いい女



枯れ枝の燃える音と、虫の声。
そんな音にすら怯えた事もあったと、隻眼の男騎士は苦笑した。
魔物に囲まれて、剣を握ったまま夜通し立ち続けた事もある。
明日の朝目覚める事は出来ないだろうと、諦めの中で眠りに就いた事もある。
旅に出てしばらくの野宿は、いつもそんな感じだった。
あの頃の自分は、今よりもっと未熟だった。
自らの無力さを思い知らされ、家を飛び出してから三年。
多くの経験を積み、少しは力もついた気がする。沢山の魔物を斬った。沢山の人と出会い、共に戦った。少し声が大きいが頼りになる巨鳥の相棒までできた。その相棒も、今は焚き火の横で丸くなり、大きな鳴き声を上げることもない。
静けさの中に、一人きり。
こんな時は、決まって一人の女性を思い出す。
自分が剣士としてある程度の力をつけた頃、妹の侍女として雇われた、少し年下の女剣士。
才に恵まれた彼女は、彼と手合せをすればほぼ互角。芯が強く、どんな男相手でも劣って見えることはなかった。
真っ直ぐに伸びた背筋は彼女の長身を強調し、鍛えられた手足ともバランスが良い。
感情に流されやすい妹を、いつも冷静にたしなめ、納得するまで飽きる事無く説得を続けていた。
涼しげな顔立ちは意外と様々な表情を浮かべ、親しみやすい雰囲気を作っていた。
強くて、綺麗で、誰よりも大切だった彼の恋人。
旅の途中で知り合った人間――特に男性――と、そういう話で盛り上がる事はよくあった。故郷に彼女一人を残して旅に出る者は、結構多かったのだ。
誰もが懐かしい思い出に饒舌になるのだが、彼は恋人について「いい女」としか言わなかった。
別に覚えていない訳ではない。言おうと思えば幾らだって言えた。
背中辺りまで伸ばした、色素の薄い髪が綺麗だった。
意志の強そうな、細い目が綺麗だった。
剣を握った時の力強い動きが綺麗だった。
しかし、それらを言葉として伝えたところで、彼女の姿なんてほとんど伝わるはずが無い。
恋人の姿は、「いい女」として、彼の脳裏に焼きついている。それだけで良かったのだ。
彼女は今、一体どうしているのだろう。
別れも告げずに飛び出した自分の事など、とうに忘れたに違いない。自分よりももっと優れた男と共に、幸せな日々を送っているだろう。
静けさの中、男騎士はそっと眼帯をつけた左目に手を当てる。
見えなくなってしまった左目の方が、彼女の姿をより鮮明に覚えていた。
故郷が魔物の群れに襲われた日、彼女の命と引き換えに失った左の目。
もしもあの時、自分にもっと力があったならば、この左目を失う事は無かったのだろうか。
彼女を危険な目に遭わせないで済んだのだろうか。
今も傍にいられたのだろうか。
急に湧き上がってきた感情に、男騎士は自虐的な笑いを浮かべた。
誰よりも大切な人を守れなかった自分が、今更何を思うのか。
大体、彼女は弱い女性ではない。剣の腕前だけではなく、その精神も、彼女はしっかりしていた。自分がいなくでも立派に生きていける、そんな強さに惚れたのだから。
なのに、どうして思い出の中の恋人の顔は、いつも寂しげなのだろう。
――死んではなりませんっ! 私なぞ見捨てて、どうか、どうかっ……!
魔物の攻撃を一人で受け、ボロボロになりながら、ろくに体も動かないような状態で、それでも自分を庇うように立ち上がって彼女は言った。
そう言わなくてはいけなかったのは、自分の方なのに。
彼女が自分を庇ってまで戦い続ける必要など、どこにもなかったのに。
全ての魔物を斬り殺した後、意識を失った恋人を背負って歩きながら、彼は旅立つ決意をした。
翌日の早朝、彼は家を飛び出した。
彼女と顔を合わせる資格など、自分にはなかった。
でも、と男騎士は思う。
あれは結局逃げ出しただけではないか。
確かに、旅に出たことで自分は強くなった。それは間違いない。
だが、強くなって、自分はどこへ行き着くのだろうか。
何の為に強くなったのだろうか。彼女を守る為だろうか。いや違う、と彼は首を横に振る。
彼女と共に戦える事を、自分自身が許せる為に、だ。
いつかは自分も故郷に帰らなくてはならない。こんな未熟者でも、両親や妹はきっと帰りを待っている。
帰って、今度こそ自分の力で戦い抜かなくてはならない。
そうしたら、もう彼女の寂しげな顔を思い出すこともなくなるだろう。
記憶の中の彼女は、いつも勇敢な戦士としての表情を浮かべているに違いない。
逃げた戦いには、自分で決着をつけなくてはならなかった。
例え、もう彼女が自分の事など覚えていなくても。
ゆっくりと、男騎士は外していた剣の柄に手をかけた。
いつの間にか、彼の周りには魔物が集まってきていた。
静かに眠っていた巨鳥も、その気配にせわしなく首を動かす。
安心させるようにその頭を撫でてやり、彼は立ち上がり、剣を抜いた。
「生きて、帰るんだ」
静かな声でそう呟く。
刃が反射する焚き火の光を見つめ、彼は大きく息を吸った。





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