reckless eyes



乾いた風が、高い空でうなり声を上げる。
砂混じりの風に真っ向から吹き付けられて、ハワードは苦々しげに顔をしかめた。ざらざらした感触が、唇の上を撫でていった。
海に面した、荒れた岩の大地。聞いた話によれば、この場所はスリーパーという大きな砂の怪物の住処らしい。普段ならば、それを狩るためにやってきた冒険者達の姿があちこちに見られるということだった。
だが、今ハワードの視界には、冒険者の姿はまるで見られない。代わりに、カプラサービスとやらで既に転送された、瀕死の冒険者達が残したらしい、赤黒く変色しはじめた血の跡が、乾いた地面に染み付いている。それもひとつやふたつなどではない。数え切れないほどの血の跡で、辺りには、鉄錆とよく似た臭いが漂っていた。
リヒタルゼンの生体工学研究所にて、最早人からかけ離れた力を与えられたハワードであれば、スリーパーを狩りに来ている冒険者を屠ることなぞ容易いものであろう。しかし、この惨状を作り上げたのは、彼ではなかった。その証拠に、未だ背中に担いだままのグレイトアックスには、血のような汚れはついてない。
じゃりじゃりと音を立てる砂や小石を、踏みしめるようにしてハワードは歩く。埃に混じった血の匂いが鼻をつくが、彼は欠片とて気にしない。
いくらか歩いたところで、ハワードは目を閉じたまま仰向けに倒れている人影を見つけた。身にまとっているロードナイトの装束は、あちこちが血で汚れているが、どうやらそれは全て返り血らしい。倒れ込んでいる人物が、この程度の場所で血を流すことなんてないだろうことを、ハワードは誰よりも知っている。知っているけれど、それを実際に目で確認すると、自然と安堵の溜息が零れ出た。
足元を駆け抜けるように、砂を巻き込んだ風が通り過ぎる。大地に倒れている男の、銀色の髪が揺れる。乾いた唇を一度舐めて、ハワードは口を開いた。
「セイレン」
静かな声が大地に落ちる。
数秒の間を置いて、ロードナイトの目がゆっくりと開かれる。深い赤をした瞳に、ハワードの姿が映りこんでいた。
「……ハワード」
二回、三回と瞬きを繰り返したセイレンが、ようやくそれだけを呟く。生体工学研究所の被験者であることを示す赤い目は、はっきりとハワードを捉えている。それでも、セイレンは動こうとはしなかった。ハワードは苦笑して、起き上がろうとしないセイレンの隣に座り込んだ。
「また随分派手にやったなあ」
担いでいた斧を降ろしながら、ハワードはセイレンの右手を目で示した。彼の右手には、数多くの冒険者を斬り捨てたと思われるエッジが握られていた。こびり付いている黒い血は、冒険者の衣服の端切れでぬぐい取ったのか、薄く引き延ばされて乾いている。
「この間研いでやったばっかなのに、随分刃毀れしてんじゃねーか」
セイレンの目の前に、ハワードはひょいと右手を差し伸べる。
「もう一回研いでやるから、さっさと帰ろうぜ」
研究所抜け出してこんなところまで来やがって。からかうように笑って言うが、セイレンはハワードの顔をぼんやりと見つめた後、再びまぶたを閉じて、大きく息を吐いた。
その様子に、ハワードは参ったというように肩を竦める。
ふらりと研究所を抜け出したセイレンが、冒険者が魔物を狩るのと同じように冒険者を狩るのは、何も今回が初めてではなかった。不意にいなくなっては、それに気付いたセシルあたりが騒ぎ出す、ということは、今までにも何回か繰り返されていた。その度にセイレンを迎えにいくのは、いつの間にかハワードの役割と決まっていた。それを彼は不満だとは思っていない。何人かで探しに行ったとしても、いつだって、セイレンを見つけるのはハワードだったのだ。
それで良いのだろうと、ハワードは思っている。飛び出していったセイレンを連れ帰る時、彼は多くを語らない。だから、確証を持つことは出来ないけれど、それでもセイレンは自分に見つけて欲しいのだろうと、ハワードは信じていた。そうでもなければ、ハワードを見つけた瞬間、セイレンの赤い目が僅かに柔らかくなるはずがない。
