雲の街


静かな夜空を、飛行船が飛んでいく。
月明かりに照らされた甲板には、男ウィザードが佇んでいた。
国から支給された制服の上には、同じ様に支給されたマントと共に、自前の厚手のローブを着込んでいる。
星空を行く飛行船の甲板は、地上より幾分強い風が吹き付けていて肌寒いせいか、ウィザード以外の者の姿は見当たらなかった。
彼の眼下では、荒廃した大地が夜闇に沈んでいる。
けれどその上にひとつ、明かりが灯った地点がある。
飛行船が飛び立った地、鋼鉄の都市アインブロックだ。
工場から上がる煤煙に包まれて、街はぼんやりとした光を放っていた。
それは、今夜の月をおぼろに見せる雲の姿によく似ているようだと、ウィザードは思った。
汚れた煙に包まれているはずの街は、ウィザードの目には、雲を作り出す幻想的な工場のように映し出されていた。
「すっげー煙」
そんな空想を遮るかのように、声が聞こえた。
ウィザードが隣を見れば、そこには、いつの間に現れたのか、共にアインブロック観光に行ったブラックスミスの青年が立っている。
高所だというのに、彼の服装はいつものシャツとジーンズに、薄手の上着を羽織っただけだった。
その背中で適当に束ねられた、濃い色をした長い髪は、おぼろ月の光を反射しながら強い風に煽られていた。
きらきらとした光は特別強くもないのに、何故か眩しくて、ウィザードは目を背けた。
視線を下界へと戻せば、煙に包まれている街は段々と小さくなっていた。
「よくあんな煙だらけの街で生活できるよな……」
同じ様に大地を見つめるブラックスミスが呟いた。
上着の襟元から覗くシャツは、煤煙の為か、月明かりでも判別できる程に煤けていた。
「他所から行くってんならともかく、あそこで暮らすとか絶対無理。三日で街捨てるね」
「それは他所から来た奴の感想だろ」
ぼやくブラックスミスに、ウィザードが口を挟んだ。
「あの街で生まれて、あの街が故郷だったら、そう簡単に捨てられないんじゃないか」
「アホくさ」
ウィザードの言葉に、ブラックスミスは嘲りを含んだ口調でそう返した。
「ただ生まれただけの街に、なんでそんな義理尽くしてやんなきゃなんないのよ」
そう言って、ブラックスミスは風に乱された髪をかき上げた。
「義理とかそういう話をしたんじゃねえよ」
ウィザードが顔をしかめた。
「それなりの期間生活した街なら、愛着なり執着なりあるだろって話」
「ないない、そんなの」
けれどブラックスミスは笑ってそう答えるだけだった。
どことなく不満気な顔をして、ウィザードはブラックスミスを見た。
おぼろ月に照らされて、淡い金色に光る横顔には、小馬鹿にしたような表情しか見当たらなかった。
ふと思いついて、ウィザードは尋ねてみる。
「故郷が嫌いか?」
驚いたように目を見開いたブラックスミスが、ウィザードを見た。
探るような目をしたブラックスミスを、ウィザードは何も言わずに見つめ返す。
髪とよく似た、濃い色のブラックスミスの瞳に、金色の月が静かに浮かんでいた。
その月が、僅かに揺らぐ。
ブラックスミスの目が、微笑みに歪んだのだ。
「……別に。嫌いってんじゃない」
先程の嘲るような笑い方ではない。ただ静かなだけの苦笑いだった。
「まーでも、つまんない街だよ」
誤魔化すように、ブラックスミスの視線が、ウィザードから逸れる。
「空気は、ちょっと似てたかな」
言われて、ウィザードはブラックスミスの視線の先を追う。
そこには、煙に抱かれたアインブロック。
「もっとも、俺様のいた街は砂煙でしたけどね」
ああ、とウィザードは声に出さずに納得した。
そういえば、隣にいるブラックスミスはモロクの生まれだという話を、誰かから聞いたことがあるような気がする。
