夏と常識



夏の日差しに照らされた石畳から、ゆらゆらと陽炎が立ち昇る。
「ああもう、鬱陶しいなあっ!」
明るい金の髪をしたノービスが、そう叫んで、汗で額に張り付いた前髪をかき上げた。
顔に浮かぶ汗の玉をハンカチで拭うのだが、そのハンカチも、汗で大分湿っている。
拭ったところで数分も立たずに汗だくになるのだから、ノービスの苛立ちは募るばかりだ。
回りを見回しても、明るい顔で、元気良く歩く人の姿は全く見当たらない。
誰もが疲れきった顔に汗を浮かべ、のろのろと歩くか、物陰に佇んでいる。
それから比べれば、ノービスはまだ元気な方なのかもしれない。
足は重くても、口はいつもと同じか、それ以上に動いているのだから。
「お日様のバカヤロー……」
もう何度目か分からない言葉を呟いた時、彼の後ろで、呆れたような溜息が聞こえた。
「話していれば楽になる訳でもないだろうが」
続いて聞こえた声に、ノービスの顔から、不快感の色がきれいさっぱり消え去った。
「先輩!」
そう言って振り向いたノービスの目の前には、彼が先輩と慕う、赤い髪のウィザードが佇んでいた。


いつもは涼しげな表情をしているウィザードだが、今日ばかりは流石に暑いらしく、額に汗を浮かべている。
国家に認定されたウィザードの制服である詰襟のシャツも、胸元まで開かれていて、アンダーシャツが見え隠れしている。
解放された首元を鬱陶しそうに撫でながら、ウィザードは鞄の中を漁った。
「水で良ければあるが」
「下さい下さい!」
先程まで叫んだりうめいたりを繰り返していたとは思えない程に、ノービスは元気を取り戻していた。
ウィザードは鞄から瓶を取り出すと、ほんの少しの間それを見つめてから、ノービスに手渡した。
触れてすぐ、ノービスは驚いたような声を上げた。
「うわっ、これ冷たい」
彼の手の中にある瓶は、まるで長い間、雪の中に埋められていたかのように冷えていた。外気に触れた瓶の周りに、露が付くほどである。
不思議そうにウィザードを見ると、彼は首元に手を添えたまま、下らないといった表情で呟いた。
「私の職業を忘れたのか?」
言われて、ようやくノービスは、水の入った瓶をウィザードが魔法で冷やしたという事に気付いた。
「職権乱用になりません?」
そう聞きつつも、ノービスの顔には笑みが浮かんでいる。
「このぐらいで咎められるものか」
ウィザードはそう答えると、鞄からもう一本の瓶を取り出して、今度は自身の為にそれを冷やした。


ノービスは冷え切った水を一気に半分ぐらい飲むと、慌ててウィザードに向き直った。
「ごめんなさい、俺まだお礼言ってなかった」
ありがとうございます、と律儀に頭まで下げて言うノービスに、ウィザードはヒラヒラと手を振る。
「たまたま持っていただけだから気にするな」
そう言って、その手で首の汗を拭う。
「やっぱり、夏は外に出るもんじゃないな……」
苦々しげに呟くウィザードに、ノービスがそういえば、と口を開く。
「外で会うのは久々ですね」
ウィザードは軽く頷く。
「しばらくは研究室篭りだったからな」
「なるほど」
ウィザードの言う研究室とは、ゲフェンの魔法学校にある、魔法に関する研究用に整備された研究室の事である。
親しい人間であれば、魔術師でなくても入ることは出来る。だが、流石のノービスも、ウィザードの研究の邪魔をしてまで一緒にいようとは思わないらしい。彼が研究室にいる間は、たまに顔を出す程度にしている。
もっとも、会いに行くと物凄く嫌そうな顔をされるのだが。
「しばらくはまた外で?」
「ああ」
ウィザードはそう答えると、微かに顔をしかめて、自らの首筋を軽く掴んだ。


先程からずっと、ウィザードが首に手を当てていることが、ノービスは気になってきた。
「先輩、首どうかしたんですか?」
「別に」
ノービスの問い掛けにそう答えるものの、ウィザードは首から手を離そうとしない。
となると、今度は実力行使である。
ひょい、とノービスがその手を掴んでどかし、首筋を覗き込んだ。
そして、軽く目を見張った。
「馬鹿、痛いだろうが!」
ウィザードがそう怒鳴りつけてノービスの手を振り払うのだが、彼には聞こえていないらしい。
しばらく呆然としたままのノービスだったが、やがてぼそっと呟いた。
「赤い痕」
途端、ウィザードが表情を凍りつかせる。
ノービスがウィザードの首筋に見つけたのは、小さな赤い痕だった。
ノービスは手をぽんと打って、口を開く。
「そっか、だから研究室にこもりっぱなしだったのか」
「おい……」
ウィザードが何かを言おうとするのだが、ノービスが言葉を続ける方が早かった。
「そんな深い仲の恋人がいるなんて知らなかったなあ……」
彼がそう言うと、ウィザードは目を見開いた。
「だから俺が行くと、嫌そうな顔したんですね」
「お前……」
ウィザードはそう呟くと、僅かに顔を伏せた。
水の入った瓶を持つ手が震えている。
その様子を見ながら、ノービスが次の言葉を口に乗せ掛けた、その時だった。
「虫刺されの痕がどうしてそう見えるんだこの大馬鹿者があっ!」
ウィザードの怒鳴り声と共に、冷たい水がノービスの頭に降り注いだ。


