。融資を受けて生産活動が回転していくのだが、金融機関は時間のかかる生産部門より、手っ取り早く儲けようと投機マネー化していることに問題ありだな。
   熊公  なんでその投機マネーを取り締まらねぇんだ!
   大家  フランスやイギリスなどEU諸国では、無法な行為だとして規制を厳しくしているが、アメリカや日本は野放しにしている。その訳はブッシュも投機マネーの相談役になっているし、自民党も政治資金のワイロを貰っているからだ。





No.25

沖縄密約

  りっちゃん
08/3/7

澤地久枝さんの「密約」―外務省機密漏洩事件ーを読んだ。沖縄返還(1972年)の時に私は何をしていたんだろうか?ボーッとしてたんだろうなぁ。「密約」の存在や、「取材の自由」をめぐる論議など、新聞には載っていただろうに・・・沖縄の人が喜んでいるなら、いいことなんだぐらいにしか考えていなかったような気がする。この本を読むと、そんな事では“アカンかったなぁ”と・・・

澤地さんは、「この(外務省機密漏洩)事件にかかわった蓮見さんと同世代の女として、私はこの本を書かずにいられなかった」ので、蓮見さんのことに字数をさいている。でも、副題でもある機密漏洩に目を向けると問題が見えずらくなる。解説の五味川さんが「『情を通じ』たからどうだというのか。子供ではあるまいし、情を通じるか否かは、男女当事者同士の自由意志である」ということで、そっちはまずおいておこう。

沖縄返還と引き換えに、日本が米国に支払う金額が3億2千万ドル。その内訳についての政府説明が、「琉球電力、琉球水道、琉球開発金融の三公社の有償ひきつぎ分・一億七千五百万ドル 米軍基地に働く労働者の退職金など労務費・七千五百万ドル 核兵器の撤去費など・7千万ドル となっていって特に7千万ドルの積算根拠は「高度の政治的判断」ということになっている。」
  その「高度の政治的判断」の中に、問題の400万ドルが含まれていた。

「現地から出されている対米請求は漁業補償、軍用地接収に伴う離農補償、基地公害の補償など広範囲にわたっている」。「政府としては、さまざまな住民の対米請求のうち、昭和三十六年七月一日以降、地主に解放された軍用地に対する復元補償は『米側が補償すべき十分な根拠がある』と指摘して重点的に打診し」、「支払いを求めているもの」が4百万ドル、当時のレートにして、12億3千万円。出処は私たちの税金です。そして、社会党の横路議員が問題にしていたのは、“その分、たっぷり上げるから、現地の住民をなだめるために、表向き、支払うことにしてね!!”という「密約」があったというもの。
  このことは、アメリカの公文書の情報公開でも、裁判ではおとぼけだった証人吉野文六氏も認めていて、現在では周知の事実なんだって。

私たち騙されちゃったのね。
  「沖縄返還にあたって対日支出はしないと議会に約束したという一条を盾にとり、本来支払うべき復元保障(未決済の返還運用基地の原状回復費用)の支出を拒み、日本政府が肩代わり支払いをすることになってからも、議会に対する合理的な説明を必要とした米国側の姿勢に対して、国民の税金の支出にあたって、議会での説明を高度の政治判断を盾に押し切ろうとするあたり、日本政府の政治姿勢は外に向いても内に向いてもずいぶん異質のものを感じさせる。これは知る権利つまりはタックス・ペイヤーに対する政府の義務という感覚が、日本と米国とでどれだけ差があるかということでもある。」

「現実にはどうか。国民の存在が形式的にもせよ重要視されるのは選挙のときだけであって、ほとんどいつも法は無辜の国民を威圧し、あまりにしばしば権力を濫用する者を庇護することに役立ち、行政官僚は常習的に国民をないがしろにし、国民を愚弄することに優越感を覚えるかのようである。
  もし民主主義が国家の基本則であって、みせかけだけのごまかしでないのならば、国民は真実を知る権利があって、当然その権利を実現するための知る努力を必要とする。
  日本では、残念なことに、事は概ねこうはなっていないのである。民主主義はうわべだけのことに過ぎず、国民は知る権利のあることを知らず、知っていても知ろうとする努力を怠っているのが一般である。
  それが、官僚組織がはびこり、官僚意識が優越感を伴っている理由の重要な一つの側面である。
 「密約」に類することは、実際には国民の眼の届かないところで多々行われているであろう。本書の「密約」がたまたま国民の前にクロース・アップされたに過ぎない。防衛問題にせよ、経済問題にせよ、肝腎なことに関して国民は聾桟敷に置かれているのが常である。」

私たち、馬鹿にされているのよ。
  「権力側が外国と重大な密約を行なった。国民は当然知る権利があった。その権利を阻む官僚組織の壁が厚かった。一人の記者がその壁を透して隠された事実を明らかにしようとした。官僚組織内の一人の女性がそれに関係した。事件を簡略に図式化すれば、それだけのこと」の事件だったのに、「被告席に坐るべきなのは佐藤内閣で、裁くのは国民であるべきだった」のに、「「ひそかに情を通じ」云々の起訴状によって、「低次元の性風俗的光景」(司馬遼太郎氏)にすりかえられ」ちゃった。みんなそういうのが好きなんだぁ。やれやれ。でも、目をそらされっぱなしでは、自分たちの暮らしが守れませんよ。税金の使い道を人任せにしてはいけません。よね。沖縄返還をめぐる無駄金は思いやり予算や、米国への貢ぎにつながっています。昨日、日本の低金利はマネーゲームの金持ちの金儲けに役立っているって聞いたよ。それって本来こつこつ働いて貯めた私たちがもらうお金じゃないかい? おいおい!! そして、ことはお金の問題だけじゃぁない。

「日米安保条約にはじまる日米間の「密約」の堆積。国家機密の壁によって阻まれ、主権者が知り得ず、したがって論議はなされず、効果的な反対表明もない長年月の結果がいま、事実として日本の主権者に課せられつつあるのだ。
  この本で私は政府の対米「密約」と男女関係との比重の倒錯、本質のすりかえを初心者らしいしつこさで追求した。当時、「氷山の一角」という認識はあったが、かくされた全容が、主権国家であることをゆるがすほどのものであること、憲法とくに第九条改変へ向かわざるを得ない本質をふくむことまで考え及ばなかった。」
  私たちの命まで、政府は米国に差し出すつもりかも。核、ほんとに撤去したのかなぁ。あ・や・し・い。なにせ、米国>日本国民が大事というのが日本政府の体質だもの。

裁判所の文章もわかりづらい。国民に理解させないようにとの意図もあるのかな?とにかく、一審での判決は、西山無罪。「請求権財源の日本側肩代りはないと断定するには、「合理的疑惑をぬぐえない」」、「沖縄返還をめぐる外交交渉の経過そのものは、国公法によって保護さるべき秘密であった」、「報道機関の公共的使命に奉仕して公益をはかるという積極的意図はな」かった蓮見さんは、国家公務員法違反で有罪。二審では、憲法21条の尊重を謳いながらも、「秘密」や「そそのかし」の定義をごちゃごちゃと言いおって、結局、「憲法第21条との関連において「そそのかし」行為を限定し、取材の枠を広げたかにみせながら、ここまで読むと、合法的に国家秘密へ近づく道はすべて封印されていることを感じる」という内容。で、西山有罪。最高裁にいたっては、「棄却」。三権分立なんて建前だけだねぇ。一審が中では一番まとも。

今年の2月20日、違法な逮捕・起訴で名誉を傷つけられたとして、元毎日新聞記者西山太吉さんが国に損害賠償と謝罪を求めた訴訟の判決が東京高裁であったそうな。敗訴。そして28日に上告。また、門前払いとなるだろうけれど、国民への周知(情報公開)義務をおこったっている政府の代わりに、頑張っているんですね。

蓮見さんについては、ゴミ箱のチェックをしていたと読んだ所で、“はぁ?”だったから、澤地さんが“有能な働いている女性”とみなしたのが間違いだったと私は思う。働いている女性もいろいろ。専業主婦もいろいろ。稼いでいるから、しっかりしているとは限らない。西山氏によると、『あなたのために良い子になりますよ』と言ったとか。そう、『あなた』というのは、簡単に変われる。坂田弁護士(=雇用者でもあった)、検察、政府。力の強いものに簡単に従っちゃう人は、男女を問わず、いるって。自分を持たない人なんだろうなぁ。最終的にどっちが幸せかはわからない。蓮見さんの人生は、蓮見さんが選択するものだから・・・彼女の役割によって、国民が『性風俗的光景』に目をそらされたとしても・・・「裁く」ことはできないと思う。ただ、澤地さんが彼女に手紙を出したことに、私はやさしさを感じて嬉しくは思うよ。





No.24

龍平さん動いてます

  りっちゃん
08/3/5

3月2日の龍平国政報告会の報告が遅くなりました。「結婚しました。でもこれオフレコね」だったものでって、私のお怠けもあって・・・

薬害肝炎訴訟の緊急行動については、さまざまな党の議員が参加してくれ、これからも横のつながりに期待できること。全員救済については、当人のように血友病患者や、わたしの母のように輸血によるC型肝炎患者の救済にまでいたらなかったことが報告されました。何千人だっかな?またあらたなリストを、田辺三菱製薬が隠し持っていて、厚生省に渡っていたことが、三浦和義のニュースに隠れて紙面に載らなかったことも・・・巧みな情報操作が行なわれているって。

余談ですが、三浦逮捕について、どうして最高裁が抗議しないんでしょうねぇ。日本の司法関係者も。「日本でもう無罪判決が出ているだから、余計なことするな!!」って。これもアメリカ追随政策なんでしょうか。ちなみに、これは「裁判員制度」と「共謀罪」の宣伝もかねているという話も聞こえてきています。イージス艦も遺体が発見されないままで捜索打ち切りになりましたねぇ。やっぱりなぁ。

「無所属だと何もできない」ということはないそうです。保坂展人さんなんかは、同じ社民党の人と入れ替わって、いろんな委員会で質問をしているそうですが、議員なら誰でも質問主意書というのを提出できるそうです。鈴木宗男さんが一番多いそうですが、龍平さんもアスベスト対策、仙台地下鉄東西線建設への補助金支出、そして臨床研究における被験者保護と適正な研究の推進に関する質問主意書を提出し、答弁書をもらっています。コピーが資料として配布されました。
  福田総理大臣というよりも官僚さんが書いているのでしょうけど、論点はずしが上手ですねぇ。東西線では、赤字が予想されるのに補助金出していいの?国民の税金だぜ?ということなのに、その赤字になるだろうという第4回パーソントリップ調査については、内容を把握しているのにもかかわらず、第三回調査を前提にして作成したからいいんだとなっている。第4回調査に基づくのは適切でないって。意味不明。
  他にも「おたずねの○○の意味するところがあきらかでないため」なんてとぼけちゃったり、「専門委員会において、必要と認められる場合には」なんて、自分(政府)の意見はお預けにしちゃったり、文章書くの上手だねぇ。でも医療問題については、再度質問して、龍平さんもしっかり食い下がっているから、多少(少々?)答に変化が感じられるよ。動けば変わる。龍平さん、議員としてしっかり動いています。

薬害肝炎については本来は政府がやるべきだったけれど、議員立法、つまり行政府でなく、立法府が動いたということ。そして、新しい法律がとおるために「必要なことってなんだと思います?」と参加者へ質問。みんな真剣に考えて、「世論の形成」「内容の審議」とか答えたけれど、なんのこっちゃない賛成議員の数。つまり、どんな法律であれ、人数さえいれば通っちゃう。ふあ〜、小泉と安陪の時におかしな法案がいっぱい通っちゃったものねぇ。

で、ねじれ国会の参院では、民主党が議長を除きぎりぎりの半分。つまり、他の野党と協力できない時には、無所属にお声がかかるんですって。だから、結構、貴重品?。ただ、「永田町には悪魔が住んでいる」という言葉があるそうで、そういう数の論理に慣れると怖い、とも言ってました。参加者の一人に「先生」と呼ばれて、「先生とは呼ばれたくないんです」とも。そう、議員先生にはならないで欲しい。「龍平さん」がいいよ。

龍平さんの話が長くて、参加者からの質問が短くなってしまった。「臓器移植」、「薬事審議会について」「カルテを自分持ちに」、「核燃料サイクル」、「後期高齢者の保険制度」、「地域格差、世代格差」、さまざまな質問がでました。
  臓器移植については、今のままだと弱者が臓器を奪われてしまうので、一応保守的な立場にいたいと。薬事審議会には、被害者も一人加わり、失敗の例も公開すべきであると。企業秘密が多すぎる。国が「自己責任」というのはいけない。国がやるべきことがある。経済効率や市場原理主義から離れた生き方、考え方をしたいとも。すべてオールマイティでやりたいけれど、自身の健康のこともあるし、たくさんの人(議員仲間、若手の意欲的な官僚も含め)の手を借りたい、皆さんと一緒にやって行きましょう、と。

で、答えきれないことに、「命を大事にしていきたい」「みんなが生きるって楽しいと思えるようにしたい」と締めくくった時には、うっすら涙が見えたような、って、私自身、うるうるしちゃったのですが、結婚されて、さらにいのちの重さを実感されたのかなぁと・・・

三多摩の他の場所で、また開かれるそうだから、ぜひご参加下さい。名前は硬いけれど、国会がどんな所で、どんな風に龍平さんが動いているのかが良くわかるから・・・身近な問題はすべて政治と直結しているんだ。で、政治をもっと身近なものにしようよ。自分たちの暮らし、もっと良いものに変えていこうよ。“Yes,We Can”は、アメリカだけじゃぁないよ。





No.23

歴史とはなにか

  りっちゃん
08/3/4

著者は岡田英弘さん。ユニークな見方でなかなか面白いけれど、「普遍的」って難しいねぇ

著者によると、「直進する時間の観念」「時間を管理する技術」「文字で記録をつくる技術」「ものごとの因果関係の思想」の4つがそろうことが、歴史が成立するための前提条件だそうな。

で、インド文明には、輪廻転生の思想があるから、時間がくり返されてしまい、歴史のない文明と断定。イスラム文明も「イン・シャー・アッラー」で、因果よりも神の意思尊重だから、基本的に歴史はない。ただ、地中海文明の国々に対抗するために、文字で書かれた記録があるとする。アメリカは歴史を否定して憲法で作られた国。中国には歴史はあるが、司馬遷が創った「史記」で、「武帝こそ正統の天子」という観念がその後の歴史書にも継続され、停滞する歴史となったと言う。

マルクス主義の歴史観、発達段階説が時代区分に悪影響を与えた、とも。経済の仕組みによって政治制度が変わるというのは、わかりやすいようだが、非現的だ、とも。マルクスが言っていたのが誤りであるのは、イギリスに革命がおきなかったことで立証済みと思ってはいたし、ソ連なんかは、マルクスの革命と違ったとは思うけれど、ソ連の崩壊で、一党独裁は結局つぶれるとほとんどの人が了解したんだと思うけれど・・・世界の変化は偶然の事件の積み重なりによって変化しだのだというのはどうかなぁ。それって、歴史から学んで、未来をよりよくするための人間の叡智とか努力というものまで否定することにならないかなぁ?

時代区分は、「むかし」と「いま」という2分法で、13世紀のモンゴル帝国から世界史がはじまるとする。現物交換または金本位から、不換紙幣にかわり、信用取引が行なわれたからだそうだ。現代は、二つの革命が起こり、政治形態が劇的に変化した19世紀からだそうだ。

世界史なんて、すっかり忘れている私としては、単純で判りやすいねぇ。「国民」とか「国家」なんて概念も「国民国家」ができてから、とかいうのも「なーるほど」だし、何で国民国家が流行ったかと言うと、徴兵制導入で強い軍隊が持てたからとか、最初の歴史書なんて、自分の国の君主皇帝を正当化するために書かれたものであって、それが本当のことでも、歴史でもないと断定している所がすっきりしてていいや。

でも、歴史へのロマンを期待する一般人には一寸淋しいやね。「草原の香り」がするから、『元朝秘史』に書かれているのは全部本当のことだと信じちゃうモンゴル人の学者には親しみが湧くよ。学者としては困ったものかもしれないけれど・・・

どうもね、著者は自分は『よい歴史』を書ける「普遍的個人」と思っているようだよ。「国民国家」というのが観念上のものとすれば、「普遍的個人」もそうで、下手すれば、「独断」や「偏見」になりかねない。難しいやね。

朝貢について、あれは中国皇帝に対しての個人的プレゼント。宗主国との隷属関係ではなく国内向けにそうであるかのように宣伝したものと説く。でも、まず、個人的プレゼントってことはない、権力があるからプレゼントが有効なのだから・・・後者についてはどうもそうらしいとは思う。だって、韓国・朝鮮の人たちが、秀吉の朝鮮出兵や第二次大戦の日本の侵略には「恨」を抱くのに、中国に対してはないもの。

だから、「朝貢」をしていたからと言って、朝鮮や韓国が日本にコンプレックスを抱いていると言う説も矛盾しているということになる。相手がコンプレックスを抱いていると言う場合、たいてい自分の方が気にしていると言うことなんだけどなぁ。で、この方の場合、神話を歴史でないと断定しているにもかかわらず、「天皇陛下が姿をあらわせば、それは日本の歴史そのもの」なんて言うんだよねぇ。生き延びたから偉いって、みんなそうなんだけれど?私が生きているってことは、天皇の神話時代にも私のご先祖も生きていたって訳で。ただ、私たちにはそこまでの記録が残っていないのと、ほかの国では、多分君主さんは、政治的経済的権力も握っていたから、殺されることが多かったけれど、天皇家は、それほど権力なかったからねぇ。著者は天皇の周りに文明もあったと言うけれど、各時代の文化は時の権力者によるもので・・・まぁ。珍しい存在ではあるけれど・・・友達はパンダみたいと言っていたよ。それも天皇に気の毒ではあるけれど・・・日本を代表と言われてもねぇ。他に一杯あるじゃん。日本のいいところが・・・

もう一つ、矛盾しているのが、隣国との歴史のつき合せについて。「歴史というものは、それぞれの政治権力の中心で書かれるものだ。権力の正当化が歴史の本来の使命である」「国民国家の垣根を越えた共通の歴史認識を持つということが、いかにむずかしく、危険なことであるか、本当に理解しているのだろうか」って。でも、結語では、「長い目で見れば、「よい歴史」には効用があるはずだ。・・・文化の違いや個人の好みを超えて、また書かれた時代を離れても、多数の人を背得できる力が強いということだ」とも書いているんだよね。長い先を見越して、まずつき合わせてみればいいじゃん、と思うね。今、無理に一致させる必要はない。いつかは、国民国家の枠が外れるだろう。

著者も言っているけれど、国民国家はそろそろ限界。戦争がたくさんの一般人の犠牲を伴うものになってしまったからね。戦争をするための国民国家はもういらないというふうになるだろう。EUができたのもその証左と言っている。1999年のユーゴスラヴィアでの件で、「介入したとしても、いったいだれに、国家を立ち直らせる責任があり、国民を再組織する権利があるか、ということが問題になる。そういった国民国家の破綻が、すでに世界の各地ではじまっている」ともある。アメリカの介入で、ごちゃごちゃになった国が一杯あるものねぇ。国連も手出しができないくらいに。だれが責任をとるんだぁ?

もう一つ、アメリカ合衆国憲法の民主主義についても、「神の前に平等に作られている」という前提が大うそだって。フランスの「平等」も偽善だって。
  「われわれ一人一人が経験で知っているとおり、人間というものは、生まれながらにして不平等なものだ。生まれついての能力にしても、育った環境にしても、みんなそれぞれ違う。それなのに、民主主義の制度は人間はみなそれぞれ、自由な意思で決断し、自立的にふるまう能力を持っている、ということを前提にして、作られている。現実には、大多数の人間は、自分がしていることも自分でわかるだけの頭もなく、自分の生き方を自分で決めるだけの強さもない。つまり民主主義には向かない。」
  オホッ、説得力ある発言。でもね、動物の中で見たら、何の特別な能力も持たないという特殊な動物なんだよね。そのかわりに、考える、努力する、工夫する、成長するという能力を持っている。他の動物と比べたら、人間同士の差なんてたいしたことないよ。確かに生まれながら不平等だよ。ジェンダーもあるしねぇ。だからこそ、民主主義の理想、憲法上の理念、国民とのお約束を大事にしていかないといけないんじゃないかな?

