海風に響く



海から吹き上がる潮風が、家々の合間を駆け抜けていく。
小さな島国、モスコビア。その町中を、ひとりのバードが歩いていく。彼の左手には、丈夫そうな四角い鞄が提げられている。
向かう先は、人の姿が多い町の中央ではない。遠くからやってきた冒険者や、買い物途中のモスコビアの住民達による賑わいから離れるように、バードは町の外れへと進んでいった。
賑わいから離れていくと、潮風に乗せて、岸壁に打ちつける波の音が聞こえるようになってくる。けれど、他者よりも幾分優れた耳を持つバードには、波音よりももっと興味を惹くものが聞こえていた。
弦を弾く音だ。
本当は、町中にいるときから既に聞こえていたのだ。その音を辿るようにして、バードは迷いもせず、町から外れた海辺へと向かっていく。
人家の見えなくなったあたりで、幾つか立ち並ぶ木々の間を抜けていくと、視界がぱっと大きく開けた。
一面に広がる海と空。
その片隅に人影がひとつ。
深い緑の髪に、真っ黒の法衣。プリーストの男が、海と空に向かい合うようにして、岸壁の上に座り込んでいた。
バードは足を止め、プリーストの背中を眺めていた。
弦を弾く音は、どうやらプリーストの手元から聞こえているらしい。バードの存在にも構わず、プリーストの手元からは、流れるようなメロディーが響きわたる。が、少ししたところで、奇妙な不協和音が奏でられると、その流れはぴたりと止まってしまった。
参った、というように、プリーストの肩が竦められる。
「盗み聞きしてるんじゃねー」
その肩越しに、プリーストの顔がバードを見た。いつもなら目を覆っているサングラスが、今はつけられていなかった。手元の楽器を見るのには、どうにも邪魔だったのだろう。
「気付いてたんだ」
悪びれもせずにバードは笑うと、プリーストの傍に近寄り、腰を下ろした。隣というより少し後ろに座ったのは、プリーストが座る場所が、絶壁の下が覗けるほどのギリギリの場所だったからだろう。
「苦戦してるみたいじゃん」
バードはちらりと、プリーストの手元に目をやる。
プリーストの腕の中に収まっていたのは、モスコビアに古くからある楽器、グスリであった。
「クジラの上で教えてもらったときも、なかなか弾けなかったよね」
バードがそう言うと、プリーストは少し不機嫌そうな表情を作った。
「そういうお前だって、バードのくせにかなり時間掛かってただろ」
腰に提げられた、使い込まれたチェインの隣で、ポケットに引っかけてあったサングラスのレンズが光った。
眩しそうに目を細めたバードが、それはさ、と答える。
「俺が普段弾いてるギターと、そのグスリじゃあ、大分勝手が違うのよ。ギターに慣れてると結構難しいんだぞ」
バードの答えに、ふん、とプリーストは鼻を鳴らした。
「そういう事は立派にギターを弾きこなせるようになってから言え」
「えーいつも弾いてるじゃん、ブラギとかブラギとかブラギとか」
「むしろブラギ以外聞いたことねーよ」
そう言うと、プリーストはグスリを左腕に抱えて立ち上がった。
「どこ行くの?」
「決めてねえ」
ポケットに引っかけてあったサングラスを手に取り、それを掛け直す。その指先を、バードはぼんやりと目線で追った。
「グスリ、教えたげよっか?」
「いい。お前がいると気が散って練習にならない」
両腕で楽器を抱え込んだプリーストがそう呟いた。
ということは、練習自体はまだ続けるらしい。バードが最初に、賑やかな町中でグスリの音に気付いたのは、もう三十分以上は前のことだろう。真面目だなあ、と彼は胸中で呟いた。
「人の手伝いより、自分の練習をしろ」
バードに背を向け、去っていくプリーストが、ひらひらと手だけを振ってみせた。チェインを握り慣れた彼の手は、バードのそれより、少しだけ大きかった。
見えるはずもないのに、バードは手を振り返す。
プリーストの姿が木々の向こうに消えると、バードはそっと苦笑した。
「追い払うつもりじゃ、なかったんだけどなあ」
プリーストがしていたのと同じように、海のほうへと向き直り、バードは四角い鞄を開ける。
中には、プリーストが持っていたのと同じグスリがひとつ。
バードと話している間も、プリーストの指は、音を確かめるようにずっとグスリの弦の上を彷徨っていた。すらりと長い指が、どこかためらいがちに弦を押さえている図は、妙に倒錯的で、バードは何度も気付かれないように手元を盗み見ていた。
こんなこと気付かれたら、きっとプリーストは呆れ顔をするのだろうけど。
「指先まで格好良いなんて、ずるいっての」
小さな笑いと共に漏らした呟きが、波音にかき消される。
弦を押さえ、バードはグスリをかき鳴らした。
プリーストと同じように押さえたつもりだったのに、彼よりも少し短い指ではどうにも不格好に見えるのが、バードにはおかしかった。





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