春の雪



空から舞い降りる雪に、ノービスは目を細めた。
自分に降り積もる雪も払わずに立ち尽くしていたためか、その金髪にも、厚めの上着の肩にも雪が積もっている。
見上げる空は、雪と同じで真っ白だ。
人の姿が見当たらない春のルティエを、雪は白く包み込み、静かに抱きしめるようであった。
込み上げて来る穏やかな感情に、彼は知らずに微笑んだ。
この感情を何と言えばいいのだろう。
「寒い」
そう、寒い。体の芯まで冷え切るほどに――って、そうじゃない。
背後から聞こえた不機嫌そうな声に、ノービスは思い切り脱力した。
振り返ると、声と同じく不機嫌そうな表情をしたウィザードが、震える体を抱きしめるような姿勢で立っていた。
ノービスと同じで、その赤い髪にも、いつもより厚めのマントにも雪が積もっていた。
「……先輩、もうちょっとロマンチックな感想とか無いんですか?」
そう言ってノービスがウィザードの雪を払おうとすると、彼はその手を払いのけた。
「春にもなってこんな寒いところに来て、どうロマンチックな感想が出てくるんだ」
睨み付けられたノービスは、軽く肩を竦めた。
「だって、本当はお花見に行きたかったんだけど、先輩が人の多いところは嫌だなんてワガママ言ったんじゃないですか」
「だからって何でルティエなんだ!」
怒鳴りつけるウィザードに、ノービスは心外というような表情を作る。
「そりゃ、先輩がクリスマスの時期に風邪ひいて行けなかったからに決まってるじゃないですか」
それに花粉も飛んでないし、と付け加えるノービスに、ウィザードが複雑そうな表情を浮かべる。
「それは有り難いんだが……でも、クリスマスにお前一人で来れば良かっただけだろうが!」
「それは駄目です」
さらっと言いのけたノービスに、ウィザードが眉をひそめた。
「体調の悪い時のひとりぼっちって、普通の時のひとりぼっちよりずっとつらいでしょ?」
その言葉に、ウィザードは一瞬驚いたような顔をしたが、すぐに元の仏頂面に戻った。
「馬鹿か貴様は」
そんなものとうに慣れた、とウィザードが吐き捨てるように呟いた。
その言葉に、ノービスの胸が痛む。
「もっと自分の事を大切にしましょうよ」
少し強い口調で彼は言って、ウィザードの手を掴んだ。
「俺が傍にいますから」
そういって、彼は真っ直ぐにウィザードを見つめた。
いつものように馬鹿か貴様は、と言われると思っていたのだが、いつまで経ってもあの怒鳴り声が聞こえない。
それどころか、ウィザードは軽く俯いてしまった。
不思議に思って顔を覗き込もうとするが、彼は逃げるように顔を背けてしまった。
「先輩、顔赤い……もしかして照れてる?」
「馬鹿か貴様は! 寒いからに決まってるだろう」
今度こそ怒鳴られてしまった。
いつもの声に少しだけノービスは安心した。
「えー、ようやく俺の優しさに気付いてもらえたのかと思ったのに」
乱暴に振り払われた手をフラフラと振りながら、彼は残念そうな声でそう呟いた。
その様子に、ウィザードの中で何かが切れた。
彼は腰につけた鞄の中を漁ると、中から蝶の羽を取り出した。
「帰る。もう帰る」
先程よりも更に機嫌の悪そうな表情になったウィザードがそう呟き、羽を天にかざした。
ノービスは慌ててその手を掴むと、ぐいぐいと引きずり出した。
「先輩、ともかくどこかで暖まりましょ、ね?」
「いーやーだ、帰る!」
引きずられながらもなお抵抗するウィザードに、ノービスは小さく溜息をついた。


