おいてくよ



夜闇の中、風に揺れる桜の木は、まるで仄かに白く光るようだった。
春とはいえ、まだ夜風は大分冷たい。
桜の木の下に敷かれた茣蓙の上、男プリーストは寒そうに法衣の胸元を掻き寄せた。
「そろそろ帰ろうよ」
そう言ってプリーストが横を見れば、幾本もの酒の空き瓶と共に、一人の青年が目を閉じて寝転がっている。
衣服からみるにハンターではあるが、その彼の手に握られているのは弓ではなく、やはり酒の空き瓶である。
穏やかな顔には笑みが浮かんでおり、暗い中でも酔っ払っている事が容易に見て取れた。
プリーストの声に、ハンターは閉じていた目を薄く開いた。
「んー、もうちょっとー」
戻ってきた答えに、プリーストはやれやれと肩を竦めた。
帰ろう、という提案に、もうちょっと、と返される。
そのやり取りは、プリーストが覚えているだけで既に三回は繰り返されていた。
最初に声を掛けた時より、風は格段に冷たくなってきていた。
このままでは風邪をひきかねない。
仕方なく、プリーストは実力行使に出ることにした。
「もう待てません」
そう言うと、プリーストは茣蓙の上に立ち上がった。
だが、ハンターに起き上がる気配は無い。空き瓶を握っているのとは反対の手で、舞い降りてきた花弁を、戯れるようにして掴み取る。
今にも眠りに付きそうなハンターの顔を横目で覗き込みながら、プリーストが口を開く。
「おいてくよ」
「いいよー」
ハンターは表情一つ変えずにそう答えた。
けれど、そう言われたからと一人帰れるようなプリーストではなかった。
「そうもいかないって」
困ったような顔をするプリーストに、やはりハンターは静かに笑うだけだった。


一度掻き合せた法衣の前をまた寛げ、プリーストは内ポケットに手を入れた。
中から取り出したのは、煙草とライター、それに携帯用の灰皿だった。その辺に捨てれば良いのに、とハンターは言うのだが、プリーストは納得しないのだ。
煙草に火をつけ一服すると、プリーストはひとりごちた。
「明日も仕事なんだけどなあ」
「だからおいてっていいってば」
聞いていないと思っていたハンターが、そう返してきた。
てかさあ、とプリーストは煙草を手に取り、ハンターに向き直る。
「そっちも狩りあるんじゃないの?」
「そうだっけ」
「花見来る前に言ってたじゃない」
教会が運営する図書館で蔵書点検を行っていたプリーストの元に、ハンターが花見に行こうと誘いに来たのは、確か夕暮れ前だった。
狩りの帰りだというハンターにプリーストが労いの言葉を掛ければ、ハンターは明日も朝からギルドの仲間と狩りだと笑って言っていた。
「いいよ、すっぽかすから」
「良くないでしょ」
「つまんないのー」
ハンターは拗ねたような態度でそう呟いて顔を背けた。
が、ふと悪戯を思いついたような顔になると、上体を起こしてプリーストを振り返った。
「じゃあさ、おんぶして連れて帰ってよ」
そうしたら帰るから、とハンターが言えば、プリーストは無理だと首を横に振る。
「そんな事したら明日動けないって」
彼は顔をしかめると、そう言いながら腰を押さえた。
プリーストが蔵書点検を行っていた図書館は、かなり規模の小さい物であった。とはいえ、重たい本を何冊も運んだり、体を屈めて本棚を覗き込んだりすれば、腰が痛くなるのは必然である。
「そんなにハードなの?」
「ええもう凄い面倒」
それを知ってか知らずか問い掛けてくるハンターにそう返し、でも、とプリーストは秘密を打ち明ける子供のような顔で微笑んで付け加えた。
「君に会える日を楽しみにしながら、毎日頑張ってるんです」


すると、ハンターはぽかんとした顔をした後、いや、とかえーと、とか呟きながら頭を掻いた。
「俺、もしかして今思いっきり告白された?」
「したした」
あっさりとそう答えれば、ハンターはうわあと呟いて肩を竦めた。
「そんな風に言われたら、ますます帰りたくなくなくなるじゃん」
「ああそっか」
考えてなかった、とプリーストが笑えば、ハンターはやれやれと首を横に振った後、静かに、その頭をプリーストの肩に乗せた。
「何?」
ハンターの指が、プリーストの法衣の裾を掴んでいた。
「ごめん、前言撤回させて」
顔を伏せたまま、ハンターが囁く。
「おいてかないで」
裾を掴む指に、力が篭った。
プリーストは微かに目を見開いたが、しかし静かに微笑んで、ハンターの手に自らの手を重ねた。
「おいてかないよ」
そう囁いて、ハンターの手を優しく握り締める。
小さく肩を震わせて、ハンターが笑っていた。
あーあ、という呟きが唇から零れた。
「帰りたくないなぁ」
「うん」
同じように笑いながら、プリーストも頷いた。
「……でも、帰んなきゃね」
「……うん」
そう言いつつも、きっとしばらくは動けない事を、二人は知っている。





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