お預け



白い雲が、ふわりふわりと風に流されていく。
流され、ちぎれ、また新たな形を作る雲を見上げるようにして、一人の男ハンターが草地に寝転がっていた。
こうしていると、今彼のいる、このコンロンが空中に浮いているなんて、まるで感じられない。少し強い風だけが、空の上にいる事を彼に教えていた。
「いい風だね」
不意に横から聞こえた声に、ハンターは顔だけを動かした。
いつの間にか現れた、共にコンロンまで来た男プリーストが、気持ち良さそうな表情で微笑んでいた。
その表情に、知らずハンターの顔が緩みそうになる。
慌てて彼は表情を戻して、身体を起こして大きく伸びをした。
腕の辺りがパキパキと鳴った様な気がした。
「気持ち良すぎて、体がなまりそうだけどね」
「闘技場なり祠堂なり行ってくればいいじゃない」
プリーストがそう言うと、ハンターは首を横に振った。
「どうせなら一緒に行きたいし。なのにそっちがずっと変な資料ばっか見てるからさあ」
「いやあ、神仙に関する資料なんて地上じゃ滅多に見られないからねえ……」
プリーストは困ったような顔で頭を掻いてそう呟くと、ハンターの横に腰を下ろした。
まあいいけど、とハンターは肩をすくめてみせた。
「で、資料とさようならしたって事は、全部見終わったって事?」
彼の問い掛けに、プリーストはあー、とうめいた。
「それが眠くて全然集中出来ないんだよ」
「へえ、珍しいね?」
ハンターがわざとらしく驚いた表情をしてそう呟くと、プリーストが睨み付けてきた。
「昨日、どこかの誰かさんがなかなか眠らせてくれなかったからね」
ハンターは軽く笑うと、ごちそうさまでした、と両手を目の前で合わせた。


空中に浮かぶコンロンは、少し風が強い事以外は、地上と変わらない世界だった。
弓を使う職の彼にしてみれば、風の強さほど厄介な物はない。だが、それもプリーストの援護のお陰で、戦闘中はさほど気にならずに済んでいる。
もっとも、相手はコンロンに来てから、神仙に関する資料を読み漁り続けていてまるで構ってくれないのだが。
それの何が面白いのか、彼には全く分からなかったのだが、口には出さずにいた。
しばらく忙しくしていたプリーストに、ようやくのんびり出来る時間が出来たのだ。好きなようにさせておきたいと彼は思っていた。
思ってはいたのだが、それと身体が納得するかというのは別問題であって。
「お預けだったもの、目の前に出されて我慢しなさいってのが無理なんだよね」
何が、とは言わないが。
「それは僕だって同じ」
プリーストの言葉に、今度こそハンターが驚いた。
「……言ってくれればいつでもOKなのに」
「そうじゃなくて、資料の話……」
プリーストがそう言うと、ハンターは何だ、とつまらなそうに呟いた。
「けど、流石にちょっと疲れたかな」
プリーストはそう呟くと、大きく身体を伸ばしてその場に寝転がった。
「休みに来て疲れてどうするのさ……」
呆れたハンターが呟くと、困ったような笑い声が返ってきた。


プリーストの横に、ハンターももう一度寝転がる。
二人の上を、白い雲はゆっくりと流れ続ける。
「ここも高いけれど、もっと高い所にも雲はあるんだね……」
プリーストの言葉が妙に老けている様に感じられて、ハンターは笑いを噛み殺した。
「あそこまで行ける人っているのかな?」
冗談ぽく彼がそう聞くと、プリーストはさあ、と呟いた。
「神仙になれば行けるんじゃないかな?」
「なるの?」
「ならないよ」
笑いながらの彼の言葉に、ハンターはそっかと返事を返しながら、ひどく安堵していた。
ここに来てから、彼はそれが心配でならなかった。
彼にしてみれば、神仙になるために修行をするなど馬鹿馬鹿しい事この上なかった。
しかし、横にいるプリーストが、困っている人を救う為に、神仙になると言ったなら、自分はどうするだろう。
表面上は素直に見送るだろうけど、彼が今の彼でなくなるのは嫌だった。
そんな事を考えている彼の横で、急にプリーストが身体を起こした。
気付かれたか、と内心焦った彼だが、プリーストは彼の方を見ようとはしなかった。
「私達は、私達の世界で幸せを見つけなくてはなりません」
聖職者としての声、言葉使いに、ハンターが不意を突かれて体を起こす。
プリーストの表情は、優しい、けれど少し厳しさを滲ませた、聖職者らしいものになっていた。
「神の教えは、私達の苦しみを和らげるためにあるのです。本当の幸せは、私達自身の手で作り上げなくてはなりません」
澄んだ声の内容は、他の聖職者達が言う言葉とまるで変わらない。
けれど、彼の声で、彼の言う言葉が、ハンターは一番好きだった。
特別信心深いわけでもないが、目の前のプリーストが言っている時だけは、その教えを信じても良いような気がしてしまうのだ。
「救いを求める者は、まず自らの親しい者に救いの手を差し伸べましょう。親しい者同士の救いの手。それこそ、何にも勝る神の慈悲となるでしょう」
真っ直ぐに前を見るプリーストの横顔を、ハンターはじっと見つめていた。
それに気付いたのか、プリーストがハンターを見た。
「……まあ、十字架ばっかり見て転んでも面白くないでしょ、って話だね」
一気に俗世的になった話に、ハンターがふきだした。


大きく欠伸をして、プリーストはまた横になった。
「慣れない事はするもんじゃないね。余計に疲れたよ」
普段の表情でそう呟く彼に、ハンターは笑いかけた。
「ここで少し昼寝したらどう?」
折角風も気持ち良いし、と付け加えると、プリーストはうーんと唸った。
「このまま寒くなるまで起きないと風邪ひきそうだからなあ」
「大丈夫、俺が起こすから」
ハンターの言葉に、プリーストが微笑む。
「悪戯しない?」
「夜まで我慢する」
彼の答えに、プリーストが情けない声をあげた。
「今夜も?」
「嫌じゃないでしょ?」
意地悪く笑って言ったハンターに、プリーストは軽く額を押さえた。
「そりゃまあ、そうだけどね……」
「はい決定」
寝転がるプリーストの髪を撫でながら、ハンターが言った。
髪を撫でる手を振り払うでもなく、プリーストはそっと目を閉じて呟いた。
「後で、何か美味しい物でも食べに行こうか」
「そだね」
彼の言葉に答え、ハンターは誰にも聞こえないように息を吐いた。
手に伝わるプリーストの温もりが、妙に嬉しい。
やはり、彼には人間の世界で、出来る事なら自分の傍で、神の教えを実践する普通の人間であって欲しい。
心の底から、ハンターはそう願った。





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