今晩、NHKの「民主主義」という番組を見た。「民主主義の膝元でテロ撲滅の美名の下“拷問”が容認されるのはなぜか?アフガニスタンで、テロリストと疑われ捕えられ、死亡したタクシー運転手の事例を軸に、アフガニスタンやキューバのグアンタナモで“拷問”に関わった調査官、被害者へ取材、またアメリカの政策決定者への取材を重ね、拷問現場の証拠写真で構成する番組」。これが、アカデミー賞の長編ドキュメンタリー映画賞だって。アメリカはひどいこともしているけれど、ちゃんと批判するエネルギーも自由もある。そこがすごいね。さすが民主主義の国ではある。ブッシュ政権の言う「民主主義」は大嘘だけどね。

学者として、途中までは、柳田国男とおなじように、言葉の語源を丹念に拾っている。だけど、結論がねぇ。飛びすぎで乱暴。柳田さんの謙虚さがないねぇ。「と思います」じゃなくて断定しちゃうから・・・「普遍的学者」とは言いがたい。でも、個人的考えを遠慮なく言っているあたりが、一面的だけど鋭いとも、面白いとも言えるかな。

餃子事件での中国側がやけに「自分の国に過ちはない」と言うのも、歴史的な癖なのかもね。「一応建前上言ってみた」くらいに聞いておいたほうがいいかも。国内自給率を高めると同時に、食材はともかく製造はほかの国でやるとかってことになるのかな。それとも中国が真相を見つけるか。どっちが先になるでしょうか。私は50%引きの冷凍食品、水餃子を買ったばかりです。食材はどこかわからないけれど、製造会社は国内でした。安全性も大事だけれど、安さ、便利さも捨てがたい。





No.22

安保条約解消

  りっちゃん
08/3/2

「安保条約 一回解消したら?」。本当にそう思う。発言の主は、かの石原都知事。おっさん、いいこというやんけ。3月1日の東京新聞、石原都知事会見ファイル。

「米軍横田基地の問題で軍民共用化推進セミナーを開催します。ただ、この交渉過程で痛感したが、特に米側の軍人は「横田はわれわれの太平洋戦争の遺産だ」というとんでもない話で、沖縄で起こした忌まわしい出来事をながめても、一回安保条約を解消したらいい。必要だと思ったら結び直す。地位協定をパリティー(双務的)なものにしないと、こんな問題は後を絶たない。」

先日も「アメリカに守ってもらっている」という人と激論を交わしたのだけれど、アメリカ軍は、アメリカのためにあるもの。決して、日本を守るために日本にいるのではない。私自身は、必要なかったと思うけれど、冷戦時代には、たまたま、仮想敵国が、日本政府のそれと一致していた。しかし今、アメリカにとって日本、特に沖縄・中国地方の基地が必要なのは“不安的な弧”に攻撃するためであり、世界一の好戦国であるアメリカの仮想敵国は無数といっても良い。基地を提供している日本にとって、それは非常に危険この上ない状況なのだ。日本の国民には、戦争を好んでいるものはいないし、イラクやアフガニスタン、イランやパレスチナを攻略したからといって、何の国益にもならない、というのに。

反対に、米軍基地があるという理由のほかに、日本を攻撃する目的なり、利益を得る国もない。いいか悪いか、特に資源というものがないから・・・日本の資源といえば、人材ではないかしら?他にある? 今起きている紛争や戦争は、すべて資源がある国で、しかもアメリカが介入して起きている所ばかりではないのか?

「太平洋戦争の遺産」。そう、まだ占領している気分なんだと思う。事実、石原の空港問題のページにある「横田空域」を見たって一目瞭然。関東〜日本海までの空はアメリカのものになっている。冗談じゃぁない。日本は独立国にならなくては・・・横田基地の軍民共用化は、これ以上の騒音や危険性を考えたら、賛成とはとてもいえないし、石原は「有事の際は軍用として」なんて、憲法違反の主張だから、その先は一致してはいないけれど、とりあえず、いちど安保条約は解消してみようよ。





No.21

政策活動の原則と市民の参加

  りっちゃん
08/2/29

もう最終回。まずは復習。中央政府の政策は、抽象的・一般的であり、どこにも適応できると同時にどこにも適応できないということ。例えば、大潟村では、連日の吹雪。気候がこれだけ違えば、具体的政策はその地域にに委ねるしかない。(大潟村は、今、米価の暴落で大変なんだそうです。生産価格の75%の値段になっているとか。4、50軒が離農を考えているとか。お米の自給率がまた減っちゃう!!)

だから、地方自治体の活動の原則として、
  近接性の原則・全権限性の原則・補完性の原則・自主財源保障の原則がとっても大事なんです。

個人の日常生活の場により近い所、市町村最優先、都道府県優先で、現実的な政策活動や事務の権限を任せる。憲法が定めるすべての基本的人権を住民に保障するために、すべての権限能力を。どうしても実行困難(または不適切)な場合には、市町村にとって実行困難(不適切)な事務を都道府県が、都道府県にとって実行困難(不適切)な事務を中央政府が補完する。でも、近接性の原則を前提としてだよ。それに法の下での平等もだよ。で、その実現のためには、財源がきちんとないとね。第一には住民の負担によるけれど、その収入の大小は、その地域の経済的事情がある。特に、大都市への経済力の集中と、農林水産業政策の失敗によって、地域間の経済格差は深刻。今までの利権がらみの補助金で、地域の自主的な力を弱めてきたというのが大きいからね。これからは地域経済の民主的な再建が重要であり、そのためにも、国税から地方税への財源移動、地方交付税制度などの財政調整制度の確立などの税財源制度全般にわたる本来の意味での「三位一体改革」が求められている。「その地域の努力が足りない」なんていうのは、間違っているって。もちろん努力は必要だけれど、格差がひどすぎるもの。システムが悪いんだよ。

事務の共同的処理(例えばゴミ処分場とか病院とか)にも、期待できるそうです。ギャンブルのなんか、会議が15分で後は宴会なんていうのも実際にあったそうだけれど、例えば、木曽福島の林業組合が呼びかけて全国森林組合連合会ができて、校舎の立替が木造で行われるときには、地元の木材を使うよう要請受理されたそうだよ。ちなみに、鉄筋コンクリートの耐用年数は50年だって。鉄筋が酸化始める理論的数値が75年で、安心できるのが50年。阪神大震災で気がついた人が多いって。ふーん、この家、築40年は経っている。アメリカで築100年以上という家にお邪魔したことがある。しっかりしてたよ。
  「自治体間競争」ではなく「自治体間共同」こそが求められているそうだ。うーん、なるほど。日本の農林水産業、頑張れ!! なんかできるかもしれないぞ。

以上の原則や制度を地方自治体の日常的活動において実現するためには、団体自治を支える自主立法権、自主行政権、自主財政権、自主組織権の保障が不可欠である。

地方自治体は、中央政府から独立した権能を持つ政府組織であるが、しかし、国家としての立法行為とそれに基づく国家的行政の展開は、中央政府の責任である、その結果は、住民生活と地方自治に大きな影響を及ぼすものである。だからね、干渉されたり、住民や地方自治体にとって悪影響を及ぼすような立法や政策、憲法の目標をないがしろにするようなことについて、中央政府のあり方を正すための権能を有するものである、って。岩国の場合はひどいよねぇ。意見と言うより質問したら答えないで補助金カット。少女暴行事件なんかも、地位協定の見直しを言えば、「地方は軍事のことに口を出すな!!」と言われたとか。地域の実情に中央がちゃんと耳を傾けないと、日本は良くなりませんよ。中央と地方は対等の関係なんです。本来は。

軍事といえば、イージス艦の話も出たよ。自衛隊員なら、人命救助の訓練も当然しているはずって。そういえば、そんな話、新聞に載っていなかったよなぁ。まだ見つからないって、不思議だよねぇ。泳げない私ではなく、海の男達なんだから、海に放り出されてもしばらくは泳いでいたろうし、北海の海ほどは冷たくもないから、心臓発作でということもないだろう。イージス艦の乗組員たちは何をしていたんだろう。人命救助じゃなくて証拠隠滅を計ったりして、報告遅れの一時間のあいだに・・・ミステリーの本に囲まれているりっちゃんは、つい想像をたくましくしてしまう。被害者側の目撃証人がいなければ、自分たちの証言だけしかないもの。あ・や・し・い。

政策の政治・行政分野的展開では、大まかに議会、企画・管理、保健医療、社会福祉、教育・文化・スポーツ、環境、インフラ・都市計画、防災、安全・防犯、産業・経済、総合的な政策展開、選挙・住民投票・監査・直接民主主義など十二分野に85項目は最低必要。憲法、法律、基本条例、個別基本条令、個別条例、規則、要綱などに相互矛盾が起きないよう、法の管理も必要で、法務課があるべき、それも弁護士が必要だろうって。なんだか頭痛くなりそう。それだけでなく市民生活的展開、生活を守る、この町をどう作っていくのか、という観点も大事にとのことでした。

住民参加の発展ーその背景では、今まで専業主婦の住民参加が多かったが、その間“定時性住民”(昼間はお仕事)だった男性が、団塊世代の退職によって、活躍を期待される。そこで気をつけないといけないのは、住民参加できる人は、経済的時間的に余裕がある人だけで、できない人の意見をどうくみ上げるかという問題があるということ。また、行政・政策過程では、“住民にとって知らないことは権利にならない”のであるから、どの政策でも広報宣伝を充実させること、例えば目の悪い人への点字とかテープでとかの工夫が必要。財源については消極的では駄目、必要な出費をまかなうために、どの法律を積極的に使えるか、寄付は当てになるか、いろんな方法を考えること。

美術館をつくるという例では、建物なんかはあとのこと、まずは絵画購入のために、学芸員が必要。まずは人材なんですねぇ。給料+購入費、10年位かかるって。いつも同じのばかり展示するわけではないから・・・それに安いのばかり買っても人は来ないよって。碌山美術館は一万人の寄付でできたそうだよ。それで町は観光地になっているって。もう一つの例は、香りの公園。目の悪い人にも来てもらえる公園のアイディアを募ったら出てきたんだって。季節ごとに香りの植物を入れ替えるだけだから、そんなにお金はかからないし、目の悪い人だけでなくみんなが喜ぶよねぇ。

池上さんは中高一貫教育はよくないって。段々と社会性をひろげるために、小学校、中学校、高校と順に広がることが子どもたちにとって大事なことなんだって。そういう意味で、統廃合に反対して頑張っているところがあるそうな。子どもは地域社会で育てるんだって。栄村もそうだけれど、学校の行き帰り、通りすがりの人にもきちんと挨拶をするんだって。お互いに。みんな知っている同士でもあるんだけれど、子どもは、親だけのものじゃなくて、地域社会の宝物でもあるんだね。

市町村は何でもできるんだ、ともおっしゃっていたよ。裁判所と警察は別だけどって。村立高校だって、北海道の真狩村にある。農芸化学科の真狩高校。21、22世紀になっても自分の村は農業で行くしかない、ならば担い手を育てるようって。お隣にもニセコ町立高校がある。その心意気がいいねぇ。

日本にとっても、地域にとっても、一番大事なのは、人間なんだなぁと、確認できて、なんだか嬉しくなっちゃった。





No.20

どうしゅおう!!道州制

  りっちゃん
08/2/21

なんて駄洒落を飛ばしていた池上さん。でも、お話を聞いていたら、背筋がぞっと・・・

これは最後の質問で出たのだけれど、時代的に先ず廃藩置県。目的は江戸時代を忘れさせようということと、「富国強兵」の中央集権体制を整えるため。明治4年7月には302あったものを、11月には72に、明治22年には今の47都道府県と同じになっている。反乱を恐れて旧藩主は東京へ集められたそうだ。華族制度などというと体裁いいけれど、ようは武士階級の失業ですね。大変だったんだなぁ。

で、地域の拠点として、5万の小学校が作られた(江戸時代の寺子屋も5万あったそうです)。同時に講堂も造られた。村人を集めて、イデオロギー教育をするために。明治23年には教育勅語なるものも出てきます。有効活用されていますねぇ。講演も音楽も芝居も何でもできる多目的ホールは、ヨーロッパにはないそうです。オペラはオペラハウスで、コンサートはコンサートホール。私たち合唱団が出演するときには反響板をつけますが、それも日本独自だそうな。な〜るほど。

最初に道州制が登場したのは、田中義一内閣のとき。政友会が地方分権を重要政策として掲げ知事公選を標榜した。これに対して内務官僚が公選知事に国の事務、特に警察を任せるわけにはいかないと企画。次のは1942年。真珠湾攻撃の翌年です。池上さんは「対アジア太平洋戦争」とか言ってたな。日本は42カ国を相手にしたんですって。馬鹿だねぇ。で、目的は戦時諸国策の敏活強力な徹底。各種特別地方官庁乱設の弊害、「中央行政機構を簡素協力化」・・・天下り先の独立行政法人の整理とか、「小さな政府」とか、聞き覚えありませんか?って。今とおんなじ。

このときはやばかった。「本土決戦」を想定、県知事などへの指揮監督権、罰則付命令の制定権、出兵請求権なんてものもあったそうな。まじに国民皆兵。女性も、男性は60歳までだって。事務体制が整わないうちに敗戦を迎えたそうで、ああ、よかったぁ。

戦後すぐにもあって、これはGHQが批判。でも官僚はしつこい。1957年岸内閣の時には公法学者が結束して反対。その後も、官僚はしつこくしつこく提案している。第28次地方制度調査会「道州制のあり方に関する答申」2006では、
  2(1)国のかたちの見直しとして位置づける
    「国の役割を本来果たすべきものに重点化して、内政に関しては広く地方公共団体が担うことを基本とする新しい政府像を確立することである。このことは、国家として対応するべき課題への高い問題解決能力を有する政府を実現する方途でもある。」
  と書かれている。これは=国家改造計画だって。そう、住民のことも、地方自治のことも触れていない。

2005年の御手洗ビジョンについては、「住民の監視と選択により」って、広すぎたら、そんなことできないでしょ!!って、そうだよなぁ。提案されている自治体の規模がね、ヨーロッパの国の人口と比較して5倍、アメリカとでも倍以上。今ので大体同じくらい。

まあね、見えちゃうわね。
  @戦争国家への構造的制度改革 →統制しやすくする。
  A市場原理型社会へ →新自由主義を徹底するには、マーケットの拡大をしたい。行政単位が大きければ開発もできる。しかもリスク対策(財政的担保が取れる)も万全。って、そのお金、私たちが払う税金なんだけれど・・・ →もう、新自由主義が破綻するのは、アメリカ見てればわかるでしょうに!!
  B憲法改正 →そんなに戦争をしたいのかねぇ。

背景として、@東アジア共同体プランとその主導権争い、A中国、インド、ASEANの経済成長、B日米同盟の環境変化、があるとか。つまり国民生活のことなんかやってる暇はないってさ。イージス艦が漁船にぶつかったってねぇ。国民の命を粗末にして、なにが“守る”だよ!! 守るのは、自分たちの儲けじゃないのかい?

小平市でも国民保護計画とやらがあるようだよ。多摩の中でもいちばん小さい国立市の場合、市民7万人を避難させるのに26時間かかるって。テポドンが到着するまでに「ゆっくり飛ばしてねぇ」と金さんに頼むのかしら?って、漫画チックだって池上さんが言ってた。でも、国家体制のもと地方自治は停止されちゃうとも。そんな漫画チックなことを考え、実際に計画を立てるなんて、税金の無駄遣いであるとともに、その狂気が怖い。ね、背筋がぞっとするでしょう?





No.19

地方財政

  りっちゃん
08/2/21

池上洋通氏の「地方自治」講座。三回目。まとめが遅くなりました。

先ずは、憲法第30条【納税の義務】国民は、法律の定めるところにより納税の義務を負ふ。
  これは主体的義務というんだそうです。国が「おい、こら、金を出せ!!」っていう意味ではなく、主権者の主体的意思にもとづいて、必要な財源を調達し、管理し、使用するのが財政。ラクビーで言われるという“ひとりはみんなのため、みんなはひとりのため”っていうことなんだろうな。一人一人が幸福になるために、すべての個人の基本的人権を実現するために、必要なお金をそれぞれみんなで出し合うということにわたしたちが決めた、ということです。池上さんが言ってたよ。障害者の人から「所得税を払いたい」と聞いたって。私もだよ・・・タバコ税と固定資産税だけでなく、まともに働いて、ちゃんと所得税も払いたいんだけどなぁ。病気もあるけれど、それ以前に年齢と経験の無さでなかなか適当な職が見つからない。悲しいよ。でも、大金持ちの中には、スイスの方が安いからとか、半年外国にいれば日本には払わずに済むからとか、「どうやったら払わずに済むか」って工夫している人が増えている。持っていると心が卑しくなるんだねぇ。おカネって。ンー、もしかしたらまともに働いていないのかもしれないね。そういう人って。働ける喜びを味わっていれば、それをみんなにも分け合いたい気持になるのでは・・・と思うんだけど・・・

財政は、「財政権力作用」(歳入部門)と「財政管理作用」(歳出部門)とに分けられるんだけど、管理といっても、一人一人が幸せになるために有効に使われないとね。熊しか通らない道を造ったり、福利厚生費のあまりでカラオケ装置を買っちゃったり、「おい、おい、そんなことに使うくらいなら、自殺を選ぶ人の生活保護を打ち切るなよ!!」と思うよ。そのおカネで何人の命が助かることやら・・・

憲法第7章 財政(抄)
  第八十三条【財政処理の権限】国の財政を修理する権限は、国会の議決にもとづいて、これを行使しなければならない。 →「財政立憲主義」「財政議決主義」
  第八十四条【課税の要件】あらたに租税を課し、または現行の租税を変更するには、法律または法律の定める条件によることを必要とする。 →「租税法律主義」「租税法定主義」
  第八十五条【国費支出と国の債務負担】国費を支出し、または国が債務を負担するには、国会の議決に基づくことを必要とする。 →「国費支出承認主義」
  第八十六条【予算の作成と国会の議決】内閣は、毎会計年度の予算を作成し、国会に提出して、その審議を受け議決を経なければならない。 →「予算審議議決権」「決算審査承認権」・・・「単年度会計の原則」

この単年度会計というのが、重要なんですって。身の丈で賄うってこと。みんなから集めたお金を一刻も早く還元する必要があるし、また先の代の分まで使い込まないようにってこと。それと財政独裁主義を排除することもできる。でもねぇ。私、のんきで知らなかったよ。もう地方債を発行しているんだねぇ。地方財政法のなかで(第○○条の△)と、三角の数字がついているやけに長ったらしい条文は、地方債のためにあらたにくっつけたものだそうだ。原則をどんどん壊しちゃっているんだねぇ。

財政民主主義 歳入
  @租税法律主義
  A応能負担の原則
  B財政状況の報告など、財政情報公開の原則
  C割り当て的寄付金募集の禁止、負担転嫁の禁止
  財政民主主義 歳出
  @目的外支出の禁止・・・守屋の汚職なんかがこれだそうで、ミサイルの価格、イギリスと日本ではとんでもなく違っていたんですって。
  A適正支出の原則・・・これには即時性の原則も含まれる。社会福祉なんて、対象者が求めている時に対応しないとね。北九州市の自殺者なんかだと、亡くなってから「あなたは生活保護を受けられます」って言ったって、何にもならないでしょ!! その通りであります。
  B効率性の原則・・・この効率性は、儲けるためではもちろんない。一人一人の基本的人権が守られるために、みんながどれだけ笑顔でいられるかってこと。「安物買いの銭失い」。出すときにはちゃんと出す、必要なことをケチっては駄目。1、正しく対価的に。2、時間的にも適正に。3、無駄(浪費)を防ぐ。
  会計上の原則
  @単年度会計の原則
  A各年度会計の独立
  B予算法定(条例)主義
  C債務例外、積立金例外の原則

格差が広がっているのにびっくり。池上さんによると、格差社会は地域格差だと。自治体別の納税者一人当たりの平均所得格差の推移という表で、1999年には差額が530万だったのが、2004年には736万円。最大所得が947万、最小が211万。ゲーッ。こんなにも違うのかぁ。行政サービスがもっとも必要な地域は、収入も極度に少ないということになる。それで、「地方交付税制度」というのが重要なんですねぇ。

国税のうち、所得税酒税の32%、法人税の32%(平成12年度から当分の間35.8%)、消費税の29・5%、タバコ税の25%、を財源とし、自治体間で税の再分配をおこなえば、公平なサービスが受けられるということですね。計算方法も教わりました。必要な経費を細かくきちんと計算して、積み上げる。それが基準財政需要額。法定普通税(普通とは普遍という意味だそうな、具体的には大まかに市民税と固定資産税)×0.75に細かいのを足したのが基準財政収入額。で、足りない分がほぼ、地方交付税になるとのことです。確認のために再度書くけれど、これは国から貰うのではなくて、はなっから、地方のためのお金。分配や管理を国にやってもらうだけ。

でね、都の税徴収をする職員がすごく優秀なんだって。各市の国民健康保険料滞納者の差し押さえをするのに、それぞれの世帯の生活をきちんと調査して(やっぱり生活困窮世帯が多かったようよ)、必要なら、生活保護を受けさせ、多重債務者のサラ金への過払いがある場合は、その過払い金、つまりサラ金から差し押さえたんだって。市の方は保険料をもらえるし、それぞれの世帯もニコニコできるということに。これこそ効率が良かったんですねぇ。石原都政もやるじゃん。優秀な人材を、人員削減していないからできたことだもの。放言はともかく、この件に関しては偉い。

そういうふうにするためにも、調査するということがとても大事なんだということでした。住民の生活が見えるためには、適正な規模、小さな単位の行政がいいんだね。自転車に乗っていた知的障害者が警察の暴行にあって、亡くなったという事件があったよねぇ。あれだって、警察官が顔見知りならありえなかったものねぇ。通勤するいつもの道なんだもの。

収入を増やすために工場誘致はどうだろう?との質問がありました。池上さんは、大型スーパーなんかを誘致したら、地域の商店がシャッター街になってしまう。税金は本社のある地域に落ちるし、雇用も非正社員だけ。収入につながらないことが多いから、よおく考えるようにと。非正社員が増えていることについては、@労働能力が蓄積されない。A希望が持てない。その結果、人間の連帯が損なわれる。犯罪が増えたり、家族が壊れたり・・・増えてますよねぇ、家族間の殺人。B民間委託などの安上がりの方法では、市民の経済力が落ちて、公共的サポートがますます必要となり、あげく、地方の財政を圧迫。

