Lullaby



穏やかな日差しの注ぐ宿の一室で、不釣合いなほどに難しい顔をしたブラックスミスの青年が机に向かっていた。
手元にあるのは、ノートのような冊子と、一本のペンである。
じっと冊子を睨み付けていたブラックスミスは、足元に置いてあるカートから算盤を取り出すと、左手の指で冊子の紙の上をなぞってはページを捲る事を繰り返し、右手の指でぱちぱちとそれを弾いた。
しばらくの間、ブラックスミスの指先は止まることがなかった。が、左の指がある箇所までなぞったところで、ブラックスミスは首を傾げた。
左手が動くのを止めると、途端に右手から聞こえていた景気の良い音も止んでしまった。
手の止まったブラックスミスは、先程より更に深刻な顔になると、何ページか前に戻ってもう一度なぞり始めた。
同じ様に動いていた指先は、今度は先程よりも前のページを開いている時に止まってしまった。
冊子を睨みつけるブラックスミスの頬を、汗が一筋伝った。
「あー……」
ブラックスミスは小さな声でうめくと、算盤と冊子から指を離して、椅子の背に寄りかかった。
「駄目だ、計算合わねえ」
机の上に広げられている冊子は、ブラックスミスが露店業、冒険者業、その他諸々での収支を書き込んでいる帳簿だった。
ここのところサボりまくっていた帳簿付けを、久々にまとめてやろうとしたのだが、何度やり直しても、どうしても計算が合わないのだ。
几帳面とは程遠い――どころか対極に位置するブラックスミスにしてみれば、毎度おなじみの事なのだが。
その日のうちにまとめてしまえ、と商売人仲間達には言われるのだが、いつだって面倒臭い、かったるい等の言葉で後回しにしてしまうのだ。
そして、どん底に陥る。
「ちっくしょー……」
腹立ち紛れに机の脚を蹴っ飛ばしたくなったブラックスミスだったが、今日はそれも出来なかった。
だらしなく椅子の背に寄りかかっていたブラックスミスは、ゆるゆると首だけを動かして、部屋の片隅に目をやった。
大分高くなった太陽の光が入り込む窓を見て、ブラックスミスは微かに目を細めた。
開け放された窓から入り込むそよ風は、掛けられた薄いカーテンを揺らし、やはり開け放たれた扉を通って外へと流れていく。
窓のすぐ隣では、椅子に座ったまま、赤い髪をしたウィザードの男が眠っていた。
膝の上には、読みかけの本が置いてあった。
カーテンが揺れるのに合わせて、ウィザードの長い前髪も揺れる。
少しくすぐったそうにも見えるのだが、ウィザードは目を開けようとしなかった。
「熟睡してやんの」
こっちの苦労も知らないで、とでも言いたそうな顔で、ブラックスミスはウィザードを見つめた。
けれど相手は、穏やかな顔をしたまま夢の世界に浸っている。
ここで大きな音でも立ててウィザードを起こしでもしたら、寝起きは通常より更に機嫌の悪い相手に、どんな文句を言われるか分かったものじゃない。
しかも原因が帳簿が合わない苛立ちからだなんて知れたら、情け容赦なく扱き下ろされるに違いない。
が、ウィザードを起こさないようにしている理由は、それだけではなくて。
「……俺様が原因、って言えねえ訳でもねえし」
昨日遅くまでウィザードが眠らなかった――というか、眠らせてもらえなかったのは、寝台の上でブラックスミスが組み敷いていたからであって。
本が読みたいから、と渋るウィザードを、ブラックスミスは半ば無理矢理寝台に押し倒した挙句、夜更け過ぎまで解放してやらなかった。
そんな相手を叩き起こすのは、それなりに神経の図太いブラックスミスでも、いくらか後ろめたいものがあった。
「こっちも寝不足なんだけどね」
だから計算合わないのか、と内心でブラックスミスはぼやいた。
と、その耳に、ばたばたと走るような足音が聞こえてきた。
ブラックスミスは、視線を開け放たれた扉へと向けた。
宿の廊下に響く、騒々しい足音は、確実に自分たちのいる部屋へと向かってきている。
「こーいう時に限って……!」
軽く舌打ちしてブラックスミスが体を起こすのと、出入り口に人影が現れたのはほぼ同時だった。
「あのさー、ちょっと頼みたいことが……」
扉の向こうに現れた、悪友かつ顧客のバードは良く通る声でそう言ったが、途端、しまったという顔になった。
あーあ、とブラックスミスは机の上で頭を抱えた。
「……ごっごめん!」
焦るようなバードの声は、窓際に向かって発せられていた。
恐らく、そこにいるだろうウィザードは身も凍るような険悪な目つきをしているに違いない。
