ナイフと三日月



遅い朝の気だるい空気に、か細い煙が一つ立ち昇る。
小さな部屋の、窓際に置かれた長椅子に座って、長い髪の女ローグが煙草を吸っていた。
足を組替えながら、彼女は自らの隣に視線を落とした。
長椅子の誰も座っていないスペースには、一組のカタールと、男のアサシンの装束と思われる深い闇色の上着が置かれている。
綺麗に畳まれた上着を、ローグはしばらく眺めていたが、やがて立ち上がると、部屋の隅の机の上にちょこんと置かれた灰皿に煙草を押し付けた。
「随分のんびり寝てたじゃない」
崩れた吸殻を見ながら、ローグが呟く。
と、部屋の入り口辺りから、微かに笑う気配がした。
「寝心地が良かったから、つい、ね」
ローグが振り返ると、上半身裸の青年が部屋に入ってくるところだった。
目覚めたばかりと思われるぼんやりとした表情や、寝癖すら整えていない髪型を見ただけでは、彼の職業に気付く人はまずいないだろう。
「僕の上着知らない?」
欠伸混じりに青年が問い掛けると、ローグは先程まで座っていた長椅子を顎で示した。
その先にあるアサシンの装束を見ると、青年は穏やかに微笑んだ。
「畳んでくれたんだ」
青年――アサシンはそう言うと、ローグに背を向けて、長椅子の傍に寄った。
カタールを床に置き、上着を広げるアサシンを、ローグは無言で見つめていたが、やがて彼の背後に近寄り、背中から抱きついた。
ばさり、と音を立てて、アサシンの上着が床に広がる。
「……何の真似かな?」
そう呟いたアサシンの喉元に、ナイフが突きつけられていた。
三日月のような曲線を描く刃が、今にもアサシンの喉を切り裂こうとしているのだが、彼に慌てた様子はない。
突きつけたナイフはそのままに、ローグは空いている手で、アサシンの背中に触れた。
「アンタの背中、まだ新しい傷跡がある」
そう言うとローグは、背中の上で指を滑らせた。
彼女の指に沿って、細く短い筋が幾つか、アサシンの背中に付いていた。
それほど深そうに見えないそれは、刀傷や、魔物の牙にやられたものではない。
爪痕だ。
緩やかな曲線を描くそれは、まるで赤い三日月のようだった。
「それは知らなかったな」
他人事のようにアサシンが呟くと、ローグはアサシンの背中から手を離し、その肩を掴みながら優しく囁いた。
「誰の爪痕?」
まるで睦言を囁くような声色だが、冷ややかに光るナイフがそれは違うと教えている。
それでもアサシンは、やはり落ち着いた声で答えた。
「猫だよ」
「素敵な冗談ね」
「それはどうも」
ぎり、とアサシンの肩を掴むローグの指に、力が篭った。
綺麗に整えられた爪が、アサシンの肩に食い込んだが、彼は呻き声一つ上げない。
「……警告するわ」
冷たい声で、ローグが囁き、ナイフの刃の腹で、ぐっとアサシンの首元を圧迫した。
「私に背中を見せちゃいけない」
アサシンは怯える様子も苦しがる様子も見せず、ふうん、と不思議そうな声を上げた。
「という事は、まだ僕には、君に背中を見せる機会があるのかな?」
「ええ。でもそれが最後」
そう言うと、ローグはアサシンの首に押し付けていたナイフを床に放った。
「次は、アンタが私のお腹に物騒なものを突きつける前に、その喉引き裂いてやるわ」
ローグは自らの脇腹に目をやった。
カタールとは違う、小振りのナイフを握ったアサシンの手が、すぐそこまで迫っていた。
「それがいいね」
アサシンは笑ってナイフを捨てると、ローグに向き直った。
途端に、目が冷たい色に染まる。
「出来るなら、の話だけど」
ローグは挑発的な笑みを浮かべると、アサシンの捨てたナイフを蹴飛ばした。
ナイフは床をすべり、ローグの落としたナイフとぶつかって、甲高い音を立てて止まった。
「愛情は人を殺せるって、知り合いのバードが歌ってたわよ?」
ローグはアサシンの背中に腕を回すと、艶然と微笑んだ。
アサシンは元の穏やかな目に戻ると、微笑み返して、ローグを抱きしめた。
「覚えておこう」
そう呟くと、彼はローグを長椅子に押し倒して、唇を重ねた。
鋭い爪が赤い三日月を増やす事を、彼はまだ知らない。





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