いってきます



冒険者達の為に開かれている宿屋は、大抵の場合、酒場の役割も果たしている。
夜更けになって狩りから戻る冒険者達も少なくはなく、彼らにとって、夜食を取る場所はそういった酒場しかない。
そのため、ほとんどの宿屋兼酒場は、深夜を回っても賑わっている。
そんな酒場の一つの、裏手側にある二階の窓が静かに開いた。
音もなく縄が垂らされると、窓からひょっこりとアサシンの少女が顔を出した。
少し辺りを見渡すような素振りをすると、彼女は軽々と窓の縁に飛び上がった。地面に向かって垂らした縄に掴まり、するすると壁を滑るようにして降りてくる。
降りきってしまうと、彼女は縄の端を掴み、角度を変えながらそれを引っ張った。
小さな音を立てて、二階の窓から、縄の反対の端が落ちてきた。同時に、窓が閉まる。
これで、彼女が窓から抜け出した証拠は、何一つ無くなった。
顔を上げると、澄み切った夜空には星が散らばっている。
窓に縄を仕掛けているときに、時計の鐘が四つなったのを、アサシンは聞いた気がした。勤勉な冒険者でも、この時間帯に出かける人は滅多に居ないだろう。
「これじゃあ泥棒だよねぇ」
アサシンが溜息混じりに呟くと。
「全くその通り」
不意に、近くから聞きなれた声が聞こえた。
慌てて辺りを見回すと、アサシンよりも少し年上だと思われるセージの女性が、眠たげな顔で彼女を見ていた。
普段の服装の上に、薄汚れた、長めのローブを肩から羽織っている。
どうやら今の時間まで、何か研究をしていたらしい。ローブの下から覗く腕には、分厚い本を抱えていた。
「こっち離れるの、今日だったっけ?」
セージの問い掛けに、アサシンは頷く。
すると、セージは眠気で機嫌の悪そうな顔を、更に不機嫌そうに歪める。
「久々に戻ってきたのに、もう行っちゃうんだ」
「またすぐ帰ってきますよー」
軽い口調のアサシンに、しかしセージの顔は変わらない。
「だからって、随分早い時間の出発じゃない」
お別れも出来やしない、と呟くセージに、アサシンはわざとらしく照れた素振りをしながら口を開いた。
「ほら私、明るいしカワイイし、みんなの人気者じゃないですか」
おまけに強いし、と付け加えるところを見ると、どうやら強さより明るさと可愛らしさの方が、彼女にとっては重要らしい。
不思議そうに見つめるセージの前で、彼女は続ける。
「そんな私が出て行くって聞いたら、皆泣いちゃうかもじゃないですか。人気者なのは嬉しいけど、泣かせるのは嫌ですしー」
そう言って、アサシンは恥ずかしがるように頬に手を当てる。
ふざけた事を、と自分自身でも思うアサシンだった。
きっとセージも同じ事を思っているだろう。呆れて溜息をつく様子が目に浮かぶ。
しかし、セージはぼんやりとした表情のまま、動こうとしない。
「……あの?」
不思議に思ったアサシンが、セージの顔を覗き込む。
途端、頭の左側に、強烈な衝撃を感じた。
「のわっ!?」
バランスを崩し、彼女は勢いのまま倒れこんだ。
視界に、地面に落ちたセージのローブが飛び込んできた。
顔を上げると、セージの手に、分厚い本が握られている。どうやらそれで思い切り殴られたらしい。
「何するんですかぁ……」
ずきずきと痛む頭の左を押さえ、彼女は上半身を起こして、セージの顔を見上げた。
文句を言いかけて、そのまま彼女は口の動きを止めてしまった。
セージの目に、涙が浮かんでいた。
――泣きたいのはこっちなんですけど。
そう思いつつも、アサシンは戸惑いを隠しきれなかった。
とりあえず、地面に落ちたローブを拾い上げて、埃を払うと、セージの肩に掛けてやろうと手を伸ばした。
その手を、また本で叩かれそうになって、慌ててアサシンは腕を引っ込めた。
頭はこれ以上馬鹿になっても――なりたいとは思わないが――大して困らないが、腕を痛めてしまったら冒険者稼業にも影響が出る。
「……泣かせても、くれないじゃない」
セージはそう呟くと、顔を下に向けた。
「いっつも一人で急に居なくなって、泣く暇だって、くれないじゃない……」
「だって、泣く必要なんかないじゃないですか」
アサシンはそう答えると、ローブを持った腕を、セージの後ろへと回した。
自分より少し背の高いセージにローブを掛けてやり、その頭を左肩に抱え込むようにして、抱きしめてやる。
「私は一人で出かけても、ちゃんと帰ってくるんですから、泣いたり心配したりする必要ないでしょ?」
セージからは見えないと知りつつも、アサシンは微笑みを浮かべる。
「大丈夫ですから、ね?」
念を押すような彼女の言葉に、セージは反応しない。
どうしたものかとアサシンが悩んでいると、その肩に、温かく湿った感触を感じた。
セージが泣いているのだ。
「そうよね、一人でも大丈夫だから、私、心配しなくても、良いんだよね」
「あの……」
「どうせ私なんか、居ても、居なくても、どっちでも良いんだよね」
「そんな事無いですよ!」
思わず口調を荒げると、セージが顔を上げて睨み付けてきた。
「ならどうして居なくなる時に言ってくれないの!」
悲鳴のようなセージの言葉が、アサシンの胸に突き刺さる。
何も言えずにいると、セージはもう一度、アサシンの左肩に顔をうずめた。
先程叩かれた頭の左側にぶつかったのが、少しだけ痛んだが、それよりもセージの言葉のほうが痛くて堪らなかった。
「居なくなる時位、ちゃんと言ってよぅ……」
「……ごめんなさい」
掠れた声で、アサシンが呟くと、セージは激しく頭を横に振った。
「言って欲しいのはそれじゃないんだってば!」
そこで、アサシンはようやく気付いた。
彼女が、本当に聞きたい言葉に。
彼女が、本当に言いたい言葉に。
肩に顔をうずめたままのセージの頭を、そっと撫でると、アサシンは彼女の体をそっと離した。
涙で汚れたままのセージの顔を見つめると、アサシンは、一言ずつ噛み締めるようにして呟いた。
「いってきます」
セージは驚きに目を見開いていたが、やがて心底嬉しそうな微笑みを浮かべ、呟いた。
「……いってらっしゃい」
アサシンも微笑みを返すと、セージに背を向けて歩き出した。
いくらか進んだ所で、背後からすすり泣く声が聞こえたような気がしたが、彼女は振り返らなかった。
優しい言葉は、戻ってきた時に掛ければいいのだ。
これ以上傍にいれば、もっと旅立ちが悲しくなる。
別れが辛いのは、何もセージだけじゃないのだ。
アサシンは夜空を見上げた。
涙が出そうになったのは、きっと星が眩しすぎたからだ。
そう、思うことにした。





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