ブラックスミスは心の中でだけ、タイミング最悪のバードに慰めの声を掛けてやった。
「読書の邪魔するつもりはなかったんだよそりゃもう全然!」
「読書?」
意外な言葉に、ブラックスミスは顔を上げて部屋の隅を見た。
目に飛び込んできたウィザードの顔は、思ったとおり不機嫌そのものであったが、その視線は開かれた本のページに向かっていた。
いつの間に、と思うブラックスミスが口を開くより早く、ウィザードが顔と同じく不機嫌そうな声を上げた。
「テメエのせいでどこまで読んだか忘れただろ」
「……すんません」
縮こまってしまったバードを、険悪な目つきのままウィザードが睨み付けた。
「本気で悪いと思ってんなら、さっさと用件済ませて出てけ」
「へーい」
バードはそう答えると、そそくさとブラックスミスの傍へと寄った。
「今度覚醒ポまとめて買い取ってくんない?」
俺使えないから、と付け加えるバードに、ブラックスミスは頷いた。
「覚醒ってことはピラミッド?」
「そそ、この間青箱出しましたよ」
「で、いつものシフの坊ちゃんに盗まれたと」
「盗まれてねえっての!」
失礼な、と言ったバードは、思い出したように、あー後さ、と付け加えた。
「暇な時でいいから、銀矢と牛乳の代講頼めないかな」
「今からでも良いけど?」
ブラックスミスが言うと、バードは首を横に振った。
「いいよ、お小遣い帳付けてるとこみたいだし……ってまたサボってた?」
帳簿に目をやったバードに指摘されると、ブラックスミスは顔をしかめた。
「面倒なんだから仕方ねーじゃん」
「頭の回転遅いくせに器用なことしようとするから……」
「……ヨーグルトの仲間みたいになった牛乳売りつけますよ?」
「……勘弁してください」
呟いたバードは、それじゃあヨロシクと言うと、窓際のウィザードにもう一度謝ってから、やってきたときと同じ様に駆け足で去っていった。
「忙しい奴……」
人がいなくなった出入り口を見つめながら呟いたブラックスミスは、もう一度椅子の背に寄りかかった。
「つーかお前起きてたん……ってもう寝てるよ!」
ウィザードに目線を向けたブラックスミスが叫ぶと、本を膝に戻してうとうとしていたウィザードが僅かに目を開いた。
「……私がいつ寝ようが起きようが、テメエにゃ関係ないだろ」
「じゃあ何でさっきは本読んでたふりなんかしてたのよ?」
「ふりじゃねーよ」
ウィザードはそう言うと、とんとんと指先で本の表紙を叩いた。
「人前でみっともなく寝てる姿なんか見せられないだろ。仕方なく読んでたんだよ」
「……その割には俺様の前じゃ平気で眠ってらっしゃいませんか?」
胡散臭げな目付きでブラックスミスが聞けば、ウィザードは鼻で笑ってみせた。
「寝ようが起きようが、テメエほどみっともなくはならんからな」
どうせ、とウィザードは机の上に目をやった。
「また帳簿合わなくて頭抱えてたんだろ。それでも商売人か?」
「……ほっとけ」
図星を指されたブラックスミスは、そう返すのが精一杯だった。
ウィザードは下らないといった様子で肩を竦めると、開いていた目をまた閉じた。
「それが終わる頃になったら起こせ。昼飯までは充分眠れるだろ」
「何でテメエに命令されにゃならんのよ!」
叫んでみるが、ウィザードは言葉を返してはくれなかった。
苛立った様子で、ブラックスミスは舌打ちした。
「みっともないとか言いながら平気で起こすの頼む奴が……?」
そう呟きながら、ふとブラックスミスはある考えにたどり着いて、口を閉じた。
ウィザードを見やれば、先程までの憎たらしい表情は既に消えていて、代わりに穏やかな寝息だけが聞こえていた。
みっともないと言っていた寝姿を、躊躇う事無く晒している。
無防備な寝顔を、ブラックスミスはまじまじと見つめた。
――俺もしかして、すげー信用されてる?
そう思った瞬間、ブラックスミスは笑い出したくなるような衝動に駆られた。
今更、寝姿云々なんて言うような仲でもないじゃないか。
お互いに、もっと深いところ、人に見せられないところまで知ってしまっているのだから。
「子守唄でも歌ってやりゃ良かったかね」
そう呟いたブラックスミスは、机の上の帳簿に向かい直った。
立派な目覚まし時計の任務を果たす為にも、まずはこれを、昼頃までに終わらせなくては。






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