100年後、どういうふうな形であるべきか、あり方が物質的・経済的に描かれるのが財政、だそうです。

ちなみに、先進国はどこも農業国だそうです。日本を除いて・・・。フランスは食料自給率240%。さらに、若者が農業につけられるように、380万円の補助金を出しているそうです。いいねぇ。日本でもやればぁ。引退した人がふるさとにUターンって話は聞くけれど、年寄りばかりの所へ準年寄が帰ってもねぇ。若者が行ってこそ、力になる。都会で引きこもっているよりもずーっといい。少子化対策にもなる。そういうことにはバーンとお金を使ってよ。





No.18

デッドアイ・ディック

  りっちゃん
08/2/20

ヴォネガットさんを2冊続けて読むとさすがに消化不良?盛り沢山過ぎて、一寸散漫に感じました。スローターハウスのあとに読んだせいもあるのだろうけれど・・・

まずは銃規制の問題。これは殺された身重の女性の夫メッツガー氏が正解を書いています。

〈わたしの妻を殺したものは、どんな人間も決して手にすべきでない機械です。それは火器と呼ばれています。それは人間のすべての願望の中でもっとも邪悪なものを、即座に、遠くからかなえることができます――つまり、なにかを殺そうという願望を。
  それが邪悪というものです。
  わたしたちは、人類がつかの間にいだく邪悪な願望をとりのぞくことはできません。しかし、その願望を実現させる機械をとりのぞくことはできます。
  これがその聖なる言葉です――武器を捨てよ〉
  でも、アメリカでは銃規制が進まないねぇ。また新聞に載っていたよ。銃乱射して自殺とか。

警察官によるリンチ、虐待

12才で父親から銃の管理を任され、その夕べ実弾を込めて、なんとなく撃ってしまったルディ。その弾が誰かを貫くなど考えもせずに・・・父親は、裕福で変わり者、戦争中はさすがにひかえていたものの、それまではヒトラーと付き合いがあったことを公言していたから、反発を感じていた人も多かったのだろう。その心理はわかるけれど、12歳の子どもの顔に黒のインクをつけてさらし者にするなんて・・・
  「このすべては、合衆国憲法の権利章典への明らかな違反だった」
  後の方で―「クー・クラックス・クラン」の名前も出てくる。これもアメリカの伝統なんでしょうか。

人種差別

ルディが入った留置場にいた黒人の女性が言うには、人生とは、のぞき穴が開いた状態とか。生まれた時に、「こりゃ黒人だ。運の悪い子だ」という声を聞いたそうだ。生まれた時からハンディを背負ってしまうってつらいねぇ。

人間の残酷さ

「『ローマの礫刑』は、題名どおりローマを背景にしている。・・・なんという楽しさ。
  ただ、その絵をよくよく見ると、六十八人のうちの二人が、あんまり楽しそうではないのに気がつく。その二人は画面の左下隅に位置していて、構図の残りの部分と調和をたもってはいるが、実は十字架にはりつけにされたばかりなのだ。
  この絵は、穏やかなものにはちがいないが、人間の、ほかの人間に対するお祭り気分の残酷さをついた短評だと思うーその残酷さは、ジョン・レティグにとっての現代にもつづいていたのだ。
  この絵は、前に見たことのあるピカソの『ゲルニカ』と、大ざっぱにいっておなじテーマだと思う。」

子どもへの無関心・虐待

ひどいことをされたルディへの父母の反応の鈍いこと。子どもへの無関心。そしてルディに“デッドアイ・デック”という名前をつけた警察官は親から虐待を受けていた。虐待の連鎖も問題ですねぇ。

トラウマ

子どもの時のトラウマで、ルディは、人と関わることができなくなります。性的にも。職業も父親の勧めに従って薬剤師になります。才能があると言ってくれた先生にも心を開かず、書いた戯曲が第一席となり、ニュヨークで公演されますが、大失敗。理由はニューヨークでは“デッドアイ・ディック”ではなかったから・・・トラウマって、尾を引きますねぇ。いつまでも。

そのニューヨーク、グレニッチ・ヴィレッジでホモがたむろしているのを見て、ルディは想像します。「いつの日か、われわれすべての中性は、隠れ場所から出てデモ行進をするだろう。先頭の一列が掲げる横断幕の文字はegregious “群れの外にいる”という意味だそうな。
  「考えられますか――何万人もの人間が群れの外にいるところが。」ヴォネガットさん流の皮肉ですねぇ。

文化の違い

この本には、幽霊も登場します。死んだ人間を生き返らせる能力を持ったイポリット・ポールが好意からシリア・フーヴァーの幽霊を墓の中から呼び出してあげようと、申し出て、ルディの兄と言い争います。フェリックスからすれば、誰が幽霊に会いたいものか!!狂人ではあるまいし…という所。
  「これが二つの文化の衝突でなくてなんだろうか」
  象徴的過ぎるかもしれないけれど、現実にも一杯ありそう。交流すれば理解しあえるとは思うけれど・・・

薬物依存

シリアはフェリックスが通っていた高校一の美人。貧しい環境に育ったため教養に欠ける。また、そのことを充分自覚していた女性。フェリックスが家に連れて行ったとき、「こんな顔はかきむしってめちゃくちゃにしてしまいたい」といって靴を残して家に帰ってしまった。ルディの父母が大雪のため入院したときにはボランティアの看護婦。夜はYMCAで勉強をしていたが、外側を飾って中身のない〈シュークリーム〉と揶揄されていた。薬物依存のため、魔女のように醜くなる。自殺。葬式で、フェリックス号泣。

買春

12歳のルディに、父親が現在も買春していることを告白。後にルディはその行為について「恥ずかしげもなく」と表現。そう、恥ずかしいことと認識していただきたい。

親子の断絶

ルディには子どもはいない。フェリックスには、これから生まれる所。メッツガー氏が子ども名義で買った土地はディズニー・ワールドとなり、一人はタンカーの船主。一人は馬主。メッツガー氏は売れない新聞を発行し、子どもたちは彼と口をきかないと弁護士ケッチャムは言う。そのケッチャムの子どもも、彼とは口もきかず、一人はベトナム戦争中にスウェーデンへ脱出、アル中患者の世話をし、一人は、アラスカで溶接工をしている。シリアの息子は、父親の経営する店のピアニスト。母親をひどく憎んでいる。

人生論

ルディによれば、人生の中に物語とエピローグがあるとか。物語の最中は暴れ馬の背に乗っている気分?
  「父は英雄的なほど気高く誠実にふるまった。父は階段から突き落とされた――まるで生ごみかなにかのように。
  そのとき、どこかにこんな文字が現れてしかるべきだったのだ。
  完
  なのに、その文字は現れなかった。だが、物語としての父の人生は、どのみち終わっていた。残された年月はエピローグ――行き当たりばったりの収集品、ガラクタの詰まった箱やビンにすぎなかった。
  これは国家にもあてはまるかもしれない。どの国家も自己を一つの物語と考えているのかもしれない。そして、物語は終わったのに、国家はまだ続いていく。ひょっとすると、物語としてのわたしの国の一生は、第二次世界大戦の直後、世界一金持ちで強い国になり、ほかの国にはない原子爆弾の威力で世界中に平和と正義を確保しようとしていた、あの時に終わったのかもしれない。
  完
  フェリックスはこの仮説がたいそう気に入っている。フェリックスにいわせると、物語としての彼自身の人生は、NBCの社長に就任し、全国十大ベストドレッサーの一人に選ばれた時に終わったのだ。
  完
  しかし、フェリックスにいわせると、彼の人生の最良の部分は、物語よりもむしろエピローグだそうだ。こういうことは、きっとよくあることにちがいない」
  ルディ自身については、
  「わたしが自分の人生の物語という暴れ馬の背から下りたのは、シリア・フーヴァーの葬式のときだったと思う――ハレル氏が公けの場で、遠い昔にわたしがエロイーズ・メッツガーを撃ち殺した罪を許したときである。もしそのときでないとすれば、それから数年後、母がとうとう放射線のマントルピースに殺されたときだろう。
  私は、母と父の人生をだいなしにした償いに、母にはできるだけのことをした。このときから、母はもう個人的な奉仕を必要としなくなった。一件落着。」
  と書いている。だとしたら、エピローグの方が自分のために生きられる本当の彼自身の人生ということになる。自分らしく、自分のやりたいことを、自分の好きに、自分のテンポで生きられるのがエピローグ。物語はない方がいいかもね。だから、
  「こんなに大ぜいの人が、自分たちの人生をりっぱな物語にしようとつとめるのは、よくないことかもしれない。結局、物語というものは、西部の酒場によくおいてある機械じかけの暴れ馬とおなじように、作り物なのだから。
  そして、国家が物語の登場人物を気どるのは、それ以上によくないことかもしれない。
  たぶん、国連本部や、大小、あらゆる種類の議事堂の戸口の上には、こんな文句を彫っておくべきだろう――〈物語を中に持ちこむな〉」
  さりとて、ルディの父母のように、何もしないで、幽霊のように生きるのも良くないねぇ。自分から動かなくては・・・
  私は?努力中かな。シリアの勉強と同じにあがいているだけだったりして・・・

女性問題

「ここ最近、大ぜいのアメリカの女性が口にしている不満は、煎じつめればこういうことではないかと思う――彼女たちは、自分の人生が物語としては不充分で、エピローグばかり長すぎることに気づいたのだ。」
  女性も生まれた時からハンディを背負っている。一部女性の活躍で脚光を浴びる人もいるけれど、自分なりにやってそうならいい。もっと活躍して、とも思うけれど、なんだか廻りの男性社会に利用されているような人もいるからなぁ。名誉と地位と金持ちになるのが物語なら、私はエピローグで充分。夢とか理想は持ち続けていたいけれど・・・

中性子爆弾

人間だけを殺傷し、インフラを残す目的で開発された。その発想が怖い。こんなものを考える人間にとっては、自殺してくれる人が増えることはもちろん、ベルトコンベアー式の死刑制度も大歓迎なんだろうなぁ。世界では、死刑制度廃止の方向に進んでいるのだが、わたしの国では、どんどん執行されている。「おんな組いのち」は、いのちを大事に思う人の集まりです。「国家を超えたいのちの絆の構築と、暴力に対する毅然とした拒否を」あはっ。私はそんなに強くないけれど、戦争は嫌!!

ヴォネガットさんは、アメリカが好きだから、病んでいるアメリカをなんとかならないかと警句を発しているのだと思う。それにしても問題山積みだねぇ。日本も他人事ではない。資本主義が限界に来ているのかもしれない。物があふれていても心は豊かにはなれないのだ。第一、お金がないと買えないしねぇ。みんながニコニコできる暮らし、「シャングリラ」は、自分の住んでいる町に造らなくては・・・





No.17

スローターハウス5

  りっちゃん
08/2/15

カート・ヴォネガット・ジュニアさんの名作です。

ドレスデンの空襲のことを書きたかったけれど、すごく書きづらかったんだと思う。時間をいっぱい費やし、書いては破棄し、お酒もいっぱい飲んで、忘れたいこともあったんだろうと思う。重いよね。きっと。だから、〈電報文的分裂症的〉にならざるを得なかった。

捕虜生活とドレスデン空爆のほとんど実話に基づく話(時折、作者自身も登場)、地球での裕福な結婚生活を描いた話、そして、トラルファマドール星での檻の中の生活の話。それらが時間を勝手に飛び越えて、主人公ビリーに迫る。私たち読者にも。

トラルファマドール星人は言う。「テストパイロットが新しい燃料の実験で始動ボタンを押したとたん、全宇宙が消えてしまう」「彼は常にそれを押してきた、そして押しつづけるのだ」「時間はそのような構造になっているんだよ」「今日は平和だ。ほかの日には、きみが見たり読んだりした戦争に負けないくらい恐ろしい戦争がある。それをどうこうすることは、われわれにはできない。ただ見ないようにするだけだ。無視するのだ。楽しい瞬間をながめながら、われわれは永遠をついやす」「いやな時は無視し、楽しい時に心を集中するのだ」

トラルファマドール星人の言うとおりなら、反戦をいくら訴えても、未来を変えることはできない。ビリーが父親を亡くした子どもに「お父さんは生きつづけている」と慰めていたが、生まれた瞬間になくなった赤ん坊の場合は、いつまでもそれをくり返さねばならない。そんな人生つまらないよ。やはり未来には可能性があると信じなければ・・・

でも、人間って不思議な能力を持っている。本当に嫌なことは忘れてしまえる。特に自分が加害者であった場合は・・・日本人だって、原爆投下は忘れないが、「南京大逆殺」「731部隊」「慰安婦」「沖縄戦での集団自殺強要」これらを何とか否定しようと躍起になっている。自分を正当化したい、その気持は理解できなくもないけれど、現在や未来の空爆をやめさせるためには、なんの力にもならない。トラルファマドール星人の言うように、悲劇の時がいつまでも繰り返されるだけだ。

普段、安逸な生活を送るビリー。ドレスデンの空襲は自分の国とその友好国のしわざであることを知っていて、何も語ろうとはしない。車のドアをたたく黒人を無視する場面が印象的。信号が変わったからごく自然にスタートさせただけ。彼に悪意があったわけではない。でも、無視。そう、ビリーの裕福な生活においては、それが当たり前といえる。「ドレスデンの空襲」のこと、ベトナムの北爆のこと、息子がベトナムで戦っていること。考えたらつらい。無視する。それがいちばん楽。それでも別にとりたてて理由はないのに、泣いてしまうのはなぜ? それはビリーが人間だから・・・優しさのある人間だから・・・

トラルファマドール星での生活も、地球での生活に似ている。地球の家具、電気製品付き。美人と一緒の夢のような生活、食べ物にも不自由がない。それでも動物園の檻の中。「自由がない」などと不満さえいだかなければ、「結構な暮らし」と言えなくもない。

この本は、メアリ・オヘアとゲルハルト・ミュラーに贈られている。メアリは、戦友であり、のちにドレスデンを再訪する時も一緒だったバーナード・V・オヘアの妻。

彼女は言う、「あなたたち赤んぼうだったじゃない」。オヘアやヴォネガットの子どもたちと同じくらいの年齢で、実際戦争にかり出されたのだ。彼らを捕まえたドイツ兵は10代前半と書かれている。いつの時代も、同じだ。戦争賛美の本や映画に反発をいだくメアリーに「子供十字軍」と言う名をこの本につけることを約束する。「子供十字軍」。実体は当時のストリートチルドレンを北アフリカで売るために組織されたものだった。ごく一部のみが、運良く、ジェノヴァの善良な市民に助けられ、故国へ帰ることができた。ジェノヴァの市民も、組織した修道士らも、・・・・・・人間なんだなぁ。

ドレスデンの空爆についての記述は少ない。何しろ米軍の捕虜は頑丈で広い生肉貯蔵庫にいれられたから・・・逃げまどった経験はないのだ。交代で帰った見張りの兵やうっかり戸を間違えて裸を見てしまった少女たちの死が想像できるだけ。

「あくる日の正午まで、防空壕のそとに出るのは危険であった。アメリカ人捕虜と警備兵がようやく地上に立ったとき、空はまっ黒い煙でおおわれていた。太陽は、針の先ほどの怒れる光点であった。そこに見るドレスデンは、鉱物以外に何もない月の表面を思わせた。岩石は熱かった。近隣の人びとはひとり残らず死んでいた。
  そういうものだ。」

一面の焼け野原は、私が母から聞いた東京のそれと変わりないものだったろう。

人の命の重さに変わりがあろうはずもないが、これが身内の犠牲だったなら、人に感動を与える文章を書きやすかったのかもしれない。「長崎の鐘」ジーンと来ちゃうもの。それに、彼の小説は「お涙ちょうだい小説」ではないからねぇ。

空襲の悲惨さは、死体の発掘作業中のバラと芥子ガスのような臭いに表れている位。むしろ、戦争の不条理(こっけいさ)に字数が割かれている。

道化者のような格好の捕虜ビリー、ご馳走を食べて下痢をした作者、戦争中には泣かなかったビリーが馬の怪我を見て泣く場面。窃盗容疑で銃殺されたエドガー・・・
  戦後、ヴォネガットの問い合わせに「その情報は現在もなお極秘事項」との空軍広報課の返事。「秘密? 何をいってやがる――いったいだれに秘密なんだ?」
  空爆について書くとヴォネガットから聞いた人が、強制収容所の話をする。ドイツのしたことを非難すれば事が終わるかのように。
  『ドレスデンの壊滅』と言う本の序文には、「わたしが理解に苦しむのは、敵国の民間人の死を嘆くイギリス人やアメリカ人が、残忍な敵との戦いで生命を散らした、味方の勇敢な飛行棟搭乗員に対しては一滴の涙も流さないことである」。「戦時下においてはよくある悲しいできごとのひとつであった。決定を下した人びとは、決して邪悪でも残酷であったわけでもない」。

でもねぇ、ドレスデンでも東京・大阪の空襲でも、高温の火がどのように作用するかを知っていて効果的に、しかも、住民が逃げられないように周りから爆弾落としたって、何かで読んでいる。原爆の開発の全容なり目的が当事者に秘密だったように、ボタンを押した人は、邪悪ではなかったかもしれないけれど、計画を立てた人は、悪魔だねぇ。でも、またその悪魔も人間なんだなぁ。で、悪魔もボタンを押した人も、その結果を直視しようとはしない。その悲惨さを忘れてしまう。言い訳だけを記憶して・・・

そんな人間もまるのまま見えていて、しかも憎めない作者は、こうつぶやくしかない。世の中とは〈そういうものだ〉。悲しみと諦めと皮肉と「これは決して正義ではない」マークが入り混じっているせりふ。それがあちこちに出てくる。
  書くのがつらかったんだろうなぁ。で、

サム、こんなに短い、ごたごたした、調子っぱずれの本になってしまった。だが、それは、大量殺戮を語る理性的な言葉などなにひとつないからなのだ。今後何もいわせず、何も要求させたいためには、ひとり残らず死なねばならない。殺戮が終わったとき、あたりは静まりかえっていなければいけない。そして殺戮とは常にそうしたものなのだ。鳥たちをのぞいては。
  鳥はなんというだろう? 殺戮について何かいうことがあるとすれば、それはこんなものか、
  「プーティーウィッ?」
  わたしは息子たちに、どんな状況にあろうと殺戮には加わらないように、敵兵殺戮のニュースがはいっても喜んだりはしゃいだりしないようにと言いきかせている。
  またわたしは息子たちに、殺戮機械を作るような会社には勤めるな、そうした機械が必要だと考える人々は軽蔑してよいとも言ってきた。

これは本音だね。

本人からするとこういう風にしか書けなかったのだろうけれど、ゴタゴタした調子ぱずれの感じが、ヴォネガットさんらしさにもなっているし、ビリーや作者の苦悩が仄見える効果となっている。また、解説めいた、グチめいた第一章が、小説本体と絡んで面白さを増している。なるほど、ビリーの奥さんのチョコレート・バー好きは、モデルがいたんだぁ。

もう一人の献呈者、ミュラーさんはドレスデン再訪のときに仲良くなったタクシーの運転手。後に手紙で「偶然の気まぐれにより、私達がいつかまた平和で自由な世界のタクシーの中で出会う日が来ることを心から待ち望んでおります」と手紙をくれた人。

作者も書いているが、「“偶然の気まぐれにより”というところが実にいい」のだ。それがあっての人生。そして、東ドイツにあったドレスデンは、「東西ドイツ統合後、歴史的建築物の再建計画が一層推進されつつある」(Wikipedia)そうな。





No.16

今、私たちの世界で起きていること

  りっちゃん
08/2/14

転送・転載歓迎のメールが来ました。面白そうなので行ってみようかなぁ。

JVJAオープントーク
  今、私たちの世界で起きていること
 
日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)

JVJA会員の取材報告だけでなく、取材の「途上」で、あるいはまた、編集の過程で考えたこと、悩んでいることなども、率直に出しあい、会員自らの向上も図る面を持つ、「公開報告・学習会」を、毎月開きたいと考えています。JVJA会員だけでなく、ジャーナリズムに、そしてJVJA会員の取材テーマなどに関心をお持ちの市民の方々のご参加をお願いいたします。

なお、基本的にJVJA事務所での開催となり、スペースが限られております関係上、事前のご予約が必要です。開催日時、報告者(あるいは学集会座長)、テーマなどは、JVJAのホームペ ージ、JVJAのメーリングリストにてお知らせします。 定員になり次第、締め切らせていただきます。

第1回 「大津波と紛争」インドネシア・アチェの現在

2008年2月16日(土)
  【時間】 15:00〜17:00
  【場所】 JVJA事務所(千代田区神田淡路町1-1-12,静和ビル2B )

  【参加費】 1,000円
  【予約お問合せ】 JVJA事務局 090-6101-6113 office@jvja.net

アチェ 残された子どもたち
  豊田直巳

22万人の死者を出したスマトラ沖大地震と大津波。あれから3年、16万人もの人々が犠牲となったアチェは今、道路や水道などインフラの再建、16万個の復興住宅の建設など市民生活の再建が進んでいる。しかし、私の再会したアマちゃんもイクバルくんも、そしてアビルくんやイルマンちゃんも、親を、家族を失った子どもたちの心に負った傷が今でも癒されないように、暮らしも再建されたというには程遠かった。彼、彼女たちの夢や希望がかなえられる日が来るのには、まだ時間が必要だ。オープントークでは、私たちとアチェとの関わりについても、少し振り返りたいと思います。

津波から和平へ
  野田雅也(JVJA事務局)

津波被害の直後も続いていたアチェ紛争。地球規模の自然災害のなかで、 人間同士の争いはあまりにも愚かに映った。05年8月、インドネシアからの独立を求めて闘っていた自由アチェ運動(GAM)とインドネシア政府が和平に合意。30年近くも続いた紛争に終止符を打つことができたのは、皮肉にも、津波被害によって“世界の目”が向けられたからだった。
  武器を棄てた元ゲリラ兵、紛争トラウマを抱えた被害者たち、そして新しい社会を築こうと模索する人びと。紛争と津波被害というふたつの苦しみから、アチェの人びとが願いそして求め続けてきたものは何なのか?

