通り雨



遠雷の音に、ウィザードは読みかけの本から顔を上げ、外を見た。
ほんの数分前までは明るかった空は、今は暗雲に覆われている。開けた窓から吹き込む風は生暖かく湿っていた。いつ雨が降り出してもおかしくない。
窓を閉めようと伸ばした手に、冷たい雫があたり、彼は顔をしかめた。
「だから止めておけと言ったのに」
呟く言葉は、この場にいない自らの主君に向けて。
彼の忠告も聞かずに外へ出かけたプリーストは、今頃どこにいるのだろう。
窓を閉めるときに少し遠くへと目をやる。しかし、プリーストの姿は見えなかった。
ウィザードはもう一度本を読み始めた。
どちらかというと、彼は外に出て行くよりも、室内で本を読んでいるほうが好きだった。
逆に、プリーストは出かけるのが好きで、嫌がるウィザードを無理矢理外に連れ出す事も多かった。
今日もそうされるところだったのだ。
もちろん彼は断った。風や空の様子から、午後には雨が降り出しそうだという事も伝えた。
しかし無邪気な主君は笑って、それは面白そうだと言うと、自宅の留守をウィザードに任せ、一人で外へ出かけてしまったのだ。
まるで大きな子供だ、とウィザードは溜息をつく。
一瞬、部屋が明るくなり、少し遅れて雷の音。
続いて聞こえる、石畳を打ち付ける激しい雨の音。
遂に本格的に降り出したようだ。
ウィザードは読みかけの本にしおりを挟むと、タオルを探し始めた。
もちろん、濡れて帰ってくるだろうプリーストのためだ。
この雨では、多分どこかで雨宿りしてくるだろう。それでも、全く濡れずに済むというわけではない。
一時的に激しく降る通り雨だ、そう経たない内にプリーストは戻ってくるだろう。
戸棚を開けようとして、彼は一冊の本を見つけた。プリーストの聖書だ。
かなりくたびれた感じのするそれを、プリーストが読んでいる姿を見た覚えは無かった。鈍器代わりに使ってボロボロにしてしまったのだろう。所々に、魔物の体液と思われる染みがついていた。
本は読むものだ、と何度か忠告したのだが、彼は平然と立派な武器だと言い切るのだった。
相手は自分の言葉なんて全く聞いていないのではなかろうか、という気分になる事もあった。
それでも、ウィザードはプリーストの後に従い続けた。
彼の無茶な行動を補佐し、時には諌めながらも、ウィザードは彼の傍を離れようとしなかった。
プリーストとの主従関係を断ち切る事だって可能なのに、だ。
ボロボロになった聖書を、彼は手にとった。
自分もこの聖書と同じ様なものか、とウィザードは皮肉な微笑みを浮かべる。
仕えるべき相手を間違えた、と同期の魔法使いや友人達は彼に言う。
冷静に判断してから行動に移す彼と、考えるよりも先に体の動く彼の主人では、互いに全ての力は発揮できないだろう、と。
大体、彼の主君であるプリーストの評判はかなり悪い。耳にする陰口も、全くの嘘ではない事が多い。
そんな相手に仕えていればウィザードの評判も自然と下がる。
それでもいいと彼は思った。
どんなに見下されようと、蔑まれようと、自分は彼の傍を離れられない。
誰よりもプリーストの傍にいられて、誰よりもプリーストの役に立てるのならば、それ以上は望まなかった。
「おい、そこにいるんだろう?」
窓の外から聞こえた声に、ウィザードは振り向いた。いつの間にか雨は止んでいた。
外には、ずぶ濡れになったプリーストが立っていた。
どうやら激しい雨の中を走ってきたらしい。髪は乱れ、足元は泥だらけであった。
「雨宿りもなさらなかったのですか?」
「ああ……水も滴るいい男、というところかな」
平然とした顔でプリーストが言った。
実際、ウィザードは濡れた姿で立つプリーストに見惚れていた。
顔に張り付いた髪から垂れた雫が、彼の胸元をつたって流れ落ちる様子に、何ともいえない艶やかさを感じる。
