別れて、三日目



寝台の中で、彼は寝返りを打った。
窓の向こうに見える屋根の縁から、雨の雫がぽたぽたと落ちていた。
目が覚めてから、もう随分と経った気がする。
厚い雨雲に覆われていてよく分からないのだが、きっともうすぐ昼になる頃だろう。
「……いい加減、起きないとなあ」
呟きながら大きく体を伸ばせば、寝台の脇に立てかけてあった杖に手がぶつかった。
カランと音を立てて倒れた杖を拾おうと手を伸ばしたところで、彼は自分がセージの制服を着ている事に気が付いた。どうやら、昨日の夜、着替えもせずに眠ってしまったらしい。 昨日、バードの友人に連れ出され、共に夕食をとり、遅くまで語っていた事を、セージは今更のように思い出していた。
けれど自分は何を言ったのかはほとんど覚えてなかったりする。
なんて友達甲斐のない奴だろう、とセージは苦笑いを浮かべた。


布団から抜け出し、杖を寝台の脇に立て直すと、セージは部屋の中を見回した。
地味な部屋のあちこちには、無造作に本が積まれている。
本棚に入りきらなかったから、というのもあるが、大体は戻すのが面倒でその場に放置してしまったものばかりだ。
それらの本の影に、丸い物体が三つ、ちょこんと並んでいた。
出張中の本達を蹴倒さないように気を付けながら、セージは丸い物体の傍へ歩み寄った。
並んでいるのは、キューペットの卵だ。
三つまとめて危うげに胸に抱え込むと、そのまま引き出し付きの戸棚の前に向かった。男性としては小柄なセージが前に立つと、戸棚は随分と大きく見えた。
足元に卵を並べると、セージは丁度胸の高さ辺りにある引き出しを開け、中から孵化機を三つ取り出した。それの全てに卵を仕掛け、起動スイッチを入れる。 冒険者の規定としては、一度に連れ歩く事が許されるキューペットの数は一匹である。が、それはあくまでも「連れ歩く」場合であって、自宅で可愛がる分には一匹だろうが三匹だろうが十匹だろうが構わない。……ばれなければ。
小さな起動音が途切れたかと思うと、孵化機の回りに白い靄らしきものが浮かび上がってきた。
ポン、という音が立て続けに三つ聞こえた。
「おっはよーございまーす!」
「二日ぶりッス!」
ぴょこぴょこと飛び出してきたポリンとドラップスが、順に挨拶してくるのを聞いて、セージは自然と微笑んでいた。
「うん、おはよう。お久しぶり、かなあ」
言いながら、セージはもう一つの孵化機の辺りを見やる。
すると、そこから孵化したばかりのポポリンが、びくっと跳ねて孵化機の陰に隠れた。
三匹の中で最後に彼のペットになったポポリンは、元が人見知りの激しい性格なのか、かなり長い時間付き合った今でも喋ろうとしなかった。
「隠れてないで出ておいでー」
「出てこないと三人で食事にしちゃうッスよー」
ポリンとドラップスがそうやって声をかけると、ポポリンはおずおずと孵化機の陰から出てきた。
けれど、何を思ったのか、ポポリンは辺りをきょろきょろと見回すと、ドラップスに向かって何かを呟いた。
ドラップスが困ったような顔になる。
同じようにポリンに向かって呟くと、やはりポリンも困ったような顔をした。
「どうかした?」
セージが問い掛けると、横目でドラップスの顔をうかがったポリンが、おずおずと口を開いた。
「……帰って、こなかったですか?」
誰が、とも、どこに、とも言わないポリンの言葉に、けれどセージはすっと目を細めると、小さく息を吐いた。
「……ふられちゃったからね」
不安げな顔をした三匹に、セージは大丈夫だよ、と呟いて笑ってみせた。


