逃げろ



普段は気にもしない、クルセイダーの制服でもある鎧の重みが、今は非常に鬱陶しく思えた。
いい加減に疲れきった体に、鎧の重みは更なる疲労しか与えてくれない。しかも走るたびにガチャガチャとやかましい音を立ててくれる。
これは改良が必要だ、と彼は、疲れた体とは反対に冷え切っている頭で考えていた。
プロンテラに戻ったら、聖堂騎士団に提言してみよう。
もっとも、無事に戻れたら、の話だが。
クルセイダーである彼は今、アルデバランの裏通りを、息を切らしながら走っていた。
アルデバランは時計塔や錬金術師のギルドで有名な町だが、少し町外れに出ると、人の姿は少なく閑散としている。
事実、彼は裏通りに入ってから、まだ人と顔を合わせていない。
静かな細道に響くのは、彼と、彼の弟子である少女の足音だけだった。
彼の片方の手は、まだ少女と言って差し支えのない年齢の、剣士の手を握っていた。
ちらりと、クルセイダーは剣士の顔を見た。
半ば引きずられるようにして、クルセイダーについて走る彼女は、既に息も絶え絶えである。
――そろそろ限界か。
クルセイダーが内心でそう呟いた時、前の道が壁で遮られており、そこから先は左右に分かれているのが見えた。
彼は分かれ道の前で、走り続けていた足をようやく止めた。
座り込んでぜえぜえと肩で息をする剣士を背にするように立ち、走ってきた道に目を凝らす。
追手は、まだ来ない。
軽く息を整えると、クルセイダーは左右の道を目で確かめた後、剣士の隣に腰を屈めた。
疲労の為か、それとも恐怖の為か。剣士の顔は青ざめていた。
これ以上無理をさせるのは可哀相だと思うが、仕方ない。
「もう少しだけ、走れますか?」
彼が訊ねると、剣士は何度か息を吐いた後、顔を上げて頷いた。
「では、貴方は右の道へ」
剣士が不安げな表情をした。
「……どう、するの……?」
「大丈夫、他の人たちがいる所まで、走ってください」
クルセイダーの返事に、剣士は首を横に振った。
「そう、じゃ、なくて」
剣士はそこまで言うと、軽く咳き込んで、クルセイダーを指差した。
「私?」
剣士が頷くと、クルセイダーは微かに顔をしかめて答えた。
「……ここで、彼を待ち構えます」
「殺されちゃうよ!」
怯えた声で、剣士が悲鳴を上げた。
しかし、クルセイダーは穏やかな顔をして、首を横に振った。
「戦いを挑むつもりはありませんよ」
彼はそう言って、左の道へと目をやった。
「彼が来たら、私は左に逃げて時間を稼ぎます。その間に、貴方は人を集めてきてくれませんか?」
クルセイダーの言葉を聞くと、剣士の顔に理解の色が浮かび上がった。
「……うん、やってみる」
剣士が頷くと、クルセイダーも安心させるように頷き返した。
「相手はアサシンです。一対一なら危険でも、集団で立ち向かえば……」
そこまで言った時、急に剣士の顔が恐怖に凍りついた。
それに気付いたクルセイダーが、背後を振り返る。
視界の隅に、何か光るものがある。
頭の中に、警鐘が鳴り響く。
反射的に、彼は盾を構えた。
次の瞬間、金属のぶつかるような音と、強い衝撃が彼の盾に走った。
剣士の悲鳴が聞こえた。
今のは間違いなく、刃物がぶつかった音だった。
あと少し遅ければ、クルセイダーの胸元は、鮮やかな色の血で赤く彩られていたに違いない。
次の攻撃に備えて、クルセイダーは剣士を背に庇って、利き手を剣の柄にかけた。
しかし、攻撃はなく、代わりに、穏やかな男の声がクルセイダーの耳を掠めた。
「そんな風にされたら、君の綺麗な顔が見えないじゃないか」
背後の剣士が、彼の背にしがみ付いた。
クルセイダーは用心深く盾を構えていたが、相手に攻撃する気が無いのを悟ると、静かに盾を降ろした。
少し離れたところに、深い闇色の衣を纏った影が佇んでいる。
男アサシンの衣装だ。
「うん、その方がいいね」
残忍なまでに無邪気な笑みを浮かべた男アサシンが、クルセイダーを真っ直ぐに見つめていた。
その視線が、剣士のほうに向けられると、哀れな少女はクルセイダーにしがみ付いたままがたがたと震え出した。
「その子は、君の弟子なのかな?」
アサシンの目に見据えられて、剣士の体が硬直する。
アサシンは軽く首を傾げて微笑みかけると、クルセイダーに目を戻して、緩やかに歩み寄ってきた。
次第に近づいてくる足音が、クルセイダーの鼓動を速めていく。
「剣を持った時の目付きが、剣士だった頃の君にそっくりだった。もしかしたらって思ったんだけれど、後をつけて正解だったみたいだね」
クルセイダーは目付きを鋭くして、剣士の肩を抱き寄せた。
「ただ後をつけられただけにしては、酷く怯えてるように思えるのですが」
「だって怖くなかったら、その子は僕を君の元には案内してくれないよ」
そうでしょう、とアサシンは剣士を見る。
視線の間に割りいるようにして、クルセイダーは立ち上がった。
「……狙いは、私ですか」
「そう」
アサシンは立ち止まると、肩を竦めた。
「他の奴らじゃ僕は楽しくないんでね」
分かってるでしょう、と囁くと、彼は両腕をクルセイダーに向かって広げ、艶然と微笑んで見せた。
「遊ぼう?」
