誘拐



暖かい昼下がりの日差しの中、教会の鐘の音が響く。
その音に、今まで目を伏せて木に寄りかかっていた男アサシンが、静かに目を開く。
道を行く人の中に紛れ込み、彼は教会に向かって歩き出した。ただし、正面の入り口に向けてではなく、裏庭へ。
人のいない裏庭から、彼は教会を見渡した。
少し高い位置に、開いたままの窓を見つけると、アサシンはその下に歩み寄った。
高さを目測で測り、軽く息を吐いて飛び上がる。難なく窓枠に手をかけてぶら下がると、後は壁を蹴り上げる勢いで体を持ち上げる。
音も立てずに窓から入り込むと、彼は微笑んだ。
彼の目の前で、一人の女プリーストが机の上に本を広げていた。
彼女は、急に机の上に現れた男アサシンに驚いたような顔をしたが、すぐに嬉しそうな表情になった。
「お久しぶりです」
プリーストはそう言って本を閉じた。
「ああ」
アサシンはそう答えると、先程と変わらない軽やかさで、プリーストの机から飛び降りた。
「ちょっと待っててください。今、お茶を淹れてきますから」
そう言って立ち上がったプリーストに、アサシンは首を横に振る。
「いや、またすぐに出て行くから」
その言葉に、プリーストが微かに表情を歪める。
おや、と思ったアサシンの前で、彼女はすぐに元の笑顔になると、首を横に振った。
「だったら尚更です」
短い時間で疲れを取って、と付け加えると、彼女は小走りで部屋の外に行ってしまった。
後に残されたアサシンは、しばらく彼女の姿を見送っていたが、やがて困ったように頭を掻いて、プリーストの机に寄りかかった。
窓から入り込む日差しに、彼は目を細めた。
こうやって、誰にも見つからないように彼女の元を訪れたのは何度目だろう。
小さい頃からプリーストになるために育てられた彼女は、教会から遠く離れた世界の事にひどく疎い。
男アサシンの話すちょっとした出来事や、町の周囲では見かけない凶悪な魔物、珍しい物等のひとつひとつに、彼女は不思議そうな顔をしたり、驚いたりする。
そんな女プリースト愛おしさに、彼は暇ができる度に彼女の元を訊ねているのだった。


ふと、彼女が読んでいた本を手にとってみる。
分厚いそれは、アサシンの趣味や生活からは程遠い内容のものであった。
彼は中身も見ずに、それを机の上に戻そうとした。
その途中で、本から少しだけ頭を出す、ページの途中に挟まれたしおりに目が留まる。
抜いてしまわないように気を付けて、アサシンはしおりを少しだけ引き出した。
それは押し花のしおりだった。
どこかで見覚えのある花のような気がして、彼は微かに目を細めた。
それが、以前女プリーストの元を訪れた時に、自分が持ってきた花だという事に気が付くと、アサシンは苦笑を浮かべた。
「こんな物のどこがいいのか」
そう呟くと、彼はしおりを元に戻して、本を机の上に置いた。
それとほぼ同時に、湯気の立つティーカップを二つお盆に乗せたプリーストが戻ってきた。
アサシンは差し出されたティーカップを受け取って口つけると、ふっと表情を和らげた。
「美味い」
小さな呟きを、しかしプリーストはしっかりと聞き取り、安堵の微笑みを浮かべた。
「お茶菓子もあれば良かったんですが」
「ん、お茶菓子は無いが……」
アサシンはそう言うと、懐から薄い紙包みを取り出した。
「大した物じゃないんだがな」
そう言って彼はプリーストにそれを手渡した。
不思議そうな顔で、彼女は紙包みを開いた。
中には、乾燥した緑色の草があった。
「こんな植物、見たこと無い……」
プリーストは草を手に取り、角度を変えながら見つめた。
「それはね、苦い草なんだ」
アサシンの言葉に、プリーストが視線を戻す。
「薬草の一種ですか?」
「いや、違う」
でも苦いんだ、と付け加えると、プリーストが真面目な表情で聞いた。
「どのくらい、苦いんですか?」
あまりに真面目な表情に、アサシンに悪戯心が起こる。
「えーと、凄く」
「凄く?」
聞き返すプリーストに、アサシンは笑いを噛み殺しながら頷いた。
「どのくらい苦いか知りたかったら……そうだね、少し先っぽでも齧ってみれば……」
「え」
アサシンの言葉に、プリーストは困ったような表情を浮かべる。
手に取った緑色の草を、彼女はしばらくじっと見つめていたが、やがて意を決したように口元に運んだ。
そして、先を小さくひと齧り。
途端に彼女は草を紙に乗せ、慌ててカップの中身を口に流し込んだ。
とうとう限界に達したアサシンが、声を上げて笑いだした。


