髪を切ったら



旅立つ為の全ての手続きは昨日の内に終わらせた。借り物の書籍も返したし、魔法学院内に置いたままだった私物も、今ようやく回収し終えた。
これで、学院に戻る理由も無くなった。
小さな旅荷物は重くなったが、心は軽くなった。
魔法学院から外へ出ると、昇り始めた朝日が目に入った。
ゲフェンを吹き抜ける朝の風は、夏の匂いがした。
まだ冷たさの残る風に首元をくすぐられ、ウィザードは目を細めた。
「少し切り過ぎたかな」
小さく呟いて、彼はおととい切ったばかりの髪に手をやる。
何かを決意する時に髪を切るなんて、特に意味のない行動だと彼は思っている。
それでも、髪を切るという事で、少しだけ違う自分に会えたような気がしてしまう。
人間は生まれ変わる事は出来ない。
だから、髪形を変えたり、服装を変化させたりという、外見を変えることで新たな自分になろうとする。
それが新たな世界への第一歩に繋がると信じて。
その気持ちを忘れないうちにと、彼は髪を切った翌日に、マジシャン時代に世話になった自らの師の元を訪れた。
久々に会った師は、逞しくなった彼の姿に、驚いたような表情をして見せた。
しかし、彼が話を切り出すと、途端にその驚きは別のものに変わった。
「ゲフェンを出て、世界中を巡ろうと思っています」
自らの弟子がこのまま魔法学院で研究者として魔法を極め、いつかは学院の教師となるものだと信じきっていたらしい師にとって、ウィザードの発言は相当意外だったようだ。
勿体無い、と彼の師は言った。
「お前ならば次期学院長にだってなれるだろうに」
師の言葉は、ウィザードにはくすぐったく、そしてとても嬉しいものであった。
彼は苦笑いを浮かべて首を横に振った。
「それほどの力量も経験も、私にはありませんよ」
「そんなもの、今から身につければ良い事じゃないか」
真剣な顔で、彼の師は呟いた。
「だから旅に出たいんです」
そう返すウィザードに、師は首を横に振った。
「それは分かる。だが、それはここでも出来る事じゃないか」
魔術を研究する者にとって、ゲフェンほど居心地のいい場所は無い。それは、ウィザードもよく知った事だった。
ゲフェンほど魔術の研究に熱心な街はなく、書籍や道具類も良い物が揃っている。
何よりも、魔法使いに対する偏見がない。
周りの目を気にせずに魔術の研究に没頭できるゲフェン、そして魔法学院は、世界中の魔術師にとって聖地そのものであった。
けれど、それでは彼は満足できないのだ。
「この街には、惹き付けられるものが無いんです」
ウィザードはそう呟いた。
ゲフェンの街は、魔法使いの彼らにとって、悲しい事も、辛い事も少ないが、それだけ魔法使いの為に淀んでいるとも言えた。
居心地の良さと引き換えに、狂おしいぐらいに求めるものが無い。
上を目指して魔術を研究するうちに、彼はその事に気付いてしまったのだった。
ただひたすらに学ぶ事で手に入れられるものも、確かにあると思う。
けれど、それが本当に自分の欲しいものだという確信は何処にも無かった。
マジシャンからウィザードに転職して、一息ついたところで、自分の本当に欲しいものはなんだろうと改めて考えてみると、何一つとして思いつかないという事態にウィザードは呆然となった。
もっと沢山の事を知りたい。
その為には、いつまでもゲフェンで本を読むだけでは駄目なのだ。
苦しい事や辛い事の溢れている外の世界を、自らの足で歩いて、自らの目で見て、自らの耳で聞いて、自らの心で感じなくてはならない。
例えそれで自分が傷つく事になろうとも。
ウィザードがそう告げると、彼の師は苦笑いを浮かべ、新品の杖を一本差し出した。
頑固な弟子に、師として出来る最後の手助けだ、と彼の師は言った。
その杖は、もちろん今、彼の手に握られている。
これから世界中を巡る時に、一番頼りになるであろう相棒を見て、ウィザードは静かに微笑んだ。
手荷物を持ち直して、町の出口に向かって歩き始める。
まだ人々のほとんどが眠っている街は、無言で、しかし優しく彼を送り出してくれる。
町の出口で、一度だけ彼は振り返った。
さようなら、大好きな街。
いつか、自分が本当に求めるものを手に入れるまで、少しだけお別れ。
そうして、彼は外の世界へと旅立った。





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