(アクセス)
  JR中央線・総武線 御茶ノ水駅聖橋口 徒歩5分
  丸ノ内線/新宿線をご利用の方は地下道を通り、千代田線方面へ
  東京メトロ千代田線 新御茶ノ水駅B3出口 徒歩1分
  東京メトロ丸ノ内線 淡路町駅B3出口 徒歩3分
  都営地下鉄新宿線 小川町駅B3出口 徒歩2分)

『消される歴史の現場から』 〜JVJA 沖縄現地報告〜

【日時】  2008年2月23日(土)
  【時間】  開場15:30、講演16:00〜18:00
  【場所】  明治大学リバティータワー 地下1001教室

  【資料代】 1,000円
  【共催】  現代史研究会/日本ビジュアル・ジャーナリスト協会(JVJA)
  【お問合せ】 JVJA事務局 090-6101-6113 office@jvja.net
  ※先着順に受付。定員(266名)を超えた場合は会場収容人員の都合により、ご入場を制限いたします。あらかじめご了承ください。

なぜ、今、沖縄なのか?今も、なぜ、沖縄なのか?そんな疑問を10年以上持ち続けてきた。なぜ、0.6%の国土面積の沖縄に、在日米軍基地の75%もが日米両政府によって押し付けられてきたのか。10数万人の民間人を含む、沖縄戦の犠牲者24万人の名前を「平和の礎」に刻んだ沖縄。繰り返される在沖米軍兵士による暴力犯罪の数々に、1995年、8万5千人が県民集会で日米政府に抗議した沖縄。日本初となる1996年の県民投票によって、「基地はいらない」と県民ぐるみで声をあげた沖縄。それらの一切も無視するかのように、軍事基地は維持され、米兵による犯罪が続き、そしてさらなく米軍基地の強化が目論まれている沖縄。
  その沖縄を、さらに辱めるかのような文部科学省教科書検定の「歴史の隠蔽」。それに対して昨年9月には、11万人余の老若男女が県民大会で抗議の声をあげ、そして今も、怒りの声をあげ続けている沖縄。私たちは、その声を聞く「義務」がある 。

(司会進行) 豊田直巳
  (報告)森住卓/山本宗補/國森康弘

ヤンバルの森から「集団強制死」の現場へ
  森住卓

強制集団死の体験を語る、島人の涙と額に刻まれたシワは、消えることのない深い傷を物語っている。愛する妻を、我が子を。兄弟姉妹を自らの手にかけ、自分だけが生き残ってしまった苦悩。真摯で愚直、故に苦しみ続けた63年間。「天皇の軍隊」の命令がなければ起こらなかった。あのことが歴史から消し去られようとした事を知った、体験者たちは重い口を開き始め、狂気の時代を語り出した。今、再びあの時代に戻してはならないと。

沖縄戦からは国民を棄てる軍隊がよく見える
  山本宗補

八重山諸島の戦争マラリアで家族16人を失った女性、伊江島の壕での集団自決を運良く生き残った男性、投降しようとしたら日本軍の将校に「国賊」と罵声を浴びせられ日本刀で斬りつけられた男性など、沖縄戦を生き残った島民の戦争の記憶は一人一人の脳裏に深く刻まれている。日本軍の存在が住民を死に追いやった沖縄戦。敗戦間際、日本軍によって満州の荒野に切り棄てられた満蒙開拓民27万人のたどった惨劇。軍隊は誰のために存在したのか、共通項を考えてみたい。

「日本兵が語る沖縄戦」〜歴史認識の空白を埋める〜
  國森康弘

これまで語られることがあまりなかった、「元日本兵による沖縄戦の証言」を集めた。沖縄県民12万人(一説には15万人)以上、沖縄県外出身の日本兵約6万6千人のほか朝鮮人や台湾人、米兵ら多数が亡くなった沖縄戦。そこでは、集団自決の強要をはじめ“スパイ容疑”での処刑や壕の追い出し等で、住民の多くが日本軍により死に追いやられた。では現場にいた日本兵はあのとき、どのような意識に基づき、どんな行動を取っていたのか―。また、60余年を経た今日、沖縄住民に対して何を思うのか―、なぜ今当時を語るのか―。元兵士達の証言は、その時代時代の政治力学によって右往左往する”歴史認識”の現状に、重い一石を投じる。


ピー公が前日怪我をし、留守をさせるのに気がとがめながらも、予約しちゃっていたので行ってきました。事務所の荷物をまとめてつくった狭いスペースでのDVD鑑賞会。喫煙場所を教えてもらったり、最初はいい雰囲気でスタート。

津波が道路をさかのぼってくるシーンはテレビでちょっろっとしか見てなかったので、車が何台も巻き込まれて流され人々が逃げまどう映像に迫力があって、交通費+千円の価値がありました。ミニ集会でやっても面白いかもしれない。

津波の後の画像で、日本軍のトーチカがしっかり残っていたのが一番印象に残っている。避難した人たちがいっぱいだったモスクが、背景に白く美しい姿で写っている。不気味なトーチカが対照的。全般的に、迫力もあり、美しい映像もあって、考えさせられる所もあって、映像には好印象。

アチュ独立運動の拠点の村では、銃を持った兵士の足元が映し出された。長靴、サンダル、はだし。ここでも人の命の軽視が現実にある。村の女性がキンキンをいっぱいつけていたのも印象的。本物かどうか質問するのを忘れたが、外国人向けに精一杯のおしゃれであると同時に、資本主義が入っていないというか、全財産を身につけるのが、自分を守るという段階なのかなぁと・・・新自由主義が押しよせたら、ギャップが怖いなぁとも。

現在のアチュのえらいさんが独立運動をしていた人なのに、独立運動を戦っていた人が失業中というのはなんだか変。王様の政権だからかな。本当の意味の庶民の味方ではないのかもしれない。

後半の「その後の孤児」では、孤児をおばさんが育てていたり、義務教育が小学校までで、住宅はもらえたけれど、食うために漁師を始めた孤児にお隣さんが一緒の船で漁具の扱い方を教えてくれたり、津波直後の遺体を運ぶ場面でも相互の協力関係が、いいなぁと思った。日本ではこうはいかないだろうなぁと。先ず、文句ばっかりいう人が現れるのでは・・・

現在、物価は、支援団体が海外から入ったのでひどく上がったとか。それも変だねぇ。NPO関係の仕事に就いた人は収入が安定しているのだろうけれど、去ったあとはどうなるのだろうか。また、今も仕事に就けない人は?

で、話し合いには、ふんぞり返ったオジさんが『おれたちプロなんだから視聴者の心をつかむような視点がないと・・・』なんて偉そうに、抽象論を何回も言うものだから、時間オーバー。ピー公が心配ですっ飛んで帰ったけれど、ああいうのがいるからマスゴミなんだよなぁと・・・

私はテレビをほとんど見ないから、正確には視聴者とは言えないかも知れないけれど、せっかくなんだから、素人の意見を聞けばぁ?と思ったよ。どこにいるかわからない〈視聴者〉よりも、顔を合わせた人から意見を聞けばぁって。

全部で10人+関係者5人位だったかな。若い人が多かった。「トーチカ」「中野学校」を知らないとか。いつの間にか、物知りの準年寄になってしまったことにびっくり。もしかしたら、あの中の最高齢者だったかも。げっ!!





No.15

岩国は負けない

  りっちゃん
08/2/13

10日におこなわれた岩国市長選の結果は、投票率76・26%、井原勝介さん 45299票、福田47081票と、僅差で負けてしまいました。残念だなぁ。

この本は、「週刊金曜日編」。副題は、米軍再編と地方自治。第一章 国の横暴を許すな! では、天木直人さんが元気に発言している。参院選の落選後は、発言内容も、お顔も一寸元気ない様子だったので心配していたが・・・よかったぁ!!

国が補助金を打ち切ったことは新聞を読んで知ってはいたが、その補助金が、市長が問題とした艦載機移駐とは関係のない、普天間基地からの空中給油機12機の移駐にともなうものだったとか。まったく、ゴミの処分場と同じで、「必要だけどうちの近所には持ってこないで!!」的発想の日本人が多い中、沖縄の人達の犠牲を引き受けてくれた偉い市と偉い市長さんではないか。もっとも私は米軍基地そのものが必要ない、安保も必要ない、ましてや、日本の若者に“自分の命を差し出させ、他国の無垢の人達の大量殺戮に手を染めさせる”ことになる米軍再編なんか、「するな!!」と思うちょりますが・・・

しかもその補助金で岩国市は市役所を建設途中。完全な意地悪・嫌がらせ。「ゲームの途中で、自分の都合の良いようにルールを変えた」ということなんです。まさに、去年の文字「偽」そのものです。米軍再編は、憲法はもちろん、安保条約にも違反。これも「偽」。マップには、中国山地で対地攻撃訓練を実施する区域なんてものが書かれている。日本はアメリカと違って、どんな田舎でも人は住んでいる。日本人の命をおびやかすような訓練をして、何処が日本のための防衛だよ。これも「偽」。

米軍海兵隊による少女暴行事件の記事の中で、「まるで植民地」という沖縄県民の声が載っていましたが、基地周辺の安全対策も、米国内とまるで違います。民主主義などほざいていても実質的には、アメリカの「偽」――宜野湾市長の伊波さんが詳しく書いています。岩国での「騒音」データも防衛省の「偽」―岩国市議の田村さんが詳しく書いています。愛の水中花だと、これも「偽」、あれも「偽」、みんな「偽」、きっと「偽」。でございますですねぇ。

米軍再編も怖いのですが、今、みんなにも見えていると思う、地方自治の問題。昨日の病院の赤字についてテレビで報道していたよ。政府が提唱して、補助金が出て、で、病院を改築して赤字が累積。「どうしよう!!」と頭を抱える地方。それに対して国は冷たく「赤字の所は閉鎖か統合」。外注に出すことも検討しているみたいだけれど、ますますワーキングプアが増えるわね。無駄を減らすのはいいことだけれど、何のために公立病院があるのかという基本を忘れてしまっては困る。

井原さんはこう言っています。「岩国で起きていることはあまり全国的に知られていない部分もあるようですが、これは基地に関係のない自治体にとっても、地方自治の根幹に関わる問題です。
  確かに岩国も、沖縄ほどではありませんが、基地に頼らざるを得ず、そこからいろいろな支援を受けてきました。でもその結果、この町にバラ色の未来が見えてきたでしょうか。国の支援を当てにしたがる傾向はまだ根強いですが、そのツケが今、回ってきたのではないか。苦しくても自立して、自分の町は自分たちでつくっていくという気概を持たない限り、同じことの繰り返しになると思います」
  「おカネで移駐を容認することは決してできません。何よりも移駐については、航空機の数が一挙に二倍にもなるんですよ。ところが、いくら国の説明を聞いても、滑走路を沖合に移設したところで基地周辺の住民の生活に対する不安がまったく解消されない」

前国立市長上原さんは、「私が国立市長のころ、防衛庁の広報担当が軍『防衛年鑑』という資料を持ってきていました。そのとき、担当者は「私たちは人を殺すのが仕事ですから」と言ったのです。要するに武器を持って外国に行きたいのです。戦争をする国になっていけばいくほど儲かる仕組みがあるということです。『防衛年鑑』には「契約相手方契約高順位」という項目があります。防衛予算四兆八〇〇〇億円のうち、三菱重工はそのうちの四〇〇〇億円ぐらいを随意契約で取っている。その契約をしていたのが守屋さんです。『年鑑』の広告のトップに載っているのは山田洋行です。こうやって国民の税金を食い物にしてきたのです。131社が武器輸出三原則のもとで武器を作っている。その企業の儲けのためになぜ国民のみなさんが犠牲にならなければならないのか。」
  「横田基地をあの石原慎太郎知事が九七年の知事就任直後に「軍民共用で使おう」と言いだしたのです。周辺自治体はいろいろあるから返答を躊躇していました。武蔵村山市の若い志々田浩太郎市長が「賛成」といった途端に、瑞穂町の関谷久町長がものすごく怒った。米軍の飛行機が離着陸する滑走路の一番近いところに町民が住んでいる。これ以上飛行機を飛ばしてどうするんだということです。「私の町の町民を殺す気か」と。「真下に住んでいる住民のことを考えると許せない。住民を守るのが首長の仕事です。私の時にそのことを認めるわけにはいかない」と言って体を張ったのです。いまの井原市長と同じです。」
  「かつて沖縄県の大田昌秀知事(当時)が最高裁で「意見陳述」したことばが印象に残っています。「(沖縄は)日米安保条約にもとづく地位協定によって二九箇所の水城と一五箇所の空域も米軍の管理下に置かれています。その結果、陸地だけでなく海も空も自由に使えず、これで主権国家といえるのだろうかと、県民は疑問を抱いています。(略)憲法が国民に保障する財産権、平和的生存権などの基本的人権の問題や地方自治のありようなどが問われていると思います」
  「真の豊かさとはなんでしょう。道路なんかできなくてもいいじゃないですか。ここがみなさんの肩にかかっているのです。岩国市はひとつだけれど全国で同じ状況がいつでも出てくると言えばみなさん理解します。ダムの問題でも計画ができるとなかなか覆せない。それでも闘って諦めさせた例があります。ダムに反対した沈む予定地の村には目に見えないかたちで財政圧迫をして計画を通してきました。今回はあからさまに「言うことを開かなければ金をやらない」と言ってきた。このひどさです。」
  「ここでみなさんが頑張らないと、全国のあらゆる国策でそういうことがはじまります。地方自治が守れるかどうかという問題なんです。だからみなさんだけに運動をやってくれとは言いません。「全国でがんばろう」と言いたいのです。」

岩国の45299人の市民は、精一杯頑張ったと思う。これからも、市民の安全、暮らしのために、地方自治の灯をともし続けれくれると思う。「オレの心は負けてない」だよね。一方、47081人の市民は、甘いアメを期待して、その苦さに泣くこともあるだろう。甘い汁は一部の人が吸うようになっているからねぇ。政府もアメリカにせっつかれているから、相当がむしゃらだったんじゃぁないのかな。まったく、誰のための政府?

補助金という名の飴玉をしゃぶらずに、米作りに、金銭的な価値で計れない価値と、自分たちの暮らしに誇りを持っている村があるそうだ。東京新聞にシリーズで読んだ。栄村。今、地方は根本的に、「リセット」する必要があると思う。飴玉をしゃぶっているとそのチャンスを失うと思うけど・・・。





No.14

しょげてんな!!

  りっちゃん
08/2/5

副題は、一人で悩む君へ 「北星余市」から15人のエール。帯には、「夢も未来も今 この現実の 向こうにある KEN-U」。

すいません。KEN-Uさんがどなたかさっぱり。レゲエのシンガーだそうです。卒業生。この本は、高校中退・不登校生を全国から受け入れる北の学園、北星余市高校の生徒編。表紙の題字も3年生の字。装丁も、シンプルで好印象。内容は、思わず、涙がこぼれましたぁ!!みんな一緒や。苦労してるねんなぁ。どの文章もとっても素直で、純で、しっかりと主張が描けていていい文章です。

突っ張って、親に反抗したり、悪さをしちゃった子。閉じこもりにはまった子。でも、人間にはいつでも成長できる可能性があるんだ。どんな子だってそうだよ。大人もね。まぁ、なかなか変えられないし、速度もどうしたって遅いけど、でも可能性はあるんだ。だから、死刑もやめて欲しい。ましてやベルトコンベアー感覚でなんて・・・

「すべてをリセットしたかった・・・」その言葉を聞いた瞬間、私の胸は締めつけられました。つい最近、マスコミに大きく取り上げられた事件。少年が自分の家に火をつけ、母親と兄弟を殺したのです。医者である父親から。「成績が悪い」と言われ、プレッシャーを感じていたと言います。その少年が取調べで言った言葉。「すべてをリセットしたかった・・・」

どれをとっても感動もののエールなんだけれど、校内弁論大会最優秀賞の今坂美香さんのだけ、紹介させてもらおう。ぜひ買って生の文章を読んで欲しいのだけれど、中略で、後半は、

私は、今の日本の社会や教育のあり方に疑問を抱いています。反発するものは不良、勉強についていけない者は落ちこぼれと決めつけられ、存在を否定されます。その空気は、子どもたちや若者を傷つけ、追いつめ、生きる気力を失わせます。あるものは非行に走ったり、引きこもったり、それは現在社会問題にさえなっている、働かない、または働けないニートをも生みだす要因にもなっているのです。
  私は大人たちに問いたいのです。教育とは一握りのエリートを育てるためのものでしょうか。学校とは優等生だけを守るための箱なのでしょうか。子どもは親にとっての持ち物なのでしょうか。自分の子どもを有名な学校に入れるのは、親の勲章なのでしょうか。
  私は思います。今こそ、大人も若者も子どもも本当の意味でのリセットが必要なのだと。この時代にこそ、失われつつあるものを取り戻すために一歩を踏み出す勇気が必要だと。
  私は訴えます。いまこのときにこそ、より豊かな人間としての生き方を、私たちは共に、考え始めようではありませんか。

教育については、北星余市が答えを出し、実践していると思う。「編集を終えて」で直子先生が「一人一人の子どもたちの心を理解しようと苦しみ学びながら、全身で愛情を注ぎ込んできた教育に誇りがあります」「それは、数人の優れた教師がいるからではありません。厚みのある教師集団になっているからこそ」と書いています。あなたたちは、いい学校で勉強できて良かったねぇ。でも、普通の学校に何とか行けちゃっている“普通の子どもたち”が心配。“普通の子ども”とは、自分が傷ついていることに気づかない、もしくは、我慢しちゃっている子どもたち、とでもいうのかな。そして、“普通の子どもたち”がいない北星余市では、クラスがまとまるまでに時間がかかって、その間にこぼれてしまった子どもたちも心配。この本のエールを読んで、可能性を信じていつかまた変化することにチャレンジしてくれるといいのだけれど・・・

親だって、一杯間違えちゃうことはある。そして、間違えたと気づいたら直せばいい。「義務教育」は国と親にとっての義務。子どもには選択の権利がある。ただ、私立に行かせるほどの経済力のない親もいるし、私立でも、その子にとっていいとは限らない。どんな子でも義務教育が受けられるように整備すべきではないかしら?「ヴィーナスという子」では、障害のある子に、なるべくは普通学級に通わせながら、個別の補習授業を受けさせたり、時には家庭での学習に人を派遣したりしていた。日本では時間がたてば卒業ってことにしちゃうけれど、義務教育終了の学力を一人一人につけるまめな対策が欲しい。それが「義務教育」の本来の中味だと思う。

息苦しいのは、子どもたちだけではない。大人も大変。私も苦労。でも、今リセットしないと、あなた方の年代の人たちが、アメリカの一部の金持ちの為に、自分の命を差し出したり、人の命を奪ったりという時代が来てしまう。それだけは何とか食い止めたいと、ボチボチとだけど、体力に応じてだけど、頑張ってはおります。ただ、夢も未来も現実からの出発だからなぁ。一足飛びと言うわけにはいかない。なので結構しんどい。可能性で言えば、若者の方が絶対に有利なんだよ。あなたがたこそ、未来の星。だよ。





No.13

地方議会

  りっちゃん
08/2/5

池上洋通氏の「地方自治」講座。二回目です。風邪気味だったせいか、間が空いちゃったからか、一寸ピンボケ?

憲法第十五条【公務員の選定罷免権、公務員の性質、普通選挙と秘密投票の保障】
  @公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。
  Aすべて公務員は、全体の奉仕者であって、一部の奉仕者ではない。
  B公務員の選挙については、成年者による普通選挙を保障する。
  Cすべて選挙における投票の秘密はこれを侵してはならない。選挙人は、その選択に関し公的にも私的にも責任を問われない。

@の“固有”というのは、もともと、本来という意味で、法的に、とっても強い言葉なのだそうです。選ぶだけでなく罷免権もあることに注目。Aは支持者だけのためとか、自分の住んでいる地域のことだけに働いちゃぁ駄目ですよ、ということですね。Bもう今は当たり前でも、歴史があってここまで来た。名誉や地位のある人だけじゃぁない、もちろん男性だけじゃぁない。みんなで選ぶ。Cはね、例えば「イケメンだから」という理由で選んでもいいってこと。で、そのことは秘密よ、ということです。自分なりに選ぶ。その選択に関して誰からも文句は言わせないよ、ということだそうで・・・「民度が低い」なんて言っちゃいけないのかも。その人、その人の選択を尊重しないと・・・

第九十九条【憲法尊重擁護の義務】
  天皇または摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負う

天皇も公務員なんだなぁ、この文章からいくと。で、「憲法をわかっていない人は、議員になっちゃいけない」もちろん、私たちも選ばないようにしなくちゃぁね。良くアンケートとかを選挙中に取ったりするけれど、憲法テストをやってみるといいかもしれないね。それとも議員になったら憲法講座で勉強するとか。そうそう地方自治条例が大流行だけれど、「もしその中に(住民の責務)なんて条項をつくるならよほど気をつけないと」ですって。で、「憲法を10年ほど勉強してからつくった方がいい」とも。

日本の中央権力は一元主義、地方自治体は多元主義。直接公選なのは、一人一人の基本的人権を具体的な生活場面で実現するために何が必要なのかが良く見えるから・・・だからこそ、「市町村がその人を見放したら・・・“自殺”しかないんです」と池上さん。漫談ばかりじゃぁない。怒るんです。本気で。具体例は、金太さんの投稿、「後期高齢者医療制度」に詳しく載っていた。私も怒るよ。

間接民主主義といっても、民主主義の基本形としては直接民主主義。議員さんらが「おれたちは任されている」といっても、何をしてもいいってことじゃぁない。住民の意志に基づいて議論することを任されているに過ぎない。と、このあたりで、去年もされた「水戸黄門」のお話。善政ではアカンのですって。「印籠」を出して解決、だと3ヶ月で元の木阿弥。また問題が起きるから番組は永遠に続く。で、住民が自ら自覚的に動かないと・・・で、市長さんは何もしないのが一番いい市長さんなのだそうで・・・老子がそう言っているとか。失敗してもいいから、貧乏でもいいから、住民が生き生き動く、職員が生き生き働く、市長は何もしなくてもいい、そんな市長が一番いい市長さんなのだそうです。(なるほど!!)2番目が善政の市長さん、でもこれだとお任せになる可能性が高い。3番目が普通の市長、4番目が、住民から見えないところで悪いことをする悪政、5番目が暴力で支配する政治。ああ、日本は4〜5に移行しつつあるところかしら?