彼女――小柄で活発なモンクの女性と知り合ったのは、半年ほど前のことだ。
昨晩夕食に連れ出してくれたバードの提案で、普段ひとりの冒険者ばかりで集まって狩りに行ったのが、出会いのきっかけだった。
狩りよりも魔術論理の研究にかける時間のほうが長いセージだったのだが、その狩りの後から、ちょこちょことモンクから誘いをうけては一緒に出かけた。
二ヵ月ぐらい経った時、じゃあねと帰ろうとした時、モンクのほうから告白されたのだ。
「つきあってもらえませんか?」
モンクの性格をそのまま表したような、真っ直ぐな言葉に、セージは微笑んで頷いたのだ。
とはいっても、研究好きのセージと、冒険好きのモンクでは、いつでも一緒にいるということはなかった。モンクに誘われてセージが外に出て行くか、出られないときはセージがモンクを家に呼ぶか。
特別な出来事はあまりないけれど、それなりに幸せだ、とセージは思っていた。
だからモンクも幸せなんだろうと、思っていた。
けれど、彼女のほうから別れを切り出された。
「ごめんね、やっぱり一緒にはいられないよ」
いつものようにセージの家にくると、ぼろぼろ泣きながら、モンクはそう言った。
驚きはしたものの、すぐに、仕方ない事だろうとセージは思った。
やっぱり、彼女は外に出て、あちこち冒険するほうが性に合っているのだろう。自宅に篭りがちのセージと、今まで上手くいっていたのが不思議なぐらいだ。
ここ半月ほど、モンクの様子がおかしかったのには気付いていた。
狩りに行っても、自宅に来ても、曇りがちの表情をしていることが多かった。
軽やかに動き回っていた小さな体も、随分と大人しくなっていた。
どこか違うところに心が向いているような、そんな感じだった。
別れの言葉に頷きながら、セージは泣き続けるモンクをぼんやりと見つめていた。
別れ話というのは、言われる側よりも言うほうが辛いのかもしれない。喧嘩別れするほうがまだ楽だったのかな、とセージは思った。
お互いに不満をぶつけ合い、そしてそれが決して満たされないという事を知って別れるならば楽だったろうか。
けれど、セージにはモンクを非難する言葉は出てこなかった。
涙を零す小柄な女性を見ながら、可哀相な事をしたという罪悪感を覚えるだけだった。
そしてモンクも、セージを傷つけるような言葉は何一つ言わなかった。
ただ、ごめんねと繰り返して。
それが三日前の夜だった。


ふられて一日目は、何も考えられなかった。
ペットも孵化させずに、ただぼんやりと家の中で過ごしていた。
恋人だったモンクのことは、不思議と思い出さなかった。
二日目も同じ様に過ごしていたのだが、どこからか失恋の話を聞きつけた友人のバードに、半ば無理矢理、食事に連れ出された。
その時になってようやく、一日目、二日目とロクに食事をしていなかった事に気付いた。
けれど、食べた物の味は思い出せなかった。
研究に没頭している時にはよくあることだし、セージは気にも留めなかった。
そして、今日で三日目となるわけだ。
「ほら、元気だしてください!」
ポリンの声で、セージの回想は遮られた。
「そうッス! そのためにもまずは食事ッス!」
「そうそう、もうおなかペコペコですよ」
そう騒ぐペット達も、元はと言えばモンクが連れてきたのだった。
初めにドラップス、次にポリン、そして最後にポポリンを連れてきて、「だんご三兄弟みたいでしょ」なんて言いながら笑っていた。
その三匹のうち、一匹として、モンクは連れて行かなかった。
「すいたーすいたー、おなかがすいたー」
「まーだーまーだー、ごはんまだー?」
即興らしき空腹の歌を歌い出すドラップスとポリン、歌いこそしないが一緒に体を揺らすポポリンに、セージは声をあげて笑い出した。
笑いながら、けれどどこか後ろめたさを感じていた。
ペットもバードも気を使ってくれているのだろうが、実際、セージはあまりショックらしいショックを受けていないのだった。
自分が悪いのだから仕方ないという、諦めに似たような気持ちがあるだけだった。
セージの家は、モンクが連れてきて、そして置いていったペットが増えた以外は、彼女と会う前と何も変わっていなかった。
セージ自身も、何も変わっていなかった。
きっと、何もなかったことになるのだろう。
ほんの少しの諦めだけを残して。


空腹の歌と雨音を聞きながら、セージは寝台の脇から踏み台を拾い上げた。ペット達の餌を入れた袋は、戸棚の上のほうに入っていて、背の低いセージでは届かないのだ。
戸棚の前に置いた踏み台に乗り、扉を開くと、あれ、とセージは首を傾げた。
「どうかしたッスか?」
いつの間にか歌うのを止めたドラップスが訊ねた。
「ご飯、なくなってたっけ?」
「ええーっ!」
ポリンが叫び声を上げた。
「まだあったはずッスよ?」
ドラップスに言われて、セージはもう一度戸棚の中を見てみたが、そこには餌を入れてあったはずの袋すらなくなっていた。
「奥に入っちゃったかなあ」
そう言ってセージが戸棚の中身を出そうとすると、あ、とポリンが声を上げた。
「ご主人さま、ご飯は一番下の引き戸の中にあるはずですよ!」
「え?」
セージが振り向くと、そうだそうだという様子でポポリンが頷いていた。
「そんなとこに入れたっけ?」
「そういえばそうッス! 下の引き戸ッス!」
ドラップスにまで言われ、セージは首を傾げながらも踏み台から降りた。
その隣に座り込むと、ガラガラと音を立てて引き戸を開けた。
「……本当だ」
確かに、そこには餌の入った白い袋が入っていた。
「何でこんな所に?」
セージが呟くと、ポリンがぴょんぴょん跳ねながら傍へ寄ってきた。
「忘れちゃったんですか? 上からご飯取り出すの大変だからって恋人さんが……あ」
しまった、という顔になったポリンに、ドラップスが飛び掛った。
「アイタッ!」
「ご主人の傷を開くような真似するんじゃないッス!」
「うっかりしてたですよ!」
「うるさい馬鹿!」
どたばたと飛び跳ねる二匹に、けれどセージが気を取られる様子はなかった。
目を大きく見開いて、餌の入った袋を見つめるだけだった。