「一緒に馬鹿やってた連中も、ほとんどが冒険者になって街から出てったよ。もっとも、俺が最初だったから、今誰が何してんのか正確なトコは知らないけどね」
「真っ先に飛び出したのか」
いささか呆れたようなウィザードの様子も、ブラックスミスは気にもしない。
「もー絶対冒険者になるって決めてたからね」
力強く頷き、甲板の縁に手をかけて身を乗り出す。
強い風に、ブラックスミスは気持ち良さそうに目を細めた。
「……それでも」
それでも、とウィザードは呟く。
「いつかは帰るんだろう?」
縁に肘をついたブラックスミスが、鬱陶しげな顔になる。
「何かお前、やけにこだわるね……あ」
もしかして、とブラックスミスは意地の悪い表情を浮かべた。
「ホームシック?」
「阿呆」
「やだなー、そんなに照れなくていいんだぞ。よーしお兄さんの胸に飛び込んでらっしゃい」
「ナイフ構えて、でいいか?」
「……遠慮しとく」
本当にウィザードが腰に提げた短剣の柄に手をかけているのを見て、ブラックスミスは両手を挙げて降参のポーズをとった。
「帰るか……考えた事なかったわ」
ウィザードが短剣から手を離すのを確かめてから、ブラックスミスはそう呟いた。
挙げていた手をポケットに突っ込むと、んーとうめいて顔を空へと向ける。
「帰りたくないなあ」
ぽつりと呟いた。
ウィザードに何故と問う暇も与えず、ブラックスミスは言葉を続ける。
「このままずっと帰らないでさ、あちこちぶらぶらするとかどうよ」
ブラックスミスの視線は、星空よりも、もっと遠い所を漂っているような気がした。
その目が、不意にウィザードを捕らえた。
「お前も一緒にくる?」
逃れる事も思いつかず、真っ直ぐ向かい合う事になったウィザードに、ブラックスミスはそう聞いた。
一瞬、言われた言葉の意味がウィザードには分からなかった。
「……何?」
たっぷり間を置いてから聞き返せば、ブラックスミスは破顔した。
「馬鹿、冗談だっつーの。そんなマジになって聞き返さないでよ」
軽い口調でブラックスミスはそう言った。
「大体お前は『面倒』の一言残して、一人でゲフェンに帰りそうだし」
「喧嘩売ってるのか?」
「馬鹿、違うって」
もう一度短剣に手を伸ばそうとしたウィザードに、ブラックスミスは首を横に振る。
「良いんだよそれで。お前は、俺に付き合ったりしなくても良いんだって」
まるで突き放されるような言葉に、ウィザードは訝しげな顔でブラックスミスを見た。
けれど、ブラックスミスに機嫌の悪そうな様子は見当たらない。
どこか諦めたような顔で笑っているだけだった。
真意を読み取ろうとしたウィザードだが、相手はあっけなく顔を背けてしまった。
「冷えてきたから中に戻るわ。お前も風邪ひく前に戻って来いよ」
そう言い残すと、ブラックスミスはさっさと飛行船の中に戻っていった。
一人残されたウィザードは、ブラックスミスが消えていった扉をぼんやりと眺めていたが、やがて視線を下界へと向けた。
雲に似た煙を吐き出す街は、もう随分と遠くなってしまった。
「こっちの考えは聞くつもりも無し、か」
呟いたウィザードの口元に、自嘲気味の笑みが浮かんだ。
甲板の縁に肘をついて、ウィザードは初めて、自分の手がかじかんでいる事に気付いた。普段からつけている薄手の手袋では、高所の冷たい風は凌げなかったらしい。
肘をついたまま、動かしにくい指を組み合わせ、その上に唇を重ねた。
「……誰がいつ、帰りたいなんて言った」
呟いた言葉は、誰にも届かずに、冷たい風に乗って遠い夜空へと流れていく。
星空を渡る雲と同じ様に。工場の煤煙と同じ様に。
手袋越しに触れた吐息が、酷く熱いような気がした。






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