国政とは、人間の体にたとえて言えば、頭とか胸は、国民の意思。骨格は体制。神経が政策。血液は市場で、それも大切ではあるけれど、目的は、「国民への奉仕」で、稼ぐ必要はない。効率というけれど、それはおカネではなく、国民がどれほど幸福になったかというのが目安だそうで、ここのところ、経済も怪しいけれど、景気がいいといわれている時だって、日本人の幸福度って、低かったような・・・

で、憲法前文のおさらい。「そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであって、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法はかかる原理に基づくものである」

池上さんは、筋ジスの子どもたちのためのボランティアをなさっているそうです。なんだか涙が見えそう。彼らには経済効率から言えば、存在を否定されてしまう。でも、違うよね。一生懸命生きようとしている人って私たちにとっても必要な存在だよね。でも、障害者が多数になることはない。代表民主主義の限界をよおく認識するようにとのお言葉でした。「だから、差別もなかなか克服できないんです」。選挙のチラシひとつにしても、目の悪い人用に点字のチラシを配布することがありますか?知る権利を侵していると思いませんか?」あら、このせりふは自衛隊の官舎で配ったチラシのほうだったかな。ピザの宅配のチラシで知る権利はあっても、投票に必要な情報を知る権利が、自衛官にはないのか?という話も出ました。この間の八王子の市長選でも、マンションが多くて、「チラシお断り」の所がずいぶんあった。その住民も知る権利を侵されているのでは・・・だから低投票率なのでは・・・知らせる権利というのもあるんだって。

大学生にはこうおっしゃっているそうです。「なんの社会活動もしていない人は非国民。年に一日もデモに参加しないのは学生ではない。学んでいない」と。名言ですねぇって、感心してる場合ではないかも。私もデモなんて参加していないや。非国民かぁ。
  「「職員の給料を下げます」なんて言われて「いいぞ!!」なんて拍手しちゃ駄目。質の悪い職員が集まっちゃったらどうするの。拍手した人はみんな犯罪者」

  「貧乏な市町村が、合併。「貧乏」、「貧乏」、「貧乏」、「貧乏」、「貧乏」・・・貧乏大連合団体ができるだけでしょ!!」
  「審議員っているでしょ、あれはいろんな人の意見を聞くためだから、いくら熱心でも、いつもの人って言うのは意味がないの」

資料「地方議会の定数をどう考えるか」では、110年も定数は根本的には変わっていないとか。女性の参政権のこと一つでも倍になってもいいじゃないかって。議会が成り立つために、最低法定数は12人だそうです。執行部における最高意思決定は首長一人。議会では住民の意思を最大限に代弁・反映し、集団的な審議と討論を充分におこなう必要があるわけで、だから、議員定数は大事なんですって。それから女性の政治参加と、青年の政治参加(18歳選挙権)、障害者の政治参加がテーマであり、自治体政治への他国籍住民の参加も、既に最高裁の判決で促されているって。議員報酬も、経済的余裕のある人だけが議員では、住民の代表とはなりえないから、その地域で一般的な生活水準を基礎に、住民奉仕に尽力するための経済的条件の確保をし、学習(池上さんは月に5万本代がかかるって)・研究のための費用をケチっちゃいけないとのことでした。そうだよねぇ。ちゃんと仕事をしてもらわなくっちゃ。選挙や政治活動の費用は自腹だよ。もちろん。その辺を混同している人が多いんじゃぁないかなぁ。

宿題の投票率。やはり高い方がいいと。義理でも何でも、その人の選択。顔の見える選挙がいい。一週間なんて短すぎる。アメリカの大統領選のように戸別訪問や集会を重ねて、じっくり選べる選挙制度がいいともおっしゃっていました。なーるほどです。

昨日の新聞に、自転車の3人載りが禁止になるとの記事。ママチャリで後ろ前に子どもたちを乗せていたころが懐かしい。しかし、あんな便利なものを禁止してどうすんじゃい?子どものいる世帯全部に自動車一台と免許取得費用をプレゼントでもするのかい?それでなければ、少子政策(対策の反対)に変更したのかしら。子どもは一人までにしろって?記事では、二人の子どもを乗せたときは自転車を押せだって。二人も乗っけて荷物も乗っけて、押したら腕がパンパンになっちゃう。やったことのない人のご意見だな。女性の議員さんが増えないことから、こんなことになるんだなぁとあらためて思った次第。まったく!!





No.12

改憲潮流

  りっちゃん
08/2/1

著者は斉藤貴男さん。私も日本に住むみんなに訊きたいです。「あなたは、金持ちの金儲けの為に、自分の命を投出したり、無差別に他国の人の命を奪ったりということをしたいのですか?」と。

「われわれの兵隊は、美しく飾られた理想を説かれ、戦場に送られ、そして死んだんだ。かれらが戦場に行って殺し合いをしなくてはいけない、その本当の理由は金のためだ、などとだれも兵士にむかって言いはしなかった」
  「私は三十三年と四カ月間ずっと軍務についていた。(中略)そしてその期間のほとんどの間、大企業やウォール街や銀行家たちの高級用心棒として働いた。まあ、ひとことで言えば、資本主義のためのゆすり屋、やくざだったということだ」
  『戦争中毒』という反戦漫画で、海兵隊指揮官スメドリー・バトラー将軍が、引退後にこう語っていたという。

「自民党は憲法を変えると言う。九条二項を書き換えると主張しています。あの条文を削除されたら最後、自衛隊は正面切った戦闘をしなくちゃならない。とすれば当然、徴兵が始まります。戦争をする自衛隊になど誰も入ってくれなくなりますから、人手を集めるためには仕方がない、という話ですね。法律で決めればいいことだから、強行採決すれば済んでしまうのですよ。ですから、自分自身や子どもや孫が戦場に連れて行かれて、命を落としてもいいということなら、それはそれで結構です。憲法改正″に大いに賛成されたらよい。でも、そんなのはイヤだという人は、少し考えてみた方がいい。とんでもないことになってしまいます」(新潟県加茂市の小池清彦市長)

今、一番気をつけて注視しなければならないのが米軍再編成。問題は、米軍と自衛隊との位置づけ。詳しい動きはこの本を読んで欲しいのだけれど、
  「何のことはない。米軍再編とだけ形容されてきた米日軍事再編は、とどのつまり、米軍の世界戦略の一部分に自衛隊が完全に組み込まれることに他ならなかった。
  もとより日本は戦後一貫して、アメリカの戦争に協力し続けてきた。朝鮮戦争やベトナム戦争で人々を大量に殺戮するための、日本列島は丸ごと兵站基地の役割を担い、特需に潤って、要は戦争成金となることで経済大国への足がかりとしていった。煎じ詰めればアメリカと同じ穴の猶が、いよいよ本性を剥き出しにして、戦闘そのものに手を染めようとしているのである。」

2006年Winnyによる情報流失。あれで漏れた「15G」作戦計画は、企業で言えば係長クラスの丸秘文書に過ぎないのだが、それでも、憲法からも、今までの日米安保条約からも逸脱している。

「この文書を読む限り、自衛隊は戦端″が開かれる前に行動を起こしています。朝鮮戦争のように北が南に軍事行動を起こすという事態の前段階、形勢不穏になったような時に、「周辺事態における安全確保・警戒」という名目で、米軍とともに軍事的な行動に移っているように解釈できます。しかも船舶検査・作戦輸送など、米軍の攻撃に組み込まれている − という意味では、従来の専守防衛から先制攻撃容認へと大きく舵を切ったと言えるでしょう」(前田哲男氏の感想)

「9・11事件を経てからは、「アメリカと同じ価値観を共有するわが国」などといった表現が、小泉首相以下、政官財界の常套句になっていく」
  「確かに日本は東西冷戦時代、アメリカを盟主とする西側陣営に属していた。対共産圏包囲網の一翼を担う見返りに、軍事面だけを見れば片務的な軍事条約を結んでもいた。しかし、日本はこの間、戦争に少なくとも直接は手を染めることがなく、一方のアメリカには、第二次世界大戦後も実に二十カ国と戦争し、爆撃を繰り返してきたというデータがある。中国、朝鮮、グアテマラ、インドネシア、キューバ、ベルギー領コンゴ、ペルー、ラオス、ベトナム、カンボジア、グレナダ、リビア、エルサルバドル、ニカラグア、パナマ、イラク、ボスニア、スーダン、ユーゴスラビア、アフガニスタン、(そしてイラク)」
  「そのアメリカと日本が、根本的な価値観を同じくするようになったとは、どういうことなのか。ここにおいて、戦争を否定してきた日本国憲法第九条は、事実上、放擲されてしまっていたと言っても過言ではないのである。」
  水面下では放擲されてはいても、表切って言えないのは、やはり歯止めになっている9条があるから。

「現行の日本国憲法を無視して組み立てられた在日米軍の再編計画を日本側が是認する限り、第九条第二項が存在しない憲法に改めなければ辻褄が合わない、逆に九条二項を残したければ、アメリカ側に再編計画の再考を求めなければならない、という関係だ。」
  つまり、金持ちの金儲けの為に戦争をしたいアメリカと同調したい日本人の特権階級の目標は9条2項を何としても無くしたい。そのための“改憲潮流”が、着々と進められているのだ。
  9条だけではない。憲法の基本、立憲主義そのものも崩されようとしている。

「県条例案は近代立憲主義を否定する発想がある点で危険なものといえ、条例案提出の前にまずは県が近代立憲主義を学び直すことが必要と思われます」(「神奈川県犯罪のない安全・安心まちづくり推進条例」の制定過程で、三十五人の法学者が発表した反対声明)
  「改憲論議のなかには、憲法を権力制限規範にとどめず国民の行動規範としようとするもの、憲法改正の発議要件緩和や国民投票を不要とするもの、国民の責任や義務の自覚あるいは公益や公の秩序への協力を憲法に明記し強調しようとするもの、集団的自衛権の行使を認めた上でその範囲を拡大しようとするもの、軍事裁判所の設置を求めるものなどがあり、これらは、日本国憲法の理念や基本原理を後退させることにつながると危惧せざるを得ない。」(日本弁護士連合会「立憲主義の堅持と日本国憲法の基本原理の尊重を求める宣言」)

「一九八〇年代以降のグローバリゼーション、アングロサクソン主導の世界が進んできた。ついこの間まで、日本モデルが世界一だと言っていた人たちがみんな、もう駄目だから、憲法で言えば二十五、二十六、二十七、二十八条、健康で文化的な最低限度の生活の保障であるとか、労働基本権といったものに対するあり方を見直そうと言い出したんです」
  「近年の新自由主義は、かつての、新″がつかない自由主義−リベラルとまるで逆です。企業、経済の自由をマーケットの市場原理に委ねる一方で、思想とか表現に対する規制は逆に強化する。アメリカ式の二重基準に、日本も傾きかけています。郵便局から大学まで、国家がなすべきものとされていた領域から、国家がことごとく撤退していく。一方で、国家がなすべきでないとされてきた領域に、国家が乗り出してくる」「立憲主義を標榜していてさえ、人権は抑圧されてきた。にもかかわらず、建前までもが叩き壊されてしまったら――。」(東京大学の樋口陽一名誉教授)

憲法改正(改悪)の意図は、9条ばかりではないのだ。「人類が何百年にもわたって積み上げてきた知恵」。為政者たちが、ともすると人々の生活や幸福のために考えるのを忘れ、暴走するのを防ぐための枷としての、法。立憲主義そのものの否定であり、私たちの、行動や意識までを縛ろうとしている。その先駆けが、国家や国旗の強制だったのだ。

「彼らはみんな二世三世の代議士で、同じ生身の人間ではあっても、初めから我々とは違う。
  まるで自分が明治天皇でもあるかのような立場から、彼らは国家、公というものを考えているんです。」

はぁー、それにしても軽いよなぁ。
  「すでに世論教育は済んでいる。憲法改正の何が悪い、車のモデルチェンジと一緒じゃないか、という雰囲気ができあがりました」(与党関係者の囁き)

9条を変えたいから、仮想敵国の北朝鮮への恐怖を煽り立て、朝鮮総連や朝鮮学校、在日本朝鮮京都府商工会への強制調査などの嫌がらせを行い、格差問題などで不満のたまっている庶民のバッシングを助長している。
  「朝鮮民族に対するヘイト・クライムも繰り返されている。殊に拉致事件が明るみに出てからは、チマチョゴリで民族学校に通う女生徒たちが殴られたり、石を投げつけられたりする事件が後を絶たない。」
  女性問題へのバッシング、護憲へのバッシング、在日へのバッシング、そして誘拐されたままの中村さんはどうなったなのぅ?
  マスコミはマスゴミだし、みんなは、憲法第12条 「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない」を忘れて(私もだったけどさぁ)、現実を直視することを避けているようだし、投票率も低いしねぇ。

「利便性だけを全面に押し立てつつ、めざましい勢いで進むICカードの多機能化は、いずれ住基カードの機能を、官民すべてのカードや身分証明書と相乗り、一体化させずにはおかない。」
  盗聴法・・・監視カメラ網・・・「顔認証システム」
  「はてしなく進む監視社会化。一方では、反権力的な思想の持ち主が、それだけで犯罪者として扱われる傾向も強まってきた。」
  「警察に密告される前提でしか話ができない社会で、人間同士の絆や共感が育まれるはずがないではないか。」
  私が一番嫌なのはそこなんだよねぇ。貧しくてもいい、みんながニコニコできる、人と人とが仲良くできる環境が欲しい。でも、今の時代の空気は・・・ふうーっ・・・

「これまでは、ともすれば、憲法とは「国家権力を制限するために国民が突きつけた規範である」ということのみを強調する論調が目立っていたように思われるが、今後、憲法改正を進めるに当たっては、憲法とは、そのような権力制限規範にとどまるものではなく、「国民の利益ひいては国益を守り、増進させるために公私の役割分担を定め、国家と国民とが協力し合いながら共生社会をつくることを定めたルール」としての側面も持つものであることをアピールしていくことが重要である。」(自民党の「論点整理」(I総論)の三(今後の議論の方向性))
  国家(政府)とは、国民の幸せを実現するための機関だと思うのだけれど、実際には、年金問題、医療問題、耐震問題、どれをとっても、国民の命すらないがしろにする政治をしている。その政府になんで国民が協力しなくっちゃいけないのか?間接民主主義のもどかしさを感じるよ。選挙で国民が意思表示をすればいいのだけれど・・・政治不信の国民の意思で、前回の参院選では、民主党に票が集まった。だけど、改憲潮流は自民党だけではありません。民主党のはもっと怖いのです。
  「国民一人ひとりがどのような価値を基本に行動をとるべきなのかを示すものであることが望ましいと考える。同時に、憲法は、法規範としての機能を果たさなければいけない。それを侵すならば、それに相応しいペナルティが課せられる「法の支配」が貫徹されるものとすることが重要だ。」(民主党憲法調査会による「創意に向けて、憲法提言中間報告」「新たなタイプの憲法の創造に向かって」)
  貫徹される「法の支配」は誰に向けられると思う?政府に対してならいいのだけれど・・・はぁーっ。

「自民党の二世、三世たちというのは、一億三千万人の国民が残るなら、三千人の部隊の消耗は必要コストのうちだという、こういう感覚があるんだよ。間違って侵略戦争をする方が、侵略されて滅びるよりはいい、とかね。どこまでも自分は死なない、ゲーム感覚なんですね。私自身は金持ちの子でも何でもないのに、一緒になって言っていたわけだから、よくわかる。
  私も、しかし、年を取ってわかってきたんです。人間の命の重みをね。二十歳になった娘のことなどを考えると、自分や自分の肉親が、あの砂漠で戦車に殲滅されて、生き埋めになったり火炎放射器で焼かれたりしたら、と。一つの命は一つの歴史なんだって。大学は教授にならないと人間じゃないところ。娘が生まれた頃、幼い頃の私は、そのための条件作りに明け暮れていて、わからなかったんですよ」(改憲潮流のはじめに、自民党と行動をともにしていた小林節・慶應義塾大学教授の言葉)

歳のせいか、年賀状の返信に寒中見舞いが多くなった。一人一人のいのちの重さを感じる。靖国神社の遊就館にはゼロ戦が飾られているとか。ゼロ戦の初陣は、重慶の空爆の護衛だったそうな。
  「重慶大爆撃は、戦争と人間の関わり方を一変させた「戦略爆撃」であったと言われる。戦闘員と非戦闘員を区別せず、資金力や技術力にモノを言わせ、空から大量の爆弾を落とし都市ごと壊滅させて、敵の戦意を奪っていく」
  今や、アメリカの得意技となった無差別殺戮だよ。靖国神社社務所が発行している子ども向けの案内『靖国大百科』の一節、赤字は私が書き足したもの。

〈戦争は本当に悲しい出来事ですが、日本の独立をしっかりと守り、平和な国として、まわりのアジアの国々とともに栄えていくためには、戦わねばならなかったと、権力を持つ馬鹿な人たちが考え、実際には、周りのアジアの人たちを蔑視し、踏み付けにし、焼き尽くし、奪いつくし、殺しつくした。日本人もたくさんの兵隊が無駄死にさせられ、銃後の守りについた日本人も我慢を無理強いされ、当然の結果として日本が負けたのです。こういう事変や戦争で尊い命をささげさせられた、たくさんの方々が靖国神社の神様として祭られています〉

「首相の靖国神社参拝を違憲だと判断しただけで、きわめて異例の判例となった。亀川裁判長への取材は叶わなかったが、信頼すべき関係者の話によると、彼は判決を書く際に、遺書さえも認めていたという。
  日本はまたしても、そのような、そうしなければ生きていけない国になってしまっているらしい。事実、判決前後の福岡地裁や原告側関係者らの周辺には脅迫電話の類が相次いでいたそうである。」

空気は既に戦時体制?いえいえ、私はまだ日本人の良識を信じたい。平和を愛する国民だと信じたい。ならば、努力を続けましょう。どっこいしょ。

「伊達や酔狂で過剰に反応しているのではない。あちこちの現場を歩き回り、話を開いて、先人の業績にも当たりつつ、考え続けた。
  雇用や教育の現場で、階層間の格差がとめどなく拡大していく。一方では在日米軍と自衛隊の一体化が図られ、否、自衛隊が米軍の一部になろうとしている。個人の権利が制限され、国民の責務と称される事柄ばかりが増えてきた。平和と平等が旨とされた(実態は共同幻想に過ぎなかったとしても)日本社会は、いつの間にか、根幹の部分で変質しつつあるのではないか−。ありがちな問題意識を手がかりに、取材を積み重ねた挙げ句、陳腐だが重大な結論に辿り着いた。そうした奔流の総仕上げが、憲法改正″なのである。」

「それでも、まだ演習だけで済んでいる。日本国憲法が息も絶え絶えになりながら、それでもかろうじて生きてはいるからだ。戦争だけはしない、経済力に飽かせて他の人命を勝手に奪わないという、おそらくは人間にとって最大最高の価値観が、国家権力の暴走を押える近代立憲主義の思想ごと、もしも本当に改められてしまったら、どのような世界がやってくるのか――。
  わかりきっている。だからこそ進められている改憲への策動を、断じて許してはならない。」

この本は2006年5月発行。この本で問題にされていた国民投票法も、新給油法も通っちゃったし、生活品の値上げも続いて、暮らしそのものが危なくなっている。みんなもそろそろ気づいてもいい頃だと思うのだけど・・・あらぁ、今度は中国へのバッシングかいなぁ。まだ原因が特定されていないのに、もしかしたら日本で農薬が混入された可能性も否定できないのに、被害がでていない製品まで自主回収で、大騒ぎ。やれやれ・・・また、長くなっちゃったよ。ごめん。





No.11

爺川柳(08・01)

  金太
08/1/30

   福田ダム  八ッ場(ぱ)りむだな  ダムだった
     福田ダム  と言われて気色  あやしいな

      親分(アメリカ)に  なんでそこまで  つくすのか
      国民の  暮らし踏みつけ  ロハアブラ
      米軍に  福祉を削って  三兆円
    (今年も福祉予算二千二百億円を削って、在日米兵一人あたり六百万円が贈られます。)

      最高裁  憲法読めぬ  判事たち
      憲法の  価値もわからぬ  最高裁
    (最高裁は、豊後高田の大石市議が政党の後援会ニュースを配ったことに腹をたて、犯罪だ!罰金だ!と、棄却した。表現の自由は、基本的人権の女王です。この際に日本国憲法を読みましょう。特に次の条項を!=第十一条・第十二条・第十三条・第十四条・第十九条・第二十一条・第九十七条・第九十八条・第九十九条=)

      投機マネー  人の暮らしを  脅かし
    (エネルギーと穀物を儲けの対象に!規制しないアメリカと日本)

      つなぎ着て  ボロを隠して  のび太くん
      救急車  走る道路に  財源を?!
    (ペテン師もそこまでは言えない。だって肝心の病院に医者がいないのに。先に打ち合わせていてトボケルのは政治家失格だ!)