「皆、心配してんぞ」
返り血で汚れているセイレンの頬に、ハワードは手を当てた。軽く力を込めて拭ってみるが、乾ききった黒い血はほとんど落ちることはなかった。
ハワードの手が痛かったのか、それとも他の要因があったのか、セイレンが目を開く。小さく笑ったハワードを、セイレンの赤い瞳が見つめている。
「……皆、か」
ぽつりと呟いて、セイレンは左手で、ハワードの手をそっと離した。
「お前は、心配したのか?」
静かな問いかけに、ハワードは少しだけ驚愕した。
感情の凪いだ、赤い瞳が、ハワードを捕らえて離さない。
いつものセイレンだったら、心配させたことを謝罪して、帰ろうと言うところだっただろう。こんな風に、空っぽなな目をして問いかけるセイレンを見たのなんて、ハワードは初めてだったのだ。
耳の横で、乾いた風が渦を巻くような音が聞こえた。口を開くよりも先に、ハワードはセイレンの左手を握った。セイレンの眉が潜められる。それでもハワードは、セイレンの手を離そうとはしなかった。
気が付いたのは初めてであっても、きっといつも、飛び出していったセイレンの感情は空になっていたんじゃないだろうか。本当に感情をなくしたかのように、研究所で大量に作られている、被験者たちのコピーのように。足りなくなったものを埋めようとして、刃毀れするまで剣を振るってくるのではないだろうか。
何が、セイレンをここまで空虚にしてしまうのだろう。セイレンの左手を掴んでいるのとは反対の手を、ハワードはセイレンの目元に添えた。生体工学研究所では、向こう見ずなまでの強さを秘めた目で、剣を振るっている彼を、何がこんな抜け殻へと変えてしまうのだろう。
その答えを、多分ハワードは知っている。
「してねえよ」
ほんの少しだけ唇をつり上げて呟けば、セイレンの瞳を感情の嵐が過ぎった。振り払おうとしたセイレンの左手を、ハワードは殊更強く握りしめた。ますます眉を潜めるセイレンに、ハワードは顔を近付ける。
「お前いつも、飛び出してってもちゃんと帰ってくるじゃねえか」
握りしめた左手を、ハワードはセイレンの目前に引き上げた。
「俺のとこに」
セイレンがぱちりと瞬きする。その目の前で、ハワードは目を伏せ、セイレンの左手に口付けた。
厚い手袋越しで、体温さえも感じられないセイレンの手だが、それでもその感触だけは確かなものであった。
「だから、心配なんかしてない」
唇を手袋に触れさせたままで、そう呟く。伏せた目だけを少し上げるようにして、セイレンの顔を見やれば、感情の見えなかった瞳にうっすらと表情が戻っている。ハワードがよく知っている、セイレンの目だ。
「……お前のところに、帰ってるわけじゃない」
呆れたような声でセイレンが呟くが、そこに笑いが混ざっていることを、ハワードの耳は聞き取っていた。
それに何より、力強く握り返してくるセイレンの手が、ハワードに全てを教えている。
ちゃんとここにいるだろ、とハワードは胸中で呟いた。
お前は、ここにいるだろ。
剣を振り、冒険者を斬り捨てていくことで、セイレンは自分を確認しているのだろう。研究所の被験体であろうが、既に人間ではなかろうが、自分が存在していることを、ただ戦うことだけで確認している。同時に、自分の存在を見失っている。ただ戦うことしか出来ないのかと、自分の存在に疑問を持つ。
そして彼は、衝動にまかせて飛び出していくのだ。
ハワードが見つけてくれることを、ハワードが自分の存在を認めてくれることを、信じて。
刃毀れしたエッジを握り締めたまま、セイレンが体を起こす。
「帰ろう」
そう呟いた時には、彼はいつものセイレンでしかなかった。そのことを少しだけ残念に思っている自分を、ハワードは笑った。
セイレンの向こう見ずな強い瞳は、戦うときにだけ見せられるのだ。それが自分を見ることはないのが残念だなんて、笑うしかないじゃないか。
不思議そうな顔をしたセイレンに、ハワードは何も言わずに手を握った。





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