爪と牙



パチン、パチンと何かの爆ぜるような音が、部屋の中に響いた。
体に残る気だるさに、寝台の上で半ばうとうととしていたブラックスミスは、目を擦りながら音のする方を見やった。
暗い部屋の中、急に目に飛び込んできたランプの明かりに、彼は眩しげに目を細める。
そのランプのすぐ傍、同じ寝台の上に寝転がるウィザードの手元がどうやら音源のようだ。
ウィザードの手元でちらつく銀色の物と、その手のすぐ下に敷かれたティッシュに、ブラックスミスはようやくそれが何の音か気付いた。
「爪切ってんの?」
寝台の上に寝転がったまま問い掛ければ、相手は爪から目も離さずに答える。
「悪いか?」
悪くないけど、とブラックスミスは呟いた。
「どうせ切るなら、俺様の背中に容赦なく爪立てる前にしてもらいたかったんですけどねー」
そう言うと、ブラックスミスはウィザードの立てた爪のせいで赤く筋がついているであろう肩を竦めた。
剥き出しの肩や背中が、シーツに擦れる度にひりひりと痛む。思ったよりあちこちに爪痕が残っているらしい。
「別にお前の為に切ってる訳じゃねえよ」
そう呟くと、ウィザードはランプに指先を透かした。今切っていた指先の爪の長さを確認すると、今度はまた別の爪を切り始める。
パチン、パチンという音が規則正しく響く代わりに、本人は無言のままである。
ほんの先程まで抱きしめたりキスしたりする度に、艶やかな表情を見せていたはずの相手なのだが、今は完全に無愛想である。そのギャップがそそるなんて言ったら、きっと殴られるだろうが。
「何だ、爪立てまくったことに罪悪感覚えて、みたいな可愛げはないのかよ」
ブラックスミスがつまらなそうに言えば、規則正しく続いていた爪を切る音がぴたりと止んだ。
少しの間を置いてから、ウィザードが小さく舌打ちした。
「……切るんじゃなかった」
「どういう意味だコラ」
答えの代わりに、パチン、と爪を切る音が返ってくる。
蹴落としてやろうか、と一瞬ブラックスミスは思ったが、正直、それすらも面倒に思えるほど体がだるかった。
ウィザードがまた爪を明かりに透かし、でもなあ、と呟いた。
「伸びすぎると簡単に割れるからな……」
「そう?」
ブラックスミスはそう呟き、自分の爪を見た。
清潔には保っているが、ネイルアート等するはずもないし、特別綺麗という訳ではない。だが、割れや欠けも見当たらない。
「俺、斧やらハンマーやらしょっちゅう振るってるけど、爪割れたことってねえなー」
その言葉に、ウィザードが鼻で笑う。
「面の皮が厚い分、爪も厚いんだろ」
それに返してブラックスミスも鼻で笑う。
「そういうテメエは、面の皮の厚さに全部取られたから爪は薄いわけだ」
「繊細な私に向かって何を言う」
「ほざけ」
ブラックスミスはそう吐き捨てると、ウィザードがやっていたのと同じように指先を明かりに翳した。
前に切ってから随分経っているためか、先端の白い部分はかなり長くなっている。
反対の手で前髪を掻き上げると、ブラックスミスはごろん、と転がってウィザードの傍に寄った。
「終わったら俺にも爪切り貸してー」
「まだ大分掛かるぞ」
パチン、という音に続いてウィザードが答える。
「お前、爪切るのにそんな時間掛かるの?」
眉をひそめたブラックスミスが、上体を起こして問い掛けた。
「繊細だからな」
「本当に繊細なお嬢さん方はやすりだけで形整えるそうですよ……っておい!」
どのぐらい掛かるのだろうかと覗き込んだブラックスミスは、思わず叫んだ。
「何端っこギザギザに切ってるんだよ!」
爪切りの角を器用に使って、ウィザードは自らの右人差し指の爪を、ギザギザのノコギリ状に仕立て上げていたのだ。
爪を切る手を止めたウィザードは、しれっとした表情でブラックスミスを見やる。
「芸術的だろう」
「そんな芸術いらねえよってか何に使うんだよ!」
「愚問だな」
やれやれといった顔でウィザードが肩を竦める。
「短い爪でお前により痛い傷跡をつける為に決まってるだろ」
「断言すんな!」
ブラックスミスはそう叫ぶと、ウィザードの手をとった。
同じ男ではあるが、相手は一応魔法職である。ウィザードの手は、ブラックスミスと比べると幾分華奢に見えた。
「手だけは綺麗なのにやる事最悪」
「手が綺麗な分、武器はしっかり整えておくべきだとは思わんか?」
「思いませんっての」
ノコギリの刃のようにギザギザになった爪の先を、指先で突付く。これで引っかかれたら間違いなく痛い。
「こんなん危なっかしくて仕方ねえ。ほれ、切るから爪切り寄越せ」
「嫌だね」
しかしウィザードはそう言うと、寝台脇の机の上に爪切りを放り、ブラックスミスの手を振り払うと彼に背を向けた。
「……あーそう、そういう事すんの」
ブラックスミスは静かな声でそう呟いた。
だから何だ、と問うように、ウィザードが顔だけをブラックスミスに向けた。
その背中を、ブラックスミスは背後から強く抱きしめた。
「おいコラ、こっちはお前のせいで体中痛いんだって……」
「知りませーん聞きませーん」
慌てて振り払おうとするウィザードの手を掴み、ギザギザの爪の生えた指先を自らの口元に寄せる。
指先に唇で触れると、ウィザードが微かに身じろぎした。どうやら、言葉や表情は無愛想でも、体の端々には情交の余韻が残っているらしい。
「爪引っぺがすってのも考えたんだけどね」
そう言うと、ブラックスミスはウィザードの指を口に含んだ。
抵抗しようするウィザードを、更に強く抱きしめる。
ギザギザした先端を舌で何度か往復すると、不意にブラックスミスは爪の先端だけを前歯で噛んだ。
ガリッ、という硬い感触が、ブラックスミスの口の中に広がる。
「……これで良し」
口から指を抜き出せば、ギザギザだった爪は、いびつな形に短くなっていた。
口の中に残った爪の欠片を、ウィザードが敷いていたティッシュの上に吐き出すと、ブラックスミスはにやりと笑って見せた。
呆然としていたウィザードだったが、やがて不機嫌そうな顔でティッシュを丸め、屑篭に放り入れた。
「あれ結構大変なんだからな」
「へいへい、だったらもっと役立つ事に根性使えっての」
顔と同じように不機嫌そうな声で呟くウィザードを、抱きしめたままブラックスミスは答えた。その腕の力が緩む様子は、まるでない。
「おいこら、いい加減に離せ」
ブラックスミスはやだね、と答える。
「このまま寝る。お休み」
「ざけんなアホ!」
しかしそんな文句も聞かず、ブラックスミスはしっかりとウィザードを抱きしめたまま目を閉じてしまった。
抱きしめられたままで少し居心地悪そうだったウィザードは、やがて諦めたように息を吐くと、噛み千切られて一本だけ短くいびつになった爪の先に、静かに口付けた。
肩越しに覗き込んでいるブラックスミスの目には、それは酷く愛しげな仕草に映った。
それは労力を惜しんでのものだけではないだろうと、ブラックスミスは思った。
思って、ウィザードを優しく抱きしめなおした。





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