腕を組んで立っているウィザードの目の前、ノービスは照れ笑いを浮かべ、冷や汗を流しながら正座している。
頭から水を浴びたとはいえ、石畳の上は物凄く暑い。
だがここで下手な事を言えば、今度は空き瓶が降ってくるだろう。
「全く……貴様には常識的な考えってものがないのか!」
怒鳴りつけるウィザードに、ノービスはおずおずと右手を上げて発言する。
「いや……ものすごーく常識的な考えだと思ってるんですけど」
「常識に履物脱いで土下座して謝ってこい」
ウィザードはそう吐き捨てると、また首筋に手をかけた。
「暑いし虫には刺されるし馬鹿は湧くし、やはり夏は外に出るもんじゃない」
「えへへ……すんません」
とりあえず常識より先にウィザードに土下座するノービスだった。
ウィザードは彼の方を見ようともせず、イライラとした表情で首に手を当てている。
「そんなに痒いんなら、痒み止め塗ったらどうですか?」
土下座したままの状態で、ノービスがそっと顔を上げて呟くと、ウィザードがようやく彼の方を見た。
鋭い視線に睨みつけられ、思わず体が竦むノービスだった。
「いや、いい」
「何でです? アルケミさんとかにお願いすれば、良く効くの作ってもらえますよ」
怯えながらもノービスがそう告げる。
良く効く、という単語のところで、ウィザードが更に険しい表情になった。
このままではもう一度怒鳴り声か。
もう水は無いようだし、濡れる心配はしなくても良いだろう。
いや、この体勢だから、頭踏みつけられたりして。
濡れた頭に冷気の魔法かけてから蹴り付ける、とかのコンボだったら嫌だな。
つうか死んじゃうなそれは。
浮かび上がる恐ろしい未来予想図に、ノービスはどうにかして打開策を考えないと、と必死になって頭を回転させる。
しかし、ウィザードは怒鳴りつける事無く、深く溜息をついた。
「良く効く奴ほど染みるから嫌なんだよ……」
意外すぎる言葉に、ノービスははい? と聞き返していた。


土下座から正座に戻すと、ノービスはウィザードの顔を見つめた。
「でも、掻かなければそんなに染みませんよ?」
「もうかなり引っ掻いてる」
しれっとして答えるウィザードに、ノービスは思わず立ち上がる。
「掻いちゃダメっていわれてるじゃないですか!」
「そんな事言っても、痒いものは痒いんだ!」
そりゃそうだ、と思いつつも、ノービスは頭が痛くなるのを認めざるをえなかった。
「だったら尚更痒み止め塗りましょうよー……」
「誰が好き好んで痛い思いなぞしたがるか」
「痛いって言うけど、魔物の攻撃に比べれば全然大した事無いじゃないですか」
ノービスがそう告げるのだが、ウィザードは嫌そうな表情を改めない。
「自分から痛い思いをするのは絶対に嫌だ」
「あのねー……あ、そっか」
ふと、ノービスは何かを思いついたような表情になる。
「つまり、俺が塗ればいいんですね」
いきなりの提案に、ウィザードが首を傾げる。
だから、とノービスは嬉しそうな顔でウィザードに近寄る。
「俺が薬を塗って、先輩に痛い思いをさせてあげればいいんじゃないですか」
「……待て、その発言は何か誤解を招きそうだとは思わないか?」
そう言いながら後退りするウィザードだが、ノービスは何も聞こうとはせず、にじり寄るのを止めようともしない。
「大丈夫です、そんなに痛くはしませんから」
「そんなにって何だそんなにって!」
「何なら首筋以外にも塗ってあげますよ」
にこやかな微笑みを浮かべながら、ノービスが荷物の中から痒み止めを取り出す。
「いい、いいから、こっちに来るなっ!」
とうとうウィザードはそう叫んで走り出した。
「遠慮しないで下さいよー」
そう言いながらノービスも後を追いかける。
無邪気な笑みを浮かべ、ウィザードを追う姿は、普段と大差ないといっていいかもしれない。
しかし、日差しの暑さと、ウィザードの必死の形相、そしてノービスの手に握られた痒み止めだけが、その場の空気を異様なものにしていた。





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