望み



雲一つ無い夜空に、明るく浮かび上がる白い満月を、アサシンはつまらなそうに見上げる。
彼にとって、明るすぎる夜ほど退屈なものはない。かといって、明かり一つ無い夜も退屈なのだ。
明るすぎる空は獲物がすぐに自分に気付いてしまう。
暗すぎる空は獲物が殺される瞬間まで自分に気付かない。
暗くなったり明るくなったりを繰り返す夜空が理想的。それならば、狙った獲物が自分に怯える様子を、間近で観察できるから。
なんて思ったところで、空は何も変わりはしない。満月は相変わらす空に浮かんでいる。
適当に見つけた人間を一人殺したら、さっさと帰ろう。
物騒な事を考えながら、アサシンはカタールを抜いた。
冷たい色の刃に、彼は微笑みかける。
今までどのくらいの人間を殺したのだろう。残念ながら全ては覚えていない。
覚えているのは、自分が殺して、楽しかった獲物だけ。
依頼者の意志も、貰った報酬も、獲物の命乞いの声もどうでも良かった。
彼にしてみれば、人殺しは退屈しのぎなのだから。
仕事として依頼されなくても、彼は何人もの人間を殺した。いや、仕事でもないのに殺した数の方が多いかもしれない。
そんな彼に、多くの同業者はいい顔をしない。実際にどこかのアサシンギルドに命を狙われた事もあった。
あれは楽しかった、とアサシンは思い出す。
相手もかなりの腕だったが、当然、自分のほうが格段に強かった。けれど、彼はわざと手加減しながら、相手をゆっくりと追い詰めていった。
自分の方が優位にあると信じきっている人間ほど、絶望に突き落とされた時に立ち直れないものだ。
普段殺す側の人間が、殺されるという事を初めて実感した時に見せる動揺。
極限まで追い詰められた人間の目には、自分の姿しか映っていない。
ああいうのが一番楽しい。
しかし、結局は相手も仕事として自分を殺しに来ているのである。真っ直ぐな感情で、ただ自分を殺そうとしてくれる人間にはあった事がない。
どこかにそんな相手はいないものか、と彼は静かに耳を澄ます。
少し離れた所から聞こえる足音。それは、聞き覚えのある物だった。
彼は満足そうに微笑むと、息を潜めて闇の中に姿を隠した。
ゆっくりと獲物の後姿が見える位置まで近寄る。相手は気付かずに歩き続けている。
軽く息をつき、彼は一息で相手に飛び掛った。
ようやく気付いた相手が武器に手をかける。しかし、その武器を抜くも速く、アサシンが相手の首にカタールを突きつける。
獲物が小さく息を飲む気配が伝わってくる。
自分の絶対的優位を確認するかのように一呼吸置くと、アサシンは相手に微笑みかけた。
「こんばんは」
その声に、相手があ、と掠れる様な声で呟く。
「……貴方か」
そう言って自分を見上げてくる獲物――見知った男剣士に、アサシンは満足そうに頷いて、カタールを離した。
「こんな近くに来るまで気付かないとは思わなかった」
カタールを収めるアサシンに、剣士は困ったような顔で笑った。
「夜警続きで、少し疲れてるのかもしれない」
アサシンは肩を竦める。
「それぐらい、騎士団に全部任せてもいいじゃない」
当然といえば当然の言葉に、剣士は首を横に振る。
「普段世話になっている方の頼みを断るわけにもいきません。いつかは、自分も同じ様な立場に立たなくてはならないだろうし」
「真面目だね」
そう呟いて頭を撫でてくるアサシンに、剣士は抵抗しつつも微笑む。
「そういう貴方はこんな所で何を?」
まさか自分を驚かす為だけにいた訳ではないだろう、と聞く剣士に、アサシンはにっこりと笑って答える。
「秘密」
もちろん、楽しく殺せそうな人間を探していたなどと言う訳にもいかない。
剣士が微かに眉をひそめる。
「そうやっていつも誤魔化す……」
「別に誤魔化しているわけではないけど?」
彼の答えに、剣士は少し不満そうな表情をする。
「じゃあ、私には語る必要がないということですか?」
アサシンはうーん、とうめく。
「まあ、好きな人に言いたい事の半分も言えないものでしょ」
その言葉に、剣士が微かに頬を染め、目線を逸らして顔をしかめた。
「何か間違ってる」
「そう?」
アサシンは不思議そうな顔で答えると、剣士を背後から抱きしめた。
驚いて逃げようと抵抗する剣士の耳元に、そっと呟く。
「だって、言いたい事が多すぎるんだよ」
好きだよ、と囁きかけると、剣士が抵抗を止める。
腕の中の鼓動が速まっているのを、アサシンは感じていた。
充分間を置いてから、困ったような呟きが聞こえた。
「無茶苦茶だ……」
アサシンは何も言わずに、剣士の首元に口づける。
唇越しに伝わる温かさに、彼は静かに微笑んだ。
左腕で剣士の体を抱きかかえたまま、右手を彼の首に添える。そっと首筋をなぞると、彼は微かに体を震わせた。
少し力を加えれば、簡単に折れてしまいそうな首。
腕の中の剣士は、自分がそんな事を考えているとは夢にも思っていないだろう。もし知っているならば、こうまで自分の体を預けるような真似はしないだろう。
自分が殺人狂なのだと知ったら、彼はどんな言葉で罵ってくれるのだろうか。穏やかで真面目な彼が、自分ひとりの為に憎悪を燃やす姿を想像し、アサシンはぞっとするような快感を覚えた。
けれど、それはまだ早すぎる。
「……手を、放してください」
震える声で剣士がそう呟く。
アサシンは名残惜しそうに手を放すと、少し冷たい表情で彼に聞いた。
「嫌いになった?」
「そうじゃない!」
慌てて答える剣士に、アサシンは静かに微笑む。
「ところで、もう帰れるの?」
急な問いかけに、剣士は軽く首をかしげた後、頷いた。
「そう、じゃあ帰ってから、言いたい事色々聞いてもらおう」
そう言った後、彼は僅かに表情を変えて、もう一度剣士の耳元に口を寄せた。
「やりたい事も色々あるから」
剣士の顔色が変わる。
「っ、何を!」
「さあ……?」
アサシンは妖しく微笑んで、わざとらしく首をかしげると、剣士の手をとって歩き出した。
諦めたような表情で、剣士も歩き出す。
まだ、早すぎる。
剣士が、自分無しでは生きていけないと思うようにさせて、自分を誰よりも頼りに思うようにさせて。
自分以外の人間の事なんて考えられなくなるまで追い詰めて。
そこまでいって、初めて彼を裏切るのだ。
彼は強い。裏切られた事で一人落ち込むような人間ではないのは分かっている。
真っ直ぐな感情で、自分を殺しに来てくれるだろう。
彼ならば、自分の「狩り」に対する望みを叶えてくれるに違いない。
後ろを振り向くと、剣士と目が合った。
この目に、自分以外のものが映らなくなる瞬間が、彼は待ち遠しくて仕方がない。
その瞬間は、今は寝台の上でだけ。それでもいいと、アサシンは思った。
いつか来る時を、無闇に追い求める必要などどこにもなかった。
全ては、自分のためだけに。





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