あまりの苦さに涙目になったプリーストが、ようやく落ち着いた様子で息をついた。
「あそこまで笑わなくてもいいじゃないですか……」
不満そうな彼女に、アサシンはごめんと呟いた。
「あれはポポリンの好物でね。人間の食べるような物じゃないんだよ」
そう言うと、彼は緑色の草を手に取った。
「これを使えば、上手くいけばポポリンを懐かせる事が出来る」
その言葉に、不満そうだったプリーストの表情が、好奇心に満ちたものに変わる。
「いつだったか、ペットにしているのを見たことがあるが、なかなか騒がしかったぞ」
「へえ……」
プリーストは先程まで笑われていたことも忘れたようだ。興味津々といった顔つきで彼の話を聞いている。
「餌もハーブでいいし。問題は捕獲場所か……」
アサシンがそう言うと、プリーストは少し困ったような顔になった。
「司祭様の許可が出て、上手く休みが取れれば、ポリン島辺りまではいけると思いますけど……」
しばらくは忙しくて無理そうだ、と呟くプリーストに、アサシンは眉をひそめた。
「面倒だな……許可なしで抜け出せないか?」
彼の言葉に、プリーストは慌てて首を横に振る。
「そんな、信用してくれる人を裏切るわけにはいきません!」
「そう言うと思った……」
彼は困ったように頭を掻くと、ならば、と付け加えた。
「俺が誘拐すれば良い」
唐突な言葉に、プリーストが言葉を失う。
アサシンは続ける。
「誘拐されたならば、お前のせいじゃない。今の仕事が終われば、少しは暇ができる。その時にでも連れ出せるぞ」
彼はそう言うと、一旦カップの中身に口をつけた。
「別にポリン島じゃなくても良い。どこか行ってみたい所があるなら、そこまで連れて行こう。俺が話したよりも、もっと沢山の物が見れるはずだ」
そこで区切ると、彼は真っ直ぐにプリーストを見つめ、優しく微笑んだ。
「お前が望むなら、一生誘拐し続けてやる」


あまりに優しく、残酷な申し出に、プリーストは泣きそうになった。
それは、何度も望んだ事ではあった。
知らない世界を旅して、沢山の人に会ってみたい。
いつまでもアサシンの傍にいたい。
けれども、そんな自分の意思に従うには、教会の人達は優しすぎたのだ。
今まで自分を大事に思ってくれていた人たちを裏切ってまで、自分の望みを叶えられるほど、彼女は強くなかったのだ。
小さく俯いて必死に涙をこらえると、彼女は首を横に振った。
アサシンが驚く気配が伝わってくる。
「きっと、私がいなくなったら、司祭様も両親も心配します。彼らにも、貴方にも迷惑は掛けたくないんです」
それに、と彼女は顔を上げて微笑んだ。
「私はこうやって貴方と話が出来るだけで、十分幸せですから」
本当に、幸せそうな表情だった。
アサシンはしばらく黙って彼女を見つめていたが、やがて諦めたように息を吐いた。
「そうか……気が変わったら、いつでも言ってくれ」
彼は静かに呟くと、カップの中身を飲み干した。
彼女の気持ちは、痛いほどに伝わっていた。
このお茶だって、できる限り自分と一緒にいたいと思って考えた、彼女なりの手段なのだろう。もちろん、純粋にくつろいでもらいたいという気持ちもあるだろうが。
自分だって、彼女の傍にいたい。
けれども、彼女の意志を曲げてまで、彼女を連れ出す事は出来なかった。
「……そろそろ、仕事があるから」
彼はそう言うと、空になったカップをお盆に乗せた。
「……はい」
掠れる様な呟きが、彼の耳に届いた。
最初に入り込んできた窓の枠に足をかけ、彼は小さく息を吐いた。
「お茶、美味かった」
そう言って、彼は室内を振り返った。
悲しそうな表情で自分を見つめる女プリーストを安心させるように、彼は微笑みかけた。
「次に来る時には、ちゃんとしたお茶菓子を持ってくるよ。だから……」
今度はもっと長く傍にいよう。
口には出さなかった言葉を、プリーストはしっかりと受け取った。
「はい」
彼女が微笑みを浮かべて頷いたのを確かめると、アサシンは宙に向かって飛び出した。
プリーストが外を見たときには、すでに彼の姿はなかった。





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