部屋とYシャツと彼氏



既に昼が近くなった空を、ブラックスミスの男は寝台の中から見つめていた。
充分に眠ったはずだというのに、口からは大きな欠伸が出てきた。
起き上がるどころか布団から出る事もせず、ブラックスミスは左腕で布団の中を探った。
昨日の夜にはいたはずの人物が、そこにはいなかった。
当然か、とブラックスミスは胸中で呟く。
昨日の夜、彼の隣には、赤い髪をした男ウィザードが寝ていた。
いや、正確に言うならば、「昨日の夜、彼は隣の赤い髪をした男ウィザードと寝た」になるのだろうか。
ともかくは、そういう関係にある相手だったのである。
しかし、相手のウィザードは、ブラックスミスが起きるまで傍にいる、なんて可愛らしい行動は絶対にしないようなタイプである。むしろされたら恐くて仕方ない。靴の中に画鋲が仕込んであって、起きた自分がそれを踏む瞬間を見たくて待っていたのかもしれない、ぐらいの疑いは持つだろう。
最も、そんな可愛らしい行動をするような人物であっても、真昼近くまで待ち続けるような物好きは滅多に居ないだろうか。
今度は両腕を伸ばしながら、ブラックスミスはもう一度欠伸をした。
伸ばした腕を枕元に彷徨わせる。昨日の夜、適当に脱いで放置しておいたシャツが、その辺りにあるはずだった。
だが、いくら探っても、シャツらしきものは見つからなかった。手に触れるのは、自分が横たわっているシーツばかり。
「あれ?」
訝しげに思いながら、ブラックスミスは体を起こした。
うっかり寝台の下にでも落としたかと、ブラックスミスは寝台の下を覗き込もうとした。
「……あれ?」
先程と同じ言葉を、少々違うニュアンスで呟く。
寝台の下を覗き込むよりも先に、ブラックスミスの視界に、奇妙なものが飛び込んできた。
部屋の中に、ウィザードがいたのだ。
壁際に備え付けられた机の上、ウィザードの制服であるマントとケープを脱いだ姿で、何かの作業に没頭している。その表情は、どこか楽しそうな笑みを浮かべていた。
何とも言えない違和感が、ブラックスミスの背中に走った。
ブラックスミスの記憶では、目の前のウィザードは、ほとんどいつでも無愛想か、不機嫌な顔をしていた。それがあんな風に笑っているなんて、何か悪い事でも起こるんじゃなかろうか。
ブラックスミスが起きだしたことに気付いたウィザードが、彼の方を見た。
「おはよう」
「……おはよ」
不信感の溢れた声で返してしまったのだが、ウィザードは気にも留めないらしい。ブラックスミスの挨拶を聞くと、やはり楽しそうなまま、机の上の作業に戻った。
本格的に無気味になってきた。
とりあえず寝台の下を覗き込み、そこにもシャツがない事を確認してから、ブラックスミスはジーンズのみの姿で寝台から降りた。靴を履くときに、念の為、画鋲が入っていないかを確かめたが、画鋲どころか紙屑ひとつ入っていなかった。
「何やってんの?」
靴をひっかけるようにして、ブラックスミスはウィザードの背後に寄り、そう尋ねた。
「アイロン掛け」
ウィザードの答えは、至って単純なものであった。
彼の手には、充分に熱せられたと思われるアイロンが握られている。机の傍に置かれた椅子には、きっちりと皺を伸ばされたマントとケープが畳んで置かれていた。
ならば、今アイロン掛けされているものは何なのか、とブラックスミスはウィザードの手元を見て、軽く目を見開いた。
熱くなったアイロンの下で皺を伸ばされているのは、白い色をした衣服である。
間違いなく、ブラックスミスのシャツであった。
「……それ、俺のシャツだべ?」
それでもブラックスミスが尋ねれば、ウィザードは縦に首を振って見せた。
「ついでだから掛けてやったんだ」
ありがたく思え、とウィザードが笑う。
アイロン掛けを続けるウィザードの背中を見つめながら、ブラックスミスは酷く狼狽していた。
シャツにアイロンが掛けられていた事自体は、とりたてて問題ではない。
ただ、アイロンを掛けているのがウィザードである事については、大いに問題があった。
これじゃあまるで――。
ぼんやりと考えたブラックスミスは、慌てて首を横に振った。
「何してるんだよ」
背中を向けたままのウィザードが、可笑しそうに笑った。
「……や、まだちょっと眠くって」
「あれだけ寝てるのにか」
そう呟いたウィザードには、自分の考えた事なんて絶対に言えないとブラックスミスは思った。
これじゃあまるで新婚生活みたいだ、なんて頭の悪い想像をしただなんて、絶対に言えなかった。
更に、その想像にほんの一瞬でもときめいただなんて、死んでも言えなかった。
「あ、のさ」
ブラックスミスが声を掛けると、ウィザードが振り向いた。
「もうそのぐらいで良いよ。皺があってもそんな気にならないし」
「そう言うな。もう少しで終わるんだから」
楽しげな様子を変える事もなく、ウィザードはアイロン掛けを続ける。
「でも本当に……おおおおおおお何これ何やってんの!」
鼻歌でも歌いだしそうなウィザードの手元を覗き込むと、ブラックスミスは物凄い叫び声を上げた。
「何だようるさい」
「うるさいって、お前、こ、これは……」
文句をつけようとするブラックスミスだが、あまりの状況に、言葉を失ってしまった。
ウィザードの手元で、ブラックスミスのシャツは綺麗に皺が伸ばされていた。
それはもう見事なまでに伸ばされていて、襟はかちっと仕上がっていて、袖の折り目は完璧で、糊付けまでされていて、ぱりっと仕上げられていた。
少なくとも、ジーンズに似合う状態ではなくなっていた。
「俺に、これを着ろ、と?」
折り目正しく仕上がったシャツを手に持って、ブラックスミスが尋ねる。
「ああ、よく似合うと思うぞ」
そう答えるウィザードの表情は、やはり笑みに満ち溢れている。
ただし、かなり意地の悪い、凶悪な笑みに。
「……お前、俺が嫌がるの分かっててやったろ……」
ブラックスミスが聞けば、ウィザードは大きく頷いた。
「当然」
「何のつもりだよ!」
噛み付かんばかりの勢いでブラックスミスが叫べば、愚問だな、とウィザードは鼻で笑う。
「嫌がらせ」
「テッメエ……」
ふつふつと怒りを沸きあがらせるブラックスミスの目の前で、ウィザードは手際良くアイロンを片付けると、畳んでいたマントとケープを羽織り直した。
「それじゃあ、私は昼飯にしてくる」
そう言ってさっさと部屋を出て行こうとするウィザードを、ブラックスミスは慌てて呼び止めた。
「っておい、どうするんだよこのシャツ!」
叫びを聞いたウィザードは、ぴたりと足を止めると、満面の笑みで振り返った。
「着る」
「バッキャロオオオオオオオオオ!」
思わず絶叫したブラックスミスにも構わずに、ウィザードは部屋を出て行った。ブラックスミスと、しっかりとアイロンが掛けられたシャツを残して。
「ふざけんな、俺のときめきを返せえっ!」
空しい叫びを聞くものは、机の隅に片付けられたアイロンだけである。





戻る