無造作にかき上げた髪から散る雫が、妙に眩しかった。
その感情を悟られないように、ウィザードはわざと顔をしかめた。
「今何か拭く物を」
彼がそう呟くと、プリーストは首を横に振った。
「そんなことはどうでもいい。ちょっと出て来い」
従うのが当然というような口調に、どこか心地良さを感じながら、ウィザードは軽くプリーストを睨みつける。
「貴方がこっちに来ればいい」
ウィザードがそう呟くと、プリーストは軽く驚いたような表情をして、首をすくめた。
「そうか、ならば一人で行くさ」
そう言うと同時に、彼はウィザードに背を向けて走り出した。
こうされたら追わない訳にもいかない。ウィザードも聖書を置くと、慌てて玄関へと向かった。
外に出て辺りを見回すと、少し離れた所でプリーストが笑っていた。悪戯好きの子供のような笑顔で、逆らいがたい魅力を感じる。
――結局ついてくるんじゃないか。
そう耳元で囁かれたような気がして、ウィザードは微かに目を細めた。
ウィザードが歩き出すと、プリーストは濡れた石畳の上を走り出した。
転ばないように気をつけながら、彼も走り出す。
自分勝手な行動の多いプリーストだが、それはいつも、ウィザードが何とか従えるぐらいの限度までだ。
今もプリーストは、ウィザードが追いつけないギリギリの速さで走っていた。
からかうような彼の行動に少し苛立ちながらも、ウィザードはしっかりと後を追い続けた。
元々隣に並ぶ事も、追い抜く事も望んでいない。
彼が自分より後ろにいるなど、ウィザードにとって、あってはならない事なのだ。
いつまでも自分の前にいて欲しい。
その気持ちを知ってか知らずか、プリーストはどんどんと先に行ってしまう。
ひたすらに走り続けて、ウィザードがいい加減疲れてきた時、ようやく彼の主君は立ち止まった。
そこは、町外れだった。
俯いて、肩で息を整えていると、頭上から爽やかな笑い声が響く。
「本当にお前は体力が無いな」
「分かっているならば無理をさせないで頂きたい」
そう言って不機嫌そうな顔を上げると、楽しそうな表情で遠くを見つめる主君の顔が見えた。
ウィザードも彼と同じ方向に目をやる。
目に飛び込んできた光景に、彼は思わず息を呑んだ。
何にも遮られない大空に、鮮やかな虹。
その鮮やかではっきりとした虹からわずかに離れて、薄い陰のようなもう一本の虹。
「急いだ甲斐があっただろう」
プリーストの呟きに、ウィザードが振り返る。
目が合うと、プリーストは困ったように頭を掻いた。
「これだけの事なんだがな」
外に出るのも悪くないだろう、と彼は肩を竦めた。
ウィザードは何も言わずに、もう一度空へと目をやった。
傍にいる事が当然というように、鮮やかな虹に寄り添う淡い虹。
自分はあのようになるのだろうか、とふと考える。
自分という存在をかき消すように、誰よりも眩しい存在の傍に立つ。
ウィザードには、それが何よりも勝る喜びに感じられた。
プリーストは虹を見つめるウィザードの顔を眺め続けていたが、やがて町の方を向いた。
「そろそろ戻るか」
呟く彼に、ウィザードは無言で頷いた。
歩き出したプリーストは、自分の足元を見て顔をしかめた。
「ひどく汚れたな」
「だから拭いてからにすれば良かったのに」
「過ぎた事をいちいち騒ぐな」
つまらなそうに吐き捨てるプリーストに、ウィザードは静かに微笑んだ。
「貴方はもう少し後先を考えるべきでしょう」
「そんな面倒な事が出来るか」
それに、とプリーストは付け加える。
「そういうのは、お前の仕事だ」
涼しげにそう言ってのけると、彼は自宅に向けて歩き出した。
「そうやっていつも私に面倒事を押し付けるのだから」
静かな声で呟くと、ウィザードも彼の後に続いた。
当然、その面倒事を誰にも渡す気などなかった。





戻る