無理矢理引きずって連れて来たのは、小さな教会だった。
ほとんど人の姿が見えないこの時期でも、教会の中は明るく、暖かだった。
ノービスはようやくウィザードの手を離し、彼に積もった雪を優しく払い落としてやった。
「何か、懐かしいなぁ……」
「何が?」
不思議そうな顔で聞き返すウィザードに、ノービスは微笑んだ。
「小さい頃、クリスマスには親と一緒にルティエまで来たんですよ」
彼はそう言いながら、窓際に寄った。すぐ近くの椅子にウィザードが腰掛ける。
ノービスは真っ白く染まった外を見つめていた。
「雪自体は見る事があっても、こんなに真っ白くなるのってあまり見ないじゃないですか。教会に行ったり、サンタさんの所に行くのも楽しかったけれど、雪の中でぼーっと立ってるのが一番楽しかったなぁ」
そう言うと、彼はウィザードの方を振り返った。
「まあ、来るまでがメチャクチャ怖いんですけど」
「白熊か……」
確かに、小さな子供から見れば、サスカッチはその大きさだけで恐怖を与えるに違いない。
納得するウィザードに、ノービスは首を横に振った。
「いや、それよりも芋虫と蜘蛛が怖かったです」
「……歩いて、アルデバランまで行ったのか?」
信じられないといった表情でウィザードが言った。
首都からアルデバランまでの道のりは、かなり鍛えた冒険者であっても、下手をすれば命を落とす。そんな所を、子供連れで歩くとは。
「今考えれば、かなり無茶だったなとは思うんですけど」
ノービスは平然とした表情である。
「前から来た奴はお袋がタコ殴り、後ろから来た奴は親父がタコ殴り、その間に俺って感じだったから、結構安全に歩けましたね。いつだったか俺がポリン殴ってたら、後ろからうじゃうじゃアルギオペが寄ってきた事もありましたけどね……」
あの時は本当に危なかった、と呟くノービスに、ウィザードは溜息をついた。
「何でお前がこんな廃ノービスなのか、分かった気がする……」
「そうですか」
首をかしげるノービスに、ウィザードは無言で頷くだけだった。
「でも、家族で出かけるのが好きな子だったから、とても楽しかったですよ」
クリスマスって本当に楽しい、と言うノービスに、ウィザードは呆れたように肩を竦めた。


話し終えたノービスはまた窓の方を向き、ぼんやりと外を眺め続けていた。
「何がそんなに楽しいんだか」
一言も話さずに雪の降る様子を眺める彼に、ウィザードが小さく呟いた。
「先輩、雪見るの好きじゃないんですか?」
振り向いて聞くノービスは、本当に楽しそうな笑顔を浮かべていた。
ウィザードは黙ったままであったが、不意に立ち上がると、ノービスの横に並んで外を見た。
見えるのは白い街と降り積もる雪だけである。
「クリスマスは、いつもベッドの上から雪を見ていた」
無感情な呟きに、ノービスがはっとしたようにウィザードの顔を見た。
「子供の頃からずっと体が弱くて、クリスマスの頃なんていつも熱で寝込んでた。楽しく過ごした思い出なんて全く無い」
そう呟くと、ウィザードの中に切ない感情が蘇ってきた。
微熱でぼんやりとしている意識にも、雪の中をはしゃぎまわる同年代の子供の声は届いた。
あの中には自分の弟もいるのだろうかと考えると、眠るに眠れなくなった。
自分より魔力は遥かに低いが、体は丈夫であった弟が、その時ばかりは羨ましかった。もちろん、普段見下している出来損ないの弟に、そんな事は言えなかったのだが。
外には雪が積もっているというのに、自分だけは室内で白い空を眺めているしかなかった。
あの頃から自分の人嫌いは始まっていたのかもしれない。
感傷的な気分に浸る自分に、ウィザードは泣きたいような笑いたいような、複雑な気持ちになった。
ふと顔を横に向けると、困ったような顔をしたノービスと目が合った。
心の中まで見透かされたような気がして、妙に気恥ずかしくなってしまった。
「私はさっさと帰りたいんだ。ここで待っててやるから、やりたい事があるならさっさとやってこい」
わざと冷たくそう言うと、彼は元の椅子に腰掛けた。
あの頃、自分は大人になるまで生きていられないのではと、本気で考えていた。
ひとりぼっちの部屋で白い空を眺めていると、そんな事はどうでもいいように思えた。
自分は中に入る事が出来ない、楽しげな笑い声から逃げられるのならば、それでも良いと思った。
けれど結局、自分はここまで生きることが出来た。
今考えれば、あの頃の自分がどんなに馬鹿な事を思っていたかがよく分かる。
自分で楽しい事を探そうともせずに、逃げる事ばかり考えていたのだ。
ただ、クリスマスの退屈さに慣れきった体では、今更周りと同じ様に色々な事を楽しむ事なんて出来なくなっていた。
何かの行事の度に大騒ぎする連中を、馬鹿馬鹿しいと思いながら、どこかで羨ましく感じていたのかもしれない。
今更気づいたところで、何もかも、遅すぎるのだ。
自分から遠ざけてしまったものに、どうやって近づけるというのか。
苛立ちを掻き消すように、ウィザードは強く手を握りしめた。


