海の降る夜


鼻先を掠めた匂いに、クルセイダーは浅い眠りから目を覚ました。
暗い部屋の中、静かに降る雨の音が聞こえる。
寝台の中身動きして、微かに顔を上げると、自らの隣に濃い色の長髪を持った青年の姿があった。
起き上がらせた裸の上半身に、羽織るように掛けている闇色の衣装は、紛れもなくアサシンの装束であった。
アサシンは開かれた窓から、雨の降る夜の路地をぼんやりと眺めていた。
が、クルセイダーが起きた事に気付いたのか、優しい笑みを浮かべると彼の方を振り返った。
「起こしちゃった?」
ごめんね、という呟きに、クルセイダーは微笑んで首を振る。
「どうせ、浅い眠りだったし」
「熟睡できないほど激しくしたっけ?」
「……自分の胸に聞いて下さい」
幾分げんなりした顔でクルセイダーがぼやけば、アサシンは宥めるような手つきで、横になったままのクルセイダーの髪を指で梳いた。
さらさらと髪を撫でるアサシンの指に、それでもクルセイダーはしばらく眉をひそめていたが、やがて気持ち良さそうに目を細め、深く息を吸った。
気だるく、鈍い痛みの残る体に、湿った空気がじんわりと染み込むようだった。
雨の匂いを纏った空気が、胸の中一杯に広がる。
「……海の匂い」
「うん?」
眠たげな声の呟きに、アサシンが首を傾げた。
「海の匂いが、する……」
クルセイダーの呟きに、アサシンは雨の降る外を見やった。
「空気が湿ってるから、独特の匂いがするんだね」
「似てませんか?」
「海の匂いに?」
クルセイダーは小さく頷いた。
アサシンはうーん、と考え込むような顔をした。
「あまり綺麗な海じゃなさそうだけどねえ」
考えた挙句、彼は素直な言葉を口に出した。
雨の降る外から吹き込む、湿った、路地の埃を吸い込んだような空気は、間違っても爽やかな潮風とは程遠い匂いをしていた。
けれどクルセイダーは気を悪くした様子もなく、だからか、と呟いた。
何が、とアサシンが目線だけで問い掛ける。
「……懐かしい夢を、見ていました」
クルセイダーは静かに呟いた。
「多分、剣士になったばかりの日、かな。真新しい衣装に、腰に使い込んだ短剣提げて、一緒に剣士になった子と、イズルードの街で何時間も話し込んでたんです」
彼は優しい顔つきになると、静かに息を吐いた。
「あの時の、イズルードとよく似た匂いがします」
クルセイダーがそう言えば、アサシンは小さく声を上げて笑った。
「確かに、イズルードの海は綺麗とは言えないからなあ」
その言葉に、クルセイダーも笑う。
首都プロンテラに近く、大型の高速船が泊まる港もあるイズルードでは、確かに海の水は綺麗とは言えなかった。
けれど、海から立ち上る独特の匂いは、プロンテラ育ちの彼には馴染みが薄かったが、決して不快な物ではなかった。
馴染みが薄かったからこそ、こんな雨の匂いでも思い出してしまうのかもしれない。
きっとこの雨は、あの海から立ち上った水蒸気が、また海へと帰っていく為に降っているのだろう。
先程よりも激しくなった雨音に、クルセイダーは耳を澄ませた。
「……剣士になった頃って事は」
雨音の合間にアサシンが呟くのを聞いて、クルセイダーは彼を見上げた。
「まだ僕と会う前?」
「ですね」
「ふーん」
アサシンは窓辺に肘を突くと、クルセイダーを悪戯っぽい目で見つめた。
「夢の中に、僕はいた?」
「……いいえ」
「そっか……」
アサシンは残念そうに溜息を吐くと、髪を撫でていた手をクルセイダーの頬に滑らせた。
「悔しいなあ、こんなに好きなのに」
「……仕方ないですよ」
夢なんだから、とクルセイダーが言うが、アサシンは未だ残念そうな顔のままである。
窓辺についていた肘を離し、彼は開いている窓に手を伸ばした。
窓を閉めると同時に、雨の音が少し遠くなる。
「これで、邪魔者はいなくなった、と」
その言葉にクルセイダーが不思議そうに首を傾げれば、布団の中に潜り込んできたアサシンが彼をぎゅっと抱きしめた。
身動ぎしたクルセイダーの耳元で、アサシンはきっぱりと言い切った。
「次は僕の夢を見なさい」
「無茶言って……」
「無茶なものか」
そう言葉を返し、アサシンはクルセイダーの髪に頬を埋めるように口付けた。
内心では溜息を吐きつつも、自分を抱き寄せる頑丈な腕と、頭に触れた柔らかい感触に、クルセイダーはどこか穏やかな気持ちになるのを認めざるを得なかった。
目を閉じると、激しい雨の音だけが彼の耳に届いた。
けれどそれも、アサシンの腕の中で静かにしているうちに、段々と遠くなっていくようだった。
深い海の底に沈むように、クルセイダーは穏やかな眠りの中に落ちた。






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