迷える子ウサギ



森を抜けた途端、目の前に現れた風景に、バードは息を呑んだ。
どこまでも見渡せる空。水平線の先まで広がる海。そして――。
足元の崖っぷち。
「……こりゃ、また道間違えたかね」
彼はそう呟くと、荷物の中から地図を取り出した。
自分が歩いていたはずの道を指でなぞってみる。
その先には小さな広場があることになっているのだが、そこからは海は見えないはずである。何せ、山に面しているはずの場所なのだから。
彼は軽く顔をしかめてから、もう一度地図をなぞり始めた。
今度は途中まで同じ様に道なりに進み、目印にしていた岩の地点で少しだけ右に逸らしてみる。
道らしいものが描いてあるのだが、それは段々と細くなり、ほとんど森の中に埋もれる様になってしまった。
たどり着いたのは、見事に海の上。
確かこの目印の所でどちらに進むか悩み、棒切れを倒して道を決めた覚えがある。
棒切れが示したのは、右。
「これが原因ね」
彼はそう言いながら、乱暴に頭を掻いた。
頭につけたヘアバンドから生えている、ウサギの耳を象った飾りがゆらゆらと揺れた。
それをバードは軽く手で握る。
「これがあれば耳が良くなるとかありゃいいのにねえ」
耳は良くならなくても運が良くなるのだから、道に迷わなくても済みそうなものなのだが。彼は自分の方向感覚とでたらめさは考えないことにしておいた。
ウサギの耳飾りの先を軽く指でつまみながら、彼は今まで進んできた道を振り返った。
道を進んだというより、深い森の中を無理矢理に進んできたという方が合っている気がする。
途中で獣道ぽくなった時に、疑問をもって引き返せばよかったのかも知れない。実際、途中で何かが出てもおかしくないような森の深さだった。
「道に迷った子ウサギちゃんが、狼さんに食われちゃったらどうするのよ」
下らない冗談を言って笑い、狼に襲われる子ウサギの自分を想像し――ようとして、彼はあまりの不気味さに吐き気を催した。
可愛いい女の子ならともかく、ふらふら遊びまわってるにやけた面のバードが狼に襲われたところで、おとぎ話にもならない。笑い話にはなるかもしれないが。
彼は大きく息を吐いて、その場に座り込んだ。
何気無く目に付いた石を拾い、崖下の海に向かって投げた。
こんな所でぼんやりしていても、進むべき道が現れるわけではない。
かといって自分を迷子にさせた原因の道を戻るのも、心弾むものではない。道ではなく、自分の方向感覚のせいで迷ったなどとは意地でも考えたくない。
運が悪かったのだ、と彼は無理矢理に自分を納得させる事にした。
だが、運はいつまでも悪いものじゃないと、彼は確信している。
運も実力のうち。実力が発揮できる時も、発揮できない時も平等にやってくるというのが彼の考えだった。
それがいつ来るかは分からない。
だから、思い立ったらすぐ行動。
彼は立ち上がって大きく身体を伸ばすと、辺りを見回した。
とりあえずは実力発揮装置――つまり、道を決めるための棒切れを探そうというのだ。
しかし、彼の周りには石ころぐらいしか落ちていない。
彼は少しだけ目を細めると、背中に背負った矢筒を前に下ろした。
中から一番安い矢を取り出し、羽根の部分にそっと指を添える。
「お前さんの示した方向に進む事にするさ」
どうかよろしく、と笑いかけると、すぐに真面目そうな表情を作って、祈るような素振りを見せる。
「麗しき狩りの女神様、どうかこの迷える子ウサギちゃんに救いの手を!」
真っ当な聖職者が聞いたら眉をひそめそうな祈りの言葉を呟いて、彼は矢を真っ直ぐに地面に落とした。
途端、強い風が吹き付けた。
慌てたバードが手を伸ばすが、無情にも矢は彼の手をすり抜けていく。
迷える子ウサギの手を離れた道しるべは、風に流され、崖から海へと落ちていった。どうやら狩りの女神様は、彼が海底を歩けない普通の人間だという事は考慮に入れていなかったらしい。
「……こりゃ、参ったね」
バードは苦々しげに呟くと、崖の下を覗いた。
すると、意外な光景が彼の目に飛び込んできた。
海の底に沈んだと思われていた矢は、崖の途中に出来た道に落ちていた。しかも崖の下には砂浜が広がっていて、人一人ぐらいは通れそうな幅がある道が、そこまで伸びていた。
狩りの女神様は、完全にバードを見捨てたわけではないようだ。
それでも、崖に出来ている道なのだから、足場は大層悪い。彼のいる崖から海岸まではそれなりの高さもある。
「途中で足滑らせたら痛いよな……」
痛いなんてものではない気がするのだが、あくまでもバードはのんびりと呟いた。
彼は後ろを振り返る。
先程まで通り抜けてきた森が、深い闇を伴って佇んでいる。
もう一度目を崖の下に戻す。
安物の矢の羽根は、確かに海岸へ続く道を示している。
考え込むような表情をして、しばらく無言でそれを見つめた後、バードは口元に悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「頼むぜ、女神様」
小さな祈りを口に乗せると、彼はヘアバンドを押さえて、狼も好まぬような崖の道へと飛び出した。
勢い良く駆け下りながら、片手で矢を拾い上げる。
薄情な女神が、呆れた様に笑っている姿が見えた気がした。





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