アサシンのふざけきった様子に、クルセイダーは思わず怒鳴りつけたくなったが、自らの後ろに隠れて怯えている剣士がいる状態で、喧嘩を仕掛ける気は欠片もなかった。
彼は剣士の様子をうかがった後、アサシンに向かって、良いでしょう、と呟いた。
「ですが、彼女はもう帰しても良いでしょう?」
剣士が驚いた様子で見上げてくるのが気配で分かった。
アサシンは目を細めただけで、何も言わない。
クルセイダーは剣士の方を向いて、尚も続けた。
「彼女が貴方の戦いの相手にならないのは明らかです。だから……っ!?」
そこまで言った途端、クルセイダーの左肩に鈍い痛みが走った。
続けて足元から聞こえた硬い音に、彼は視線を落とす。
片手で握りこめるぐらいの、石の礫が転がっているのが見えた。どうやら、アサシンが投げたものらしい。
「随分と、弱気になったものだ」
すぐ近くから、声がした。
クルセイダーが顔を上げるよりも早く、アサシンの手が彼の頬に触れた。
ひんやりとした感触に、クルセイダーは微かに息を呑んだ。
「君は立派なクルセイダーだろう?」
アサシンはそう囁くと、反対の手をクルセイダーの顎に添えて、顔を上げさせた。
冷たい光を浮かべたアサシンの目が、クルセイダーを見つめていた。
「や……」
抵抗したいのに、クルセイダーの体はまるで動かなかった。
「その子一人ぐらい、僕から守りきってみせられないのかな?」
アサシンはそう呟くと、クルセイダーの顎にかけていた手を、首元に滑らせた。
長い指が鎧の中に入り込むようにして、首に絡められた。
「そんな君は、いらない」
アサシンが、冷たい声で囁いた。
それは、傲慢な死の宣告だった。
首を掴んだ指に、次第に力が込められていく。
同時に、クルセイダーの心の中から、抵抗しようという気持ちが消えた。
――殺される。
そう思うのだが、やはり体は動かなかった。
不思議と恐怖は感じなかった。
むしろ、不気味な悦びすら覚えるようだった。
傲慢な死神に魅入られて、クルセイダーは静かに目を閉じた。
アサシンが目を細め、口元に笑みを浮かべた。
風に乗って、時計塔の鐘が二時を知らせるのが聞こえた。
その時だった。
それまでクルセイダーの陰に隠れるようにしていた剣士が、気合の声を上げ、勢い良くアサシンに飛びかかった。
当然ながら、二人の冒険者としての差は大きく、アサシンは少し体を下げただけで避けると、勢いのついたままの剣士に回し蹴りを叩き込んだ。剣士の体は大きく跳ね飛ばされ、壁にぶつかって崩れ落ちた。
しかし、今の出来事でようやくクルセイダーが正気を取り戻した。
彼はアサシンの傍から離れ、倒れこむ剣士に駆け寄った。
息をしているのを確かめると、彼はほう、と息を吐いた。
「その子の方が立派じゃないか」
その背後から、アサシンの声がした。
クルセイダーは振り返り、アサシンを睨みつける。
既にアサシンの顔から冷酷さは消えていて、代わりに愉しみを見つけたといわんばかりの微笑みを浮かべている。
ただし、それは無邪気というには程遠く、薄暗い残忍さをちらちらと覗かせている。
「その勇気に免じて、今は彼女は見逃してあげよう」
意外な言葉に、クルセイダーが僅かに目を見開いた。
アサシンは剣士の傍に屈みこむと、軽々とその体を抱きかかえた。
「何を!」
「壁に寄りかからせるだけだよ」
その言葉どおり、彼は気を失っている剣士を壁に寄りかからせるようにして座らせ、その場に立ち上がった。
「君が退屈させなければ、僕は彼女に手出ししない」
逆に言うなら、退屈させればすぐにでも殺すという事か。
「……どうすればいい?」
クルセイダーの問い掛けに、アサシンは時計塔のある方へと視線を向けた。
「今から三時の鐘が鳴るまで、君はアルデバランの町中を逃げ回るんだ」
そう言うと、アサシンはクルセイダーに手を伸ばした。
クルセイダーは一瞬ためらった後、アサシンの手を掴んだ。
ひんやりとした手に、体を引き起こされる。
「君が町の外に出るような事があれば、僕は彼女を殺す。勿論、君が捕まって殺された場合もだ」
「勝手な事を……」
「嫌ならやめても良い。けれど、彼女を見逃すという話もなしになるよ」
剣士の少女が、一人で目の前の暗殺者に対抗できるとは到底思えない。
クルセイダーが「遊びの誘い」を蹴った途端にも、アサシンは彼女の息を止めるだろう。
クルセイダーに、ノーのカードはない。
「……良いでしょう」
「そうこなくっちゃ」
アサシンは嬉しそうにそう言うと、クルセイダーの顔に手を伸ばした。
驚いたクルセイダーの顔を両手で優しく包み込むと、その唇に口付けた。
クルセイダーが、大きく震える。
「僕を、失望させないでね」
唇を離してアサシンが囁くと、クルセイダーは何か言いたげに口を開いたが、すぐにそれを閉じると、アサシンに背を向けて走り出した。
「三十秒待っててあげる」
愉しそうなアサシンの言葉を背後に聞きながら、クルセイダーは軽く唇を噛み締めた。
攻撃を盾で受け止めた腕より、石礫をぶつけられた肩より、アサシンに口付けられた唇の方が痛みを感じた。
逃げろ。





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