気がつくと、彼の横にノービスが座っていた。
早くしろと言ったのに、と文句を言おうとして、彼はノービスの顔を見た。
ノービスは困ったような顔のまま、小さく俯いていた。
普段見せないような様子に、ウィザードが眉をひそめる。
「何をしている?」
そう聞くと、ノービスは少しためらった後、意を決したようにがばっと顔を上げた。
「先輩、今年の冬は一緒にここに来ましょう」
「はあ?」
あまりにも唐突な言葉に、ウィザードが間抜けな声を上げる。
しかし、ノービスの目は真剣である。
「冬のルティエは今よりもっと寒いけれど、厚い上着とかマントがあれば大丈夫だし。それに、室内は暖かいからさっさと家の中に入ればいいんですよ」
それでも寒かったら俺が抱きしめてあげます、と付け加えたノービスを、ウィザードは軽く睨み付けた。
「お前に抱かれるぐらいだったら凍死してやる」
「抱かれるだなんて先輩過激……って待って、外行かないで下さいよ!」
椅子から立ち上がってすたすたと出口に歩み寄るウィザードの手を、ノービスが慌てて掴む。
「そういう話は興味ない」
「いや、そういう話がしたかったんじゃないですって!」
冷たく言い捨てたウィザードに、ノービスが首を横に振る。
「じゃあ何だ」
振り返ったウィザードの表情が、段々と不機嫌になっていくのがよく分かった。
ノービスはウィザードの手を離すと、乱暴に頭を掻いた。
「だから、俺は皆が楽しそうにしてる時に、先輩の事一人にしない、って言いたいんです」
ウィザードが少しだけ驚いたような顔になる。
「俺、ずっと先輩の後着いてくって決めてますから。眠いならば静かにしてますし、具合が悪いならば傍で看病します。でもやっぱり、先輩と色んな所に行きたいです」
そこまで一気に言ってしまうと、ノービスは少しだけ口を閉じて、息を整えた。
「だから、自分の事もっと大切にしてよ」
そう言って、彼はウィザードに微笑みかけた。
「もっと俺の事頼っていいし、体弱いのに限界超えて頑張らなくてもいいんです。無理する事なんかに慣れないで下さいよ」
慣れないで、という言葉に、ウィザードが小さく息を呑んだ。
慣れる必要なんかどこにも無いのだ。それだけの事だったのだ。
ウィザードはしばらく無言でノービスを見つめていたが、やがて出口の方へ歩き出してしまった。
ノービスが何か言おうとしたが、そのまま口を閉じて俯いた。
ウィザードは無言のまま歩き続けていたが、出口の前で立ち止まると、小さく呟いた。
「今年の冬は、ここに来れるかな……」
ほとんど聞き取れないくらいの声を、しかしノービスはしっかりと聞き取って、はっきりと答えを返した。
「絶対に来ましょう」
そして、ウィザードに向かって駆け出した。
突き飛ばさないぐらいの勢いでウィザードに飛びつくと、彼に向かって満面の笑みを見せた。
「ね、帰る前にスノウノウの所に寄りましょう」
そう言って顔を覗き込んでくるノービスに、ウィザードは呆れたような表情で溜息をついた。
「分かったから手を離せ」
「はーい」
素直な返事を返すと、ノービスは教会を飛び出して雪の中を駆けて行った。
その背中を見送りながら、ウィザードは空を見上げた。
小さい頃から何度も見続けた、寂しい白い空。
それがとても綺麗な物だという事に、彼は初めて気が付いた。
雪を見るのも、悪くない。





戻る