      極道が(59道=道路族)  59兆  掻っ攫い(カッサライ)
      ボロ「つなぎ」  なにがなんでも  ガソリン税
      道普請  笑いが止まらん  道路族




テレビを見ていないりっちゃん。 福田首相が道路特定財源を維持する理由として「救急病院への交通の利便性の確保」と言っていたのを知らなくて、問い合わせているうちに、なんだか情勢が少し変わったようで・・・でも、自民党さん、暫定法案を何にが何でも通すようですね。地方自治のための税金は、お金持ちから取って欲しいなぁ。なんだってねぇ。株でもうけたおカネへの税金は、汗水たらした所得税の半分だってね。そりゃ、おかしい。ガソリン税も、庶民からとらないで欲しいなぁ。もともと、暫定なんだし・・・今年は寒いから、灯油だけでも何とかして欲しいよ。

それに、原油が上がったのは、投機マネーのせいだってねぇ。そういう時こそ庶民を助けるのが政府じゃぁないのかいなぁ。投資家たちにも歯止めをかけるのも政府じゃぁないのかいなぁ。

私も婆川柳にチャレンジ? 「救急車 あてなく走れば 財源に?!」 受け入れてくれる病院を探し回って、ガソリンを喰えば喰うほど、財源にはなる!! って、そんことすな!!っちゅうの。誰のための政府だい?訊くだけ野暮かなぁ。なさけない。





No.10

ハンクネット関東地区例会
「現代朝鮮の理解 政治と社会」

 
ハンクネット
08/1/30

侮蔑と偏見まみれの北朝鮮報道にうんざりしていませんか。日朝関係改善に取り組まず、軍拡路線を突き進む日本政府に苛立ちを感じていませんか。

北朝鮮人道支援ネットワーク・ジャパン(ハンクネット)では、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)に対する日本のマスコミや政府の攻撃的な姿勢を批判し、人道支援による交流や市民生活の映像の公開を通じて、日本人や在日韓国・朝鮮人が朝鮮の人々の姿を正しく捉える為の活動を行ってきました。

しかし映像や交流による情報はやはり皮相的になりがちです。今私達に足りないのは、相手を客観的に知る事。そう考えて、まずは韓国の「北韓」研究入門書を皆で読む事にしました。客観的な視座が韓国の運動圏でも高く評価されているリ=ジョンソク著「新版 現代北韓の理解」歴史批評社刊を月一回読んでいきます。朝鮮語ができる方、勉強中の方は勿論、できない方も歓迎です。毎回テーマは独立しているので、前回参加されていない方でも充分理解できます。

○日時場所
  第二回:2月25日(月)18時30分〜21時
  第三回:3月31日(月)18時30分〜21時

大阪経法大学東京麻布台セミナーハウス 4階小会議室
  東京都港区麻布台1丁目11-5 03-3582-2922
  地下鉄日比谷線 神谷町下車(E1出口)を出て左へ徒歩3分
  案内図

○参加費
  コピー費実費程度

○教科書
  「新版 現代北韓の理解」イ=ジュンソク著 歴史批評社 2004年

第二回:第一部第三章「北韓史の時期区分」
  第三回:第一部第四章「脱冷戦時代の北韓研究動向」

○対象者
   ※ハンクネットの趣旨に賛同される方。朝鮮語の能力は問いません。

○予約・問い合わせ
  北朝鮮人道支援ネットワーク・ジャパン(ハンクネット・ジャパン)
  contact@hanknet-japan.org
  TEL:042-379-7790(上野)

○参考:テキスト序文(抜粋)

筆者はこの間北韓研究を進めながら、北韓を正しく知るためには何よりも自分たちが持っている先入観を捨て、「あるがままの北韓」を見る必要があるという事実を痛感していた。先験的に与えられた基準をもって北韓を見ている限りは、まともに知りようがない。北韓の変化についても全く同じだ。特別な基準をもって北韓の変化様相を判断するのならば、たとえ北韓が特別経済地域をつくったり開放の兆しを見せたりしたとしても、北韓の変化はあり得ないと考えてしまう。だがこういった問題は北韓の歴史や現実について時系列的かつ構造的な分析によって結論せねばならなず、独断的な基準で判断できるものではない。実際、90年代を風靡した「北韓崩壊説」や長い伝統のある「金日成偽者説」などはみな、こうした先入観を捨てられないがための副作用だと言えよう。

「あるがままの北韓」を知るためには、北韓の公式文献が見せる規範と現実の差異を認識する能力が欠かせない。正しい「北韓の読み解き方」が必要なのである。北韓の主張が北韓社会の実態を正しく表していると見るのは、大きな過ちである。「人民大衆中心の我々式社会主義」なり「自立的民族経済建設路線」という言葉の裏に、受け身に置かれている北韓人民の姿や、外部資源なくしては生存自体が困難な現実を読み取らなければならない。

それでは本書の研究対象である北韓とは、我々の何であろうか。実際我々はいつも「北韓をどのように見るべきか」という問題に突き当たっている。北韓は我々の敵なのか、兄弟なのか。そう、敵でもあり、兄弟でもあるのだ。そこでここでは北韓を「敵対的な兄弟」と規定する。即ち北韓は南韓を敵と規定しており、両者は実際に敵対関係にあり、我々南韓を破壊する充分な軍事力を有しているという点では、間違いなく軍事上の「敵」である。だがその一方で、統一共同体を実現するため、手に手を取り合うべき兄弟であることも間違いない。敵であるという「現実」と手に手を取り合うべきという「当為」が現在の北韓の中に共存しているのである。このような二重の現実認識が避けられない状況下で我々に求められているのは、北韓の敵対性を減じつつ、同伴者としての共存関係を導き出そうとする知恵と努力なのである。これが本書の下敷きとなっている筆者の北韓認識である。




バッシングは嫌だねぇ。おんな組いのちから、こんなお知らせもきています。

2008年1月21日、京都府警は、在日本朝鮮京都府商工会に対し、税理士法違反の名目で不当な強制捜索を強行しました。私は、このような在日朝鮮人だからという無理やりにでも強制捜索をするという、人権無視、組織破壊を狙う京都府警に対し、腹の底からの怒りと府警に対し強く抗議します。

《抗議先》京都府警察本部
  https://www2.pref.kyoto.lg.jp/fukei/iken_yobo/index.html
  堀川警察署 電話075−823−0110




ハンクネットより第4回例会のお知らせがありました。

第4回 :4月28日(月) 18時30分〜21時

会場は同じです。




ハンクネットより第5回例会のお知らせがありました。

第5回 :5月29日(月) 18時30分〜21時

第4回の内容は第二部第一章「主体思想の内容と歴史」、第5回は未定。

会場は同じです。




ハンクネットより第5回例会のお知らせがありました。

第5回 :5月29日(月) 18時30分〜21時

第5回の内容は第二部第二章第一節「主体思想と毛沢東思想の比較」、第6回は未定。

会場は同じです。





No.9

閉された言語空間

 りっちゃん
08/1/26

副題は、占領軍の検閲と戦後日本。著者は、江藤淳。

手元に“OPEND BY MIL. CEN.-CIVIL MAIL”と書かれたシールの貼られた封書がある。女学校の友人から母へ送られたもの。互いにまだ結婚前、20歳頃。内容もたわいもないことで、なぜこれが検閲されたのか、とても腹立たしく思われていたのですが・・・すっかり騙されていた。まだ裏があったのだ。

《必要とあらば、すべての私信を蒸気を用いて開封し、秘密に封をした上で、無害な文面のもののみを鋏を用いて再び開封し、テープで封をすること》

めくらましだった。たわいもない内容だからこそ「検閲したよ」という証拠を残してもよかった、ということなのだ。やり方がきったない!!

著者も戦犯宛の私信を読んで、身震いを感じたといっている。手紙を書いた女性の、思い詰めた息づかいとともに、CCDの検閲の手が、個人のもっとも内密な部分から発せられた言葉にまで及んでいたことによって。

両親が残した書簡を整理して、日本による検閲で私が眼にしたのは、軍関係から出されたもののみであった。意図もやり方も明快である。

著者は米占領軍の検閲を「隠微」と表現する。それは、日本帝国憲法では、

第二十八条 日本臣民ハ安寧秩序ヲ妨ケス及臣民タルノ義務二背カサル限二於テ信教ノ自由ヲ有ス
  と、最初から条件付であるのに対し、合衆国憲法では

修正第一条(宗教、言論、出版及び集会の自由)
  連邦議会は法律により、国教の樹立を規定し、もしくは宗教の自由なる礼拝を禁止することを得ない。また言論及び出版の自由を制限し、あるいは人民の平穏に集会をし、また苦痛事の匡救に関し政府に対して請願をする権利を侵すことはできない
  と、書かれている、にもかかわらず、検閲がおこなわれいたからである。

「ここで注目すべきことは、「戦時」または「国家事変ノ場合」、合衆国憲法修正第一条の下では、まさにこの擬制の形式が不可欠であるが故に、検閲も報道管制も、それ自体が逆に言及し、公言することの憚られるタブーと化して行く、というメカニズムができ上ってしまうことである」

著者は、ワシントンのウィルソン研究所で9ヶ月をかけて、膨大な資料を調べた。それは、
  「通説によれば、日本は敗戦・占領と同時に連合軍から「言論の自由」を与えられたことになっている。しかし、当時の状況を逐一調べてみると、実際には降伏文書調印から二週間も経たぬうちに、昭和二十年(一九四五)九月十四日午後五時二十九分を期して、まず同盟通信社が占領軍当局から二十四時間の業務停止を命じられていた。そして、翌十五日正午、業務再開を許されたときには、「同社の通信は日本のみに限られ、同盟通信社内に駐在する米陸軍代表者によって百パーセントの検閲を受け」ることになっていた。
  「朝日新聞」は同年九月十八日午後四時から九月二十日午後四時まで、四十八時間の発行停止処分を受けていた。英字新聞「ニッポン・タイムズ(The Nippon Times)」は、九月十九日午後三時三十分から同月二十日同時刻まで、二十四時間発行を停止されていた。十月一日には、「東洋経済新報」昭和二十年九月二十九日号が占領軍当局から回収を命じられ、断裁処分に付せられていることも、のちになって知ることができた。
  これを見れば、あたかも測り知れぬほど大きな力が、占領開始後間もない時期に、外部から日本の言論機関に加えられたかのようであった。そして、この時期を境にして、占領下の日本の新聞、雑誌等の論調に一大転換が起ったことも、実際にその紙面に当ってみればまた明らかであった。
  それが直接には、占領軍当局の実施した検閲の影響であることは自明だとしても、そのとき日本人の心の内と外でいったいなにが起ったのか、私はあたう限り正確に知りたいと思った。それは単に、過去に対する好奇心だけからではない。奇妙な感じ方と、人はあるいはいうかも知れない。しかし、私は、その当時起こったことが現在もなお起こりつづけている、という一種不可思議な感覚を、どうしても拭い去ることができなかったからである」

友人が今の日本のマスコミを“マスゴミ”と評するのも、元はここから来ているのかぁ。

「同盟通信社は、各日刊新聞社と日本放送協会を加盟社として、昭和十年(1935)十一月設立認可、翌十一年(1936)一月から業務を開始した日本の代表的通信社である。」
  戦後も当初は、世界の通信社をリードして連日スクープを続けていたそうな。へぇー、すごいじゃん。「同盟の短波放送は、占領軍の動静をスクープするのみならず、占領軍将兵の行動についても詳細に報道しつづけた。」米海軍水兵の婦女暴行事件なんかもね。
  「同盟通信社以下の日本の報道機関が、このように果敢な活動をつづけられたのは、連合国と日本の地位は対等であり、相互の関係は双務的であって、その契約はポツダム宣言および降伏文書によって保障されている、と確信していたためである」
  ポツダム宣言第10項には、こう書かれている。

《十、吾等は日本人を民族として奴隷化せんとし又は国民として滅亡せしめんとするの意図を有するものに非ざるも吾等の俘虜を虐待せる者を含む一切の戦争犯罪人に対して厳重なる処罰を加えらるべし日本国政府は日本国国民の間に於ける民主主義的傾向の復活強化に対する一切の障害を除去すべし言論、宗教及び思想の自由並に基本的人権の尊重は確立せらるべし》

マッカーサー自身、検閲がポツダム宣言から逸脱していると上に報告している。しかし、検閲は本国の統合参謀本部からの命令であり、AP通信社の編集局長であったバイロン・プライスは、ローズヴエルト大統領によって検閲局長官に起用されたのである。戦後日本における検閲ほど苛烈ではないにしても、「自由」の国、「アメリカ」でも検閲はおこなわれていたのだ。そして、今も?「愛国法」があるくらいだから・・・

で、《九月十四日正午、同盟の短波放送の電波がプツリと跡切れた。
  翌九月十五日午前、民間検閲支隊長ドナルドラヴアー大佐は、同盟通信社社長古野伊之助、日本放送協会会長大橋八郎、情報局総裁河合達夫、日本タイムズ理事東ヶ崎潔らを総司令部に招致し、次のような声明を読み上げた。
 「諸君をここに召致したのは、新聞とラジオが日本全国に配布しているニュースの検閲について、命令するためである。
最高司令官は、この件に関する九月十日付指令を、日本政府と新聞放送関係者が実行に移した態度について満足していない。
マッカーサー元帥は、今後言論の自由に対して絶対最小限の規制のみを加える旨告示している。また日本の将来に関する論議が行われるべきことをも明らかにしている。最高司令官の設けた制限は、その論議が真実に反するものであってはならず、また公共の安寧を妨げるものでもなく、更にまともな日本人の国家再建の努力に水をさすものであってはならない、というものである。新聞の自由は、最高司令官が最も尊重するものである。またそれは、連合国がそのために戦ったもろもろの自由のうちの一つである。
しかるに諸君は、指令の定めた寛容さに反するような態度を示した。諸君は協力して責任を果そうとはしなかった。降伏以来諸君はニュースの取扱いにおいて誠意がないことを暴露した。したがって最高司令官は一層厳重な検閲を指令したのである。同盟通信社は昨日(十四日)十七時二十九分、公共の安寧を害するがごときニュースを頒布した廉で業務停止を命じられた。右の指令に違反するものは、いかなる機関といえども同様に業務停止を命じられるのである。
マッカーサー元帥は、連合国がいかなる意味においても、日本を対等と見なしていないことを明瞭に理解するよう欲している。日本はいまだ文明国のあいだに位置を占める権利を認められていない敗者である。諸君が国民に提供して来た色つきのニュースの調子は、あたかも最高司令官が日本政府と交渉しているような印象をあたえている。交渉というものは存在しない。国民は連合国との関係においての日本政府の地位について、誤った観念を抱くことを許されるべきではない。
 最高司令官は日本政府に命令する…交渉するのではない。交渉は対等のもの同士のあいだで行われるのである。日本人は、すでに世界の尊敬を獲得し、最高司令官の命令に関して交渉する″ことのできる地位を得たと信じるようなことがあってはならない。ニュースのかかる偏向は即刻停止されなければならない。諸君は国民に真実を伝えず、そのことによって公安を害している。諸君は日本の真の地位を不正確に描写している。
 諸君が公表した多くの報道は、真実に反していると知るべきである。今後日本国民に配布される記事は、一層厳重な検閲を受けることになる。新聞とラジオは引続き100パーセン卜検閲される。虚偽の報道や人心を誤らせる報道は許されない。連合国に対する破壊的批判も然りである。日本政府は直ちにこの方針を実施に移す手続きをとらねばならない。もし日本政府がやらなければ、最高司令部が自らこれを行う。》

「この場合、大佐のいわゆる「真実」が、米国、あるいは占領軍にとっての「真実」であって、日本の報道関係者にとっての「真実」でないことはいうまでもない。逆に、日本と連合国側が基本的に「対等」であり、「交渉」が可能だというのは、日本側にとってこそ「真実」であるが、占領軍側にとっては「虚偽」でしかない。
  このように、二つの相互に矛盾する「真実」が提示されたとき、もし自由な判断が可能な状況に置かれていれば、人は自ら検証してそのいずれかを取るか、そのいずれもが「真実」ではないという立場を取るかの、どちらかの態度を選ぶにちがいない。しかし、検閲は、その性格上自由な判断を許さず、一方にとって「虚偽」でしかないものを、唯一の「真実」と認めることを強制するのである。
  これはいうまでもなく、言葉のパラダイムの逆転であり、そのことをもってするアイデンティティの破壊である。以後四年間にわたるCCDの検閲が一貫して意図したのは、まさにこのことにほかならなかった。それは、換言すれば「邪悪」な日本と日本人の、思考と言語を通じての改造であり、さらにいえば日本を日本ではない国、ないしは一地域に変え、日本人を日本人以外の何者かにしょうという企てであった。
  そのためには、占領軍当局は、あの「巨大な罠」が作動するのに先んじて、日本人を眼に見えぬ「巨大な檻」に閉じ込めてしまわなければならなかった。九月十四日の同盟通信社に対する海外業務停止指令につづいて、十月二十五日に在京中立国日本公館の財産および文書引渡が指令され、十一月四日、在京中立国公館との正式関係が停止されるに及んで、日本の言語・情報空間は官民を通じてついに全く閉鎖されるにいたった。
  第二次大戦中、カリフォルニア州マンザナの日系人強制収容所には鉄条網が張りめぐらされ、監視塔が設置されていたが、眼に見えぬ戦争の戦場となった日本本土には、それに類する虜囚の象徴はどこにも見当らなかった。監視哨の役割を果すべきCICとCCDの活動は、いずれも細心に隠蔽されていたからである。
  九月十五日午前、日本報道関係者の前で声明を読み上げたのち、フーヴァー大佐の動静は一度も日本の新聞に報じられることがなかった。ワズワース大佐、パットナム大佐、サイクス中佐、グローヴ大佐というような後任者にいたっては、その名前が活字に表れることすらなかったのである。」

発行停止になった朝日新聞には、鳩山一郎氏の談話
 《正義はカなり≠標樺する米国である以上、原子爆弾の使用や無辜の国民殺傷が病院船攻撃や毒ガス使用以上の国際法違反、戦争犯罪であることを否むことは出来ぬであらう。》
  「求めたい軍の釈明/此島の暴行#ュ表へ国民の声」という見出しの記事
  《暴行事件の報道と、日本軍の非行の発表とは、何らかの関係があるのではないかといふ疑問を洩らす向もある。激烈な戦闘中における異常心理による暴虐と、今次の如き平和的進駐における場合の暴行とは、同日に論ずべきではないが、日本軍の暴虐は比島におる民心をつなぎ得なかった一原因であったとか、米国新聞記者によって指摘されている。この点は若干事情を異にするとはいへ、今日日本における連合軍についてもあてまることであり、日本が新たな平和への再出発するにあたり、連合軍側があくまでも人道に立って正しく行動してもらひたいと要望してゐる》

押収された「東洋経済新報」の論説「進駐米軍の暴行/世界の平和建設を妨げん」には、
  《最近米国では頻に我が軍隊が出征先に於て乱暴を働けりとて非難し、或は捕虜虐待等を問題にし、所謂戦争犯罪として之れを処罰すべしと称してゐる。記者は日本の軍隊が出征地に於て為せりと伝へられる所のものに就ては、天魔が彼等に巣食へるかと申訳無く感ずる。若し真実なら其等の犯罪者は日本人自身に置いて厳罰に処すべきだ。
  ・・・彼等は日本に平和思想を植え附ける使命を果さうと云ふのである。併しそれには米軍乃米国自体が其の使命に応はしき行為者たることが肝要だ。さもなくば何うして彼等は他国民の精神にまで立入り得ようか。》
  切り張りするには、どれももったいないような名文である。

さらにこんなのも、
 《 焼跡の菜園雨に打たれをり》
 《一円と二十銭なる竹槍で みいくさせしも夢のまた夢》

アメリカ人のジャーナリストも何でこれが危険なのか?と首を傾げてる。そして日本の各新聞の記者たちは
 《実際、米国人の信条や慣習に関するコメントは、一般にあまりに好意的で、ほとんど阿諛追従の域に近づいている》と評されている。

なんでこうなっちゃうかというと、「タブー」を共有したから、と著者は言う。

「つまり、戦前戦中の日本の国家権力による検閲は、接触を禁止するための検閲だったということができる。天皇、国体、あるいは危険思想等々は、それとの接触が共同体に「危険」と「汚染」をもたらすタブーとして、厳重に隔離されなければならなかった。被検閲者と国民は、いわば国家権力によって眼かくしをされたのである。
  これに対して、CCDの検閲は、接触を不可避にするための検閲であった。それは検閲の秘匿を媒介にして被検閲者を敢えてタブーに接触させ、共犯関係に誘い込むことを目的としていた。いったんタブーに触れた被検閲者たちが、「新たな汚染の中心」となり、「邪悪」な日本の「共同体」にとっての「新たな危険の源泉」となることこそ、検間者の意図したところであった。要するに占領軍当局の究極の目的は、いわば日本人にわれとわが眼を刳り貫かせ、肉眼のかわりにアメリカ製の義眼を嵌めこむことにあった。」

本の題名、ワードだと「閉ざされた」とでてくるのよ。送り仮名が違っている。気になっていたら、本文に「「当用漢字奉」の強制と新仮名遣いの採用という、CI&E(Civil Information and Education Section, 民間情報教育局)が推進した国語政策」とあった。知らなかった!!戦前の本も読みやすいんだけれど、打ち込みづらいんだよね。日本人の国語学者が変えたのかと思っていた。日本の文化を勝手に変えんなよ!!
  漢字については、台湾の古いまんまの漢字と、中国の簡体字と、日本の当用漢字とバラバラになっちゃっている。これって意図的なものだったのかしら?アジアを分断したかったのかなぁ。

さらに、「毎日新聞」に文芸時評を書いていた著者は、「それは三島由紀夫の自裁にはじまり、繁栄≠フなかに文学が陥没し、荒廃して行った九年間だったが、来る月も来る月も、その月の雑誌に発表された文芸作品を読みながら、私は、自分たちがそのなかで呼吸しているはずの言語空間が、奇妙に閉され、かつ奇妙に拘束されているというもどかしさを、感じないわけにはいかなかった」のだそうです。

報道のみならず、日本文学もかぁ。近頃の作品はトンと読まないので・・・読む気にならないと言うのも、そのせいかも知れない。

「大東亜戦争」「太平洋戦争」「第二次大戦」「15年戦争」。言葉が多すぎて、私なんかどれを使っていいんだか解らない、と以前から思っていた。
「大東亜戦争」→「太平洋戦争」となったのは、「ウオー・ギルト・インフォーメーション・プログラム」によるということです。

戦争そのものの被害よりも、敗戦による価値観の違いや、教科書の書き換えにショックを受けた人が多かったのは、小説や人から聞いて感じてはいたけれど、検閲や、「プログラム」による外国からの圧力のせいだったと思うと、ほんと、腹立つねぇ。しかも「自由」や「民主主義」を標榜する国がねぇ。
  で、今も「正義の戦い」をやっちゃっているんですねぇ。きったねぇ!!