確かに、モンクは餌の袋を下の引き戸に入れてくれたのだ。
ポポリンを連れてきた数日後に、彼女はセージがわざわざ踏み台を持ち出して餌袋を取り出すのを見て、下に移せば良いのにと言った。
だが、整理整頓が苦手なセージの戸棚は、下のほうまで乱雑に物が詰まっていた。
それを言うと、モンクは仕方が無いといった表情で笑うと、戸棚の片付けを始めたのだ。
「私が餌やりするときに、高い位置だったら取るの困るじゃない」
セージよりも更に小さいモンクはそう言っていた。その日以降、セージの家に来る度に、モンクはペット達に餌をやっては喜んでいた。だから、それが恋人の本音だと、セージは信じて疑わなかった。
その後に続いた言葉を、今の今まで思い出せないぐらいに。
「それに、研究で忙しい時でも、わざわざ踏み台出さなくても餌あげられるでしょ? 貴方、慌ててると踏み台からすべり落ちそうで心配なの」
あの時、モンクはそう言ったのだ。
何気無い口調ではあったけれど、それこそがモンクの一番言いたかった事に違いない。
だって、愛されていたのは間違いなかったのだから。
外にいけば、いつも嬉しそうな顔で笑っていた。
家にくれば、セージのノートや研究を、興味深そうに眺めていた。
研究に没頭すると周りを見なくなるセージのために、忙しい時には料理や片付けもしてくれた。
自分がいない時でも規則正しく生活できるようにと、騒がしいペットを三匹も贈ってくれた。
ためらう事無く、何度も「好き」という言葉をくれた。
本当に、本当に愛されていたのだ。
けれど、自分と彼女の生活は違いすぎた。
そして自分は、その違いを合わせようとも、見つめようともせず、諦めてしまった。
だから、彼女は泣きながら、一番辛い別れの道を選んだのだ。
その道を選ぶ原因になったのは、大切な恋人を泣かせてしまったのは、他の誰でもない自分自身なのだ。
そう思った途端、セージの目から涙が溢れてきた。
別れて三日も経って、セージはようやく、失恋したという実感を覚えたのだ。
大粒の涙を零すセージの傍に、まだ大騒ぎを続けるドラップスとポリンの間から抜け出してきたポポリンがそっと寄ってきた。
何も言わず、ただ不安げに見上げてくるポポリンを、セージは抱き上げ、顔を埋めるようにして泣いた。
セージの涙で濡れようとも、ポポリンは逃げようとはしなかった。
声をあげ、しゃくりあげながら、セージは子供のように泣き続けた。


一体どのぐらいの間、泣き続けたのだろう。
喉が嗄れる程に泣いて、ようやくセージの気持ちもおさまってきた。
いつの間にか、大騒ぎを止めたドラップスとポリンが、セージの前に佇んでいた。
「ご主人……」
「ごめんなさい、ご主人さま」
悲しそうな二匹の声に、セージは抱きしめていたポポリンから顔を上げると、袖でごしごしと目元を擦った。
「……ん、平気。もう大丈夫だから」
不安げな顔をしたままの三匹に、セージは微笑みかけた。
モンクがくれた愛情の欠片は、今もここにちゃんとある。
だから、もう大丈夫。
セージは大きく体を伸ばすと、餌の入った袋に手を伸ばした。
「ごめんね、ごはん遅くなっちゃって」
「いいえー、平気ッスよ」
「そうそう、ボクたちお腹なんかちっとも空いてませんから」
ドラップスとポリンに言われ、セージはそう、と呟いた。
「じゃあ、僕だけご飯にするか」
「あああ待って待ってご主人さま!」
「お腹空いたッス!」
慌てた二匹がセージの足に飛び乗ると、代わりに降りたポポリンが袋の中に入り込んだ。
「あー、一匹だけずるい!」
大騒ぎを始めた三匹を見つめながら、セージは立ち上がった。
思う存分泣いたためか、かなりお腹が空いていた。昨日バードと食べた夕食以来の食事なのだから、当然といえば当然である。
そういえば昨日の食事中、少々酔ったバードに、失恋経歴を延々と語られたような気もする。
ただの愚痴かと思っていたのだが、あれは彼なりの慰めだったのかもしれない、とセージは気付いた。
ならば、とセージは一人決意する。
今度あの友人がふられたら、自分から食事に誘ってやろう、と。
恐らくそう遠くない未来に実行することになるだろう、といささか失礼な事を思いながら、セージは窓の外に目を向けた。
全てを包み込むように、雨は優しく降り続いていた。





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