で、今も、日本政府や財界はアメリカのいうがまま。マスコミは、それを習慣にしてしまったのですね。天皇家の報道に関する自主規制について、著者の体験にもとづき、使わない言葉と使う言葉の一覧が載っています。正直言って、「えっ、こんなの知らん!!」というのもあり、いまさら元に戻すのは無理がある。これから先、天皇制をどうするのかという問題も絡んでくるから、特殊な言葉をそう残す必要もない、と同時に、ほかのこともやってんだろう、自主規制も程々にしろよ!!とも思う。

「教科書論争も、昭和五十七年(一九八二)夏の中・韓両国に対する鈴木内閣の屈辱的な土下座外交も、『おしん』も、『山河燃ゆ』も本多勝一記者の南京虐殺″に対する異常な熱中ぶりもそのすべてが、昭和二十年(完四五)十二月八日を期して各紙に連載を命じられた、『太平洋戦争史』と題するCI&E製の宣伝文書に端を発する空騒ぎだと、いわざるを得ないからである。」
  これには反論したいなぁ。アメリカの「真実」が、戦勝国からの押し付けならば、これも、おごりじゃないかな。相手国の「真実」、被害者からの「真実」にも耳を傾ける姿勢がないと・・・同じことしてどうするのさ!!日本の文化、「恥」を知りなさい!!と言いたくなる。著者にでなく、最近声高に言う人たちにね。

事後検閲でCCDが失敗した例として、東條元首相の弁護人清瀬一郎博士が、長文の序文とあとがきを寄せている読売新聞記者団編の『二十五被告の表情』と、土肥原賢二大将の弁護人太田金次郎氏の著書『弁護二十年』が載っている。東條さんかっこいいねぇ。清瀬弁護士の主張(ポツダム宣言の尊守。「戦争が正当なものであるなしに拘わらず、いかなる独立国も交戦権を保有しており、この行使を犯罪と看做すことはできない」(私はあれは侵略戦争だと思うし、開戦して欲しくなかったし、だから交戦権を放棄となったのだと思うし・・・でも当時の国際法から見たら敗けた方だけ悪いとはいえないとも思う。負けたのは当然の結果としても。で、死刑にもして欲しくなかった)、ドイツの敗戦の仕方との違い)も「なるほど!!」と思った。東條さんには、本人が言っているように、国民に対しての責任は取るべきだし、軍の統帥権は天皇にあったとしても、首相としての軍隊の行動への責任もあるだろうしね。そうだねぇ、靖国に祀られていても、違和感はないねぇ。もともと日本って死んだらみんな許しちゃうというか、神様にしちゃうからねぇ。靖国神社のあり方と、そこに詣でる馬鹿な首相たちが問題なのであって・・・

でも、極東国際軍事裁判の判決も、南京大虐殺や慰安婦問題同様、なかったことにはできないんだよね。《日本の軍隊が出征地に於て為せりと伝へられる所のものに就ては、天魔が彼等に巣食へるかと申訳無く感ずる。若し真実なら其等の犯罪者は日本人自身に置いて厳罰に処すべき》だったと思うし、お灸を据えた人や牛蒡を与えた人のように、誤解もずいぶんとあったようだけれど・・・
  歴史から学んで、これからはそんなことが起きない、起こさないようにしなくては・・・そのためにどうしたらいいか、という問題に向き合っていかなくてはね。





No.8

市民がつくる地方自治

 りっちゃん
08/1/25

池上洋通氏の講座第二弾が始まった。参加者の「漫談を聞きながら勉強になるから来ました」という発言に答えて、「今日は漫談はやりません」と言いつつも、どこかの会議で「痴呆自治の第一人者」と紹介されちゃったとか。池上節、聞けるなら、寒くても全5回頑張って通うよ。

まずは復習ということで、一人一人が幸せに暮らすために、政治があり、それを実現するには、「誰にでも」あてはまる政策を決定する中央政府とは別に、ひとりひとりに眼が届く地方自治体とその政府(長・行政組織と議会)が大切な存在であること。だから、住民から直接に選ばれること。などのお話がありました。昨年の講座内容については、人民主権と地方自治 布施と勇気「人権ボケ」と「当ったり前」民主主義の根幹は個人である住民による第二の政府を御参照下さい。

日本国憲法第8章
  第92条【地方自治の基本原則】地方公共団体の組織及び運営に関する事項は、地方自治の本旨に基づいて、法律で、これを定める。
  第93条【地方公共団体の議会、長と議員等の公選】@地方公共団体には、法律の定めるところにより、その議事期間として議会を設置する。A地方公共団体の長、その議会の議員及び法律の定めるその他の吏員は、その地方公共団体の住民が、直接これを選挙する。
  第94条【地方公共団体の権能】地方公共団体は、その財産を管理し、事務を処理し、及び行政を執行する権能を有し、法律の範囲内で条例を制定することができる。
  第95条【特別法の住民投票】一つの地方公共団体のみに適用される特別法は、法律の定めるところにより、その地方公共団体の住民の投票においてその過半数の同意を得なければ、国会は、これを制定することができない。

ここでは、「国民」ではなく、「住民」という言葉が出てきます。「国民」というのは「国籍法」で決まられていますよね。で、「住民」というは、選挙権のない子どもたち、外国人、法人も含まれるそうです。だから、外国人や法人も住民税の対象となるんですって。だったら、外国人にも選挙権が与えられる法的根拠があるのでは?という質問には、「公職選挙法」でできないことになっているとのこと。つまり、「公職選挙法」を改正すればいいことですね。

「地方自治は国民主権の地方的な形態であり、国家が権利主体である国民によって構成されるように、地方自治体は住民によって構成される政治的共同体である。したがって、地方自治の本質は権利主体である住民の自治(住民の自己統治=住民主権)であり、その政府は住民の意思に由来するものである。」

宿題が出たのですよ。1960年以降の投票率を調べなさい、という・・・年々落ち込んでいるだろうとは予想していましたが、ひどいものです。

衆院・参院選は、下降気味ではありますがそれほど目立たず、ばらついています。都知事選は、最高は美濃部さんの2期目、72.36%、最低は鈴木さんの3期目、43.19%。最新(2007)のが、54.35%。その時々の人気や盛り上がりにだいぶ影響されています。都議会選では、最高が1959年の70.13%、最低が1991年の40.80%で、2007年は43.99%。都の区市町村長選では、最高が1955年の80.63%、最低が1991年(平成3年)の49.97%。それ以降50%を切ったまま。2007年は46.05%。都の区市町村議会選が一番ばらつきもなく下降線がくっきり見えます。最高が1951年の77.22%、1995年から50%を切り、最低が2003年の44.843%、2007年が45.83%。(都選挙管理委員会のホームページより)

小平市の投票率は、市の選挙管理委員会に行って調べてきました。職員の方たちが親切丁寧に対応してくださって、ありがとうございました。市長選の最高が1955年の75.79%、最低が1997年の27.53%、2007年が40.82%。市議選の最高は1951年の、83.02%、最低が2003年の46.12%、2007年が48.11%。都の平均に比べ、だいたい2%ほどまし。

これは以前から気がついていたことだけど、島や田舎ほど投票率は高い。島のほとんど(2007議会選)が80%を超えている。おらが地域の代表者的選挙は、有権者の多い地域にばかり利益が誘導されてしまったり、自分の意思とは違う義理で投票してしまったりという、弊害もあるのだけれど、投票率的には優等生だね。“おらたちの代表者”を選ぶのだという意識そのものは、素晴らしいことなのかもしれない。
  ちなみにワースト3(2007)は、足立区33.59%、港区36.14%、目黒区38.49%。多摩地区では、最低の立川市が42.8%。下町は割といいような気がする。あと、文化度というのかな。区でもその区のカラーによるような気がする。(janjan ザ選挙 東京都より)

ここで少し持ち直しているとはいうものの、年々主権者、主体者としての自覚が足りなくなっているのが歴然。しかも、身近な選挙ほど下降線がくっきりというのは、暮らしがどうなってもいいということなのか?同じ地域に住み、住民税もきちんと払っているのに門前で投票する権利を閉ざされている人たちがいる。なのに、自ら手放すなんて、「もったいない!!」

「もったいない」と言えば、環境問題ですねぇ。「人間社会はいつも自然と歴史から謙虚に学び、地域社会の自然的・歴史的条件を重視して運営されてきた。現代社会の最大課題とされる環境問題は、この原理を投げ捨てたことから起きたのであり、そのことは、地域の環境性を無視した産業計画による各種の公害が、人びとの基本的な生存権をおびやかした経験からも明白である」。一寸硬いかな。「日本にはかまどの神様がいたでしょう?ご不浄の神様も。何でも神様だったんですよ。どれも自然からできているんです。石油からできていても、石油って自然でしょう?物を大事にしなくちゃいけないんです」。はい、まったくです。もう、池上節に素直にうなずいちゃうんだよねぇ。

「お神楽は今やっていますか?」「ここ30年、やっていないですねぇ」「なくなっちゃっていいんですかぁ?地域の文化こそ地方自治です。檜原の里神楽は村ごとに人間の根源に関わるストーリーをそれぞれ持っているんですよ」。

「1960年には、各地の青年団が安保阻止の為に駆けつけたんですよ。交通費自腹を切って。戦争になったら、田んぼや畠がどうなるか、みんな憶えているから・・・」そう、日本の祭にも書かれていたよ。青年団の教育力って大事だったんだ。今は・・・ない。「伝統」って、声高にいう人たちは「伝統」を理解しているのかいなぁ。心もとないよ。八百万の神がいるんだよ、日本には。天皇はその一系列に過ぎないんだけどなぁ。みんなの御先祖だって、その神々のひとりに違いないんだけれど・・・

「「地方自治の本旨」とは、住民自治(一定の地域とその社会を住民の意思によって統治すること)、団体自治(それぞれの自治体が中央政府や他の自治体を含む他からの干渉・支配を受けることなく、決定し、行動できること)は、いずれも地方自治体の組織と運営のあり方を定める決定方式・活動方式であり、その目的はすべての住民の基本的人権の実現である。」

「住民を2種類に分けることができる。@主権者・有権者・支配者として積極的に動く A受益者であると同時に消極的住民自治の一員」、例えば子どもが意見を訊かれて答えた場合とか。

池上洋通先生からのお勧め本。杉浦泰雄著「憲法と国家論」、宮本憲一著「環境経済学」、「地方議会改革」。講座に市役所の職員が何人も参加しているのがなんとも心強いです。

前回同様、時間が押して、駆け足気味で、わたしは一寸未消化かも。次回も漫談を、いえ、濃い内容、身につく勉強を楽しみにしていま〜す。





No.7

オレの心は負けてない

 オッケントムの会
08/1/22

朝鮮学校に教育保障を! 二度目のチャリティー映画上映会のお知らせ

ドキュメンタリー映画 『在日朝鮮人「慰安婦」宋神道のたたかい−オレの心は負けてない』

日時:2008年2月9日(土)13:30開場14:00上映開始

場所:立川市女性総合センター・アイム(JR立川駅北口徒歩 5分)

チケット代:1000円

・映画の紹介

・上映の趣旨
  朝鮮学校に教育保障を!オッケトンムの会は、朝鮮学校への「教育保障」を求めて、2004年から活動しています。メンバ ーは、日本人の市民と立川の朝鮮学校の保護者・元保護者です 。これまで、朝鮮学校と地域社会を結ぶ活動(映画の上映会、在日朝鮮人や朝鮮学校について知るための写真展、講演会、勉強会、キムチ販売など)や、自治体への要望、交渉などの活動を行ってきました。なかでも、オッケトンムの会のスタートに際して、2005年2月11 日に開催した『海女のリャンさん』上映会は、300人あまりの観衆を集め、売上げの中から西東京朝鮮第1初中級学校(立川市)にプロジェクターを寄贈することができました。私たちは2008年2月、2度目のチャリティー映画上映会を行います。上映する映画は『在日朝鮮人「慰安婦」宋神道のたたかい ――オレの心は負けてない』です。宋神道さんは朝鮮の忠清南道に生まれ、16歳の時にだまされて中国で7年間、日本軍の「慰安婦」を強制された後、軍人に連れられて日本にわたってきました。映画は、沈黙の半世紀を経て、日本政府を相手に謝罪と補償を求める裁判を起こした宋さんが、支える会の人々と出会い、自ら被害回復の道を歩んだ過程を描いています。そして、「慰安婦」として心身に深い傷を 負った宋さんが、戦後の日本で在日朝鮮人として差別を受け、 さらに傷を深めていったことを物語っています。 私たちは、この映画上映を通して、戦前戦後にわたる日本と朝鮮、そして在日朝鮮人との関係と歴史を今一度見つめ直し、現状を変えていく力にしたいと考えています。ぜひ、上映会にご参加ください。また、賛同団体も募っております(賛同金、一口1000円)。

・チケットのお申し込みは
  Fax :042-573-4010 または、E-mail:watasitati2004@yahoo.co.jpまでご連絡下さい。

チケット代金は、上映会の当日にお支払いください。

当日券は用意しますが、出来るだけ事前にお申し込みいただけますようお願いいたします。




映画を見てきました。雪が降ってきたというのに満員でした。

主催者の一人が「支える会」のメンバーでもあり、映画にもちょこちょこ出てきています。映画の前の挨拶で、「「針の穴ほどのすきもなかった」宋さんが私たちとの交流を通して、変わっていった。またわたしたちも変わってきた」とおっしゃっていましたが、言葉は荒いけれど、本当に「オレは本当のことしか言わない」宋さんです。

裁判で棄却されたあとだったかの挨拶回りで、福島瑞穂さんを訪ねて、「お久しぶりです」と温かく迎えられたその時、彼女の口から出た言葉が「あんたも年をとったね」だったかな。間髪を入れない口調もだけど、す、鋭い!!だれを相手にせよ、本当に思ったことを言っている。

「慰安婦」が問題になる以前、生活保護を受けての生活について、嘆願書のようなものを出しています。「生活保護を受けているのに、贅沢をしているとかアレコレ言われて肩身が狭い。年金のようなものが欲しい」と。正々堂々と生きたい!!という彼女の気持が理解できます。

16才のときに騙されて「慰安婦」となり、終戦で日本兵に「結婚しよう」と騙されて日本につれて来られ、博多についとたん、放り出されたのですから、人間不信になって当然。「慰安婦」110番への電話から、彼女の存在がわかり、聞き取り調査がはじまるのだけれど、「慰安婦」時代に生まれた子どものことになると、話をそらしたとか、心が痛むからこそなんだろうなぁと思う。

韓国でハルモニたちの暮らしている「ナムルの家」へ訪ねた時には泣きっ放し。で、なぐさめようと「泣くな、いもとよ」とか「東京音頭」が歌われるんだ。宋さん、ぱっと踊りだすんだよ。もう泣いたり笑ったり忙しい。で、映画を見ている私たちも、一緒になって泣いて怒って笑っちゃった。

「オレのような目にあわないように、戦争だけはしちゃ駄目だ」と、真剣にメッセージを伝えてくれます。そして、日本の裁判所は、彼女たちの真剣さに対し、時効だからとの棄却。彼女は、生きることに必死で、裁判をもっと以前に起こすなんてことはできなかったにもかかわらず、なんとも冷たい対応。

でも、彼女は「裁判に負けても、オレの心は負けてない」と言い切るのです。タフだなぁ。今は一人暮らし、でも、今が一番幸せだとも。過去を隠すのではなく、正々堂々とたたかえたこと、支える会との交流を通して、人間不信を乗り越えたから、一番幸せと言えるのかな。外は寒かったけれど、心はホカホカ。こんな時代だからこそ、女が元気に生きなくっちゃね!!と、友人と言い合って帰途に着きました。





No.6

憲法の歌 つくりました

 ごろんぴー
08/1/14

憲法(とくに9条)の歌つくりました。
  この歌は、何の歌かわからないと思いますが、詞を良く読むとわかるような歌です。良かったら聞いてみてください。

「小さな公園」




相変わらず音無しです。ごめんね。詩は読んだけれど、抽象的過ぎて、これが憲法の歌とは、よくわからないなぁ。でも、忙しいのに、歌づくり続けているんですねぇ。偉いなぁ。みなさん、ごろんぴーさんの新曲をぜひ聞いてくださいませ。

私もまたいつか、自分の思いを言葉にして、歌ってみたいなぁ。





No.5

八王子市長選

 りっちゃん
08/1/11

バナー八王子のみなさーん、今日、八王子市長選に立候補予定の橋本よしひろさんの選挙事務所に行ってきました。なんかねぇ、とっても明るい感じの事務所だったよ。川田龍平を応援する会からポスティングのお手伝いのメールが来たものだから、ちょこっとだけお手伝い。でね。よしひろさんから、「高尾山 ちいさな山の生命たち」(佐野高太郎 かもがわ出版)という本を見せていただきました。素敵な写真が一杯。いいねぇ、自然って。

説明してくださっている間も、にこやかで、丁寧で、とっても素敵なオジサマという印象。よしひろさんのキャッチは「グッドバランスでいこう。〜環境・くらし・経済〜」。上のバナーをクリックしてよしひろさんのサイトを覗いて見てくださいな。今の日本を変えるには、細かい差異にこだわらない、いろんな人と一緒にやっていきたいとおっしゃっていました。大賛成。みんなが元気でいきいきできる、そんな市政を作っていって欲しいですね。たくさんはお手伝いできないけれど、みんなで、できること少しずつ、応援しましょうよ。動けば変わるって。





No.4

戦後日本は戦争をしてきた

 りっちゃん
08/1/7

姜尚中さんと小森陽一さんの2006年〜2007年8月までの対談を本にしたものです。朝鮮戦争がまだ終わっていなかったなんて知らなかった。日本と韓国・北朝鮮の歴史というのかな、それも詳しく書かれていて、「なあるほど!だから、今こうなのね」でありました。

日本の経済成長のきっかけは確かに朝鮮戦争だし、ベトナム戦争でも、兵器の一部に日本製があったそうだし、決して日本は戦争なんかしていないと、堂々と胸を張れる訳でもないけれど、さりとて、朝鮮戦争そのものも、日中戦争の流れと言われてもなぁ。お二人は日本にも責任ありとの御意見のようです。

ちょっと話がずれちゃうかもしれないけれど、暮れに「拉致問題」についてのビデオ鑑賞で、在日朝鮮人の方たちが、「絶対に拉致なんかしていないと思っていました。そう生徒にも言っていました。申し訳ないと思っています」というような発言があったのよねぇ。私はちょっと違うなぁと・・・だって、彼らがしたんじゃぁないもの。彼らは騙されちゃっていたわけだから、被害者なんだよねぇ。まぁ、間違えたことを教えたという意味で生徒には謝るべきだけれど、拉致の被害者でもない私たちに謝るのはちょっと違うと思う。同様に、当時の日本政府が強制連行をした責任を私達に問うのも違うと思う。だって、生まれていなかったのだもの。ただ、遺骨にしても、在日の人達の人権問題にしても、ほったらかしにしている現在の日本政府に対して、声をあげる責任はあると思う。日本人の若い人たちが反日運動なんかに反発を感じるのは、その辺の問題もあるのかなぁ。ヤフー掲示板のジョンさんが、中国での反日のテレビ番組を嫌がっていたけれど、自分が責められているように受け止めているんだろうなぁ。私は、中国語を習っている時に、南京大虐殺や731部隊の話を聞いていたけれど、多分客観的に受け止めていたんだと思う。日本人も悪いことをしていたんだとは思ったけれど、自分が責められているとは受け止めてはいなかった。だって、悪いことをしたのはその当事者と軍と政府だもの。やっぱり、長い文章だけれど「ハワード・ジン『歴史の効用とテロリズムに対する戦争』を語る」を読んで欲しいなぁ。市民=政府ではない。市民はそれぞれ別な考え方をもてるし、行動も出来る。

「グローバル資本は国民を裏切る」という項がありました。「グローバリゼーションの中で国家が、人々が生きていくことを支えるという行為=政治をやらなくなった。姜さんは「国家の退場」とおっしゃっていたけれど、そういう中で最も地底に叩きつけられて、地底にとどまらず穴に落とされているような人たちを、誰がどう救済するのか、すべての問題はこの無責任体制に内在しています」。私もそう確信しています。今広がりつつある格差。農業政策や医療、保険の問題。みんな、私たちの暮らしに直結し、暮らしづらくなっています。これからもどんどん。物価も上がり、消費税も上がったら、もっと。そして、すでに心が貧しくなっている人たちがいます。池田小学校や池袋通り魔殺人事件、6日の新聞にも戸越銀座で刃物で通行人を刺した事件が載っていました。お二人ともそれは弱いものに攻撃を向けたテロだって言うのよね。そう言えば・・・犯人たちはみんな自分が被害者だと思って、通りがかりの人を加害者のように錯覚して、しかも弱いからやっつけられると思ってやっている。「違うことをせい!!」とは思うね。だからと言って、強いものに刃を向けよとも思わないけれど・・・それに、毎年3万人の自殺者、死ぬより先に抗議の声をあげるという方向にいくといいのだけれど・・・

確かに、私たち日本人は戦後も、お隣やちょっと向こうの国の戦争のおかげで、豊かさを享受したのかもしれない。でも、そのひずみで、何かを失ってしまってきてもいる。弱いものがより弱いものを叩く。いじめがその代表格かな。他にも、地域の共同体、農業、緑も壊しちゃってきた。何よりも、憲法の拡大解釈と称して、自衛隊、安保条約を許してきた。これって、はっきり言えば嘘つきだよね。“真面目に考えるのが馬鹿らしい”というムードが日本に広がっているのは、これが大きいのかも。日本人の誠実さ、勤勉さがなくなりつつあるのも道理かな。ここらで少し、100年先を見越して、日本のあり方を考える時じゃぁないかなぁ。

「日本はアメリカの核の傘から出よ」「『原爆投下はしかたがない』は、核武装論と同じ」も同感です。南北朝鮮は休戦中に過ぎなかったのね。ソ連も中国も実質資本主義になっちゃって、日本はアメリカとの安保条約があって、ずーっとアメリカの核の脅威にさらされていた。インドなんか、核武装化を米国に協力してもらっているし・・・そりゃ、北朝鮮も核武装したくなるわな。私はやめて欲しいけどね、勿論。だって、核の怖さを知らなさ過ぎだよ。

「長崎・広島の論理とは、どんな国、どんな民族、どんな人々にも、核による悲惨は二度とくり返さない、ということです」。そう、悲惨さをようく知っているから、そういう結論になるのです。核を持つのは、知らないからだ。核で核の脅威を抑止なんて、全く馬鹿げている。核実験後の六者会議の北朝鮮の代表者の顔が馬鹿面に見えた。米国は、アフガンとイラクを抱えているから、北朝鮮とは話し合い路線でいかざるを得ないだけ。「してやったり」顔がいつまで持つか。

お二人は、「憲法9条をさらしにまいて」いるそうです。そして、
  「二〇〇六年という年を振り返ってみると、ブッシュ大統領自身が「イラク戦争、イラク攻撃は間違っていた」と言いました。さらにアナン国連事務総長も辞め際に、「アメリカとイギリスによるイラク攻撃は国連憲章違反の、やってはならない侵略戦争、国際法違反の犯罪だ」 と言いました。
  実際、軍事介入では何も変わらなかった。むしろフセイン政権が統治していたときよりもひどい状況、暴力で社会が解体されるような事態にしてしまいました。イラク戦争は誤りだった、ということを、ブッシュもブレアも認めざるをえなかった。大国の軍事介入によって、ある国家体制を思いどおりに変えることなんか今の世界ではできない、という教訓をみんながもったわけです。
  ですから、同じ二〇〇六年に核実験をした北朝鮮に対しては、国連の安全保障理事会が全会一致で軍事力の行使を伴わない、つまり国連憲章第四一条に基づく決議を採択しました。「兵力の使用を伴わない」(四一条)ということは、日本国憲法九条の精神に基づくものであり、平和的な外交で制裁を加える、という決議を全会一致で挙げているわけです。これはアメリカも含めて合意せざるを得なかった。二〇〇六年という年を、世界の状況と同時に日本の状況の中で振り返ってみると、九条の考え方が国際的な矛盾を解決していく今最も現実性を帯びた一つの重要な論理となっていることが確認できます」

日本政府が率先して、憲法9条を活かした提案をすれば、かっこよかったのにねぇ。その政府が「武器輸出3原則緩和検討」だって。かっこ悪い!! “防衛産業”の国際競争力強化だって。“軍需産業”だろうが。勝手に名前を変えなさんな。

「拉致問題をはじめとする北朝鮮に於ける人権問題を考える」、人権週間の吊るし広告を昨年見かけた。あれは法務局、つまり私たちの税金を使っているんだって。おい、おい。無駄遣いだぜ。よその国の問題より、自分の足元の人権を正すのが先だろうが・・・それに
  「サダム・フセインや金日成が、自国民を殺したり残虐行為をしている。たしかにそれは歴史の悲劇としてやめさせなければいけない。しかしアメリカが外側でやっていることは、超大国であるがゆえに、選択を誤ると何百万人も死ぬわけですね。今はもうイラクで数十万人死んでいる」
  間違えちゃった戦争でだよ。アメリカはどう責任を取るんだよ。まったく、こっちの人権問題はとりあげないで、北朝鮮だけ「脅威」を煽っている。でも、もう、拉致問題にも、政治がらみ過ぎて、みんなものらないんじゃないかな。

蓮池薫氏のお兄さんは「救う会」を辞めたそうな。理由は「救う会」が北朝鮮の体制転換を考えているからだと。
  「拉致問題を解決するということとレジーム・チェンジを起こすということは違います。体制を転換させれば、生き残っている日本人は全部殺されてしまう。誰が考えてもそうですよ」
  「それだけじゃなく、どれだけの被害が韓国や北朝鮮の内部で起きるかしれない、それに核が拡散する可能性もある。どこに核があるのかわからないにもかかわらず、彼らは体制転換が拉致問題の解決だと言っているわけです。
  これはどう考えたって、空想的です」
  「最も現実的な問題の解決とは距離の遠い、北朝鮮を「恐怖」の対象とする、きわめて非現実的な妄想と幻想が、ナショナリズムの中では現実的のように見えてしまう。この構図が一番危険だということですね」。
  「恐怖の存在」にあったように、つくられた「恐怖」にだまされないようにしなくては・・・

「好むと好まざるとにかかわらず、自由のウイルスを北朝鮮にバラまくしかないんです。これによって北朝鮮は資本主義化への道を歩まざるを得なくなる」「南北が統一されれば素晴らしい道が我々の前に開けているのか、と問われれば、そうは思いません。思わないけれども、今の段階では歩まざるを得ないのです」「一つの読みどころは、三代目も世襲なのかどうか、ということです。ここをぜひ、注意して見ておいていただきたい」

2世3世の世襲議員がごろごろしている日本、福田首相もだよね。日本って、本当に民主主義国家? 独裁政権よりもひどい状況を許している日本国民って、お怠け者? お願いに、「2世3世議員には入れないでね」を加えなくっちゃ。やれやれ。





No.3

年賀状

 ゆきやさん
08/1/3

(ゆきやさんから御賀状をいただきました。ゆきやさんの御了解を得て、08年、07年、05年分の文章を順に転載いたします)

子明けましておめでとうございます。
        2008年 元旦

先の参議院議員選挙では、漸く自民・公明政府に一泡ふかすことが出来ましたが、政府は、相も変わらず「強気を助け弱きを挫く」政策を変えていません。
  防衛省の不祥事は氷山の一角で、「日の丸、君が代、愛国心を・・・」などと唱える地位ある人達の殆どが、この体たらくだと思っていいでしょう。
  古来、国民が「国」を守った例は数多く、国が国民を守った例は稀であります。年金の破壊、農業の破壊、派遣労働法によるワーキングプアーの「創出?」、薬害の繰り返しと補償の出し渋りなどなど、米国への無償給油と裏腹をなすものです。
  一方、二大政党制という言葉が巷に溢れていますが、これも大きな欺瞞です。
  英国も米国も、保守、労働党時代、共和、民主党時代、みんな戦争に参加していたのです。文化・産業分野は「ニーズの多様化」に敏感に反応しているのに、政党が二つだけで良い訳がありません。日本人は、もっと、論理性を高めるべきです。

猪明けましておめでとうございます。
       2007年 元旦

お願い・・・ついに、「教育基本法」が改悪されました。時を同じくして、防衛庁が「防衛省」に昇格しました。このまま行けば「憲法改悪」「海外派兵」「徴兵制施行」へと、つまり、私たちが経験した、あの「戦時国家」へ逆戻りします。私は、私たち日本人が現憲法を守ることは、世界に対する最高の平和貢献だと信じます。
  この憲法を守るために必要なことは、来る参議院選挙で、自民党および公明党に所属する候補者には投票しないことです。私のこの訴えを、投票の際、是非思い出してくださるよう、心からお願い申し上げます。
  2007年 元旦

戌謹賀新年
      2006年 元旦

明けましておめでとうございます。
      2005年 元旦

賄賂を貰いながら「日の丸・君が代」を強制する、戦争を知らない、知ろうともしないそんな政治屋群が、ついに今年は「教育基本法」の改悪に乗り出します。戦争の加害者であり、被害者でもある私たち日本人、特に、昭和一桁世代は、平和憲法を守り、教育基本法を守ることに、力を尽くさなければなりません。

・・・徒に 歳はとるまじ 戦争の悲惨伝えし後 我逝かん・・・ゆきや




私も年賀状にお願いを書いておけばよかったかなぁ。「もし、衆院選があったら、今度こそバラケてね!! 具体的には、自民党、公明党、民主党以外。憲法9条を守る人に入れてください。9条の文章はそのままでも、勝手な、ワザと間違った解釈をして海外派兵をしようとしている人もいるから、気をつけてね。そうでないと、日本の若い人たちが、米軍の良いように使われてしまう。前線に立たされるかも。米軍の犠牲者よりも、もっと多いよ、きっと。戦争はしたいけれど、これ以上国内の非難を浴びたくないから、日本の兵士を必要としているんだから・・・

暮らしも苦しくなっているでしょう?みんな対米追随政策のせい。安保を捨て、対等な平和条約を結ぶといいんだと思う。そして、平和憲法をもっと有効に使おうよ。唯一の被爆国、核廃絶をもっと世界に訴えようよ。国内では、食料の自給率を高め、地域を活性化させることが大事だと思うよ。みんなが幸せになる為に、少しずつでいいからできることをやっていこう!! 「動けば変わる」って、龍平さんも言っているよ。

ゆきやさん、久しぶりの投稿、ありがとうございました。まだまだ、逝っちゃあ、駄目ですよ。戦争を知っている人たちには、戦争の悲惨さも、戦後の開放感についても、伝えてもらわなくて・・・やるべきこと沢山ありますから・・・本年もどうぞよろしく!! またのご投稿をお待ちしています。





No.2

署名のお願い

 りっちゃん
08/1/2

忙しさにまぎれて、12/26の「おんな組いのち」からのお知らせを転載しそびれていました。ごめんなさい。戦争のためのヘリコプターが上空を飛んでいるのはここも同じこと、決して他人事ではないのですが・・・

沖縄の東村の高江集落周りに、ジャングル訓練センター用の米軍ヘリパッドを6カ所建設する問題で沖縄防衛局による作業の着手が始まったもよう。ヘリパッドの工事は非常に簡単な作業で完了してしまう。以下、ブログ参照してください。
  『緊急事態』
  『入られました!』

署名は1月10日必着だそうです。ますますごめんです。





No.1

日本の祭

 りっちゃん
08/1/1

著者は柳田国男。昭和17年に大学生への講演会で話したものをまとめたもの。神道のことにも触れてしまう話題でもあり、時節柄すごく気を使っているなぁという感あり。でも、腰が低いというのかなぁ。決して「丸呑み」にしないでくれ、と、そして、いつも断定せずに、私はこう「思う」という記述がやたらと多い。民俗学が専門だから、自分の足で、あちこちの祭りを見たり、土地の人に聞いたり、マイクル・クライトンのメッセージにもあったように、フィールドワークを実践している。当時だけでなく江戸時代の学者も含めて厳しく批判をしている。漢語や仏教からの影響もあり、本来の日本語なり、行事、心持などをその時々の勝手な解釈で断定し、学問の積み重ねが出来ていないとのことです。

過去を解説し叉批判する風は、今日は既に盛んであるが、それは必ずしも常に知り尽くした人の言葉では無い。しかも批判せられる相手方は、何を言はれても黙って居る古人である。抗講も弁疏も出来ない過去の人の行為に対して、そんないい加減な判断を下すことは、単に不当であるのみならず、同時に自身の為にも大きな損である。国を今日の状況にまで持って来た力といふものは、好きにつけ悪しきにつけ、基づく所は悉く過去に在り人に在る。特に其為に大きく働いた中心人物が有っても無くても、とにかく背後に一団としての国民の生き方と考へ方とが、関与して居なかつた場合は想像することが出来ない。それがどう動いてこの結果に到達したか、その筋路が次第に明かになって、それを参考として始めて我々の、今後の計劃は立つのである。それを究めなければ、よしや目標は高く掲げても、どうしてそれへ歩み近づいて行くかの、具体的な進路は定まるものでない。今まではそれを只いはゆる腰だめで狙って居たのである。
  歴史は本来は政治家の学問であった。それを今日国民総数の普通教育の、欠くべからざる一科目と御定めなされた御趣旨は、我々には拝察することが出来る。一言でいふならば、之によつて我々は今までよりももつと賢くならなければならぬのである。眼前の世相の原因は、勿論複雑を極めたものであらうが、とにかくにこうなって来るには、さう幾つもの理由があらうわけは無い。つまりは数あまたの動力の、たった一種の組合せしか無かった筈である。それが現在我々に判って居るだけでは、まだ合点の行くやうな説明が付かぬとすれば、もしくは色々の相背反する解説が成立ち得るとすれば、必ずどの部分かにまだ我々の気付かずに居るもの、見過して居る点が残って居るのである。それを行く行く一つも洩れ無く、突留める途は無いものかどうか。といふより前に、先づ御互ひの前代探求の方法に何が欠けて居るか。どれだけの歴史知識が我々の生活に必要なものであって、しかも今はまだ学ぶことが出来ずに居るのであるか。斯ういふことを率直に考へてかかるのがよいやうである。私は少なくともさういふ反省をして居る。今以て一向に得る所は無いけれども、少なくとも前途に希望を抱いて、心楽しく学問を続けて居る。もし聴いてくれる人が有るならば、さういふ話をして見たいと思って、この講義には出て来たのである。

いいねぇ、“心楽しく”学問するんだって。最後のところにはこう書いてあった。

過去の信仰が今見る国民文化の特長に、たとへ一部でも参与して居ると言ひ得るならば、其信仰がちゃうど変化しようとして居ることを、冷眼に看過すことは出来ない。固より是がよいとか悪いとかいふことは、容易には言へることではない。世の中が改まればこうなつていくより他は無いのか、但しは叉避け得られる道が有るのに避けなかったのか。其の点はまだ私なども決しかねて居る。しかし少なくともどうでもいい気遣いだけは無い。世人の無関心は言って見れば無知から来て居る。自ら知るといふ学問が、今日はまだ甚だしく不振なのである。

学ぶということは、人生修行でもあるというようなことも書いてあったよ。全国共通の点を探すには、大きな視点を持っていないといけないとか、自分の専門でない分野はその道の人に聞け、とか、なるほどと納得することが多かった。学問ってこういうことねって。

聞き手は当時の大学生。「推理の能力に富み、且つ殆と白紙の如き感受性を備へた是等の若い人たち」に対して先ず、「親から子へ、租父母から孫へ、郷党の長老から若い者へ、古来日本に持伝へた物心両面の生活様式を、受け継ぎ覚え込」み、「我々のしばしば口にする日本人らしさ、それがひしひしと身に付き肉になり、自分と共に成長する機会、そういったようなものを諸君はその支払いに供しているのである」と、おっしゃっているんです。大学で学ぶことも大事だけれど、その間に学ぶべきことを学ぶ機会を失ってしまっている、と。青年団とか、若連とか、ウーン、もうそれもすでに無いだろう、でも、そこで、第一には婚姻に関する法則(少し面白すぎるからという理由でこの場での話は差し控えられてしまった)、其次に来るのは共同労働に関する法則、で、第三が「日本の祭」。

元はこうだったろうという結論めいたものは、割と単純なんだけれど、その過程がとても詳しく、又面白かったけれど、長くなっちゃうので、割愛します。

お正月は歳の神のお祭。門松は飾った?あれは、神様に「ここですよ。ここに降りてください」という目印。諏訪神社の御柱なんかもそうだって。期間は12月8日〜2月8日だったらしい。「今晩はよいお年越しでございます」というのを大晦日に言わせられたけれど、神様と御馳走を頂く前は、身を清める期間。日本の神様は穢れを嫌うんだそうな。だから葬式を神様でやるのはおかしいって。えっ、うち、やっちゃっているよ。で、清めというか、謹慎の期間は、音を立てない、生産活動はしない、刃物は使わない等々、なかなか厳しそう。んなもんで段々短くなっちゃったらしい。日本のお祭に共通するのは、この目印に樹を使うことと、神様と一緒の食事をすること。饗応というのかな。だから、神様がお喜びになりそうな、弓とか馬の競技、相撲、勿論歌舞もやるわけです。占いなんかは神様との会話とでもいいますか、農業中心の生活だと、何を植えるか、いつが良いか、天候はどうか、なんて教えてもらいたいですものね。でも、それだけでなく、わたしは、いつもの生活に追われる日ではなく、心静かに、今までのことを思い出し、反省し、これからのことを考える、大事な節目だったのでは・・・例えば、灌漑計画を立てるとか?ただ自然や神に感謝するだけでなく、もっと積極的にみんなで協同して出来ることを考えたりする時期でもあったのではないかと・・・だから「まつりごと」=政治。なんちゃって。でも、そうかも。

そうそう、神主さんが出来たのも、ずーっと後のことらしい。頭屋制というのがあって、輪番で、祭の主催者が変わったりしているところもまだあるとか。“白羽の矢が当たる”というのも神様(?)からその指名を受けることであったとか。段々、祭る神様が増えたり、行事が増えたり、やり方が複雑になって、職業とする人を必要とすることになったとか。物忌み(謹慎)が長くて、普通の暮らしと両立できなくなったのも大きいのかな。なんかね、大昔は地方自治でもあったし、直接民主主義でもあったし、神様(自然とか直感とか?)にも近かったんだろうなぁって。

「騙し絵日本国憲法」の前文名古屋バージョンにあったように「えりゃあさんにまかしとるだけ」では「どえらけねゃあ戦争」に巻き込まれたり、先兵にされたりの危険があるからねぇ。一人一人が、これからのことを考えたり、みんなと話し合ったりする、そんな時間かもしれないね。

「沖縄論」で小林よしのりさんが書いていたように、沖縄が一番残っているようだね。神との交流や信頼が濃いというのかな。神様が憑(よ)りますのは、女子どもが多いとも。男の人は、生産活動に従事して、目先に終われ、敏感じゃぁなくなるのかもしれないね。弱者の声に耳を傾ける節目でもあったかもしれない。私の空想と推理力によればね。いずれにせよ、祭とは、神様とともにある期間、皆様、心楽しくお過ごし下さい。




初詣、先ずは町内のお稲荷さんへ。次に御炊き上げをやっている武蔵野神社へ。大晦日から火の番をしてくれる人に大感謝。3日までやっているそうです。2日は、神明神社へ。こちらは350年の歴史があるそうです。初めて鳥居をくぐったのですが、「日本の祭」に載っていた「湯立ち」の釜がありました。本によれば、「専門の祝(ハフリ)、方言でホッドンといふ人を頼んできて、笹の枝を手に持って釜の四辺に振り濺がしめる。満座の人びとの晴衣もホッドンの浄衣も、皆しつとりと濡れとほるまで湯をそそぐのは、一種湯垢離とも名づくべき光景であつて、これを掛けられた者は何とも言はれぬ厳粛な気持になるといふ、以前はこの方法の繰り返しによつて、巫祝が自らに又は傍に居る或一人に神を憑らしめて、人間の言葉を通して神のお答へをうけ」たのだそうです。神明神社では、行列の脇に置いてあって、その釜の熱した塩水に笹の束を浸して、左右左と御祓いをするのでした。占いとは書いてあるけれど、ちょっと無理だなぁ。でも、置いてあるだけでも素晴らしい。





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りっちゃんちはです。